18 逃亡

「逃げる、って、どうやって?」アシュタヤは立ち上がった僕を見上げて声を潜めた。「鍵もないのに」

「鍵なんていらない」


 鉄格子を掴んで力を込める。超能力は精神に多大な影響を受け、精神は肉体に依存している。今の体調では鉄格子そのものを壊すことはできないかもしれないが、鉄格子と岩の接合部なら別だ。サイコキネシスで思い切り引きちぎれば、道は開ける。

 僕は鉄格子に顔をつけ、周囲を確認した。左手に細く、短い通路があり、その奥に扉があった。たったそれだけの空間。扉の外に番兵を置いているのかもしれないが、木張りのため、外の様子はわからない。

 アシュタヤの方へと向き直る。


「ところで……、アシュタヤ。きみの力は地形だとか、建物の構造までわかったりする? そういう人もいたんだけど」

「ううん、私の力は人の大まかな感情を読み取るだけ……あとは、そうね、その人がどこにいるかくらいはわかるかな」

「範囲はどれくらい?」

「ええと、調子がいいときはバンザッタ城くらいは」


 まさか囚われているこの場所があの城以上の面積ということはないだろう。オルウェダがバンザッタにそれほどの施設を用意できるとは思えないし、魔法を使って地下に建造していたら辺り一帯の建造物に影響を及ぼすはずだ。

 と、そこまで考えたところで、いちばん初めに聞いておくべき質問があったことを思い出した。


「そうだ、高さはどうなの? ここは地面より高い? それとも低い? 人の数で分かるはずだ」

「え、えっと、ちょっと待って」


 アシュタヤは目を瞑り、俯く。彼女の胸から伸びる青い〈糸〉が強く光る。ざわ、と耳の奥で音が鳴った。彼女の感覚が僕の心臓のあたりを撫で、通り過ぎ、周囲に広がっていく。

 彼女は口を真一文字に結び、眉間に皺を寄せている。可能な限りの範囲まで感覚野を広げているのだろう。


「どう?」


 うつろに開いた目を地面に向けたまま、アシュタヤは応える。「地下、ね。私たちと同じ平面上には人はいない……」

「そっか」


 この石壁を破るというのも現実的ではない、というわけだ。器用な能力者ならスコップやツルハシで掘れたかもしれないけれど僕には無理だし、だいいちそんな道具などどこにもない。

 改めて、他の質問を続ける。


「じゃあ、地上までは一層だけ?」

「たぶん……、ここを出てすぐ、階段か梯子があるんだと思う。そこに私の嫌いな感情があって、その人と同じ平面上に楽しそうな人の流れがあるから……でも、そこにも人はあまりいない」

「梯子はないだろうね。あの肥えた豚が梯子を伝って地下に降りるなんてできるとは思えないし……じゃあ、人の流れがある場所まではどのくらい?」

「結構距離があるみたい……直線で五十エクタはあるかな」


 エクタ――頭の中で計算する。一エクタがおおよそ七十センチメートルだから、三十五メートルくらい……少し面倒だ。

 僕は一度腰を下ろし、爪で地面を掻いてみる。僕と彼女の間から理解の齟齬をなくしておくために図を描こうとした。だが、岩盤は硬く、ちょっとした傷もつきそうになかった。アシュタヤの短刀もここにはないし、傷をつけられそうな適当なものはあたりに見当たらない。口の中もからからに乾いていて、唾液も満足に出そうにはなかった。

 仕方ない。


「アシュタヤ、ちょっと目を瞑って」

「え、あの」

「ほら、早く」

 僕の催促に、アシュタヤは瞼を閉じる。「これでいい?」

「見えてないよね」

「うん」


 よし、と短く言い、僕は歯を食いしばった。呼吸を止め、全身を強張らせる。それから、思い切り左手の指を抉られた右肩の傷へと突き刺した。


「うぐっ……!」


 痛覚が奔出する。脳髄のあたりで光が明滅する感覚が弾け、額に脂汗が滲む。異変を感じたのか、アシュタヤは目を開き、同時に押し殺した悲鳴を上げた。


「ニール!? 何をしてるの!」

「……図を、描こうと、思って」

「だからって! やめて、傷が広がる!」


 アシュタヤが僕の左腕を掴み、胸元まで引き寄せる。僕の服と彼女のドレスに血が滴り、赤いしみが広がった。


「アシュタヤ、手を離して」

「離しません! 離したら同じことをやるでしょう!?」

「大丈夫……もうやらないから。僕もそこまで被虐趣味はないよ」


 なんとか笑顔を作る。アシュタヤは何か言いたげに強く息を吸ったが、その言葉は声にはならなかった。そっと、僕の腕が開放される。僕は右肩から滴る血液を左手の小指ですくい、地面にいくつかの線を描いた。


