23 罪を赦す
夜が明け、朝が来て、太陽が糸に引かれるように高くなっていく。
看護師の女性によると収穫祭は予定通り行われるらしかった。例年にない騒動や火事などのせいで警備は厳しくなっているものの、規模の縮小やイベントの中止などはないという。そのため、僕がいる医務室にも祭の喧噪が伝播してきていた。
寝台の上から窓の外を見やる。行き交う人々、食事を売る露店、道ばたで行われている大道芸。最終日であるからか、小さく見える街の人の顔はそれまでよりいっそう輝いている。
ぼんやりとそれらを眺める姿が外に出たいと語っていたのだろうか、看護師は微笑みながらもぴしゃりと僕を諫めた。
「だめですよ、安静にしていなくちゃ」
「わかってます。ちょっと見てただけですよ」
「治るものも治りませんからね。昨日だって大騒ぎだったんですから」
その大騒ぎを僕は知らない。城に運び込まれた僕はバンザッタ城の医療班を大いに慌てさせたらしい。医療班、つまり、医者と看護師、そして治癒術士たちは処置をどうするか困惑したそうだ。通常あるべき魔力がない僕に対して、治癒魔法が効果を持つのか、医療技術のみで対応してもいいものか、ちょっとした議論にすらなったという。
結論から言えば治癒魔法は効果があった。らしい。やはりそれも伝聞だ。
そもそも治癒魔法は比較的新しい魔法学分野であるそうだ。人間の持つ自己治癒力を活性化させ、傷の修復や消毒を行う、という原理そのものは理解されているのだが、では魔力がどのようにしてその身体機能に影響を及ぼすのか、までは知られていない。よくわからないけど治るから使う。使いすぎると身体に悪影響が出る。気をつけましょう、という具合だ。いい加減なものだけれど、技術は得てしてそういうものだから僕も気にするのをやめた。
今朝、僕の様子を見に来た医者と治癒術士は完治するまでに一月もかからないと言った。半月あれば普段通りに動けるようになる、と。
元の世界では完全骨折が治るのに必要な期間は二日程度だったはずだ。裂傷なら培養した細胞を癒着させればすぐにでも塞がる。比較すると歯痒くはあったが、元よりこちらとあちらを比べるつもりはなかった。出発までに治るならば不満を感じることもないし、当面の脅威は去っている。
「焦らずに、まずは身体を治すことを優先しろ」
医者と入れ違いに入ってきたカンパルツォはそう労ってくれた。一緒に訪れたウェンビアノは僕の軽率さに小言を漏らしたものの、それはあくまで前置きのようなもので、最後にはいつもの能面のような表情で僕を誉めた。敵を捕縛して情報を得ることは叶わなかったものの事件の痕跡から敵の繋がりが明確になったそうだ。
あるいはそれもギルデンスの計画なのではないか、と疑ったが、ぼんやりとした頭ではそれが限界だった。治癒魔法には副作用があり、倦怠感と眠気の混合物が思考に靄をかけていたからだ。僕は忙しそうに去って行くカンパルツォたちを見送り、横になった。「権力者には市井の人々には想像できないような義務と仕事があるのだろうなあ」とぼんやり考えているうちに睡魔の波に意識を攫われた。
〇
十分しか寝ていないようでもあるし、二時間も寝たような気がする。隙間のない睡眠のせいで体内時計が変調をきたしていて、太陽の位置を想像することもままならなかった。
眠気は未だ頭の芯に残っていて、目を瞑ろうとしたとき、すぐそばですすり泣きが聞こえた。
泣いていたのはベルメイアだった。
栗毛の小さな頭が俯いている。洟を啜る音が聞こえ、僕は暢気に「ああ、あんな強気な子でもこんなふうに大人しく泣くんだなあ」と思った。声をかけることすら思いつかずしばらく眺めていると机に向かっていた看護士が苦笑した。
「ベルメイアさま、ニールくん、起きてらっしゃいますよ」
