第一章 第四節

 22 夜に咽ぶ

 夢を見た。

 燃えさかる炎の中でアシュタヤがオルウェダを殺す夢だ。その映像が何度も何度も繰り返し頭の中で再生され、感じるはずのない熱を感じ、僕は目を覚ました。

 もう見慣れてしまった医務室の風景。暖炉の薪が弾ける音と湯の沸く音。

 起き上がろうとする。肩、脇腹、四肢のあらゆるところに痛みが走る。平坦になった精神はあらゆる痛覚を少しも堰き止めることなく脳にまで運搬した。僕は身体を起こすのを諦め、そのまま寝転がった。


 窓の外、夜の帳が降りた街並みには魔法石の燐光が浮いている。

 その光を目にして、ふと、生きて帰ったのだ、という実感が湧いて出た。

 燃えさかる邸宅、転がる死体、断末魔と血液、足を踏み入れた地獄絵図から僕たちは帰ることができたのだ――過程はどうあれ。

 アシュタヤがオルウェダを殺したあと、何が起こったのか、あまり覚えていない。記憶の縁に引っかかっているのは、どこかへ行方をくらまそうと背を向けたギルデンスの後ろ姿と、邸宅を脱出すべく僕の手を引くアシュタヤの姿だけだった。


 後悔――。胸中を覆っている安堵感、その影にある感情に名前をつけたら、きっとその名前になる。生きて帰ることはできたけれど、彼女を守ることができたか、と問われると即座に答えを返すのは難しかった。

 僕は、彼女を……。

 思索の洞穴に入り込もうとしたとき、扉が開く音がした。入ってきたのは疲れた顔をしているフェンだった。彼は僕を見るなり、表情を緩ませ、ほっと嘆息した。それほどまでにひどい怪我だったのだろうか。


「調子はどうだ?」


 落ち着いた声色に日常の安らぎを感じる。その安らぎにすら僕は怯える。扉を閉め、隣のベッドに腰掛けるフェンに何とかして笑みを作った。


「あちこちが痛いよ。こっちに来てから怪我ばかりだ」

「……そうだな。申し訳ない、とは思っている」

「謝らないでよ」批難したつもりはなかった。かといって勲章だと誇るつもりもない。ただの、事実だ。「背中の擦り傷だって、他の傷だって、全部自業自得だってわかってるんだから」


 沈黙が訪れる。居心地の悪い静寂だった。

 どうしてだろうか。静寂はいつも僕を苛む。きっと根拠のない被害妄想に過ぎないのだろうけれど、その思いは拭えない。

 超能力の試験で失敗したときの溜息とともに生まれる沈黙、試験結果をとうさんとかあさんが知ったときの困惑の混じった無言、級友たちが僕を嘲りきった後にクラスに広がる同意するような静けさ、ワームホールに飲み込まれ闇の中に放り出されたときの静寂。僕にとって無音とは何よりも強い刃だった。


「ね、ねえ、フェン、アシュタヤは」静寂を振り払うために絞り出した声はみっともないほどに上擦っていて、僕は咳払いをし、何とか続けた。「アシュタヤは……何ともないんだよね」

「ああ、心配いらない。疲れが溜まっていたのだろう、今は自室で休んでおられる」

「そっか……」


 言いながら、俯く。視界の端で魔法石の光が輝いている。まだそれほど遅い時間ではないはずだ。にもかかわらず、彼女は一人で部屋にこもっている。それだけの精神的重圧を与えてしまったことを僕は深く悔いた。

