20 短剣の行方

 アシュタヤはあの短剣を肌身離さず持っている、と語った。

 それはいつからだ? 親元を離れたときには既にそうだったのか? ラ・ウォルホル戦役の時は?

 詳しい事実を聞こうとは思わなかった。予想はつく。かつてアシュタヤの護衛についていたギルデンスが敵に情報をもたらしたのだろう。考えるべき問題はアシュタヤと結びつけられる短剣が今、敵の元にあることだ。

 一本いくらで売られている短剣とはわけが違う。カンパルツォの庇護下にある彼女の短剣が持つ意味は大きい。


 往来の中央で僕は立ち尽くす。

 どれだけ時間が過ぎただろうか、いつまで経っても追っ手はやってこなかった。

 その事実が僕の危機感を裏付けているように思えた。

 もし、と思う。もし、今、あの邸宅内で口封じが行われていたとしたら――、その場にあの短剣が残されていたとしたら。いや、残されていたならまだいい。血液に塗れたまま自警団の元に届けられたり、あるいはもっと重要な人物の殺害に使われたとしたら、最悪だ。


 大衆の歩道に真実が落ちていることは少ない。たった一本のナイフがアシュタヤに、あるいは彼女に近しい人間に容疑をかけるだろう。状況証拠も揃ってしまっている。所有者の明確な凶器、ギルデンスとともに城から姿を消したアシュタヤ、僕という負傷者を連れて逃げる姿もそうだ。あらゆる客観的事実が彼女を追い詰める。

 その一連の予定調和の責はカンパルツォにも及ぶはずだ。

 ほんの数百グラムの金属が二十年以上にも及ぶ彼らの決意や計画を断ち切ってしまう可能性だってある。少なくとも何らかの疑いの目が向けられるのは間違いがない。

 僕は目を瞑り、ゆっくり息を吸った。

 身体のあちこちが痛む。抉られた肩、治りきっていない背中の擦過傷、切り裂かれた太腿、石弾を当てられた足首。けれど、どこよりも鮮烈な痛みを神経へと送り込んできていたのは僕の心と言うべき部分だった。

 逃げることは敗北ではない。だが、逃げてはならない場面が存在する。


「アシュタヤ」と僕は、小さな声で言った。「ちょっと忘れ物を取ってくる。きみは城に帰って、フェンを呼んでくるんだ」

「ニール!」

「ついてくる、なんて言わないでくれよ。わざわざ敵の巣窟に戻るんだ。ただでさえ僕には逃げることしかできなかった。きみを守る自信なんてない。幸い、追っ手は来てないみたいだからきみの足でもきっと城まで逃げ切れるよ。むしろ、手負いの僕がいない方が速いかもしれない」


 これ以上ない理論武装のつもりだった。あの館で口封じが現在行われている確証もない。敵は次の作戦へ向けて体勢を整えているだけかもしれない。あの忌まわしい邸宅にまだ悪意が溢れていたとしたら、のこのこと彼女を連れて戻ることはできなかった。

 けれど、僕の必死の説得を、アシュタヤは極めて軽快に拒否した。


「何言ってるの、ニール。私も行くから」

「あ、あのさ、アシュタヤ、冷静になってくれ」


 僕の狼狽をよそにアシュタヤの意志は固い。彼女は首を振り、自身の決定を力強く告げてきた。


「私も戻る。これは絶対に曲げない」

「アシュタヤ、ちょっとは考えてくれ! きみが戻る意味なんてないんだ。わざわざ敵のいるところに行くなんて馬鹿げてる!」

「それを言うならあなただってそうじゃない」

「それとこれとは、話が違う!」


 なんでわかってくれないんだ!

