13 無邪気な提案

「ニールの方は私に質問ある?」


 正直に言ってしまえば、この状況でアシュタヤに質問するほどの余裕はなかったが、彼女の方が何か聞かれたがっている節があり、僕は質問を絞り出した。


「精神の形状の話、なんですけど」

「敬語?」

「……なんだけど」と、釈然としない気持ちを抱えながら呟く。


 呼び方やら口調やら染みついたものを強制的に変えさせられるほど難しいものはない。僕にそのつもりがあるのならばまだいいが、拒否しているにも関わらず、強要されるのはもやもやとしたものを感じさせたし、有り体にいえば、とても面倒だった。

 だが、その気持ちもたちまちに雲散霧消した。

 嬉しそうに「うん」と頷く彼女の姿を見たからだ。

 無垢な少女のようなアシュタヤの微笑は僕の気持ちを大いに錯乱させる。一方で、彼女の「素」はこちらの姿なのではないか、と思ったのも事実だ。立場上、自身の姿を覆い隠していただけで、本来は悪戯っぽい少女なのではないか、と。そうとしか考えられないほど彼女の喋り方は滑らかで、よく思い返すと、ベルメイアに対してはたまにこういう口調で喋っていたから、あながち的外れというわけでもないのかもしれない。

 どうしようもない心拍数の上昇を覚えながら、僕は何とか言葉を続ける。


「その、僕は知識しか知らないんだ、人間の精神に形状があるっていうこと。だからどんな形に感じているのか気になって」

「ニールが?」


 僕が頷くと、アシュタヤは少し思い出そうとして、それから「ちょっと待って」と目を瞑った。彼女の胸から伸びている〈糸〉が発光する。膜のような薄い光が僕の心をそっと撫でた、ように思えた。


「えっとね、ニールのはすごく特徴的……ここじゃない場所から来たからかもしれないけど、普通の人とは違う……なんていうか、言葉にしにくい」

「それは、えっと、ごめん」

「ううん、全然謝ることじゃないの。むしろ逆でね……、あなたのは儚いくらいに柔らかくて暖かくて、綺麗。少なくとも、私はこんな形の心を他に知らない」

「……なんか、照れるな」

「私も、どこか恥ずかしい」とくすぐったそうにアシュタヤは言った。「でも、実を言うと、ベルに誘われて花畑から自衛団の『水渡り』を眺めていたときから、あなたの形にちょっと興味を持ってたの。もしかしたらその、超能力を持つ者同士、惹かれていたのかも」

「それもやっぱり、照れる」

「ちなみにね」

「うん」

「今、感覚を広げてみたら、ベルの心の形がひしゃげていたんだけど」

「ひしゃげる?」

「ええと、つまり」


 アシュタヤは困ったように目尻を下げ、曖昧な苦笑を僕に向けている。


「癇癪を起こしていたんだけれど、どうすればいいと思う?」

「え」と戸惑い、「あ」と合点する。


 ――「ベルメイアをよろしく頼む」。カンパルツォの申し訳なさそうな視線が脳裏に浮かんだ。

 ……このことか!

 ただでさえ、いちばん身近なアシュタヤが頭を悩ませているんだ、よろしくって言ったって、どうすればいいんだよ!


     〇


 やだ、遊びたい、と扉の内側から聞こえるけたたましい声に、僕とアシュタヤは目を見合わせた。ベルメイアの部屋の前で立ち竦み、じっと扉を見つめながら中の光景を想像する。じたばたと手足を動かしてだだをこねる栗毛の少女の姿が浮かんだ。


「ねえ、アシュタヤ。ベルメイアさまがこんなにだだをこねるのって日常茶飯事なの?」

「普段はとても聞き分けのいい子よ。……もちろんわがままな部分はあるけれど、これほど精神が尖っているのも珍しいかも。八歳の誕生日のあたりだったから、四年前くらいになるかしら……、大事にしていた人形をなくしたときもこんな感じだったと思う」