 それがあまりにも見え透いていたのだろう、フェンはぽつりと溢した。


「……気に病んでいるのか」

 わかりきっているくせに、僕は訊ねる。「……聞いたの?」

「実際に現場にも行った。……こういうのもなんだが、あまり気に病むな。天秤にかけるわけではないが、お前の選択は正しかったんだ」

「……正しい?」

「お前は人を殺せないようにできているんだろう? その結果、お前に取り返しのつかない事態が起こっていたとしたら、俺たちはみんな後悔の海に投げ出されていた」


 そう、だろうか? あれは正しい選択だったのか? 少なくとも僕があのナイフを手放さなければ、アシュタヤが殺人を犯すことはなかったかもしれない。

 ギルデンスの言葉が正しいのならば、アシュタヤはこれまで間接的に多くの人の殺害に荷担してきた。だが、そんなのありふれたことでもある。行き過ぎた加害意識を持ち出したならば――僕たちは知らない誰かの生命を糧に生きているのだ。けれど、その行為と直接手を汚すことの間には埋められない断絶があるはずだった。

 彼女がその殺人の断崖を飛び越える必要はあったのだろうか?


「フェン、僕の選択が正しかったのなら、アシュタヤの選択はどうだったの? 彼女は……人を殺した。怪我をして動けない、命乞いをしていた敵を、殺したんだ。その選択も正しいって言える?」


 その疑問は相当に意地の悪い疑問だった。防衛の域を超えた暴力に正当性が存在してはならない。

 けれど、僕の思いとは裏腹に、フェンは力強く頷いた。


「ああ、彼女の選択も正しかった」

「……っ」


 ――僕は、子どもだ。ほとんど盲目的に断言したフェンの態度に無性に腹が立った。野蛮とすら思った。僕がいた世界は刑罰装置なんて機械が作られていた世界で、殺人と言わず、暴力は唾棄すべき罪でしかなかったから。

 刷り込まれた常識は怒りの命令を送る。僕の口から漏れたのは当てつけのような言葉だった。


「それは……オルウェダが敵だから? 敵なら殺したっていいの?」

「それもある。だが、それだけではない」

「他に何があるっていうのさ!」

「……ギルデンスがいたらしいな」


 その名前に心臓が跳ねた。「殺せ」と僕に命じた冷徹な声が脳裏に響く。背中に滲む汗がじくじくと傷口に染みる。「やつを知ってるの?」と辛うじて声が出て、そこで僕は自分が明確な否定を欲していることに気がついた。

 フェンも彼と何か因縁があるのだろうか? ギルデンスもフェンの名前を出していたことを思い出す。

 できるならば、否定してくれ、フェン。

 ギルデンスとの共通点が増えていくごとに彼の言葉が真実味をましていく気がしてならない。フェンの肯定により、僕はいっそうあいつに類似していき、同時にアシュタヤすらも彼に近づいていくような恐怖があった。

 だから、フェンが「直接は知らない」と言ったとき、どれだけ安堵しただろうか。


「……俺が知っているのは名前と人となり、それとあいつが何をしてきたか、だ。それ以上の知識はない。目的すら分からん」

「あいつは……、戦うために自分が存在しているって言ってた……」

「ああ、だから、もしアシュタヤさまがお前の役割を引き受けていなかったとしたらどういう行動に出ていたか、予想もつかない。誇りを傷つけられた人間はときに凶暴な獣になる」


 それに、とフェンは続けた。


「それに、アシュタヤさまは事前にお前の情報を聞いていた。お前が人を殺せない、ということ――わかるだろう? 彼女はお前を守ろうとしたんだ」

「じゃあ!」


 口をついて出た言葉に、折れた肋骨が軋み、痛んだ。それにも構わず僕は起き上がり、叫ぶ。


「アシュタヤは僕のせいで――」

「せい、じゃない。ニール、勘違いするな」

「勘違い、ってなんだよ! 事実じゃないか!」

「だが、真実ではない。きっとお前の中で護衛という言葉が一人歩きしているんだろう」

「何を言ってるのか、分からないよ!」


 ああ――呻きそうになる。

 なんて情けない。フェンは僕を慰めてくれようとしている、なのに、僕から出てくるのは感情に身を任せた癇癪だけだった。

 こんなの、生まれて初めてだ。今まで気持ちをぶちまけようとしたことがなかったからかもしれない。堰を切ったかのように、言葉が口から出ていく。


「僕の役目はアシュタヤを守ることだろ!? 僕が守られてどうするんだよ! 彼女の心が傷ついたのは事実じゃないか! 僕にはアシュタヤみたいな力はないけど、わかるよ、アシュタヤは人が死ぬことを、殺すことを歓迎するわけがない! 僕のせいで彼女が手を汚さなければいけなかった! それが事実じゃないか!」