 その言葉が喉元まで出かかったときだった。

「どうしてわからないの?」と彼女は目を伏せた。僕は戸惑い、言葉を飲み込む。アシュタヤの顔が上がる。

 強い意志を宿した瞳に、気圧された。


「わ、わからない、って何のことだよ」

「あなたは私を守ってくれた。言い換えれば、あなたがいなかったら私はたぶんまだ捕まったままだった。逃げることもできなかったわ」

「それは……いや、でも、それは元々僕が不用意に外に出たから」

「ああ、もう、そこまで話を蒸し返さないで。ややこしくなるし、大体、あなたのその選択は最善ではなかったかもしれないけれど、ベルを鎮めるためには悪い手段じゃなかったでしょ。私の話を聞いて」


 彼女は焦れったそうに僕の腕を掴む。僕はその温度に思わず口を噤んだ。


「私が言いたいのはばらばらになるのは危ない、ってこと。確かに今はそばに追っ手はいないけれど、もし、城の前で待ち構えられてたら私にはどうすることもできないわ。ニールの方だって不意を突かれるかもしれない。かといって二人で城に戻ってそれから誰かを連れて向かったら手遅れになる。そうでしょ?」


 それは、そうかもしれない。僕は反論する材料を見失う。冷静になればなるほど、彼女の意見の方が正しいように思えた。

 しかし、だからといって「はい、そうですか」と賛同することもできなかった。ここは軍部地域だ。軍の施設に逃げ込み、城に伝令を送れば彼女の身の安全は保障される。その間に僕が彼女の短剣を取り返せば――。

 そこまで考えて、僕はようやく、気がついた。

 僕と彼女との間にある重大な齟齬。

 自分の至らなさに呻きそうになる。


 アシュタヤは、僕を守ろうとしている。

 僕は彼女を無事に送り返すことだけを考えていた。でも、ああ、アシュタヤは違うのだ。ウェンビアノやフェンたちのようにさりげなく僕の歩く道を舗装するのではなく、彼女は必死さをさらけ出して、僕自身を守ろうとしている。

 どうりで困惑するわけだ。

 僕はこうやって、誰かに守られたことなど一度もなかったから。


「……ニール、あなたは護衛としては半人前かもしれない。でも、私だって同じ。二人でようやく一人前なら、力を合わせましょう。本当は怪我をしているあなたにこれ以上無理をさせたくないけれど、あなたも頑固だから聞かないでしょう?」


 これほど切羽詰まった状況の中、アシュタヤは驚くべきほどに落ち着いた苦笑を僕に向けてくる。そして、行きましょう、と僕の手を引いた。

 もはやその手を離す理由を見出せず、僕は足を踏み出す。


      〇


 予想が的中したのが幸運なのかどうかわからないけれど、結局刺客が襲ってくることはなかった。アシュタヤの広範囲精神感応の網には一向に悪意の魚群はかからず、僕たちは客人用に作られた邸宅の前に到着した。

 周囲は不思議な静寂に満ちている。遠くから聞こえる祭の喧噪だけがさざ波のような慎ましさで夕日に溶けていた。魔法石の照明があたりにぽつぽつとつき始めていて、青白い燐光が橙と混ざり、街並みを舐めている。向かい合う邸宅の門は野獣の口のような不穏さがあり、喉元に牙を突きつけられているようにすら思えた。

 アシュタヤも同じように感じたのだろうか、繋いだ手の指がかすかに震えている。


「……大丈夫?」

「うん……でも、ニール」

「どうかした?」

「私たち、間違えてないよね。この屋敷で間違いないのよね」


 間違いであるはずがない。暗くてわかりづらいが僕の身体から滴った血液が通りから塀、芝生を通って邸宅の向かって左側、木々の隙間へと続いて――

 ――なんだ、あれは。

 点々と続く血液の道しるべ、その途中に、見覚えのない夥しいほどの血だまりが残されていた。そこから引き摺られたような跡が玄関まで伸びている。

 あそこは……〈腕〉ですくい上げた男が倒れていた場所ではなかったか?

