16 六年前、戦いの呼び水

 この世でもっとも深い絶望は、侮辱されることでも肉体的に虐げられることでもない。道を真っ直ぐ歩けなくなることだ。精神や肉体の傷はいつか治る。誰にも見向きされていなくてもいつかは理解者が現れるかもしれない。だが、歩いていた道から逸れてしまったとき、人はどうすればいいのだろう。自らの意志で方向を変えたのではなく、悪意に満ちた他人によって信じられる道を歩けなくなったとき、僕たちはどうしたらいいのだろう。


 痛みで目が覚めた僕が初めに見たのは無機質な鉄格子でも、所々に黒い血が染みた岩の壁でも、地面に刻まれた魔法陣でもなかった。

 僕の目に入ったのは、膝を抱えて寒さをしのぐアシュタヤの横顔だ。彼女の弱々しい眼差しに、乾いた絶望が黒い塊となって喉元へとせり上がった。

 彼女の道をねじ曲げてしまった――その自覚に呻くと、アシュタヤはこちらに顔を向けた。彼女は僕が目覚めたことを知って本当に嬉しそうに笑った。


「ニール、大丈夫?」

 嘘のない笑顔に罪悪感が深く募る。「アシュタヤ、ごめん、ごめん、僕は」

「ニール、謝らないで」


 アシュタヤはおもむろに首を振って、僕の言葉を遮った。


「私は大丈夫だから。そんなことより、傷は痛む?」

「そんなこと、って……」どうして、そんな顔ができるんだ?

「たかが牢に閉じ込められたくらいでそう落ち込む必要なんてないじゃない。問題はここが冷えるってことくらい」


 彼女の気丈な物言いは確かに絶望を薄らげた。けれど、僕の中に湧きあがってきたのは彼女の軽率な行動に対する怒りだった。守られるべき人間が守られようとしないのは傲慢だ。段々と腹が立ってきて、口にすべきではない言葉が漏れた。


「……きみは、馬鹿だ」


 僕は全身に響く痛みに耐えながら、身体を起こす。特に右肩が、ばらばらになりそうなほど、痛んだ。咄嗟に手を当てると、乾いた血の感触と滑らかな布が手のひらに当たる。出血は止まっていたが、抉れているのか、不自然なへこみがあった。

 ややあって、アシュタヤは静かに訊き返してくる。


「……今、何と言いました?」

「きみは馬鹿だ、と言ったんだ! 意味もなく自分の身を危険に晒すなんて、どういうつもりだよ!」

「自分の身を危険に晒したのはあなたも同じじゃないですか」

「きみは僕と立場が違うだろ! どっちが重要かくらい分かってるはずだ!」

「重要じゃない人がこの世にいますか?」

「詭弁だ! 立場も、力も、きみは必要とされているじゃないか! 僕のためにこんなとこに来る理由なんてなかった!」


 一瞬の静寂が訪れる。寒々しい牢の中では沈黙がやけに重く感じた。罪悪感と不甲斐なさで心がばらばらになりそうで、僕は奥歯を噛みしめたままアシュタヤを睨む。

 彼女は「それは」と呟いた。


「ニール、それは、本気で言っているの?」


 僕が聞いたことのない、声色。そこには怒りなどではない、深い悲しみがあった。


「この世でもっとも辛いのはどれだけ伝えても理解しようともされないことね……」

「……アシュタヤ?」

「ねえ、ニール、あなたは自分の価値を知らないの?」


 僕の価値?

 この冴えない超能力に彼女が命を賭すだけの価値があるとは思えなかった。たとえあったとしてもこの状況だ、底なしに下落している。


「僕の超能力なんて魔法や剣で代替が利くじゃないか」

「あなたは本当に馬鹿ね」

「え」

「あなたの超能力が惜しいから、私はギルデンスさまに従ったとでも思っているの?」

「他に何があるっていうんだよ」


 僕はアシュタヤのじっと目を見つめる。彼女はわずかにも逸らすことなく、視線を返してきた。


「あなたは私の初めてのお友達だもの」


 友人を助けたいと思うのは当たり前でしょ? とアシュタヤは笑った。

 僕には到底信じられない言葉だった。別に、人は裏切るものだ、とか利己的な生き物だ、と斜に構えた見方をしていたわけではない。ただ、その感情が僕に向けられていると言うこと、それ自体が信じられなかった。

 冷たい石畳がじわりと暖かくなる。


「あなたが私に逃げるように言ったのも、同じことじゃないの?」


 そうかも、しれない。

 アシュタヤにギルデンスの武器、いわば風銃を向けられたとき、頭の中には護衛の仕事だとか無抵抗の女の子に対して攻撃したことだとか、そういったちゃちな義憤はこれっぽっちもなかった。