ベルメイアの身体がびくりと動き、その拍子に視線がぶつかる。僕の中の睡魔が尻尾を巻いて逃げていく。それほど彼女の顔は歪んでいた。
こういうとき、勝ち気な姫が発するべき台詞はきっと「起きてたなら声くらいかけなさいよ!」とかそういうものに違いない。罵倒の言葉を予想して縮こまったのだけれど、ベルメイアは僕を詰ることはなかった。
ぼろぼろと涙が落ちている。彼女は僕の顔を見た途端、小さく震え、再び泣きじゃくり始めてしまった。涙腺の決壊とはこのことを言うのだろう。ひーん、と喉と鼻の境目から声を出し、顔をくしゃくしゃにしている。
面倒だとは思わなかったけれど、厄介だとは感じた。だだをこねる子どもより、泣き続ける女の子の方がやりづらい。どうしたものかと頭を悩ませ、看護師の中年女性に助けを求めるように顔を向けたが、彼女も苦笑いするばかりで的確な助言を授けてはくれなかった。
僕は嘆息し、仕方がなく、ベルメイアの顔を覗き込む。
「あの、ベルメイアさま。そう泣かれると僕も困ります……」
大体、つい昨日まであなたの僕に対する態度はそうじゃなかったでしょう? 確かに僕の適当な言葉があなたの胸を叩き、いくらか関係は良好になったかもしれないけれど、何があったらそんな態度になるんですか?
とは、もちろん言わない。というよりも、言えない。困ります、と口にした時点で彼女の嗚咽がさらに激しいものになったからだ。
小さな身体の中にある水分を全部出し切るのではないかという勢いで彼女は泣き続けている。見かねた看護師が駆け寄って背中をさすり始めてようやくベルメイアは意味の取れる言葉を話し始めた。
「だって、ううう、だって、あたしがわがまま、うっ、言ったせいで、死んじゃったのかと思ったんだもん……」
息が漏れる。すっかり忘れていた。
そういえばきっかけはそれだった。彼女からしたらこの一連の事件の責任は自分にこそあるとしか考えられなかったのだろう。
「ニール、ひっく、ニール、怪我して、危ないって言ってたのに、あたしがだだをこねて、うう、うええ、行きたいって、言っちゃったから大怪我して、ううううう、エイシャも危ない目に遭ったって、うっ、ううぅぅ……エイシャは会ってくれなかったから……」
「あの、ベルメイアさま」
何と声をかけていいものか。混乱した頭で、とりあえず撫でていたら泣き止んではくれないものか、と右手を伸ばそうとする。迂闊な行動だった、と後悔したのはその直後だった。
肩の傷が神経に痛みを叩き込む。過剰分泌されたアドレナリンという緩衝剤は既に失われていて、僕の脳は両手を広げて痛覚を迎え入れた。
その反応にベルメイアが再び大声を上げて泣きじゃくった。「痛い? 痛いの? ごめんなさい、ごめんなさい、大丈夫?」と僕の右腕に手を伸ばしてくるものだから、気が気でなかった。彼女の後ろにいた看護師が宥めてくれなければきっと傷そのものに手を触れていたことだろう。
ベルメイアが泣き止むまでにはしばらく時間がかかった。泣き止んだ、といっても涙が出なくなっただけで、体勢を変えようと僕が身じろぎするたびに彼女は悲痛な面持ちで「ごめんなさい、大丈夫?」と手伝おうとした。挙げ句の果てに「何か欲しいものない? 何でもするから」と言うほどだ。領主の娘であり、責任感が強いのは理解できるが、実際にそれが向けられるとどうしようもない。自分が傷と怒りを盾に小さな女の子に威張り散らす器の小さい人間になったようで、僕は堪らず頭を下げた。
「ベルメイアさま、お願いですから落ち着いてもらえませんか」
「だって、でも……」
「僕は大丈夫ですから。それに今日が収穫祭の最終日でしょう? 行かなきゃきっと後悔しますよ」
「行ったらもっと後悔するじゃない……」