「それは重傷だ」と僕は肩を竦める。「アシュタヤはベルメイアさまと一緒に暮らしてたんでしょ? こういうときの対策って何かないの?」

「こんなふうにだだをこね始めたら打つ手はないかな。要求を飲むか、どこまでも冷静に突っぱねるか。妥協点はちょっと私にはわからない……ニールは? 他の世界では一般的にこういう女の子に対してはどういうふうに対応してるの?」

「僕にはわからないよ」見当もつかない、という奴だ。「僕には弟や妹なんていないし、僕自身がこんな感じになったときもない。ましてや、他人の子どもをあやすなんて考えたことすらない。せいぜい思いつくのはフェンを連れてくるくらいだよ」

「この場合フェンさんはあまりよろしくないのよね」

「どうして?」


 混乱した頭から絞り出した割には名案ではないか。彼女はフェンの熱狂的信奉者だ。彼の言うことなら聞くに違いないのに。

 だが、アシュタヤは困った顔をして、僕の意見を棄却した。


「フェンさんはベルに甘いもの」

「……確かに」


 認めざるを得ない。彼にはベルメイアに懐かれていることになんら忌避感がなかった。まるで親戚の叔父さんが姪っ子を甘やかすかのような雰囲気すらあったほどだ。一緒に収穫祭を回っている最中もベルメイアのわがままを窘めようとした記憶はない。雇い主の娘だから、というのもあるだろうが、彼を連れてきたら事態はさらに悪化するように思えた。

 それはフェン自身も自覚しているのだろう。彼が去り際に残した視線の意味を探ると頼りにしてはいけないという思いが強く湧いた。


「ちなみにさ、このまま放っておいたらどうなるの?」

「たぶん、この部屋を抜け出して、一人で収穫祭にいくと思う」

「抜け出すって、出入り口は侍女に固められているじゃないか」

「ベルは風の魔法を使えるから、窓からでも逃げちゃえるの。未熟だから怪我をするかもしれないからそれだけは避けたいのだけれどね……」

「そんな、ばかな」


 だが、ベルメイアには「ばかな」では済ませられない行動力が満ちている。収穫祭でフェンを連れ回したのもそうだし、そもそも地下牢へ怒鳴り込んできたこともその証左だ。


「このまま目を瞑っていられたらいいんだけど、姉代わりとしてはそうもいかないかな」

「じゃあ、どうする? 突入する?」

「そうするしかないんだろうけど……ニール、ちょっと待ってくれる? 何とか説得の言葉を考えてみる。最悪、食べ物か何かで懐柔できればいいのだけれど」


 わかった、と僕は返事をした。

 返事をしたのだけれど、扉が開いた。

 僕たちの身体と思考が硬直する。部屋から飛び出してきたのは見知らぬ若い侍女だった。今の今までベルメイアの癇癪に付き合ってきたのだろう彼女は、吹きすさぶ寒風さながらの素早さで僕らの目の前を通り過ぎ、廊下を走って消えていった。

 息を呑む。僕らの目の前にあった、内と外を分ける、いわば平穏と安らぎの象徴だった扉が開け放たれている。

 涙で瞼を腫らしたベルメイアの視線が僕たちを捉え、そこで一際大きな声が廊下中にこだました。


 これが一般的な子どもであるならば、この世はわめき声であふれているのだろうな、と思った。ベルメイアは扉の外にアシュタヤを確認した途端、彼女の名を呼び、収穫祭を見て回りたいという欲望をありったけぶちまけた。アシュタヤは困惑しつつも、言葉以上に慣れているらしく、ベルメイアを何とかして部屋の内側まで導いている。

 だが、やはり、決め手に欠けるようで、アシュタヤはその間ずっと僕に助けを求める視線を送ってきていた。僕に何ができるというのだろう。悪魔に追い立てられればどうすることもできない。ましてや相手はベルメイアだ、打つ手などあるはずもない。


「ねえ、エイシャ」


 そらくるぞ。ベルメイアが一言発しただけで僕の身体は仰け反りそうになる。


「今年が自由に収穫祭を歩ける最初で最後の年なのに、なんで城の中にいなければいけないの? 今日は明日の終幕に向けてとても盛り上がる日なのに……あたし、まだ塔にも昇ってないわ……ああ、そうだ、そこにニールがいるじゃない。護衛がついているならお父様も何も言わないわよね」


 いやな予感が胸を過ぎった。

 ちょっと待ってくれ! あのカンパルツォのことだ、ベルメイアの理論武装を知った上で僕に任せたのだろう。これを一つ一つ潰していかなくてはならないのか? いくら何でも無理があるだろう!

