48 棄てられた村

 エニツィアは大国である。

 広い国土、豊富な資源、人口も多い。西側には広大な海が広がっていて、それ以外の三方向には様々な国が存在する。北方諸国とは長い歴史の中で善隣関係が築かれているが、東方や南方で接する国との間では未だに小競り合いが頻発していた。東方の国境ではボーカンチとの戦争――ラ・ウォルホル戦役が未だ尾を引いているという話はよく聞くし、南方、山脈を隔てたところにあるペルドール帝国の不穏な動きが噂されている。冬季のため目立った動きはないが、大陸統一計画を提唱するペルドール帝国はいつ牙を剥くとも分からない。エニツィアは不安定な軍事情勢の中央に位置していた。


 戦争の勝敗を分ける要因のひとつに「輸送」というファクターがある。物資や兵の円滑な輸送が戦局に大きな影響を与えるのだ。国家により管理された転移魔術師は存在するものの転移魔法はあくまで小規模なものだ。つまり、ここの世界においても、街と街を繋げる街道は国家という生命体の血管であることに変わりはなかった。

 かつての為政者たちもその重要性を強く理解していたらしい。エニツィアの都市を結ぶ街道には多くの宿場町があった。規模の大小はあるが、早馬であれば半日に一つ、馬車であっても一日走れば次の村や町を見つけることができた。よほどのことがなければ野宿などする必要はない。

 だから、夕暮れ時、その村に着いたとき、僕たちは言葉を失った。

 メイトリン領を抜けた直後の村だった。


 冬季の進行だ、通り過ぎた村々のいくつかは逼迫した経済状況に喘いでいたため、豪勢な食事を期待していたわけでもない。元々今日の目的地である宿場街は街道に沿って置かれている他の街と比べるとかなり見劣りすると聞いていた。領内の端に位置しており、街道を行き来する旅人がいることによってようやく成り立っているような村だ、と。

 だが、その村そのものが消えうせているとは思いもしていなかった。

 もちろん、村の痕跡がなくなっていたわけではない。盗賊や野獣への対策なのか、それとも村の土地を主張するためなのか、ぐるりと柵が――その残骸がまるで墓標のように立てられている。所々が焼け焦げ、壊され、腐り落ちた柵のなれの果て。村の名前が書かれていたと思われる看板は枠だけが残されていた。

 御者を務めていた僕は馬を止め、もう一台の馬車を操っているパルタと目配せをした。彼は懐から地図を引っ張り出し、入り口に立てられている塚を確認する。石に彫られた文字は僕でも読める。ここが目的の村であることを示すものだった。

 幌を開け、中に首を突っ込む。差し込んだ夕焼けにみなが眩しそうに目を細めた。


「伯爵さま、ちょっといいですか」

「おお、ニール、ご苦労。到着か」彼はおもむろに腰を上げる。

「いえ、それが……」


 なんと説明してよいものか悩む僕の姿を見て、全員が眉を顰めた。フェンとカンパルツォが同時に立ち上がり、幌を開ける。


「これは……」


 カンパルツォはそう言ったきり、固まった。

 木の家は燃やされ、あるいは壁板を剥ぎ取られ、寒風が通り過ぎている。レンガ造りの大きな建造物には大きな破壊はないが、ひっそりと静まり返り、人のいる気配は微塵も感じられなかった。夕暮れ時にあるべき食事の匂いは一切なく、鼻腔に入ってくるのはどこか湿った空気だけだった。


「ひとまず外に出て探索しますか?」


 フェンの言葉にカンパルツォが小さく頷く。異変を感じ取っていたのか、隣の馬車の御者台にアシュタヤが顔を出している。彼女は「そばに人の気配はありません」と告げた。


「まずは降りるか」と幌の中でウェンビアノが腰を上げる。


 隣の馬車も同じ結論に至ったのか、ぞろぞろと全員が馬車から降り始めていた。僕たちは馬を引き、朽ちた村の中へと進んでいく。

 村の中にあったのは略奪の痕跡と死体だけだった。乱雑に外に転がされている、壊れた家財道具と息絶えた人の肉体。冬の外気温に晒された死体は薄い氷で覆われていて、腐ることなく、殺された瞬間のまま時を止めていた。流れ出た血液の色だけが夕闇の中で時間の経過を知らせている。

