第二章 第三節

 47 柔らかな針

 目の前に広げた布をゆっくりと押す。力をこめた分だけ、布が動く。動いたら失敗だ。〈腕〉を引いて、神経を研ぎ澄まし、もう一度、押す。

 その様子を仲間たちは首を傾げて見ていた。

 僕がこの訓練――〈腕〉の形状を変化させる練習を始めたのはメイトリンを出てすぐ、揺れる馬車の中でのことだった。例の温泉が湧いている宿場町でも寝食を惜しんで行っていたが、みんなは僕が何を試みているのか、よく分かっていないようだった。


 全員が同じ質問をしてきたものだから、何度同じ説明をしたか、もう数えていない。少なくとも十一回、だ。一人一回、レクシナやセイクに至っては、酒に酔うたびに「何をしているのだ」と繰り返した。つまり、僕の訓練はそれを体験する程度にはうまくいっていなかった、ということだ。

〈腕〉、サイコキネシスの形状変化――、言葉にするのは簡単だけれど、彼らがそれを理解するには〈腕〉というのはあまりに概念的だったし、僕がそれを実践するにはあまりに困難だった。


 目下のところ、僕が試しているのは〈腕〉を極限まで細くする訓練である。

 ジオールは尖らせた〈指先〉で僕の〈腕〉に魔法陣を刻みつけた。魔法陣は刻んだ本人しか使えない、という制約が破られたのは彼と僕の遺伝子配列が一致しているからか、あるいは魔法陣が僕の意志によって固定されているためなのか。僕にできる推測はそれくらいだった。

 とはいえ、これは魔法陣を刻むためだけの訓練というわけでもない。

 この訓練の最大の目的はもっと単純なものだ。

 ひとつは、単純な〈腕〉の精密操作。これはやってみて気づいたのだが、形状変化は恐ろしいほどの集中力が必要で、直径を一センチメートル縮めるだけで、身体を投げ出したくなるほどの疲労感を覚えた。しかし、慣れれば戦闘に大きく役立つだろう。攻撃は正確であればあるほどいいのは考えるまでもない。


 そして、もうひとつは、戦い方の幅、である。

 これまで僕はサイコキネシスを、本来の腕と同様の用途でしか使ってこなかった。つまり、はたく、掴む、投げる、殴る、だ。切る、や、刺す、などまったく別の能力だと考えていたが、よくよく考えてみると、それらの間を隔てる特異性なんて存在しないことに気がついた。

 簡単な話だ。なぜ剣は物を切れるか、なぜ針はものを刺せるか。その答えのひとつは圧力である。理由は他にもあるが、圧力をかける面積が狭くなればなるほど、狙った地点の結合を破壊しやすくなる。

 そして、剣や針が金属でできているのは安定しているからだ。硬く、容易に曲がらないからこそ、圧力は分散しない。


 では――超能力なら?

 超能力には質量がない。つまり、硬度というものがない。曲がり、伸び、形を変えるのは使役者がそうしているからだ。意図的に形を保つことができたなら、僕は文字通り剣を扱えるようになる。不可視の、何人たりとも破壊できない最強の剣。形状を変えれば、僕の超能力は剣にも槍にも変化する。

 ただ、まあ、そううまくいくものでもないのだけれど。

 今、僕がイメージしているのは針だった。目標は難しければ難しいほど、達成したときの見返りが大きい。より細く、より強固な針を想像して、僕は布切れに向かって〈腕〉を押したり引いたり、周囲が呆れるほど長い間繰り返していた。もっとも彼らに見えるのは動く布の前で顔を顰めている僕の姿で、そこに格好良さが見出せるわけもない。真っ先に苦言を呈したのはレクシナだった。


「なんか、ニールちゃん、そうしてると頭がおかしくなったみたいね」

「レクシナ、うるさい。集中させてくれよ」

「あんたはいいかもだけど、知ってる? この馬車、今、外れ、ってみんな言ってるんだよねー。しゃべったら死ぬほど睨まれるんだもん」

「レクシナ」と口を挟んだのはウェンビアノだった。「それくらい大目に見ろ。寸暇を惜しんでニールは努力している」

「いや、ウェンビアノくんはいいよ、無駄口叩かなくても生きていけるもんね。でも、あたしたちは別よ。ね、ベルちゃん?」


 話を振られたベルメイアは虚を突かれたかのように、手に持っていた本から顔を上げた。メイトリンで習っていた言語の本で、子ども向けのものらしいが、彼女は出発して以来それを読み解くのに四苦八苦していた。

