46 平面葡萄(5)

 僕とジオールの間で弾けた炎はすぐに消えた。暴発、という言葉が頭に浮かぶ。

 疑いはなかった。たとえば、ジオールが作り上げた炎を僕が出したかのように錯覚させたというような、拙いトリックの気配は微塵も、だ。それをもっとも理解しているのは僕自身の感覚だった。今しがた目の前で爆ぜた炎は確かに、若草色の〈腕〉を通り、僕の力で起こした実感があった。

 僕の、魔法。


 涼しい顔をしているジオールは〈腕〉をしまい、再びテーブルに腰掛けた。

 言いようのない感情が僕の中で渦巻いている。感謝と煩悶と、行き所のない、恨み。八つ当たりに近いとは知っている。彼が僕に何をしたわけでもない、僕が勝手に劣等感を抱き、距離をとっていただけだ。

 それだけに、僕は何も言えないまま、立ち尽くした。


「ニール、自分の世界を狭めちゃいけない。他人の言葉は容易く己を縛る。聞き入れるべき助言も中にはあるが、人はそれよりも多くの罠を、そのつもりはなくても投げかけている。この世でもっとも重要なのは自分自身だ、わかるだろ? 僕もお前も、養成学校に入ったときから超能力が弱くなった。お前の場合は思い込みもあるんだろうけど、他人の言葉によって縛られたからだ。……なあ、ニール」


 そして、ジオールは静かに、だが、力強く、言った。


「僕と、お前は、あらゆるものから自由だ」


 これまでもっとも僕を縛ってきた人間のくせに、という怒りすら湧かなかった。知ったような口を利くな、お前のせいで僕がどれだけ苦しんだか知っているだろ、その思いもなくはなかったが、それ以上の開放感を覚えた。

 遺伝子、環境、劣等感。顔、肉体、超能力。僕を縛りつけていた鎖がぼろぼろに崩れていく気がした。憑き物が落ちたかのように心が軽くなっていく。


「……ジオール」

「なに?」

「僕はジオールのことがずっと嫌いだった」

「知ってる」

「今も、正直、あまり好きではない。きみを見るたびに、劣等感を覚える」

「それも、知ってる」

「でも」


 でも、今までのように、彼に縛られるような恐怖はもうなかった。僕はあらゆるものから自由だ。それは、きっと、ジオールや「ニール・オブライエン」の虚像からですら。


「でも?」とジオールが訊ねてくる。答えるのが恥ずかしく、僕は首を横に振った。「なんでもない」


 それから、僕は少しだけ瞑目し、三つの質問をした。一つは、「このまま旅に同行するつもりはないのか」ということだ。別に僕自身がそう望んだわけではなく、彼がいれば道中の安全をより確保できると考えたためだった。

 それが伝わったのか、ジオールは呆れた顔で笑った。


「まさか、だろ。お前が嫌がるじゃないか」

「それはそうなんだけど」

「まあ、考えなかったわけじゃないけどね。僕の手でニールを守ることもできるし……ただ、お前はそれがいちばん気に食わないだろう」

「いちばん、っていうわけじゃない」

「その気はないけど、僕は世界を行き来できるし、大体、ここはお前の作った居場所だ。ここ数日過ごしていてわかったよ。お前は望まれてここにいる。超能力ではなく、お前という存在で。正直、僕にとってはそれこそが人間の持つ最大の超能力だと思うけどね。少なくとも僕にはない」


 じわり、と胸の奥に心地よさが浸透した。温かな感情が血流に乗って広がる。全身に強烈な喜びが行き渡り、僕は恥ずかしさを隠すために顔を逸らした。


「……よく言うよ。あっちでは誰からも好かれているくせに」

「皮肉るなよ。お前なら分かってるだろ、力でしか見られないことのくだらなさに」

「僕は弱かったからなおさらだけど、強くてもそう思うんだ?」

「居心地はいいけどね。誰も僕の邪魔をできないから」


 彼の口ぶりに強がりや寂しさはなかった。

 二年――僕より長く生きたその期間だけのせいではないことは分かる。彼は僕よりもずっと強い感情に晒されてきた。彼が受けた迫害と手放しの賞賛は薄められなかった原液だ。捻じ曲がった平坦さを持つようになったのも不思議ではない。