「問題は、その人通りまでの大半が道なのか、この建物なのか、ってことだ。前者ならわりと簡単に逃げ出せるだろうけど、後者だったらすごく面倒になる。どう?」

「……」


 アシュタヤは泣きそうな顔で少し思い悩んだあと、一度俯いた。再び声をかけようとすると、彼女はようやく顔を上げる。そこには現状を嘆く弱々しい表情はなく、オルウェダに向けたような、だが、柔らかな力強い眼差しがあった。


「……ニール、無事に帰ったらあなたには言わなければいけないことが山のようにあるから、覚悟しておいて」

「それは楽しみだ」


      〇


「私たちがいるのはかなり大きな建物よ」とアシュタヤは断言した。「人の流れを感じればすぐにわかる」

「どのくらいか、分かる? あとはその大きさの建物がある場所とか」

「ウェンビアノさんの斡旋所より大きいかもしれない。場所は、ええと……たぶん、軍部地区」

「どうして?」

「農業地区の人よりも周囲にいる人の心の形が角張ってるから」

「そんなことまでわかるんだ」


 広範囲精神感応での人格把握は概して不明瞭だと教わってきただけに僕の驚きは大きかった。精神の形状で職業の考察をするなど聞いたことがない。

 目をぱちくりとさせていると、アシュタヤは静かに〈糸〉の光を強めた。


「ずっと軍にいたもの……。それに、他から来た貴族が催し物の見物以外で農業地区に出入りすることはほとんどないの。……だから、ここの場所も心当たりはあるわ。外部から来た貴族が使うのは別荘か客人用の邸宅ね」

「別荘で人死にが出たら真っ先に追求が向かいそうだけど」


 オルウェダは、きっとアシュタヤの殺害の責を僕か、現実には存在しない賊に覆い被せる腹づもりだろう。個人の別荘を使ったならば、奴の思い描いたストーリーは完成しないはずだ。貴族同士で汚名の被せ合いをするようにも思えない。


「なら、たぶん客人用の邸宅かな……、使用は伯爵に届けを出さなければならないけれど、名前なんていくらでも改竄できるだろうし。客人用の邸宅は確か三つあるけれど、どれも同じ作りをしていたはず」

「アシュタヤはまともに来たことある?」

「昔、一度だけ、正確な間取りは申し訳ないけれど覚えていないわ……あ、でも」


 アシュタヤは何か思いついたかのような顔をして、目を瞑った。〈糸〉の光が強まる。彼女はしばらく瞑目してから小さく頷き、自身の髪に指を絡ませた。

 ぶちっ、と音がした。


「ちょっ……!」


 振り下ろされたアシュタヤの手から十本近いの黒い髪が垂れている。引き抜いたのだと悟り、狼狽したが、彼女は涙目のまま痛みを堪え、笑顔を作った。


「図、いるんでしょ。人の移動でぼんやりとは分かったから」

「でも、髪の毛を抜くなんて」

「あら、どの口がそれを言うの?」


 僕は言葉に詰まり、何も言えなくなってしまった。アシュタヤの目には未だ若干の批難が残っていて、彼女はそれ以上何も言わなかったけれど、怒鳴られているような気分にもなる。

 それを知ってか知らずか、アシュタヤは「この話はおしまい」と打ち切って、髪の毛を細かくちぎり、地面に並べ始めた。朧気な情報と推測から彼女は僕たちの逃走経路を作っていく。


「動かない人も多いから参考程度にして欲しいけど……こんな感じね。多分、入り口はこの辺だけど」アシュタヤは血と髪の毛で描かれた不十分な間取り図の一角を指さす。「人も多いみたい」

「そっか……じゃあ、壁の材質とかは? 木の壁だったら何とかして壊せるかもしれない」


 硬くて重いもの――例えば大きな机だとか、そういった類のものならあるはずだ。


「客人用の邸宅はぜんぶ煉瓦造りだったと思う。窓は多かったような記憶はあるけど」

「なるほど……」


 落胆を隠す。

 一つの大きなもの、これは僕の認識次第のかなり曖昧な基準であるのだけれど、例えば壁であるとか地面であるとかそういったものに対してはサイコキネシスは有効には働かない。認識がぼやけるのだ。