 だから、レクシナがベルメイアに話を振ったのは間違いと言える。ベルメイアはニールがいるとうるさくなくていいわね、と漏らしていたからだ。


「え、いや、あたしは別に。レクシナも静かでありがたいし」

「ええー……、じゃあ、アシュタヤちゃんは……?」


 聞くまでもなかった。アシュタヤは僕が教えたザゼンをやっている。どれほど効果はあるか見当もつかないが、集中力の鍛錬にはなるし、彼女は真面目だから何らかの意味は生まれるだろう。長く続けると疲れて集中できないときもあるようだったが、そのときはそのときで彼女は僕の特訓を微笑ましげに見ている。


「確かに、お話はしたいですけど」

「でしょお? ほら、ニールちゃん、アシュタヤちゃんが陰気くさいニールちゃんは最低って言ってるんだからさ、その陰険な布押し、やめて? ね?」

「でも、少しでも力を伸ばさなければいけないのも事実ですし、むしろ、こうして時間を与えられるのは願ったり叶ったりかな、とは」


 うぐぐ、とレクシナは顔を顰める。あたりを見回して、はっと名案を思いついたかのように「そうだ」と高らかに叫び、ウェンビアノに抱きついた。ウェンビアノは邪魔だと言わんばかりにレクシナを退けようとする。


「ねえ、ウェンビアノくん、この構成ってさ、戦力偏ってない? 御者のパルタ先生含めても護衛三の非戦闘員三でしょ? あっちは五対一だし、これじゃ襲われたらひとたまりもないよ」

「なら、お前がこの馬車から外れるのは困るな」

「あっ」

「それに、この配置も一時的なものだ。前を行く馬車で話し合いが終われば、配置は変わる。それまで我慢するんだな」

「あーもう、早く話し合い終わらないかなあ! ね、そしたらベルちゃん、一緒に行こうねー」

「嫌」

「やーん、つれないー、かわいいー」


 静寂を破ったのをいいことに騒ぎ続けるレクシナに、僕は溜息を吐く。同時に、心の中で慰める。前の馬車で行われている戦闘配置の話し合いが終われば馬車内の人員が入れ替わるのは事実であるが、それはベルメイアとフェンとの交換だ。護衛団の構成は二つの馬車でできるだけ均等になるようにされている。現状一番下っ端の僕がいる限り、向こうの馬車で一番強いフェンが来るだろう。


「あ、こっちからお酒持っていこーっと」


 袋いっぱいに入った酒を物色し始めるレクシナは自分がこの馬車に残るとは微塵も考えていないようだった。彼女があちらの馬車に移る手立てはひとつ、セイクかヤクバとの交換だったが、彼らがそれを許すわけもない。様々な手段を講じて、安息の地を離れようとしないだろう。

 ああ、かわいそうに。

 僕はレクシナのいうところの、「陰険な布押し」を続ける。目的地に到着するまで彼女の目の前でこの行為を続けようと意地悪く、目論む。

 しばらくして馬車が止まり、レクシナが悲鳴を上げ、もうひとつの馬車から高らかな笑い声が響いた。


     〇


「あのさ、ニールちゃん、死ぬほど暇だから子守唄代わりに聞きたいんだけどさ、それって何の意味があるんだっけ」


 ぶすっとした表情でレクシナが聞いてきたため、僕は適当に「形状変化」とだけ答えた。それがよほど癇に障ったらしく、彼女は手元の酒瓶を傾ける。彼女は恐れを知らないのか、自棄になったのか、ウェンビアノとフェンにも酒を渡していた。


「あの『木浮かし』が『布押し』になって、どうして剣になるってのよ」

「覚えてるじゃないか。そんなに暇ならフェンとかウェンビアノさんと話してればいいだろ」

「あー、あー、そうですねー、はいはい。で、剣になったら何なのよ」

「便利にはなるだろ。それに武力は行使しなくても、見せつけるだけで意味がある」

「はー、アシュタヤちゃん、気をつけなよ? たぶんニールちゃん、そのうちアシュタヤちゃんの下着全部切り刻むから」

「ばっ」


 馬鹿なこと言うな!

