第一章 第三節

 14 狂人との出会い

 街の喧騒を浴びる。これまでと何一つ変わりない、騒々しくも素晴らしいバンザッタの収穫祭。そこには暗躍する悪意など欠片も見当たらなかった。

 僕は腰に下げた短剣に一度手を当て、〈腕〉を展開する。いつ襲われてもいいように、そして、いつでも攻撃できるように。人目を引くべく養成学校の制服を露わにして、城の北門から左、昨日襲われた方向へと歩き始めた。

 露店、道行く人、「水渡り」、観衆、大道芸、昨日までと何ら変わりのない雰囲気が続く。襲撃の現場にも痕跡は残っておらず、僕は相反する二つの感情を抱いた。芯のない安堵と、輪郭のぼやけた不安。


 杞憂だったのだろうか――いや、そんなはずはない。

 確かに作戦が失敗した翌日から目立った動きを見せることはないだろう。だが、だからといって完全に撤退するのはあまりにも片手落ちというものだ。本気であるなら次なる計画のために警備の状況など、確認すべきことは多い。偵察や監視など、何かしらの行動を継続している方が自然に思えた。

 目を皿にして周囲を警戒する。精神感応がない僕にはそうやって観察するしか方法がなかった。そして、それだけが今できることなのだ。敵へと繋がる何か、あるいは誰かを探し、街をくまなく走り回った。


 一般開放されている塔の上、猫くらいしか入れないような細い路地、人だかり、敵が潜んでいそうな場所を巡っていく。ちょっとした騒動に出くわすこともあったが、そのすべては祭にありがちな小さな諍いばかりで、発見できたのは収穫祭にはしゃぐバンザッタの街並みだけだった。

 じりじりと時間が過ぎていく。太陽が天頂を過ぎても僕は走ることをやめず、祭のメインストリートを何度も往復した。しかし、あるべき異変などどこにもなく、焦りばかりが募っていった。

 このままではベルメイアを外に出さなくてはいけなくなる。当初でっち上げた目的を思い出して、僕は唇を噛んだ。敵の姿がないことに納得ができず、歩く速度を上げる。

 警戒を与えるだけ与えてハイサヨナラだなんて愚策にもほどがある。

 絶対にいるはずなんだ――論理的ではないけれど、僕にはその確信があった。漠然とした予感、言いようのない胸騒ぎ、過程がすっぽりと抜け落ちた思考は、しかし、確かな強度で敵の存在を全身に語りかけてくる。

 それが正しかったと証明されたのは北東部の堀沿いを歩いているときだった。

 歩き慣れた道で――僕は歪なものと遭遇した。


     〇


 発見、なんて生やさしいものではなかった。全身が緊張に握りしめられ、一歩も動けなくなる。正面から迫ってくる黒く強烈な違和感に、僕は唾を飲み込んだ。

 今にも周囲の人々を食いちぎりそうな、餓えた獣の気配――それがたった十メートル先にいる長身の男から発せられているものだと気付いた瞬間、いやな汗が背中から噴き出した。

 痛覚が生傷に染みこみ、本能が警鐘を鳴らす。呼吸がうまくできない。義憤に焼き尽くされたはずの恐怖が鎌首をもたげ、心臓に絡みついていた。


 黒のローブを身に纏った男は徐々に近づいてきている。その顔はフードに覆われていて表情を見ることは叶わなかったが、異常であることだけは極めて明瞭だった。男の全身から放たれているのは悪意などではない、もっと深く、根源的なもの――

 ――ねじ曲がった、どす黒い「邪悪」。

〈腕〉を展開したが、前には出なかった。〈糸〉を通じて伝わった怯えが思考も動作も阻害している。〈腕〉は僕の背後でのたうち回っているだけだ。心臓が忙しなく動いていたが酸素を取り込めている気がしなかった。


「……散歩のつもりだったが、昨日の今日で外に出る馬鹿がいるとは驚きだ」


 その呟きに身体に痺れが走る。偶然だろうか、男は僕の射程、その一歩外で立ち止まり、嘲るような笑い声を上げた。彼はおもむろにフードを取り去る。

 露わになったその顔に僕は戦慄した。

 伸びた黒い髪、切れ長の冷たい目、尖った顎、年齢はフェンに近いくらいかもしれない。どこかで見ていてもおかしくはない造形には、しかし、明らかに異常なものが存在した。

 深く抉られた傷――一瞬遅れて、それが奇妙な文様を模してあることに気がつき、僕は言葉をなくす。

 男の顔面に刻まれていたのは魔法陣だった。


 ――僕が持っている魔法に関する知識はあまりにも不十分だ。どのような原理で様々な現象を引き起こしているのか、習ってさえいない。とはいえ、当然ながら知っていることもある。その一つが魔法陣のことだ。