 どれだけ強い力を持ってしても、逃れられない認識の閾値が存在する。


「まあ、窓には期待しないでおこう。どうせ僕たちがいるのは奥の方なんだろ? それに全面に窓があったら襲撃され放題だろうし」

「そうね、あと話しておくことは相手の人数くらい?」

 僕は一瞬悩み、頷いた。「そうだね、何かあったような気もするけど」

「ニール、不安になることを言わないで」

「ごめん」

「敵の人数は二十人くらい……、興奮と悪意で心がささくれ立ってるわ。そのうちの半分が通りまでの間にいる感じね。あとはたぶん二階かしら、オルウェダ卿と彼のそばにいる何人か」

「それとギルデンスか」


 その名前にアシュタヤの表情が一瞬、強張った。だが、それもすぐに消えた。不安を露わにするのを忌避したのだろう、彼女は平然とした声色で、言った。


「ええ……、彼も今は二階にいるけれど、鉢合わせないことを祈るだけね」

「最悪、見逃してくれたら助かるんだけど」

「そんなこと、あり得る?」

「もしかしたら、ね」


 ギルデンスはオルウェダの一派に協力はしているが、まったく目的が違う。あいつが僕たちを逃がした方が利益になると思ったらそうするだろう。

 憎しみと子どもは手間と時間をかけた方がよく育つ――。ギルデンスの言葉が脳裏を過ぎった。もし、アシュタヤと僕がここで殺されたらカンパルツォの憎しみの炎は燃えさかるだろう。一方で、僕たちが逃げたら彼に対抗する貴族たちの怒りは強度を増すはずだ。ギルデンスが天秤のどちらの皿に錘を載せるか、それ次第で彼の動向は変わる。

 まったく、やっかいな奴が敵にいたものだ。

 僕は地面に書かれた血の絵を強く睨む。所々がかすれた血の線は僕たちの命脈を表しているようで不安が募る。それを追い出すべく、頭を振って立ち上がる。


「じゃあ、アシュタヤ。準備はいい?」

「うん……」


 アシュタヤは小さく頷き、僕の左手を握った。僕も彼女の手を握り返す。細くて、白くて、冷たい彼女の指。恐怖はあったけれど、彼女の手を握っていると、とても安心した。内臓のどこかから生成された勇気が血液に運ばれ、全身に充満する。

 視界が一瞬、若草色に、染まる。

 肩甲骨から這い出た〈腕〉が鉄格子へと伸びていく。


「ニール」

「……どうしたの?」

「帰ろうね」

「……うん」


 アシュタヤ、僕は絶対にきみを城へと帰す――僕がどうなろうとも。

 その決意を言葉にはせず、僕は〈腕〉に力を込めた。

 鉄が軋む。岩がこすれる。破片が地面を叩く。そして、轟音を立て、鉄格子が引きちぎられた。


「走るよ!」


 躊躇している暇などない。鉄格子と壁の間にできた隙間をくぐり、扉を目指した。おそらく閂がかかっている、僕は〈腕〉を伸ばし、思い切り扉を殴りつけた。蝶番が弾け飛び、木片が宙を舞う。僕たちは倒れた扉を踏み、階段へと足をかけた。上から差し込んでくる光は四角形に切り取られていて、その中に男の姿があった。見張りだろうか、手には槍が握られている。

 その切っ先が煌めくよりも早く、アシュタヤが鋭く叫んだ。


「敵!」


〈腕〉が意志よりも早く、反応する。

 肩甲骨から伸びる若草色の光は壁や天井にぶつかり、散乱を繰り返しながら見張りの男へと向かっていく。構えられた槍を突き抜け、目標に接触する。

 同時に僕は男の胴体を掴んだ――つもりだったのに、感情に呼応した〈腕〉は鉄格子を引きちぎったのと同等の力で男を握りしめていた。幽界の腕は彼の骨を、両手では足りない数だけ、へし折った。

 嫌な感触と濁った悲鳴が背筋に染みこむ。男は宙に浮いたまま、苦悶の声を漏らし、手足をばたばたと動かした。その表情を目にしないように努める。

 迷うな――重要なのは何だ?


 繰り返し自分にそう言い聞かせ、僕は進む。階段を昇りきったところには十メートル四方の空間があった。中央に机が置かれていて、上に飲みかけのグラスと短剣が載っている。その奥で、短髪の男が腰を浮かせていた。


「脱走だ!」彼は短剣をたぐり寄せつつ、叫ぶ。「誰か来てくれ!」


 僕はそいつ目がけて握りしめたままの男を投げ飛ばした。上手く制御できなかったせいで男の身体は机の上で一度跳ねたが、幸運にも短髪に向かって進み、もろともに壁へと衝突した。


