19 生命の定義
アシュタヤの指示は的確だった。
敵が姿を現す直前になると彼女の声が飛んだ。隠れてやり過ごせる場所が近くにあったなら、そこに隠れ、様子を窺い、隠れられそうな場所がなかったら不意を突いて敵をなぎ倒した。攻撃を受けた敵は何が起こったかわからない表情のまま床や壁、天井に衝突し、気を失い、あるいはくずおれながら敵意を剥き出しにして僕たちを睨んだ。中にはナイフを投げてくる奴もいたけれど、倒れたままでは狙いをつけられるわけもなく、明後日の方向へと飛んでいった。
まともな指揮系統が成り立っていない。
敵が雇っているのは狂信者めいた連中ばかりではなく、金で雇った傭兵やごろつきが大半を占めているようだ。連携などはなく、アシュタヤの力は彼らの単純な移動を気持ちがよくなるくらい翻弄した。
あちこちで怒号が上がっている。前方ではもちろんのこと、僕たちがとっくに通り過ぎた後ろの方でも声が響いていた。発達した通信技術がないこの世界では情報を交換する術は大声で怒鳴るくらいしかなかった。
廊下の先から声はせず、僕は足を速める。
だが、そこで、アシュタヤが戒めるように袖を引いた。壁に背をつけ、曲がり角から顔を出そうとしていたときだった。
「ニール、止まって」
彼女の胸から伸びる青い〈糸〉が燐光を放っている。アシュタヤは眉間に皺を寄せ、囁くように言った。
「この先、左に曲がって少し進んだところに五人、固まってる……ここは覚えてるわ。玄関があったはず」
なるほど、と頷き、自分の迂闊さを恥じた。
古典的な攪乱だ。位置を誤認させ、油断を招くつもりだったのだろう。単純な策に引っかかるところだった。
だが、気付いたところで打開する方法はすぐには思いつかなかった。出口が塞がれている以上、僕たちが外に出る術はない。突き当たりの壁は採光用の窓が備え付けられていたが、一人がようやくくぐれるくらいで、二人が脱出するまでには幾分か時間を要するのは明白だった。
すぐそばに光があるのに――僕は歯噛みし、嵌め殺しになった窓ガラスを睨む。その奥には幹の太い木がいくつか並んでいるだけだ。出られさえしたら何とかなるというのに。
「階段の場所は分かる?」
「確か玄関のそばだったと思うけど……でも、だめ。上にはギルデンスさまがいるわ」
「……正直に言うけど、正面突破は無理だ。五人同時に勝てる自信なんてない」
言いながら無力感に苛まれる。しかし、打ちひしがれている余裕もない。今もなお、敵は屋敷の中を走り回っているのだ。これ以上この場に留まっていたらすぐに見つかってしまうだろう。
時間がない。僕は舌打ちを堪え、必死に頭を回転させる。
目の前にあるのは無慈悲な壁だ。煉瓦造りのそれを壊せるほど質量のあるものは周囲になく、僕のサイコキネシスも通用しないのは火を見るより明らかだった。
焦りが募る。どうすればいい、どうすれば――
「――私が囮になる」
「ばっ」馬鹿なことを言うな! と大声が出そうになった。「なんできみがそんなことを」
「違うの、犠牲になるとかじゃなくて」
「じゃあ、どういうつもりだよ」
「聞いて、ニール。敵はみんな武器を持っているでしょ? 槍とか剣とか……それであの小さな窓なんてくぐれないわ。私がさっさと外に出てしまえばあの人たちは内側からは追って来られない」
「そんなの、武器を捨てればいい話じゃないか。大体、気付かれた瞬間に、あいつらは二手に分かれるよ。外から追い詰める方と内から追い立てる方に」
「それなら好都合じゃない。この狭い廊下で、武器のない人相手なら玄関前で五人を相手にするよりも望みはあるでしょ。内側の敵を掃討したら、戻ってくる選択肢だってとれる」
「そうかもしれないけど……きみが捕まらない保障はない」
「大丈夫。何本も木が植えられているから私のそばに近寄るのも一瞬、というわけじゃない……でしょ?」
そう言ってアシュタヤは気丈な笑顔を見せた。遅れて僕も笑みを作る。
「……いや」
解決策の萌芽――彼女の言葉は僕の中で明確な輪郭を持ち始めていた。
あるじゃないか。
煉瓦造りの壁を崩せるほどの質量と硬度を持った物質――芽生えた一筋の光明に僕は口を結ぶ。
窓の外に並んでいるのは立派な樹木だ。僕はその中のいちばん近くのものへと〈腕〉を伸ばした。絡みついた若草色は蔦を彷彿とさせる。
――木は生き物か?