 魔法陣はその文様に詠唱と魔力を取り込み、現象を生み出しているという。それは詠唱を消し去るために編み出された叡智の結晶だった。

 しかし、そこにはデメリットも存在する。たとえば、行使する魔法に応じた面積が必要であること、一定の範囲内でしか使えないこと、そして――

 ――魔法を使う本人が魔法陣を刻まなければならないこと。


 僕の全身は無様に震えている。男の眼光に射竦められ、呼吸が細くなる。

 決して消えないよう、丁寧に抉られた魔法陣は、男の人間性を如実に表していた。

 ――こいつは、危険だ。

〈腕〉を操作し、堀へとたたき落とそうとするが、上手くいかない。幽界の腕は男の鼻先を切り裂いて、無様に暴れるだけで終わった。

 男の右手が揺れる。僕は再び瞠目する。露わになった腕も魔法陣で覆われていて、目の当たりにした瞬間、思考が白く弾けた。


「う、あ」


 押し出されるようにして、足が前に動く。すぐにでも排除しなければならない。本能の叫びが脳を支配していた。〈腕〉に力を込める。

 同時に右肩に衝撃が走った。


「――っ!」


 痛覚が肉を刺す。咄嗟に肩を押さえ、飛び退く。

 ――何が起こった?

 狼狽と混乱の中、僕は正面の男を睨み、見慣れないものを発見した。彼が伸ばした手、そこには長さ一メートル、直径五センチメートルにも満たない鉄の棒が握られていた。

 いや、棒ではない――筒だ。中に空洞があり、その先に男のローブが揺れているのがかすかに見えた。


 あれは、なんだ? 

 僕の焦燥など知らず、男は口角を上げ、懐から小石を取り出した。ゆっくりとした動作で小石を筒の先端へと詰めていく。次の瞬間、左肩の肉が弾き飛ばされ、そこでようやく、理解した。

 ――銃だ。魔法陣で風を生み出し、その風圧で弾丸を撃ち出しているのだ。

 しかし、そんな理解など何一つ意味をなさない。初めて向けられる魔法という攻撃性に、僕のあらゆる器官が命令を拒否していた。

 気付けば踵が堀の縁にかかっている。


「どうした? 昨日はわけのわからない力で刺客を撃退していたではないか」

「……あの場にいたのか」

「それがどうかしたのか?」


 冷たい声色に歯噛みする。男の揺るぎない平静さには一切の動揺がなかった。

 きっとアシュタヤが真に恐れていたのはこの男だったのだ。監視役に徹していたのか、それとも捨て駒を眺めていたのか、どちらにせよ、目の前にいる男の力量は昨日の賊とは比べものにならないだろう。戦闘経験の足りない僕ですら、彼が戦いの世界に生きていることは容易に推察できた。

 ……僕ではこの男に敵わない。

 その認識は、誤った選択を取らなくて済むという点において、恐怖よりも発奮をもたらした。おそらく目の前の男は敵の中でも上の立場にいる。すぐさま城に戻り、情報を伝えるだけで価値があるはずだ。