「ああ、もう」僕は殊勝な彼女の態度にやきもきする。「過程はどうあれ、危険は去ったんですからいいじゃないですか」
それもそうね、とベルメイアが快活に頷くはずもない。彼女は「それはそうだけど……」と口の中で呟いて再び俯いた。まるで空気を叩いているように手応えがなく、これならだだをこねられた方が余程ましのようにも思えた。
僕は溜息を吐く。そんな仕草にもベルメイアは小動物のように震えた。
「あの、すいません」僕はベルメイアの肩を撫でている看護師に言う。「ちょっと外に出てもいいですか」
「許可できません」
「あ、いや、城の外に出るわけじゃなくて、部屋の外に……、ちょっと用を足してきます」
僕は気恥ずかしさを繕う。実際のところ、尿意はあったため、嘘ではない。朝、医者が訪れてからトイレに行ってなかったことを知っているはずの看護士は部屋の隅にある尿瓶に目を向けてから、苦笑いを浮かべた。ここで尿瓶などという単語を出したらベルメイアがどんな行動に出るかわからない。というよりも、あまりに予想がついてしまって言葉にするのが憚られる。僕と看護師の女性はアイコンタクトを取り、行動を開始した。
布団をめくり、寝台の下にあったサンダルを履く。看護師は僕の左肩を支えながらベルメイアから尿瓶を隠す。案の定ベルメイアは「ねえ、ニール、一人でできる? 手伝う?」と裾を引っ張ってきて、僕と看護師の顔を引き攣らせた。
実際に立ってみると足の痛みは大したものではなかった。腿の切り傷は浅くほとんど気にならず、足首も内出血はあったが、歩けないほどの痛みはない。
「あ、これ、普通に歩けますね」
「まあ、足はそれほどひどい怪我ではなかったですからね」
三角巾で僕の腕をつり上げる看護師の言葉に、ベルメイアが悲鳴に近い声を上げた。「足は、って、ニール、やっぱり身体はひどい怪我をしてるのね!」
押し問答の予感に僕は無視を決め込んで、さっさと扉の方へと歩を進めた。
「一人で歩けそうだし、ちょっと行ってきます。心配しなくても城の外には出ません」
「ねえ、ニール、あたし、手伝うから」
「お気持ちだけありがたく頂戴します」
そう断ったはずなのに、ベルメイアは僕のすぐ後ろをついてきた。ちょこちょこと忙しなく足を動かすさまはカルガモの刷り込みを彷彿とさせる。
衛生学が発達しているからか、それとも魔法と豊かな水資源のおかげで下水路が容易に作られるからか、バンザッタのトイレ事情は悪くない。侍従など多くの女性が働いていることもあって男女の別まであるほどだった。
だからだろう、僕が男子用トイレに入ろうとしたとき、一瞬ベルメイアは躊躇したように足を止めた。だが、それも一瞬、だ。彼女は普段の強気を眼差しに漲らせて、何を血迷ったのか、「うん」と頷いて足を踏み出した。今度は僕の足が止まる。どうしたの、とでも言うようなベルメイアの上目遣いに頭を抱えそうになった。
「あのですね、ベルメイアさま。そう意固地にならなくても一人でできますって。赤ちゃんじゃないんですから」
「でも、肩、怪我してるじゃない……」
「そう『怪我』という言葉を免罪符のように振りかざされても」
「メンザイフ?」
「ああ、そうか、この国は自然崇拝でしたね……、まあ、なんというか、一人で大丈夫、ってことです」
どちらかといえば一緒にトイレに入る方が問題だ。
「……本当に?」
「本当です」
「本当の本当に? 負傷した兵は強がるって聞いたわ」
「僕は兵士ではないですからね、痛いときは痛いって言いますし、無理なときは無理って言います」
「……じゃあ、手水の前で待ってるわ」
僕は胸を撫で下ろし、スイングドアを押してトイレへと入っていく。放尿している間中ベルメイアが扉の向こうから「大丈夫?」と聞いてくるものだから落ち着かなかった。