 声を荒らげて否定しようとした瞬間、ちくりとした視線を感じた。信じているわけはないだろうが、アシュタヤがじっと僕を見つめていた。湿度の高い、身体にへばりつくような視線だ。それが困惑と警戒を表しているようにも思え、改めて否定する。


「アシュタヤ、違うからね」

「大丈夫、ニールはそんなこと、しないよね」

「いや、アシュタヤちゃん、『しない』のと『したい』のは矛盾しないから」

「レクシナ、頼むから、ない傷を抉るのはやめてくれ」


 レクシナはおざなりな返事でごまかして、膝で歩き、アシュタヤに身を寄せる。それだけで濃密な酒気が漂ったかのような気がした。そのまま、レクシナはアシュタヤの腿に手を置く。くすぐったそうにアシュタヤは身を捩った。

 ねえ、とレクシナはアシュタヤの頬に自分の頬を摺り寄せる。あの、と戸惑いを滲ませながらアシュタヤがレクシナの身体を弱々しく押したが、それほど効果はなかった。


「ねえ、アシュタヤちゃん、一緒に飲もうよお。このままだとあたし、窒息しちゃう」

「えっと、あの、レクシナさん」

「レクシナ、見るに堪えないぞ」


 フェンの苦言もレクシナは鮮やかに聞き流し、手に持った酒瓶をアシュタヤの顔の前で掲げた。彼女は顔を背けようとするが、邪険にするのに抵抗があるのか、酒瓶の口はずいずいとアシュタヤの桃色の唇に近づいていく。

 なんだかいけないものを見るような気分になって、僕は思わず立ち上がった。酔いを権力に変えてアシュタヤに迫るレクシナの首根っこを〈腕〉で捕まえ、浮き上がらせる。突如として身体の自由を失ったレクシナはばたばたと手足を動かして、僕を睨んだ。


「ちょっと、なに、やめてよお」

「レクシナ、酔いすぎだ。話し相手になるから御者台に行こう」

「やだあ!」レクシナはぶんぶんと首を振った。「寒いじゃない!」

「みんな寒いよ」

「あたしはこんな服だからいちばん寒いの」

「着れば済む話じゃないか。レクシナは服が嫌いなの?」

「これだから真面目ちゃんはいやなのよねえ。よりによってこの馬車、真面目ちゃんしかいないし。せめてカンちゃんいたらなあ、付き合ってくれるのに」


 それもうまくいく話ではないだろう。ここにウェンビアノかフェンのどちらかがいる限り、彼女の蛮行を諌めるように思えた。今のは僕が一番早く反応しただけだ。

 僕が考えたとおり、フェンもウェンビアノも眉を顰め、宙に浮きあがったレクシナを見つめていた。何を勘違いしたのか、レクシナはその視線から逃げるように身を捩る。強く暴れるものだから、力の制御が不安になり、僕は〈腕〉をしまった。床に落ちたレクシナは「ぎゃん」と喚き、打った尻を擦った。


「ちょっと、ゆっくり降ろしてよ!」

「ごめん、あんまり暴れるから」

「ねえ、アシュタヤちゃん、どう思う?」


 アシュタヤは目の前まで迫ったレクシナに気圧され、僕に救いを求める視線を送った。閉口する。もうどうしようもないな、と悟り、僕は足元の毛布を引っつかんでレクシナの腕を握った。


「さ、レクシナ、御者の順番だ。酒と話くらいには付き合う」

「ニールちゃん、真面目すぎい!」


 レクシナは駄々をこねるように足をばたばたと動かしていたが、僕が一言「もう一回浮く?」と呟くと観念し、近くにあった外套と毛布を抱きかかえた。


「ねえ、アシュタヤちゃん、私がいなくなっても元気でね」

「あとで私も行きますから」とアシュタヤが苦笑する。

「やあん、アシュタヤちゃん、優しい」とレクシナははしゃいだあと、僕とフェンとウェンビアノに、等しく冷たい顔を向けた。「それに比べてこの馬鹿真面目三人組は……、知ってる、アシュタヤちゃん? 真面目なやつほど性的嗜好が歪んでるのよ」