 レンガ造りの大きな宿もほとんど同じ状況だった。盗賊たちが拠点として使ったのだろうか、あたりに動物の骨などやごみが散らばっている。骨には黒ずんだ肉の欠片がこびりついていた。毛布や調度品などは奪われたのかもしれない、宿の中は必要以上に壊されてはいなかったものの、不自然な空白が目立っていた。


 探索を終えた僕たちは一度、村の入り口へと戻った。桶の中の草を食んでいた馬が首を上げる。その牧歌的な動きは周囲の光景にそぐわず、橙に沈む崩壊した村の暗さをよりいっそう深くした。


「どうしますか」と訊ねたのはフェンだった。腹の中で答えは決まっているような明瞭な発音に、カンパルツォが唸った。

「夜行はあまり好ましくないな」

「留まりますか」とウェンビアノが顎に手を当てる。

「馬も換えられんしな。この時期だ、こんな領地のはずれで盗賊が潜んでいるとは思えん。それよりはむしろ」

「獣の類のほうが危険、ですね」


 今夜の予定を話し合っているカンパルツォとウェンビアノ、フェン、パルタから離れて、僕たちは馬車の周囲で彼らの決定を待っていた。聞こえてくる限り、この打ち棄てられた村で一夜を明かすようだ。転がっていた死体はすでに村はずれの墓地で葬ってはいるが、流れ出た血液などはそう簡単に片付かない。床板にこびりついた血痕はヤクバが水の魔法で洗い流そうと試みたが、まるで恨みが形となってこの世にしがみつくかのように、消えることを拒んだ。照明に使われていた魔法石が盗まれているのが幸いだ。余計なものを見なくても済む。


「こんな陰気くさいところで一泊か」


 セイクが不満げに地面の雪を蹴り上げる。土混じりの雪は湿り気が強く、べちゃっと音を立てて落ちた。


「魔獣に噛まれたら面倒だからな」とヤクバが馬車の中で胡坐を掻いたまま、欠伸をする。

「それなんだけどさ……どうして、そんなに魔獣を警戒するの?」


 ヤクバたち三人と狩りにいった日のことを思い出す。魔獣の種類にもよるのだろうが、護衛団のメンバーがたかが獣に苦戦する光景は思い浮かばなかった。


「獣くらい、気にする必要ないんじゃないの?」


 彼らはそこでいちようにぽかんと口を開け、一拍後に僕がこの世界の外からやってきたことを思い出したかのように、納得の含んだ笑みを作った。え、え、と戸惑う僕に、いちばん初めに口を開いたのはベルメイアだ。


「もう、ニール、あんた馬鹿ねえ」

「ベル、言葉遣い」とアシュタヤが窘め、ベルメイアはしまった、という風に顔を下げる。

「どういうことですか?」


 僕の問いにベルメイアは一瞬逡巡し、周りを窺ったあと、誰も口を開かないことからその説明が自分の役目であるかと悟ったのか、小さく咳払いをした。


「いい? 魔獣だって好き嫌いがあるのよ。何よりも先に人を襲うのならまだやりやすいけど、中には他の動物の肉が好きなのもいるの。もし、馬を好んで食べる種類に襲われたら面倒でしょ?」


 ああ、なるほど。

 確かにそうだ。僕はまだしも、他の護衛のみんなは闇夜で突然魔獣に襲われても対応ができるだろう。だが、馬はそうもいかない。

 守ろうにも夜の闇の中では一度で対応できる数は少ないのだ。それに、魔獣の走る速度は荷を引く馬よりもずっと早いだろう。一頭でも噛み殺されてしまえば、その後の進行に大きな影響が出てしまう。


「ありがとうございます、ベルメイアさま」


 真正面から褒められたことに面を食らったのか、彼女は少しだけ照れくさそうに顔を伏せ、「こんなの常識よ」と地面に向けて言った。レクシナがうるさくなる。かわいい、頭いい、とはしゃぎながら抱きつこうとしたため、ベルメイアはヤクバの後ろへと身を隠した。「この際ヤクバで我慢するかあ」とレクシナはそのままヤクバに抱きついた。

 彼らがいれば、地獄の釜も酒場の鍋へと変わるような気がして、頼もしいというべきなのか、節操がないというべきなのか、判断に困り、苦笑と溜息を漏らす。同様の思いを抱いたのか、アシュタヤもほとんど同じタイミングで同じ行動をとった。僕たちは目配せをし合い、噴き出す。