用を足し終えた僕は医務室へは戻らずにフェンを探すことにした。
ベルメイアは「ちゃんと戻らなきゃだめよ」と懇願するような声を出したが、まずはこの状況をどうにかしなければならない。
「ちゃんと戻りますってば。ちょっとフェンに用事があるんですよ」
「用事……言ってくれたらあたしが行くわ」
「ベルメイアさまを小間使いにするわけにもいかないでしょう」
「そんなこと、貴族だとか平民だとか、そういうのを気にしてはいけない、ってお父様もエイシャも言ってるじゃない」
「じゃあ、言い換えます。年下の女の子を顎で使うのは気が進まないんですよ……、ベルメイアさま、フェンはどこにいるかご存じですか?」
「……フェンならちょっと前に政務室に行くって言ってたけど……」
なんだ、会っていたのか。なら、ベルメイアが医務室に訪れたのは彼の差し金かもしれない。僕もアシュタヤもいない今、泣きじゃくるベルメイアが頼りそうなのは彼かカンパルツォくらいしか思いつかなかった。そこで仲良し作戦が発令された、というわけだ。
きっと当たらずとも遠からずだろう。僕はベルメイアに礼を言って、政務室へと向かい始める。当然のように彼女も僕の後ろをついてきた。
廊下の壁に等間隔に開けられた小窓から陽が差し込んできている。影の短さからすでに昼に近いことがわかった。
昼のバンザッタ城内は照明がいらないほどに明るい。小窓はかつて哨戒のために用いられていたらしいが、今はもっぱら採光用だ。数も多く、ガラスなどはつけられていないため、冷たい空気に乗って収穫祭の喧噪が飛び込んできていた。
僕はわざとらしく外を眺める。最終日と言うだけあって歓声がいっそう強まっていて、どうにかベルメイアがそちらに興味を示さないか、試行錯誤した。
だが、結局、彼女は窓の外には目を向けなかった。視界に入れたら後ろ髪を引かれる思いをする自覚があるのかもしれない。僕から離れまいとする意志を強固にするためか、あるいは主張するためか、床をじっと見つめていた。
「ベルメイアさま、何度も言いますが、お気になさらないでください」
「でも、あたしの責任だし……」
責任! 小さな女の子の口からそんな単語が飛び出たことに平伏しそうになった。僕が彼女の年頃のとき、責任という言葉を使いこなせていただろうか。とはいえ、この状況では手放しに感嘆してもいられない。十二歳の女の子が「責任」という刃で自らを傷つけようとする姿は気持ちの良いものではなかった。
「……実を言えば」僕は彼女を刺激しないよう、言葉を選ぶ。「僕はあなたの癇癪のせいで外に出たわけじゃありません。あれはただの口実だったんです」
「嘘」
「え」
「そんなの信じられないわ。どうせあたしを慰めようとしてくれているだけなんでしょう……? あたしのせいでそんな大怪我しちゃったから」
「そんな……嘘ではありません。僕は一刻も早く犯人を突き止めたかっただけで」
「どうして?」
ベルメイアの靴音が宙に浮く。振り向くと彼女はドレスの裾を握りしめ、辛そうな顔で立ち止まっていた。
「どうして、って……、それはほら、僕は護衛ですし、収穫祭に水を差されるのもなんだったので……」
「ほら、あたしのせいじゃない! 元はといえばあたしがお父様に最後の収穫祭だから思い切り遊びたいって言ったのよ、もし、そんな我が儘言ってなかったらこんなことにはなってなかったわ!」
彼女の姿に、一瞬、自分の姿が重なった。アシュタヤと責任の所在で言い合ったとき、あるいはフェンに諭されたとき、僕もこんな顔をしていたのだろうか。
背負いきれない責任をかき集め、自らその重圧に飲み込まれようとする内罰的な態度――。得てしてそのとき、当人以外は気にしていなかったりする。
そこまで考えて、僕は呻いた。