「まあ、今回のことで、僕はテレポーテーションを手に入れたからね。研究を重ねて人間の移動まで実践できるようになったら世界を牛耳るのもできるし、気に入らなかったら壊しちゃうことも可能だ」

「……本気で言ってる?」

「半分ね。心配しなくても虐殺とかはしないよ。カンパルツォさんだってシステムの破壊をしようとしているのは同じだろ」


 それも、そうだ。ジオールは理由さえあれば人を殺すことに何の躊躇いも持たないが、理由なく人を傷つける人間でもなかった。信じるに値するかは少し難しいが、疑い、念を押す必要も感じられない。

 二つ目の質問はパルタのことだった。

 あのときから、引っかかっていた。なぜ、魔法を使えない、護衛を束ねているわけでもないパルタを呼び出したのか? 確かに、僕は年長の彼に何度も世話になっていたが、それを加味してもやはり明確な理由は掴めなかった。

 その漠然とした推測を言語化すればこうなる。


「パルタさんに何を言った? 未来視で何か見えたんじゃないのか?」


 この質問に、ジオールは渋い顔をし、「言えない」とだけ、答えた。

 その口調から、パルタの身に何か不穏な、たとえば「死」であるとか、そういったことが襲うのではないか、と勘ぐったが、彼はヒントめいた言葉すら与えてくれなかった。


「言えば、未来が捻じ曲がる可能性がある」

「じゃあなんでパルタさんに言ったんだよ」

「彼に伝えることは僕の中ではさほど問題なかったからね」

「悪いことじゃないだろうね」

「決め付けるなよ。いいことだったらどうするんだ」

「もしそうなら……いや、教えてくれない、か」

「ご名答」


 ジオールは本当にうれしそうに手を叩いた。彼が何に喜んだのかはさておき、それ以上追求する気はなかった。ジオール自身が以前言っていたとおり彼の未来視の精度はそれほど高くはない。それはきっと彼が未来という最も強固な鎖に縛られたくないからだろう。

 それから、僕は最後の質問をする。


「ジオール、ずっと前から聞きたいことがあったんだ」


 かねてから抱いていた些細な疑問――。


「どうして、『ジオール』なんて名乗り始めたんだ?」

「それは……名前の意味か? それとも、名前を変えようとした理由か?」

「両方」と短く返す。

「意味は大してないな。勝手に深読みしてくれ」

「なんだよ、それ」

「名前を変えたのは、お前に『ニール』を渡すためだよ」

「……それは、どうして」


 同情だろうか。ニール=レプリカとして生まれた僕を哀れんで、ジオールはそうしたのかもしれない。あるいは、他の誰かが言っていたように、出来損ないの僕と一緒くたにされるのが本当は嫌で、そうした可能性もある。

 だが、その予想とは裏腹に、ジオールは爽やかな常識を僕に与えた。


「どうして、って当たり前だろう? どこの世界に同じ名前の兄弟がいる? 勝手にお前の名前を変えるわけにもいかないし」


 そこで初めて、僕は自分の愚かさに気がついた。

 僕はずっと「ジオールは自身と僕を同一視している」と考えていた。だが、本当に同一視していたのは、したがっていたのは僕自身だったのかもしれない。「ニール」という鎖で己を縛りつけ、彼のようになりたい、と頑なに「ニール」にこだわっていた。