 そのとき、どうやら話し合いが終わったらしく、「おーい」と声が聞こえた。見ると、パルタが手招きをしている。僕たちはぞろぞろと四人のもとへと向かった。

 先ほどまで辺りを橙に照らしていた太陽は山際に身を隠しつつある。


     〇


 宿自体の造りはやはりしっかりとしている――ところどころに広がる破壊的な痕跡に目を瞑れば。

 僕たちはいっとうきれいな部屋をアシュタヤとベルメイア、護衛のレクシナに与え、その次がカンパルツォとウェンビアノ、あとはめいめいばらばらに、という形で部屋を決めた。どの部屋にも盗賊たちの使い古しと思われる毛布未満のぼろきれが転がっていたが、そのどれもが垢や汗で汚れていて、饐えた臭いがきつく、使おうというものは誰一人いなかった。一度意識すれば、鼻の奥に残った臭いの残滓がふとした拍子に揺れて、レクシナはそれが非常に気に入らなかったらしかった。換気だと騒いで窓を開け放ち、風の魔法と自前の香水を駆使して、臭いを取り払おうとしていた。


 部屋を決めたとはいえ、この誰もいない寂れた村で全員が暢気に眠るわけにもいかない。王の使節が来訪したときは大抵、その村や街の自警団、駐屯軍が警備に当たるが、それもないため、僕たちは交代で夜通し警邏を行うことになった。三人ずつ、二組に分かれて、前半と後半を担当する。割り当てられなかった二人は明朝の御者だ。

 僕の担当は後半になった。一緒なのはセイクとパルタだ。セイクの怪我が心配ではあったが、アシュタヤは近場に人の気配はないといっていたし、もし襲われたとしてもギルデンスやフーラァタではないはずだ。ギルデンスはこんな人目のないところで暗殺をしないだろうし、フーラァタは全身の骨を折られている。よほど熱心に治癒魔法を使ったとしてもまだあれから五日程度しか経っていない以上、満足に行動できるとは思えなかった。


 警備の担当を決めた後、僕たちは入り口のそばにある食堂で保存食だけの簡素な食事を摂った。それまでの夕食の暖かさを懐かしみながら干し肉などを胃に詰め込み、明日の予定を確認して、解散となる。後半の警備のために早めに眠りにつこうとしたが、睡魔はいくら手招きしても遠くでうろうろするばかりで近づいてくる気配がない。いびきを立てるセイクとパルタを横目に硬い板のベッドから立ち上がった。

 階段を降りると、食堂から光が漏れていることに気がついた。カンパルツォとウェンビアノ、フェンの話し声が聞こえてくる。扉が開け放たれていたため、横目でちらりと中を覗くと顔を上げていたカンパルツォと目が合った。


「おお、ニール、眠らなくていいのか」

「なんだか寝付けなくて」

「動くとさらに眠れなくなるぞ」と言うウェンビアノをカンパルツォが「まあ、いいじゃないか」と宥めた。「聞きたいことと伝えたいこともある」

「僕に、ですか?」

「ああ、入って座ってくれ。途中で眠くなったら部屋に帰って構わん」


 僕は中に入り、彼らのそばにある椅子に腰を下ろした。テーブルの上には魔法石のランプと様々な資料が置かれている。読み取れたいくつかの文字からこの村のことについて会話が為されていたことがわかった。


「それで、聞きたいこととはなんでしょう?」

「なに、大したことではないんだがな……、お前のいた世界ではこういうことはあったか?」

「こういうこと?」

「つまり、政治が行き届かずに村が潰れる、という事態だ」


 わずかに悩み、言い淀む。僕の知っている世界などあまりに狭い。だが、似たような例は知らないわけではなかった。


「内情は詳しくありませんが、地方の村が消え去る、というのはありました。人口の再生産が破綻して、そういった村の住民は国により移住を強制されたらしいです」

「ふむ、国の主導か、参考にするのは難しいな。……村の努力で盛り返した例はないのか?」

「うろ覚えですけど……商業的な面から成功した事例は聞いたことがあります。でも、それがどうかしたんですか? この村は略奪されてこうなったんですよね?」

「ああ、そこは説明しておかんとな。今の話とはあまり関係がないんだが」


 カンパルツォに目で促されたウェンビアノは一度咳払いをし、説明を始めた。


「先ほどもう一度この村を調べてきたんだがな、どうやら、こうなったのは略奪が直接的な原因ではないようだった。というより、崩壊してから盗賊がやってきたという結論に至った」