 認識は明瞭な恐怖を呼ぶ。僕たちがこの邸宅を飛び出してから十分ほどしか経っていない。

 その間に一体何が起こったのだろうか。夕日に照らされた血液は赤と黒をいっそう深くしている。あの血液が一人の人間から流れ出たものだとしたら、生死に関わるほどの量に達しているはずだ。

 地の底から這い上がった亡霊の指が背筋をなぞる。唾を飲み込む。

 そこでアシュタヤが告げた真実は、か細く、冷たいものだった。


「ねえ、ニール、おかしいの……、この屋敷、人が三人しかいない。ギルデンスさまとオルウェダ卿ともう一人しかいないの……」


 ――口封じが行われている。その確信に筋肉が硬直した。

 だが、それは同時に時間が残されていないことも示していた。


「行こう……」


 門を押し開き、石畳の上を進む。赤黒い血液が靴の端に触れる。ぴちゃっ、と跳ねる液体の音には粘り気があり、鼓膜から離れようとしなかった。

 扉を開く。隙間から灯りと臭いが漂ってくる。何の臭いか、想像がつかなかったけれど、正確に言えば一瞬這い出た想像を必死で打ち消していたのだけれど、扉を開け放った瞬間、僕は絶句した。

 邸宅のエントランスにあったのは、大量の「死」だった。

 絶命、そんな単語が抑えきれない圧力でのし掛かる。エントランスを埋め尽くし、池のようになった血液、黄ばんだ脂肪が光る肉の破片、鮮やかな脳漿、骨と臓器。死の尊厳などどこにもない、苦悶の表情のまま固まった男たちの顔、顔、顔……。

 見覚えのある男たちばかりだった。僕たちに襲いかかってきた男たち。


 言葉を失ったまま、こみ上げる吐き気を抑えることに注力していた最中、僕は目にする。目にしたことを後悔する。

 正面にある階段、そこに寝そべっていた死体には、あるべきはずの顔がなかった。

 頭部の中央にぽっかりと空いた赤黒い穴が、こちらを見つめている。

 気付けば僕は膝をつき、胃液を吐き出していた。

 胃が握りつぶされているようだった。酸味が食道を削り、舌を裂く。全身から汗が噴き出す。手足に力が入らない。口から漏れる黄色がかった吐瀉物は赤い絨毯の上を跳ね、床に突いた手の甲に落ちた。


 なんだよ、これ。

 目にしたこともない残酷な光景に涙が溢れた。脳がくらりと揺れる。

 理解できない。僕たちが通りに出たあの十数分で、どうすればこれほどの生命が失われるのだ。

 床を転がる鋲のようなものが灯りを反射している。ギルデンスの風銃に込められていた弾丸だろうか。円錐状だったはずの弾丸は尖った部分がひしゃげ、歪んでいた。

 叫びが漏れそうになる。必死で堪えると、再び嘔吐感がせり上がってきた。


「ニール、気を確かに持って……大丈夫、大丈夫だから」


 アシュタヤの柔らかな手が背中をさする。彼女はぎこちない笑みを浮かべ、僕の肩に顔をつけた。


「アシュタヤ……君は平気なの?」

「……慣れてるから」と彼女はとても悲しそうな声で応えた。「早く短剣を回収して戻りましょう。こんな場所、いつまでもいるところじゃないわ」

「ああ、そうだね……」


 口元を拭い、何とか立ち上がる。肩の痛みが増していた気がした。「こうなってしまっていたかもしれない自分」が警鐘を鳴らしている。ずきずきとした痛みが血流に沿って強く疼いた。

 僕たちは足下に転がっている死体を見ないように階段を昇った。重要な道具をごろつきたちがいた場所に放っているはずもない。まだ人の命が動いている二階に、おそらくはオルウェダかギルデンスが持っているはずだ。

 忍び足になる意味すら感じず、僕たちは真っ直ぐにオルウェダのいる一室を目指した。アシュタヤが指さす先に両開きの扉がある。


 開きっぱなしの扉の奥からは絶え間ない命乞いの声が響いていた。耳をつんざく悲鳴がこだましている。幽界の腕を展開して慎重に部屋の中を覗き込み――その瞬間、「あ」と声が漏れた。

 自分でもどこからそんな不用意な声が漏れたか、わからない。

 でも、理由ははっきりとしている。

 目の前で一つの命が失われたからだ。

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