「ニール、落ち着け」

「落ち着いてなんかいられないよ!」

「ニール」


 諫めるような声色に、ようやく僕の感情の崩落は止まった。息が弾んでいる。肺が膨らむたびに肋骨が痛み、肩の筋肉が軋んだ。

 フェンを睨む。彼も僕を真っ直ぐ見つめていた。だが、そこには怒りの感情はない。聞き分けのない子どもを叱る保護者としてではなく、僕より先に生まれ、僕より多くの経験を持った男としての態度にも思えた。

 彼は少し気の抜けた表情をし、それから諭すように言った。


「確かに護衛は守るのが存在意義だ。だが、守られてはいけない、なんて誰が言った?」

「そんなの……」


 言葉遊びじゃないか。慰めにもならない。

 そう言おうとしたが、思考と声帯の間に割って入ったフェンの言葉に、止められる。


「お前にはまだ言ってなかったな」


 彼は目を瞑り、小さく息を吐いた。それから、首元の赤い宝石がはめ込まれた装身具を触った。土の民の誇り。彼がいつも大事にしている首飾りだ。


「……俺の名前はフェニケルス・ロダ・ニダ・ドズクア。かつて俺は、失われた国の王族だった」

「……え」


 言葉を失う。王族? フェンが?

 一つ一つの単語の意味は理解できたけれど、その連続性を即座に受け入れることはできなかった。どうして王族が護衛に身をやつしているのだ。大体、そんなこと言ってなかったじゃないか。

 いろいろな思いが渦巻く。けれど、僕が逢着したのは「だからどうだと言うのだ」という結論だった。彼が王族だったとしても、言葉の意味は変わらない。護衛は要人を守り、要人は護衛に守られる、それが変化するわけでもない。

 僕は思うだけでなく、実際に口にもした。


「……だからなんだって言うんだよ! フェンが王族だからってなにが」

「そうだな、何も変わらない。ただ裏付けにはなるだろう」

「裏付け、って、どういう……」


 フェンはそこで目を瞑り、語っていく。要約された彼の人生だった。


「……争いに破れ、砂漠を越え、海を渡り、この国にやってくる途中、多くの刺客に襲われた。国が亡びたとは言え、一国を束ねる一族だったからな。そいつらを退けたのは護衛たちだった。だからと言って俺も怯えて膝を抱えていたわけじゃない。俺も多くの臣下を魔法で救った。……いいか、ニール、護衛は守るべき対象を守ろうとする。だが、それは決して当たり前のことじゃない。守られる人間はそれを噛みしめて、自分を救おうとしている人間を守るべきなんだ。アシュタヤさまはそれをしただけだ」


 初めて聞いた彼の物語――、その物語を通してフェンは僕を肯定している。

 アシュタヤに守られたからと言って、恥ずべきではない。

 でも、それとこれとは違う話にも思えた。フェンの物語では襲い来る刺客を撃退するためにフェンが、あるいは彼の護衛が互いに守りあった。それはいい。僕がアシュタヤに守られたこと自体も納得しよう。ただ、一つだけ明確な違いがあった。


「……でもっ、アシュタヤは無抵抗の人間を殺したんだ。僕が殺させた、と言ってもいい」言葉にするとその事実は重みを増し、のし掛かってくる。その重圧に僕は俯いた。「……罪は、罪じゃないか……」

「そうか?」

「……え?」


 こともなげに放たれた言葉に思わず顔が上がる。フェンの表情には騙そうという意志だとか取り繕うとする稚拙な感情は一切なく、自分の言葉が正しいと信じる確固たる思いだけが滲んでいた。


「ニール……お前はこう言ったらしいな。誰かを守るために人を殺してもお前の中に埋め込まれているものは発動しない、罰を受けることはない、と。お前のいた世界はここよりもずっと進んでいるのだろう? きっと法とか罪という概念も、時の流れに沿ってより洗練されていたはずだ。その世界が言っている。他人を守るために敵を取り除くのは罪ではない、と。それをアシュタヤさまの行為に当てはめればいいだけだ」

「でも……でも、僕は」


 形だけの反論だ。僕にはもうフェンの言葉を否定する意志は残っていなかった。漠然とした「許されてはならない」という強迫観念だけが心の中に浮き上がっている。だが、その罪悪感の形状も輪郭は朧気になっていた。

 彼女は罪を犯していないのか?