 ちらりと堀を覗く。助走など必要ない。隙を突いて堀を飛び越えてしまえばすぐにでも――


「――逃げられる、と思っているのか」

「え」


 一瞬の忘我、僕をその空白から引き戻したのは経験したことがないほどの激痛だった。

 足首が、はじけ飛んだ。

 ぐらりと身体が揺れ、紙人形のように崩れる。支えを失った僕の肉体は無様に地面に横倒れになった。叩きつけられた衝撃に痛覚が全身を駆け巡る。

 喉が勝手にわめき声を上げていた。

 土に跳ねた血液が目の前で泥へと変わっていく。僕は滲む視界の中で右の足首を確認した。

 ――ある。ただの錯覚だ。早く、体勢を、整えなければ……。

 足を押さえ、男から距離を取ろうともがいていると、ざっ、と砂を擦る音が響いた。


「お前は今、こう考えている。『何とか逃げられれば次の一手に繋がる』と」


 もう一歩、男が足を踏み出す。


「私は今、こう考えている。捕まえてしまえば次の一手に繋がる。……逃がすわけがないだろう。エサもつけていないのにかかった魚だ。大事に利用させてもらう」


 他人を傷つけることをまるで躊躇していない。その男のどこまでも冷酷な視線は強かに胸の内側を貫いた。僕はどうしようもない恐怖と痛みに身体を丸める――ふりをする。

 これでいい、敵の油断を利用するんだ。痛覚で歪む意識の中、必死に思考する。魔法や飛び道具相手に遠距離で戦ってはならない。フェンだって言ってたじゃないか。魔法の天敵は近接戦闘だって。

 気付かれないように腰に提げたナイフへと手を伸ばす。舌の根も乾かぬうちに約束を破ることになるけれど、アシュタヤはきっと僕が帰ってこないことの方に激怒するだろう。それに比べれば、ナイフを使ったことへの叱責なんてどうでもよかった。


 男と、僕との距離が縮まる。

 もっとも〈腕〉を器用に使える距離、四メートル――男の身体がそこに到達した。

 ――あの鉄砲ごと腕をはじき飛ばせ!

〈腕〉は僕の意志に従って滑らかに動き、男の持つ鉄の筒へと触れた。突き上げられた武器が宙を舞う。

 手には当たらなかったが、十分だ。

 歯を食いしばり、全身に力を込める。どれだけ不格好でも構わない。近づいて今度こそ直撃させるか、短剣を突き立てるか、そのどちらかでいいのだ。爆発する痛覚から目を逸らし、僕は地面を蹴った。

 あっという間に男と肉薄する。


 いける――そう思うと同時に、僕は自分がどうしようもない間抜けであることを思い知らされた。

 頭蓋骨に硬い感触がぶち当たり、思考が弾け飛ぶ。重い痛みが脳の内部を揺らしている。気付けば僕の身体は再び地面に倒れていた。砂埃が目に入り、血の臭いが頭蓋骨の中に満ちている。右の側頭部に残る衝撃に視点が定まらない。

 立ち上がらないと……。

 そう思っているのに、足は言うことを聞かなかった。視界が揺れ、つっかえ棒にした手が無様に折れた。いつの間にか男の左手にはもう一本の鉄の筒が握られている。そこに付着している血痕が何を意味しているのかすら理解することができなかった。

 意志に反して瞼が落ちる。

 だが、男はそれすらも許さない。飛びそうになっていた意識が背中への一撃で覚醒する。昨日できたばかりの擦過傷を踏みにじられ、僕は叫び声を上げていた。

 全身が強張り、呼吸すらままならない。その男は恐ろしく冷たい表情で僕を見下ろしている。


「つまらんな……なあ、泣き叫ぶなりして助けを呼んでもらえるか? どうせ優秀な護衛を雇っているのだろう? フェンと言ったかな……あいつくらいが出てきたらまだ興が削がれなくても済むのだが」


 ……何を言っている? 助けを呼べ?

 僕には男の言葉を理解することはできなかった。それでなんの得があるというのだ。うつぶせになったまま、せめてもの抵抗で男を睨む。

 睨んだつもりだった。

 だが、返ってきた視線に僕の肉体はあまりにも単純な反応をしていた。息が詰まり、言葉をなくし、身体が震える。その薄暗く、淀んだ瞳に僕はどうしようもないほどの恐れを感じた。情けない悲鳴の先端が喉から漏れる。

 彼の表情には人間的な感情はまるで見受けられない。敵を打ち据えたことへの喜びも、興を削がれたことへの絶望もなく、彼の瞳にあるのはどこまでも深い暗闇だけだった。


 今になって後悔が重くのし掛かる。

 こんな奴が、カンパルツォを、アシュタヤを狙っているのか……?

 目の前がぼやける。途切れそうになる意識の中、僕は謝罪を繰り返した。ああ、ごめん、アシュタヤ、僕は約束を――

 ――そのとき、薄れた意識の隙間に美しい声が滑り込んできた。首をねじり、堀の向こうへと視線を送る。

 そこには息を切らしたアシュタヤの姿があった。

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