 縋るようなベルメイアの目つきに困惑が沸騰する。少しでも仲良くなったのがここにきて徒となっていた。もし、彼女が色眼鏡をかけたままだったのなら、僕におはちが回ってこなかったのかもしれないのに。


「あの、ベルメイアさま、食べたいものがあるのなら、僕が買ってきますよ。それに城からでも商業地区の催し物はご覧になれます」

「それになんの意味があるの!? 実際にあの中にいるから意味があるんじゃない!」


 ぐうの音も出ない正論だ。あまりの勢いと正当性に思わず、そうですね、と応えると、途端にアシュタヤの視線が僕の胸を貫いた。


「あのね、ベル。昨日、私が襲われたことは知っているでしょう? 今、バンザッタは安全な街ではないの」

「生は安全な牢の中ではなく、危険な草原にこそある、とお父様もいつか言っていたわ」


「それとこれとは違うのだ」という言葉を吐けたならどれだけ楽だっただろう。だが、それは諸刃の剣だ。一度使うとベルメイアにも使用権が与えられることになる。剣を手にした彼女は僕らの心配と論理を千々に切り裂きかねない。

 そして、きっと彼女自身にも望まぬ結果を引き起こす。

 黙っているわけにも行かず、「なら、ベルメイアさま」と僕は声を張り上げた。


「僕がお話をしましょう」

「お話?」


 ぴくり、とベルメイアの表情が動いた。アシュタヤもそれは名案だと思ったのか、はたと手を打ち、殊更に声色を明るくして同調する。


「それはいいかも。ねえ、ベル、ニールのお話はとても奇想天外なの。今までに聞いたことのない話が絶対聞けるのよ」


 そうだ、娯楽ならここにもある。僕の世界の話をしてもいい。それでだめなら頭の中にある書物から引っ張り出せばいい。朗読するのは面倒だが、背に腹は代えられない。


 だが、当然のようにベルメイアは「でも」と言った。「でも、ニールの話ならいつでも聞けるじゃない」

「そ、そんなことないわ。ニールだって忙しいんだから」

「出発は一月後なんでしょ? それだけあったら機会はいつでもあるわ! 大体、ニールは魔力が少しもないじゃない、あたしは魔法を使った劇が見たいの! バンザッタの景色が見たいの! それに……、それに、自由に遊べる収穫祭は今だけなのよ! 今日を逃したら二度と見られないかもしれない……」


 ばん、と彼女は手に持っていた動物のぬいぐるみを床に叩き付けた。

 だめだ、僕は頭を抱える。究極的に言ってしまえば、感情論を打ち倒す論理なんてこの世に存在しないのだ。かといってベルメイア以上の感情論を振りかざす勇気は僕にも、そしてアシュタヤにもないようだった。

 わめき声の中、僕は必死にベルメイアの機嫌を直す方法を考える。

 そもそも、どうしてこんなことになっているんだ? カンパルツォが僕に「よろしく」と言ったからか? フェンでは彼女には太刀打ちできないからか?