「ニール、左!」


 アシュタヤが左にある扉を指さす。彼女の指示に遅れて、扉が開かれようとしている。


「邪魔だ!」


〈腕〉が、蝶番を支点にした円運動を破壊する。

 弾け飛んだ木製の扉は新たな敵を巻き込み、壁へと激突した。ぐえっ、とくぐもった声が床を跳ねる。倒れ伏した男は頭を打ち付けたのか、動きを止めた。

 増援が来る前に離れなければ。

 アシュタヤの手を引いて廊下へと飛び出す。そして、豪奢な赤い絨毯を踏みしめながら事前に決めておいた方角を目指した。

 通路は幅が三メートルほどしかない。挟まれたら――。

 アシュタヤが僕の腕を引っ張ったのはそのときだった。


「来る!」


 正面に伸びる長い廊下、その曲がり角から大男が現れる。先ほど牢を訪れた屈強な男のうちの一人だった。男は僕の姿を認めた瞬間、素早く槍を構え、突進を始めた。

 危機感が募る。全身が粟立つ。

 考えている暇はない。僕はアシュタヤを引き寄せ、右へと跳ねた。

 槍の穂先が僕たちのいた空間を抉る。その速度に押し殺していた恐怖が噴出した。負傷している肩が壁にぶつかり、叫びが喉を裂き、外に飛び出そうになる。

 堪えろ、堪えろ、堪えろ堪えろ堪えろ!

 必死に悲鳴を飲み込む。全身に冷たい汗が滲む。神経を握りつぶしているかのような痛みが肩を噛んでいる。だが、泣き言を喚いたところで待っているのは残酷な未来だ。


 僕は咄嗟に体勢を立て直し、距離を開けた。アシュタヤを後ろへと下がらせ、構える。慣れない構えであるのが明白だったのか、男は嗜虐的な笑みを浮かべた。

 時間をかければかけるほど、不利な状況へと追い込まれていく。

 一瞬でけりをつけるしかないのだ。

 僕はじりじりとにじり寄ってくる男と相対し、息を吐き出した。

 訓練用のものではない、本物の槍――人を突き刺すための刃が僕へと向けられている。その無機質な光に恐怖の蛇が舌舐めずりし、心臓に巻き付いた。心拍数が上昇し、耳の奥で血流の音が響き始める。


 落ち着け、何度も訓練してきたじゃないか……相手は僕の能力を知らない。たとえ知っていたとしても把握できているはずがないのだ。有利なのは僕だ。槍を跳ね上げ、男の身体にサイコキネシスを叩き込む、それだけですべてが終わる。


「前へ向かえ、狭い回廊で向かい合っていると思え……」


 知らず呟いたフェンの言葉が背中を押した。僕が逃げれば、敵の刃はアシュタヤを襲うのだ。唾を飲み込む。恐怖を飲み込む。

 そして、僕は雄叫びを上げ、地面を蹴った。

 男の身体がぴくりと動く。九メートル、八メートル、七、六と近づいた瞬間、男の動作が攻撃へと転換した。

 殺意の点が迫る。だが、これならフェンの突きの方がずっと速かった。僕の〈腕〉は過たず槍をかち上げる。敵の手から抜けた槍は勢いそのまま天井へと突き刺さった。


「な――」


 狼狽が隙を生み出す。僕はがら空きになった男の腹に〈腕〉を叩き込んだ。分厚い筋肉を殴る感触は鈍く、重い。だが、見えざる腕に突き飛ばされた男は受け身すら取れないまま、絨毯の上を転がっていった。

 やった――その歓声を飲み込む。

 強かに全身を打ち付けた男はまだ意識を保っていた。震える腕で身を起こそうとしている。僕は咄嗟に近づき、彼の身体を捕まえた。

 ふわりと浮いた男を床へと叩きつける。

 ひしゃげた呻き声が跳ねる。男は口から空気と血反吐を吐き出し、うつ伏せになったままぴくりとも動かなくなった。


 その光景に背筋が凍る。

 興奮が引いていき、我に返る。

 サイコキネシスによる暴力――意味などないのに僕は身構え、祈った。やらなければ殺されていたのだ。

 だから、頼む、頼む! ここで倒れるわけにはいかないんだ!

 引き延ばされた一瞬は長く、永遠のようにも感じられた。だが、危惧していた制裁は一向に訪れなかった。どうやら刑罰装置は今の攻撃を正当な防衛だと判断したようだ。荒く息を吐き出し、冷たい汗を拭う。


「どうしたの?」とアシュタヤが駆け寄ってくる。彼女は顔を覗き込み、僕の背中に手を当てた。「大丈夫?」

「何でもないよ……行こう」

 精一杯の強がりをみせ、彼女の腕を掴む。床に臥した男を飛び越え、右へと曲がり、僕たちは前進を再開した。

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