どこまでも自分が悪いと思い込み、彼女は己の身に責任を突きつけている。その小刀を奪うのは容易なことではない。
「みんな、みんなニールと同じようなことを言ったわ。あたしのせいじゃない、あたしが落ち込む必要なんてないって。でも、……違うじゃない! どう見たってあたしのせいでしょ! わかってるのよ、わかってるの。あたしが子どもだから、領主の娘だから、あたしのせいにできないだけなんでしょ!」
「ベルメイアさま」
言いながら僕は必死に言葉を探す。僕の言葉なんて意味がないとわかっているのに。
「……じゃあ、こうしませんか。先日、僕は堀を飛び越えてあなたを驚かせてしまった。それでおあいこ、ということで」
「そんなの釣り合わない!」
顔を上げた彼女は僕を、僕の肩を睨む。そのまなじりには枯れたと思い込んでいた涙がにじんでいた。
「……わかりました。そこまで言うなら僕にも考えがあります」
その一言にベルメイアの表情がほんの少しだけ和らいだ気がした。
「まずはフェンのところに行きましょう。そこでベルメイアさまにお願いを」わずかに言いよどみ、言葉を変える。「罰を、受けてもらうことにします。そうすればあなたも納得できるでしょう?」
そこで、僕は気付く。同時に、自分の言葉で救われていると感じる。
きっと人が何の裏もなく許しを請うとき、何よりも大事なのは自分を許そうという前向きな思いに違いない。外と中の均等な許しがあって初めて犯した罪は許されるのだ。罰は外部の納得だけではなく、内部の納得としての意味合いも持つのだろう。
許されようとする意志。
そう思うと気持ちが楽になった。
次、アシュタヤに会ったとき、僕の内側にある罪悪感の炎は再燃するかもしれない。でも、前よりもよっぽどその意識に向き合えるように思えた。
〇
フェンの姿を発見したのは政務室に向かう廊下の途中だった。元王族だけあって彼の意見も参考にされているのかもしれない。ようやく彼がウェンビアノやカンパルツォと一緒にいる理由が理解できた。
僕は自由な左手を挙げて、声をかける。フェンは振り向き、それから苦々しい表情を作った。主な原因は医務室を抜け出して城内を闊歩している僕だろうことは想像がつく。
「こんなところで何をしてるんだ」
「散歩だよ。適度な運動は医学的にも奨励されているんだ」
「ベルメイアさまを連れて、か?」
「ベルメイアさまはついて来ちゃっただけだよ。っていうか、フェンが彼女を僕のところによこしたんじゃないか」
言い終わるなり、あれ、と声を上げそうになった。フェンは首を傾げ、僕とベルメイアの間に視線を巡らせている。本当に身に覚えがないようだった。
「まあ、いいや。フェン、これから予定ある? ちょっとお願いしたいことがあるんだけど」
「急ぎの用事はないから時間はあるが……、想像がつくな」
「なら、話は早いね。昨日の今日で悪いんだけど……ベルメイアさまを収穫祭に連れて行って欲しいんだ」
「ちょっと、ニール! どういうこと!?」
後ろから聞こえた金切り声に苦笑し、応える。
「言ったじゃないですか、罰を受けてもらうって」
「罰?」とフェンが眉根を寄せる。「どういうことだ?」
「いやさ、ベルメイアさまが僕の怪我を自分のせいだって言い張るものだから、どうしようもなくて。で、僕のお願いを聞いてくれるっていうから」
「それにしたって、なんで収穫祭に行かなきゃならないのよ!」
もう彼女の言い分は散々聞いた。今度ばかりはこちらの言い分を聞いてもらう番だ。
僕は向き直り、彼女の丸い目を見つめる。
「えーと、ベルメイアさまにしてもらいたいことが三つあります。一つは、年下の女の子を小間使いにするのは気が引けるって舌の根も乾かない内で悪いんですが、食事を買ってきてもらいたいんです」
「食事?」と彼女は訝しげに訊き返す。