「え?」

「廃屋で日記を見つけた」とウェンビアノは表紙が焼け焦げた本を掲げる。「これに記されていたのは人口の減少に喘ぐ言葉だった。その持ち主自身も次第に成り立たなくなる生活に追われ、この村から去ろうとしていたらしい」

「でも、この村って国に定められた宿場ですよね」僕は以前、ウラグから教わった街道の仕組みを思い出しながら訪ねる。「なら、維持のために助成金が与えられていたんじゃないんですか」

「ああ、助成金は与えられていた。だが」


 そこでウェンビアノは言葉を切り、目を瞑った。


「与えられた金はこの村には回っていなかった」

「……どういうことですか?」

「つまり、流されるべき金がどこかで留まっていた、ということだ。それがどこかはわからんが、まあ、想像はつく。……領主だろうな」


 ランプから放たれる光が揺らいだ、気がした。風の吹く音が耳に届く。胸中の義憤が煽られ、大きくなる。


「この領の主はオルウェダという」

「オルウェダ……」


 発音と同時に記憶が奔出する。二ヶ月前、バンザッタで行われた収穫祭――僕とアシュタヤを監禁し、彼女の手によって殺されたあの男だ。


「あいつが、この領の?」

「正確に言えば、あれの親族、だな。貴族主義の権化だ。しかし、まあ、お前の言うとおりでもある。この村の周辺の土地はあれが治めていたらしい。名義上、ではあるがな。実際は代理が実務を行っていた……オルウェダ家の決めた方針の下で」

「オルウェダが原因で……この村が潰れたということですか?」

「それも一つ」


 一つ? 霞の中を歩き回る気分になる。与えられた小さな光源だけでは彼らの持っている真実には辿り着ける気がしなかった。僕は無言で、詳しい説明を求める。ウェンビアノは気が進まないのか、口を噤んだままだった。しばらくの沈黙の後、口を開いたのはカンパルツォだった。


「推測混じりだが、この村が潰れたのはいくつかの要因があるのだ」


 ――カンパルツォが説明した「村が潰れた要因」は三つあった。

 一つは、今言ったオルウェダ家の施策方針だ。腐った貴族のステレオタイプ。搾取を重ねて住民の生活を困窮させる。だが、この村は以前、僕が見た様々な村と異なり、街道沿いにある。生きていけるだけの収入があるはずだった。

 だが、本来入るはずのその収入がなくなった。それが二つ目の要因だった。


「ニール、今、南の国――ペルドールでごたごたが起きていることは知っているな?」

「王が病に倒れて、後継者問題が起きてる、でしたか?」

「ああ、あの国はややこしくてな、世襲制ではあるが、指名はされないのだ。継承権を持った者たちが隣国との戦争を起こして、もっとも優れた戦果を挙げた者が皇帝を継承する、という面倒な行事がある。エニツィアほどではないにしろ、大国だ、多くの国がその被害に遭っている」

「……なんですか、それ」

「そういう不文律のもと、動いているんだ。ニール、お前には理解しがたいだろうが、国はときに理屈の通らない理屈を通すことで権威を保つこともある」


 通過儀礼、というものは理屈の外にある理屈の下で動いている。生け贄、であるとか、成人の儀式、であるとか、そういったものは枚挙に暇がない。科学信奉者からすればあらゆる宗教的行事もそうだろう。

 人間は本質的でない行動に意味を求めるのが好きだ。だから、カンパルツォの言葉は理解できた。

 が、そんな僕の小賢しい考えを打ち砕いたのはフェンの歴史だった。


「……事実、俺の国もそれで潰された」

「え」


 はっとする。僕が彼らの仲間になった日の出来事が想起される。

 僕が呑気に理解したと考えていた理屈の外の理屈で、悲劇に遭う人間もいるのが事実なのだ。

 だが――。


「……ちょっと待ってよ。フェンがこの国に来たの、十年とかそのくらいでしょ? 君主が替わるの、いくらなんでも早すぎない?」

「それは、まあ、そうだな。……俺の話はいい。話を続けましょう」


 カンパルツォは頷き、続ける。

 なぜ、収入がなくなったか。

 それは貿易が縮小したからだった。君主交代のたびにわざわざ戦争を起こす国が近くにあるとなれば、その上、その皇帝が病に倒れたとなればどの国も警戒する。貿易船が襲われることも少なくはないらしい。そうなるとメイトリンからレカルタまで繋がる街道、そこにある村々にまで影響が生まれる。行き来する人が少なくなれば、それを頼りにしていた村はのっぴきならない状況に立たされる。