 僕が抱いていたのはアシュタヤという個人に悪意を向けられたことへの怒りだけだった。

 違うの? と彼女はまた、寂しげな目で僕を見る。

 途端に罪悪感が形を変える。もはや否定する意志は消え失せていた。


「……ごめん、アシュタヤ。馬鹿は僕の方だった」

「……うん」

「ありがとう……ごめん、ありがとう」


 腹の底から昇ってくるむずがゆさに、僕は彼女から顔を背けて、ありがとう、と繰り返した。


     〇


 少ししてから、傷は痛む? とアシュタヤが改めて僕に尋ねた。


「死ぬほど痛いよ。腕がもげそうだ」

「問題は消毒できないことね……止血はしたけれど、菌が入っていたら最悪、抉ってから治癒魔法を使わなければならなくなる」

「最悪? 治癒魔法を使うことがなんで最悪なの?」


 アシュタヤは魔法が不得手らしいから彼女に頼むつもりはなかったが、そんな便利なものがあるならすぐに使うべきだ。背中の擦過傷はきっと治癒魔法を使うまでもない程度なのだろう。だけど、この腕の傷はそれとは比べものにならない。


「治癒魔法は魔力で強制的に自己治癒力を高める術で、命に関わる怪我などには使うべきだけれど、長い目で見たときに回復力が落ちてしまうの」

「のべつまくなしには使えないってことだね」

「そう、でも、ニールの怪我は心配ね……。早くお医者さまに見せないと」

「さっきの男にでも頼む?」

「冗談を言えるならとりあえずは安心だけど、さて、これからどうする?」

「え」僕は耳を疑い、思わず訊き返した。「どうする、ってどうかするつもりなの?」

「だって、いつまでもこんな寒い部屋に閉じ込められてるのもいやでしょう。こんな恰好じゃ風邪を引いちゃうし、あなたの怪我にもよくない」


 外出用のコートすら着ていないアシュタヤは破れたドレスの裾をひらひらとそよがせた。止血のために破ったドレスは膝を覆い隠すほどしかなく、白い太ももがちらりと見えて、僕は赤面する。彼女に見咎められないように、大きな動作で頭を掻いた。


「でも、すぐに救出が来るとは思えない」

「そうね。ギルデンスさまを引き入れているくらいだもの、一筋縄で行くわけがないわ」


 ギルデンス――。その名前を聞いた途端、僕の肩に粘性のある痛みが滲んだ。肉の内側に鉄の棒をねじ込まれるような痛みに顔を顰める。

 あいつは一体なんだったのだろう。少なくとも既得権益を貪る貴族におもねり、金で欲を満たす類の人間には見えなかった。もっと根本的な欲求に従って動いているような存在――だが、その欲求が向かう先など想像もつかない。


「あのさ……アシュタヤ、あいつとは一体どんな関係なの?」


 僕の問いに、アシュタヤは辛い過去を思い返すかのように目を瞑る。言いにくいのなら言わなくてもいい、と言葉を取り下げたが、彼女はゆっくりと横に首を振った。


「話しておいた方がいいと思う……。そして、ニールには彼の恐ろしさを知って欲しい。できれば戦って欲しくないから」

 胸がちくりと痛んだ。「……思い入れでもあるの?」

「この感情が思い入れというのならば、そうね。でも、そういうことじゃないの。彼と戦ったら――きっとニールは死んでしまう」


 アシュタヤは目を伏せ、「六年前」と言った。物憂げな眼差しはここではないどこか遠くへと向けられているようでもあった。


「私が十一歳のときのこと。――エニツィア東部の街、ラ・ウォルホルで起こった戦争の話」


     〇


「私がこの力に目覚めたのは六歳の頃、田舎貴族の一人娘を無邪気に謳歌していた時代でね……当時はこの力がどんなものかわかっていなかったし、両親もそうだったわ。おかしな魔法を使う子どもだ、って思われていたのね。でも、それから五年くらい経って状況が変わってしまった。私の故郷……両親が治めていた土地は猫の額ほどの狭さでね、元々文官の家系だったから領地はとても平和だったわ。けれどその時期、東の国、ボーカンチとの軋轢がとても強くなっていて、国境の町ラ・ウォルホルでは武力衝突が頻発するようになってたの。ラニア領は王都からラ・ウォルホルまでの街道沿いにあったものだから、軍の出入りが激しくなっていてね……私は軍に徴発されることになったの」