その問いにこの国の人々は迷うことなく頷くだろう。彼らの根底にあるのはアニミズムで、自然の破壊を快く思わないからだ。
だが、僕にとっては違う。樹木とは装置であり、素材に過ぎない。フェンと一緒に行った大岩除去の依頼、あの場で僕は大岩をはね飛ばし、多くの木々をなぎ倒した。それでも、僕の脳につけられた刑罰装置は作動しなかった。
だから、きっと木を引っこ抜き、力の限り煉瓦の壁にぶつけたとしても、刑罰装置は僕という機能に影響を及ぼさないはずだ。
短く息を吐く。〈腕〉に力を込める。みしみし、と地面が揺れる感覚と根がちぎれる感触が伝わった。
「おい、なんだ、この音!」
エントランスから泡を食ったような声が響いてくる。
敵は間もなく、音の発生地点を確認しに来るだろう。
それまでに、壁に穴を開けなければならない。一発だ。何度も叩き付けている時間などない。一発で決めるんだ。
僕は歯を食いしばり、木を持ち上げた。〈腕〉につられて僕の身体も動く。痛めた右手が上がる。葉のさざめく音が聞こえる。射程限界の六メートルを超え、木は高く持ち上がった。
迫り来る敵の足音。通路の奥を覗き込む。武器を持った男たち、彼らは並んだ窓の一つから宙高く浮遊する木を目にして、足を止めた。
アシュタヤの手が背中に触れる。それだけで力が湧いてくる。
そして、僕は思いきり右手を振り下ろした。その動作に従い、樹木を煉瓦の壁へと突き刺さった。
震動が爆ぜ、轟音が邸宅の中に満ちる。煉瓦とガラスの破片がぱらぱらと音を立てている。薄い砂埃の向こうで敵は固まり、唖然としていた。警戒と狼狽で身動きが取れなくなっているようだ。
今しかない。僕は身を竦ませているアシュタヤの手を引っ張り、壁にできた穴へと走った。広がった窓枠へと滑りこませ、外に抜ける。
その瞬間、清冽な空気が身を包み込んだ。空の端は橙に染まり始めている。
「走るよ!」
アシュタヤの返事を待たず、僕は進んだ。木々と壁の隙間をすり抜け、通りを目指して駆けていく。
「止まれ!」
止まれるものか。
ナイフを片手に目の前に躍り出てきた男を、〈腕〉で薙ぎ払う。蛇のようにのたうつ〈腕〉は男をすくい、天高く舞い上げた。
苦し紛れに男が投げたナイフが僕の左太ももをかすめる。熱した砂で擦られたかのような感触がじわりと滲んだ。回転して飛んでいく短刀はそのまま石の塀にぶつかり、からん、と音を立てて地面に転がった。
後ろからは敵が追ってきている。立ち止まっている暇はない。門を開け放ち、僕たちは微かな喧噪が届いている通りへと抜け出した。道行く人は少ないが、ここは軍部地区だ、襲ってくるほど考えなしではないだろう。
――脱出は成功した。
なのに、短剣の転がる音がいやに耳に残っている。この、胸に貼りついている不安感は、なんだ?
〇
その不吉な予感が形となって僕に追いついてきたのは邸宅を離れ、大通りを走っていたときだった。
祭のおかげで通りを歩く人は多く、奇異の視線をひしひしと感じた。軍部地区だから怪我をしている人間は珍しくないだろうが、祭の最中で血を流しながら往来を行くのは人目を引く。
怪我の自覚と安堵感は痛覚をよりはっきりとしたものに変えていた。切り裂かれた太腿から血液が流れ、服が赤々と染まっている。アシュタヤが心配そうに見つめてきていて、僕は笑いながらごまかしたけれど、彼女の表情から緊迫が取り除かれることはなかった。
「城なら治癒術士がいるから、ニール、そこまでがんばって」
襲ってこないはずだ、と思っていても確証がなければただの期待だ。僕もアシュタヤと同意見で、城に向かうつもりだった。
つもりだったのに、足が動かなかった――痛みにではなく、後悔で。
僕は近くにある露店から目を離すことができない。売られているのは武器のようだった。軍で使われなくなったものを払い下げているのだろうか。地べたに敷かれた布の上、ナイフや剣などが几帳面に並べられていた。
――ナイフ。
「ニール? ……怪我が痛むの?」
「いや、そうじゃなくて……」振り返り、追っ手がいないことを確認する。「きみから借りた短剣を忘れてた」
「あんなもの! 命に比べれば何でもないでしょう!」
「でも、家宝なんだろ?」
「ニール、落ち着いて! あんなのただの道具じゃない!」
「ただの、じゃないよ」
僕は思い出す。あの白く美しい短刀の柄に刻みつけられていたレリーフ。この世に二つとないような精巧な彫刻――。
「ねえ、アシュタヤ。あの短剣に……きみに関連づけられるものがあったりしないよね」
「え」
アシュタヤの表情が強張り、青ざめていく。
ああ、そうか。
僕たちは未だ逃げ切れていないんだ。
敵の作り上げたストーリーには、まだ続きがある。
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