 本当に「ニール」のくびきから外れたいのであれば名前を変えれば何かが変わったかもしれないのに。

 それがおかしくて、僕は笑う。つられたのか、ジオールも声を上げて笑った。


「まあ、お前が『ニール』から名前を変えたいんなら勝手にすればいいよ」

「いや、ありがたくもらっておくことにする」

「そうか」

「レプリカ、ってのもとりあえず抱えておくよ」

「おい」とジオールは鋭い声を出した。「それは」

「僕は自由なんだろ? 自由にさせてもらうよ」


 ジオールは納得のいかない表情をしていたが、しばらくすると頭を掻いて「ご自由に」と相好を崩した。


「なんだか、これから寝て、さよなら、って言うのも蛇足だな。挨拶も面倒だし、いっそこのまま、帰ってしまおう」


 彼は懐から液体が入ったシリンダーを取り出した。白い光の腕がシリンダーを包み込んだと同時に、ガラスが砕け、液体が絨毯に垂れた。蛍光の青がどす黒く染まっていく。穴に飲み込まれないように、僕は一歩退いた。


「座標は大丈夫なの?」


 あちらの世界の同一座標に何か物があったら問題があるんじゃないか、と僕は訊ねたが、ジオールは飄々とした顔でこめかみの辺りを叩いた。


「データなら全部入ってるし、この穴は結構親切なんだ」

「そっか」と僕は頷き、それから「あ」と声を出した。「そういえばさ、僕の記憶ストレージがおかしいんだよね。データの破損とか、文字化けとかさ、何か知らない?」


 その途端、ジオールは渋い顔をした。脳に刻まれた記憶を探るかのように、彼の眼球に映る暖炉の火が右へと揺れる。彼はしばらく、どう説明すればいいのか、と悩むように言葉を選んだ後、ようやく僕の質問に答えた。


「お前のは旧型だからだよ」

「旧型?」

「さっき、一回元の世界に帰った、って言ったろ? どうやら世界を渡るときの影響で障害が起きるみたいでね。旧式のものだと耐えられないから新型のやつを開発してきたんだ。そのせいでお前に会うのがこんなに遅れてしまった。本当に辛かったよ」

「それは随分、すごいことを」

「まあ、翻訳装置が生きてたからいいじゃないか」


 確かにそうだ。

 翻訳装置さえ正常に動いていればコミュニケーションを取ることができる。そのおかげで僕が生きるのは随分楽になった。


「それじゃあ、ニール。幸運を祈るよ。物騒な世界だ、強くなれ。あと仲間たちにもよろしく言っといてくれ」

「ああ、ありがとう。……もし、またこっちに来ることがあったら、酒でも飲もうか」

「……アルコールは少量なら血流を良くするが、多量に飲んでいいことはない。だいいち、お前は未成年だ」

「ここではそんな法律ないんだよ」

「……そうか」


 ジオールの身体が黒に包まれ始める。不思議な気分だった。ずっとこの世で一番嫌いだった人間に笑顔を向けることができる。僕を縛っていたのはなんて脆い鎖だったのだろうか。

 じゃあ、とどちらともなく、言った。その瞬間、黒は収縮し、ジオールの姿が掻き消えた。僕は誰もいなくなった部屋の中で〈腕〉を展開する。若草色の腕にはジオールが刻んだ魔法陣が残っている。

 練習あるのみだな、と僕は笑い、虚空を見つめる。

 暖炉の中で彼の着けた炎が煌々と燃えていた。


     〇


「帰った!? いつよ?」


 と翌朝、怒気を露わにしたのはベルメイアだった。彼女は恐ろしい勢いで力をつけていくジオールにかすかな尊敬と多大なる嫉妬を抱いていたらしく、あからさまに眉を顰めた。気に入ったわけではなさそうで、むしろ蔑ろにされたことへの憤りが強いように見える。

 出発前、食堂を兼ねた会議室には全員が揃っていた。今後の予定などを確認している中で、ジオールの言葉を伝えると誰もが複雑な溜息を吐いた。嵐が過ぎたことへの安堵と惜しさが混じったような溜息だった。