「きみが、軍に?」


 アシュタヤは戦いからはほど遠い外見をしている。だから、僕には彼女の言葉が真実であるとは思えなかった。

 しかし、彼女は頷く。


「きっかけはとても些細なことよ。小隊を率いていた人が変わり者で、肩に小さいリスを乗せていたの。でも、ある日、そのリスが逃げ出してしまって」

「君が、そのリスを?」

「ええ。小隊長さんは私のことをとても誉めてくれたわ。そこで私は自分の力について口を滑らせてしまって、それが軍の上層部の耳に入っちゃったみたい。……口が滑った、って言うのも変ね、別に口外しないように言いつけられていたわけでもないもの。……でも、どちらにせよ、私の能力が公になってしまった」


 そこでアシュタヤは一度言葉を句切った。目の光が揺れている。もういい、と制したが、彼女は首を振り、続けた。


「ラ・ウォルホル戦役は便衣兵との戦いでね、その中で他人の位置がわかる力はどれだけ強力か、分かるでしょ?『剣』と、そう呼ばれてたわ。おかしな話ね、自分を守るのも不満足な私が『剣』だなんて……」

「アシュタヤ、もういいよ」

「ほとんど強制的に私はラ・ウォルホルへと連れて行かれたわ。……そのときね、私とギルデンスさまが出会ったのは。あの頃はまだ顔に魔法陣を刻んではいなかった。それ以外の部分はきっと、魔法陣で埋め尽くされていたと思うけれど……ギルデンスさまはね、私を守る護衛隊の一人だったの」


 守、る?

 質量の感じられない言葉に、僕は何も言えない。

 僕を襲った男が、アシュタヤに銃弾を放った男が、かつて彼女を守っていただなど信じたくはなかった。


「信じられないのも無理はないよね」とアシュタヤは苦笑する。「でも、結果として事実なの。私は彼に何度も助けられた」

「結果として?」

「うん……彼の、戦う、という欲求を満たそうとした、結果として。……無理矢理詠唱という手順を消し去った彼の魔法は襲撃してきた敵兵をまるで紙くずのように薙ぎ払っていたわ。体術もかなりのものだったみたい」

「……その、身体に魔法陣を施す、というのは一般的なの?」

「一般的ではないわ。数は少ないけれど彼と同じように魔法陣を身体に刻みつけた人はいる。でも、彼ほど多くの魔法を刻みつけた人はいない。自分で何日もかけて肉を抉るのなんて、そうそうできることじゃないもの」


 僕は自分の肩に触れる。肉を抉る痛み。それを他ならぬ自分の身体で知った今だからこそ、ギルデンスの異常性を肌で感じることができた。

 これを、顔にまで……。

 背筋に氷を当てられたようだ。急速に体温が冷えていく気がした。


「あいつは……一体、なんなんだよ。なんの目的があって、あいつはそんなことを」

「それは私にもわからない。あの人は内乱があればそこに赴き、隣国との戦争があればそこに出現した。ラ・ウォルホル戦役以降のことは知らないわ。ただ、私が見た限り、あの人は戦っているときがいちばん幸せそうだった……」


 ギルデンスは僕のサイコキネシスをまともに食らったあと、戦争を「血湧き肉躍る」と表現した。この肩の痛みの、何倍もの苦痛を己の手で刻みつけて、そこまでして戦う理由はなんなのだろう。この痛みの向こうにどんな喜びがあるというのだ?

 しばらく黙って考えたが、一向に光が見える気がしなかった。

 多くの人が命を落とす戦争を、僕たちの世界では繰り返してはならない悲劇、としていた。有史以来、数千年の蓄積を経た僕たちは戦争を憎むべきものだと伝えていた。だからこそ、サイコキネシスという暴力に使える力を持っていた僕に、戒めを与えたのだ。

 僕の世界でも戦争や内乱は続いていた。『せいじ』や『しゅうきょう』の対立、その臨界を越えたとき、人は争わずにはいられない。海を隔てたとしても憎しみには物理的距離など関係がない。


 人間は所詮、最後には暴力に頼らざるを得ない動物なのだろう。己の矜恃、権利、領土、そういったものが侵されたとき、拳を握る。それはきっと、当たり前のことだ。

 でも、それはあくまで本当に最後の手段なのだ。戦争そのものを歓迎する人は誰一人としていないだろう。それはたぶん、狂信者であっても。

 その点、ギルデンスは違う。

 あいつは、きっと、戦うことそのものを待望している。

 その感情が僕には一片も理解できなかった。


「噂では……この国のあらゆる戦に彼の姿があったと聞いたことがあるわ。この国もすべてが平和、というわけではなくて、広い国土のどこかではひっきりなしに戦争が行われている。そのほとんどすべてに彼は参加していて、その噂が広がると、国民たちは彼を恐れるようになったわ。まるで、彼のいる場所で戦が起きるのだと言うみたいに……。そのうち、ギルデンスさまには渾名がつけられた……」


『呼び水』――戦乱を招聘する者。

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