「ええ、怪我を治すには十分な時間と栄養が必要です。でも、どこの世界も病人食っていうのは味気なくて気分がいいものではありません。ベルメイアさまは収穫祭の食事をたくさん摂っておられたでしょう? なら、おいしいものがわかるはずです」
「それはそうだけど……、そんなことで」
「まだあります」
渋い顔をしているフェンに苦笑を向ける。儀式みたいなものだから小言を言わないでくれよ、と目でお願いして、僕は続けた。
「外から来た僕にとってこの収穫祭はとても楽しいお祭りでした。実を言えば、見たかった催し物もあります。でも、僕が外出するのはよくないでしょう。だから、どんな催し物が行われていて、どんなものだったか、僕に報告してもらいたいんです」
「ちょっと!」ベルメイアは声を荒げる。「何よ、結局、口実をつけて、あたしに遊んでこいって言ってるじゃない!」
「ええ、そうです」
正直に肯定すると、ベルメイアはぽかんと口を開けた。戸惑いを隠せておらず、何か言おうとしていたが、それが明確な言葉とはならないようだ。
僕は神妙な顔を作り、続ける。
「ベルメイアさま、それが最後のお願いです。あなたは収穫祭に行ったら後悔すると言いました。僕はあなたには後悔することなど一つもないと思っていますが……、ベルメイアさま自身はそう思っていない。それを知った上でお願いします。どうか、楽しんでください。遊んで、楽しんで、前のように歓声を上げてください。フェンもウェンビアノも、そしてカンパルツォさまも経緯はどうあれ、僕の行動がもたらした結果を誉めてくださった。僕はみんなを守ったのだと言ってくださった。その実感が、欲しいんです。あなたやアシュタヤが前と同じように楽しめる、という実感が」
厄介払いのつもりなど端からなかった。
昨夜、フェンにかけられた言葉が薄らいでいたわけでもない。
彼女が心から収穫祭を楽しむことができたならきっと僕の中に芽生えた誇り、のようなものはもっと強度を増すだろう。そして何より、あれだけ僕に対して悪態を吐いてきたベルメイアがぐずったままでいるのは耐えられそうになかった。
「ベルメイアさま、お願いできませんか」
じっと彼女の目を見つめる。彼女はしばらく不満げに視線を返していたが、僕が冗談を言っているのではないとわかると「わかった、わかったわよ!」とその場で足を踏み鳴らした。
「行けばいいんでしょ! 大体何よ、お願いって! あんたって本当に、本当に……!」
ベルメイアはその後に続く言葉を飲み込んで、背中を見せた。そして、ずんずんと廊下を引き返していく。
「あの、ベルメイアさま、どこへ」
「決まってるでしょ、準備よ!」
彼女はきっ、と僕を睨む。だが、その表情の中にかすかな喜びがあるようにも思えた。収穫祭を楽しみにしている、というよりか、もっと別種の、朗らかさが滲んでいるように見えたのは気のせいだろうか。
ベルメイアが去った後の廊下で僕はフェンに謝罪する。
「ごめん、結果的に事後承諾になっちゃったけど、ベルメイアさまのこと頼まれてくれる?」
「まあ、構わないが……」フェンはかすかな溜息を吐き、頭を掻いた。「こっちもこっちでベルメイアさまを任せてしまったみたいだしな」
「みたい?」
その一言で先ほど浮かんだ疑問が再浮上した。
ベルメイアはフェンに言われて僕の元へと来たわけではない。では誰に言われてきたのだろうか。
フェンでもアシュタヤでもないとなると、僕にはカンパルツォくらいしか思いつかなかったが、彼は忙殺されていて、ベルメイアもそのことを知っているはずだ。どこかですれ違った可能性もあるが、政務室にこもりきりのため、考えにくい。
直接訊くまでもなく、フェンはその疑問に回答した。