「ニール」フェンの眉が苛立たしげに動く。

「どうかした?」

「到着までレクシナを御者台から離すな」


 ちょっと、最低、フェンの幼女趣味! とレクシナは口汚く罵るが、フェンは表情を崩さない。これ以上レクシナを放置するととんでもない事態に陥る気がしたため、僕は彼女の背を押して、御者台へと送り出す。幌の向こうで「交代かあ」とパルタが安穏とした欠伸を漏らし、幌の中に入ってきた。


「レクシナは」とウェンビアノが酒を舐めながら、それほど嫌そうではなく、呟く。「良くも悪くもうるさいな」

「ええ、そうですね」


 アシュタヤは目じりを下げて苦笑した。開けた幌から寒気が流れ込んだせいか、ぶるり、と彼女の身体が震える。申し訳なくて一度幌を閉めると、御者台でレクシナが騒ぎ始めた。


「ニールちゃん、来ないの? 裏切り者なの?」


 語気の強さに頭を掻く。すると、フェンとウェンビアノが同時に笑いを漏らした。厄介払いを成功させたような意地の悪い笑みに、ひどい大人だ、と詰りたくもなる。だが、その前にウェンビアノが「そういえば」と言った。


「そういえば、ニール」

「はい?」

「お前、ずいぶん手先が器用になったみたいだな」


 手先、と彼の言葉を反芻し、飲み込む。ああ、と合点する。

 超能力の成長は伝えていたが、目の前で実践はしていなかった。かつて僕がウェンビアノに超能力の説明をしたとき――バンザッタに訪れた日だ――〈腕〉で人を持ち上げるなんてことはできなかったのだ。当時の僕が人の身体を浮かせようとしたならば、骨を何本か折らなければ無理だっただろう。実際、僕が身体を持ち上げた刺客の肋骨は容易く折れている。セイクが無事だったのは本当に運がよかった。

 そして、超能力の成長はこのごろやけに顕著だ。

 朧気ではあるが、理由は分かる。僕を地面へと押し付けていた幻の圧力が取り払われたからだ。先日の一件で開き直ったのがよかったのだろう。もしかしたら王都につくころには布を貫けるようになっているかもしれない。


「……ウェンビアノさん、みんなのおかげです。ありがとうございます」

「……ニール、お前は不安定だ。よい意味でも、悪い意味でも、な。メイトリンの件は我々一同全員が叱ったが――」


 申し訳なさに顔を直視できず、俯く。が、ウェンビアノはそれほど気にしていないようだった。職業斡旋所を経営するうえで、様々な若者と出会ってきたのだろう。落ち着き払った様子で口元を緩めた。


「自分が作り出した恐怖や幻想にもう飲まれるなよ。何かあったらすぐに話せ。かつての境遇からお前が他人に相談するのに気が引けるのは想像つくがな」


 はい、と言おうとして、やめる。正確に言えば、やめさせられる。僕よりも先に発言していたのはアシュタヤだった。


「違いますよ、ウェンビアノさん」

「……アシュタヤさま、違う、とは?」

「他人ではありません」


 アシュタヤの訂正に、ウェンビアノは一瞬呆け、気分がよさそうに、押し殺した笑いを漏らした。肩を揺らし、酒を胃に落として、彼は僕に顔を向ける。


「だ、そうだ」


 その声に、アシュタヤは笑顔で頷いた。そのさまをまっすぐ見るのも難しく、僕は顔をそらし頬を掻いた。せめてうれしさで舞い上がりそうな気分だけは隠すつもりでおどけてみせる。


「せっかくだし、ひとつ質問があるんですけど」

「なんだ?」ウェンビアノが眉を上げる。「言ってみろ」

「フェンは幼女趣味なんですか?」

「そうだ」


 あまりの即答に、僕とパルタが同時に噴き出す。アシュタヤは「え」と口を開いたまま固まり、フェンがじろり、と射殺すような目でウェンビアノを睨んでいた。

 アシュタヤが小さく「ベルとはそういう」と呟くと、フェンが「違います」と呆れたように訂正する。その会話をウェンビアノは愉快そうに眺めている。

 何か嫌な予感がして、僕は幌の隙間へ素早く身を滑り込ませた。背後ではウェンビアノに抗議するフェンの怒声が聞こえる。

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