 僕は彼女を汚したわけではないのか?

 じわじわと胸の内に罪からの解放を感じる。暖かな気持ちがせり上がり、喉が詰まる。目頭が熱くなる。呼吸が細く、震える。

 肩を叩かれた。フェンの手のひらは熱く、僕の肌はその温度を何よりも尊いものだと言い聞かせるように、痺れた。


「ニール、胸を張れ。お前はアシュタヤさまの命を守った。選択を託したことによって、彼女の誇りすら守り抜いた。何を悔いることがある。俺じゃ不満かもしれんが……アシュタヤさまや伯爵さまに成り代わり礼を言おう」


 僕がもっとも欲しかった言葉。もっとも欲しかった真実。


「ニール、ありがとう。お前のおかげで彼女は守られ、そして、当面の危機も回避された。少なくとも明日、全員が何に怯えることもなく、最後の収穫祭を楽しめるだろう」


 ――アシュタヤを守ることができた、という確信。

 それを与えられると、僕の目から、涙がこぼれた。それをきっかけに感情の堰が決壊する。あふれ出る涙はどれだけこらえても止まろうとはしなかった。


「もう一度言う。……ニール、胸を張るんだ」

「……僕は、僕はっ、う、ううう、ああ、あぁあああ!」


 ――僕は今まで何一つ成し遂げたことがなかった。

 生まれたときから超能力が使えた、それだけで周囲は僕に期待した。教師もクラスメイトたちも、政府の機関に勤める人々も。けれど、大きな力を持て余す木偶の坊だと知った途端、彼らは溜息を吐き、冷たい目を向けるようになった。月の終わりに超能力の成長を確認する試験が行われるたびに憂鬱になった。

 サイコメトリー、テレパス、クレアボヤンス千里眼プレゴクニション予知能力ソートグラフィー念写パイロキネシス発火能力クリオキネシス氷結能力、あらゆる能力が発現しなかった。唯一の能力であるサイコキネシスも使い物にならない。計測は数値となって苛み、数値は評価となって縛り付ける。


 僕はいつも深い憂鬱で身体がばらばらになりそうだった。周囲の罵倒は事実に基づいたもので、否定することなどできやしない。

 誰もが僕を蔑ろにした。感謝されたことなど一度もない。誉められたことなんて片手で足りる。劣等感だけが冷たく降り積もり、いつも身体が重く感じた。

 その僕が成し遂げた些細な偉業。

 そもそもの原因は僕なのかもしれない。解決を焦った馬鹿な若造が引き起こした事件であり、危機だったのかもしれない。


 でも、フェンは言った。僕の軽率な行動が当面の危機を回避する結果となった、と。アシュタヤもベルメイアも、そしてカンパルツォに関わるすべての人たちが何の不安もなく最後の収穫祭を満喫できるのだと。

 小さな寝台の上で僕はその事実を噛みしめ、思い切り咽び泣いた。身体中が痛む。右肩、肋骨、太腿、手足、至るところがずきずきと痛んだ。僕の行動が誤りではなく、しかし、正しくはなかったのかもしれないけれど、誰かに感謝される価値があるものだと主張するように傷は脈打つ。

 僕が自分自身にした誓い――アシュタヤをあらゆる危機から遠ざけたい、という決意。危うく破るところだったけれど、僕はとりあえずそれを守ることができたのかもしれない。

 その自覚が全身に充満し、達成感に嗚咽し、しゃくり上げる。

 ――守ることができたんだ。

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