「ああ、近々お前にも紹介するが、他の護衛に言われたようだな。俺がベルメイアさまのことを聞いたのもそいつらからだ。あいつらは遠慮とかそういうのを知らないからな……」
「なに、伯爵はそういう人の方が好きなの?」
「まあ、腕は立つんだが……それはそうと、ニール、お前、随分顔がすっきりしているな」
「そうかな?」言いつつ、自覚はあった。
「ああ、昨日とは大違いだ」
「あれだけ泣き散らせばね……それに、ベルメイアさまに目の前で泣かれたら冷静にもなるよ。……でも、まあ、引き摺ってない、と言えば嘘になるけどさ」
「そうか……お前は俺が考えていたよりずっと大人らしいな」
「そうかな」
「ああ」
なんだか気恥ずかしくなり、フェンから目を逸らす。それから、少しだけ悩んで、質問を一つ、彼にぶつけた。
「……ねえ、フェン、フェンは……人を殺したこと、ある?」
「まあ、な」
「言いたくないならいいんだけど……人を殺すのってさ、どういう感じなの?」
きっとその気持ちは僕には永遠にわからないだろう。わかる日が来るとしたら、それはもしかしたら「僕」が終わる日かもしれない。
フェンはゆっくりと視線を落とす。そして、そっと手のひらを見た。褐色肌の彼の手のひらは他の部位よりも明るく、そこに何があるわけでもなかったが、彼には何かが見えているようでもあった。
「詳しくは覚えてないが……、あのときは必死だった。殺さなければ殺される状況下では敵の命がなくなることに安堵感しか覚えていなかった。循環する魔力が薄らいでいって、まるで生命が魔力とともに消え去っていくかのようだったな……。ただ、人によりけりだろう。達成感を覚える奴もいるだろうし、快楽に震える奴もいるかもしれない。だが、アシュタヤさまは」
と、そこまで言ってフェンは「悪い、そういう意味ではないんだ」と謝った。
僕は首を横に振る。謝るのは僕の方だ。
「いや、わかってるよ、大丈夫……、ごめん、こんなこと訊いて」
「気にするな、俺を罵るために訊ねたわけじゃないことくらい理解している」
「うん、でも、ごめん」
「できればお前にそのときが来ないことを願うよ」
じゃあ、俺も準備してくるか、とフェンは明るく僕の肩を叩いた。力は弱かったが、わざわざ怪我している方の肩を叩いたため、全身が強張り、顔が引き攣ったでも、その程度の痛みで嘆いているわけにもいかない。
僕はフェンに礼を言って医務室へと向かった。
その途中、ひたすらに考える。
ベルメイアはアシュタヤが会ってくれなかった、と言った。彼女は殺人に付随する闇の中で煩悶しているのかもしれない。僕でさえ、あのときの光景を夢に見るほどなのだ、実際にオルウェダを手にかけた彼女はもっと悩まされているに違いない。あのときは気にしていないように振る舞っていたけれど、アシュタヤは優しい人だ。死が日常的な世界に生きていたとしても、彼女は苦しんでいるだろう。
僕が言うのはちゃんちゃらおかしいのかもしれないけれど、アシュタヤに守られた僕だけは彼女の罪を許さなければいけないと思った。
それはむしろ、あの場にいた僕にしかできないことだ。他の誰でもなく、彼女に守られた僕だからこそできること。
僕が罪の意識に震えれば震えるほど、アシュタヤが抱く罪悪感もどんどん重みを増していくだろう。だから僕は胸を張っていなければならない。アシュタヤから罪の意識が消えるまで彼女を肯定する必要があるのだ。許すことと許されることは表裏一体の感情であるのだと僕はベルメイアを通じて知ることができた。
負傷で戦闘訓練も行えない僕にはそれくらいしかできることがない。
そして、それこそがアシュタヤに罪を犯させた僕への罰であり――、彼女を守る唯一の手段であるのだ。
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