「ただ、エニツィアは南方だけではなく、海の向こうとの関わりも強い。そことの貿易は継続している。……だが、その貿易品を運ぶ道にこの街道は選ばれなかった。バンザッタ方面からの遠回りの道が主に使われた」


 どうして、という僕の質問に、カンパルツォは静かに答えた。


「貿易品を運ぶとなると商隊は必然的に大きくなる。その規模ではこの西の街道を使えない事情があった。……今年は災害が多発したのだ。川の氾濫により地滑りが何度も起きていた。そのため、こちらの街道は領内の移動くらいにしか使われなかった」

「不運が重なって、ってことですか?」


 カンパルツォは押し黙る。フェンとウェンビアノにも視線を送ったが、彼らもまた、無言のままだった。痺れを切らし、僕は話を進める。


「……それで、三つ目の要因は何なんですか?」

 少し間をおいて、カンパルツォが答えた。「責任の浮遊、だ。オルウェダが死に、この周辺を担当する人間がいなくなった。普通なら迅速に別の人間が送られるはずが、貴族主義のオルウェダ家だ。蔑ろにされてたこの地域をわざわざ手を出そうとする人間は誰もいなかった」

「でも、代理の人間がいたんですよね? 実務を担っていたなら」

「ああ。しかし、代理を任命したガズク・オルウェダが死に、次の担当者も決まらない。そうなると代理の人間は欲を出し始める。あるいは次の担当者に取り入ろうとしたのかもしれんな。代理はより苛烈な搾取を始めようとし、住民の不満は高まった」


 宙ぶらりんになった責任の下、周辺の住民はどんなことを考えたのだろう。後ろ盾、つまり、正当性が失われた代理の人間の政治は納得のいかないものだったはずだ。日記の持ち主のようにこの村から去ろうと試みても何らおかしくはない。


「そして、代理の人間は殺された」

「え」


 息を呑む。反乱――その不穏な想像に心の中がざわついた。


「オルウェダが死んだことを知らされたここの住民は好機だと信じ、蜂起した。結果、代理の人間を殺すところまでは成功したが、送られてきた軍により、鎮圧された。残っていた数少ない住民は捕らえられるか、殺されるかでこの村から消えた。およそ一ヶ月前に起こった出来事だ」

「ちょっと待ってください!」


 声を上げて、僕は立ち上がる。その拍子に椅子が倒れそうになった。

 筋道は立っているが、納得できない。速度がおかしい。


「オルウェダが死んだのが収穫祭で、そもそも、それが二ヶ月前じゃないですか。いくらなんでも反乱が起きるのが早すぎます」

「ニール」とフェンが口を開く。「手引きした人間がいるんだ」

「手引き?」

「反乱を促した人物がいる。それが日記の中に記されていた」


 反乱を促す――その言葉だけで、反射的な怒りが湧きあがった。

「ギルデンス」と僕の口が勝手に動く。


「……おそらくは、だ。日記には全身に魔法陣を彫った、水を扱う魔術師のことが書かれている。その男が扇動した、と」

「え?」


 フェンは何を言っている? 思考が膨張し、整理に追いつかない。


「どうかしたのか?」

「それ、ギルデンスじゃないよ」

 フェンが僕の指摘に眉を顰める。「どういうことだ?」

「だって、あいつは風を使ってた。水じゃない」

「ニール、何を言っている?」

「知ってるでしょ? あいつは風を使って石とかを飛ばして僕を攻撃して来たんだ」

「ニール、お前こそ奴の異名を知らないのか」

「異名?」


 記憶の中を探る。僕があいつについて知っていることは少ない。ほとんどがアシュタヤから聞いたことだ。あの冷たい牢獄の中、彼女は何と言っていた?

「『呼び水』だ」とフェンが告げる。記憶が甦る。

 そうだ、確かに、アシュタヤはそう言っていた。でも、あいつは一度も水の魔法なんて使わなかった。呼び水、なんてただの慣用句だと思っていた。

 それが意味する事実に気がついたとき、首を絞められるような窒息感に襲われた。


「あいつは水の魔法をもっとも得意としている」


 ……手心を加えられていた? 初めから?

 絶望的な力の差を突きつけられたようで、力が抜ける。膝が崩れ、僕は椅子の上に腰を落とした。

 ……僕とあいつの間にどれだけの差があるのだ?

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