 彼らの安堵の原因は僕のはずだ。それは朝、鏡を見たときから予想できていた。昨日まで僕の顔にあった暗い感情がきれいに消えうせていたのだ。みんなが同じことを考えていると思うと、自分がどれだけ情けなく、恥ずかしいことをしたか指摘されているような気分にもなり、頬が紅潮していくのを感じた。


「僕をよろしく、と言っていました」

「そうか」とフェンが頷く。ごちゃごちゃと騒ぐベルメイアはカンパルツォにより宥められ、別室へと連れて行かれた。

「でも、強かったみたいだし、残ってもらえれば楽できたんだけどねー」


 欠伸をしながら言ったレクシナをヤクバが鼻で笑う。


「いや、そうでもないだろう。悪く言うつもりはないが、あれは輪を乱す」

「輪! いまさらじゃない? 助けられたセイクさんはどうお考え?」

「うるせえな、助けられたとか言うなよ」

「でも、事実じゃない?」

「……まあ、強いのは認める。ただ、まあ、あいつは酒を飲まないからだめだ」


 セイクはちらり、と僕を覗いた。含みのある視線で、僕は小さく笑い、追従した。


「そうだね、ジオールはお酒を飲まない」


 僕は、飲む。その程度のことが、僕とジオールを隔てる壁なのかもしれない。その壁に背を預け、分厚さに安らぎを感じた。偉そうに言うな、と僕を指差す三人に微笑みと謝罪をして、アシュタヤを一瞥する。彼女は視線に気づくと穏やかな笑みを返した。

 それを目にしたレクシナが悪戯っぽい顔でアシュタヤにしなだれかかって言った。


「ねえ、アシュタヤちゃんは? 顔が同じだったら強い方が良かったよね?」

「え?」

「え、ってなに、反応おかしくない?」

「いえ、その」とアシュタヤは困惑顔で首を傾げる。「そんなに似てました?」


     〇


 出発前の会議と準備を終え、馬車の到着を待つ間、僕はパルタに話しかけた。ジオールの行動の真意を探るためだ。ジオールは知ることのリスクを説いていたが、僕にとっては知らないことのリスクの方がよほど大きかった。

 若い二人の護衛と談笑していたパルタに「ちょっといいですか?」と声をかけると、彼は僕がしようとしている質問に気がついたようだった。一瞬の逡巡の後、パルタは頷き、仲間たちから距離をとった。


「ジオールくんのことだね?」

「ええ」と顎を引く。「どうしても気になって……パルタさんは一体何を聞いたんですか? 未来視、されたんですよね」

「未来視……、ああ、そうといえば、そうかな」


 その歯切れの悪さに顔を顰める。ジオールは僕に嘘を吐かない。僕が「何を言った?」と訊ねたとき、彼は言葉を濁した。それこそが、未来視をした確たる証拠だ。


「何を言われたんですか?」

「お前を頼む、ってことくらいだね。なんだ、話を聞けば、ニール、これからお前の身に災難が降りかかるらしいじゃないか。そのときに私にも役目があるんだとさ」

「それだけ、ですか?」

「……後は、そうだな」パルタは顎に手を当て、左上の空を見る。「助けになってくれ、ってことくらいか。それ以上は聞いていないよ」

「そう、ですか」


 腑には落ちなかったが、それ以上追求したところで彼の言葉が変わる気配もなかったため、僕は諦めた。馬車の音も近づいてきている。そのときになれば嫌でも分かるだろう。

 行きますか、と二つ並んだ幌を指差すと、彼もそうだな、と頷いた。


「しかし、ジオールくんは本当にニールを大切にしているみたいだね」

「なんですか、急に」気持ち悪いですよ、と舌を出す。

「大切にしていなければ、わざわざ伝えに来ないだろう?」


 僕は肯定も否定もできず、パルタをおいて馬車へと向かった。兄弟愛、という言葉なんて考えただけで鳥肌が立ちそうだ。羞恥か、嫌悪か、僕はその感情に決着をつけずに放置しておくことにする。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る