 ――違う、そうじゃない。

 今、カンパルツォに近い人間が外に出ると危険があるからだ。その考えに至ったとき、僕の中で一つの閃きが生まれた。


「……わかりました、ベルメイアさま。では一緒に参りましょう」

「ほんと!?」

「ニール!?」


 アシュタヤの狼狽を手で制し、僕は続ける。


「ですが、条件が一つあります。ベルメイアさまは聡明な人だ。今、危険であることも承知でしょう。僕も護衛としてあなたを危険な場所へと連れ出すわけにもいきません」

「まどろっこしいわ! 早く条件とやらを言ってちょうだい」

「ベルメイアさまの興味がおありなのは商業地区で行われている露店や農業地区の催し物でしょう? 今から、僕がそこの安全を確かめてきます。ついでに食べたいものがあれば買ってきましょう。昼過ぎには帰ってこれるはずです」

「昼過ぎ……」

「そこからでも遅くはないのではありませんか? 僕も昨日の経験で危険と安全の線引きくらいはできます。それに、ベルメイアさまも闇雲に祭を回って、後であれを見たかった、と嘆くのはお望みではないと思います。僕が確認している間、どこをどのように回るか決めておけば、もしかしたら今日がいちばん思い出に残る収穫祭になるかもしれません」


 僕の提案にベルメイアはしばらく考え込んでいたが、彼女も互いの譲歩できる最終的なラインであると思い至ったのだろう、小さな声で「それでいいわ」と言った。


「でも、嘘ついたら承知しないんだからね。あんたが牢に囚われてたときにできなかった鞭打ちを今度こそやってやるんだから」

「ええ、嘘は絶対につきません。なんなら真偽判別の魔法を使ってくださっても結構です」


 じゃあ、ほら、早く行って、とベルメイアは僕の背中を押し、急かした。僕を外に追い出すと同時に、彼女は侍女に祭で催される舞台の予定表を要求する。睨まれる前に、僕は彼女の部屋を後にした。


     〇


「ニール、一体どういうつもりなんですか!」


 準備を整え、城の外に出ようとする僕に、アシュタヤは怒りをぶつけた。普段の柔らかな笑顔など欠片もない。けれど、それは予想していたことだったので、用意していた言葉で彼女を宥めた。


「大丈夫だよ、アシュタヤ」

「何も大丈夫じゃないでしょう! あんな口約束をして、反故にしたときどうなるかわかっているんですか!」

「約束は守るよ、僕も、ベルメイアさまも」


 断言したものの、アシュタヤは引かない。


「でも、安全の確認が取れたらあの子を外に連れ出すってことでしょう?」

「そうだね。でも今日のところは絶対にそうはならないってば」

「どうしてそんなことが言えるのですか!」

「決まってるよ、『外は危険』だからだ」

「口ではいくらでも言えます! あなたが刺客を見つけられなくてもベルにそう言うつもりですか! 真偽判別など使ったらそんな嘘、簡単に暴かれます!」

「絶対に嘘にはならないんだ」


 それだけは確信を持って言えた。ベルメイアを騙すまでもないのだ。

 僕の表情が穏やかだったからか、アシュタヤの勢いもいくらか和らぐ。彼女は準備していた怒りを飲み込み、言葉を地に落とした。


「……どういうことですか」

「たかだか一夜明けたところで、敵が諦めるわけないってことだよ」

「それは……」

「アシュタヤ、君はあいつらの悪意を直に目で見なかったけれど、僕はこの目で見て、〈腕〉で触れたんだ。だからこそ……、敵がどんな人間か、わかっているつもりだよ」


 実際に襲ってきた敵がどんな事情を持っているのかまでは知らない。けれど、僕には一つだけ理解できることがあった。

 彼らの必死の形相、身体中に詰まった悪意。

 例えば、子どもを人質に取られているとか、病に伏している親のため、だとか、あるいはもっと下卑ていて、享楽の日々を過ごすための金だとか、地位だとか、彼らにも何らかの理由があるのかもしれない。

 なんにせよ、彼らは目的を完遂しなければ止まることはないだろう。


「敵は必ずいる。そして、僕にはその見分けがつく」


 アシュタヤのような精神感応能力があるわけではないけれど、他人の顔色ばかり窺っていた僕にはそれくらいの判別ならばできる自信があった。この目で見れば、敵が持っているだろう鬱屈とした悪意を感じ取れるはずだ。どれだけ表情をごまかそうが、身体から発せられる怒りの臭いまではごまかせない。

 だが、僕の言葉にアシュタヤは顔を青くした。


「ちょっと待ってください! でも、それなら、危険なのはあなたじゃないですか! あなたは顔を見られています」

「まあ、そうだね。そういう可能性も捨てきれない」

 なら、とアシュタヤは反駁する。「なら、あなたが行くべきではないでしょう! 怪我だってしています! もっと訓練を受けた人に任せた方が――」

「アシュタヤ」


 僕はアシュタヤの言葉を遮り、精いっぱいの虚勢と胸いっぱいの決意から微笑んだ。


「僕から、幸せを奪わないでよ」

「――え?」


 言葉を失うアシュタヤに向けて、僕は続ける。


「昨日、あいつらを直に見て、戦ったのは今のところ僕だけなんだ。僕にしかわからないこともある。もしかしたら手がかりを持って帰れるかもしれないし、万が一、危なくなっても堀を越えればいいだけだ」

「……ニール、あなたの仕事は護衛でしょう? そこまでする必要なんてないじゃないですか」

「僕の世界には『攻撃は最大の防御』って言葉があるんだ」


 殺意を剥き出しにして襲ってきた敵を退けるだけが防御じゃない。相手の攻撃を事前に防ぐことも立派な防御法の一つだ。それは決して間違いではない。スポーツでだって政治でだってそれは成立してきた。長い長い歴史の中で、有効であると示された手段だ。

 僕がベルメイアの前で思いついた閃き。

 城の外に刺客がいて、彼女たちを狙っているのなら、話は早い。そいつらを全員排除してしまえば、怯える必要なんてないのだ。


 きっと、僕は高揚しているのだろう。三人の刺客を寄せ付けず、アシュタヤを危機から遠ざけた。調子に乗っているのは自覚している。だが、それは紛れもない事実なのだ。僕の超能力の前では彼らはなんの抵抗もできなかった。あの三人が死んだのなら、逃げたもう一人も十分な情報を獲得していないはずだ。一人ならもっとうまく逃げることだってできるし、相手が僕より弱いなら生きたまま捕まえることだってできるに違いない。

 しかし、アシュタヤは頑として首を縦に振らない。


「だめです、私には到底見逃すことはできません」

「……ねえ、アシュタヤ」


 彼女の心配はとても嬉しい。

 けれど、僕の中で燃える敵愾心、生まれて初めて抱いたその感情を冷却するには至らなかった。まがりなりにも、僕はこの街で一月、生きてきた。この街は平和な街だった。ときには犯罪は起きるけれど、一過性のもので、女の子が一人で歩いたとしても何ら危険はなかったのだ。

 なのに、今、アシュタヤやベルメイアはそれができなくなっている。

 収穫祭も明日で終わりだ。それまでには、あの平穏を取り戻したかった。露店で売っている庶民的な食べ物を嬉々として食べる彼女たちの姿を思い浮かべる。

 もしかしたら、二度と見ることのできない景色かもしれない。

 短絡的と謗られても構わない。僕にできることがあるならば何でもしておきたかった。


「……僕はこの世界に来るまで、ずっと生きていなかったんだと思う。言われたことだけをして、上手くいかない生活にも慣れきってた。努力はしていたけれど、報われなかったし、そのことを嘆きもしなかった。いつか環境が勝手に変わってくれるんじゃないか、って無責任に期待していたんだ。だから、この世界に来ることができて本当によかったと思っている。ここで僕は、生まれて初めて、充実感を知ることができたんだ」


 昨日、彼女を抱えて、堀を飛び越えたとき、僕の心を包んだ喜び――。

 前の世界では得られなかった赤々とした熱。

 きっと、それを幸せと呼ぶのだろう。


「お願いだから、アシュタヤ、僕から幸せを奪わないでよ」

「あなたはっ! ……あなたは、やっぱりおかしな人です」

 僕は苦笑し、答える。「うん、よく言われる」

「あなたの世界はこんなおかしな人ばかりなのですか?」

「そういうわけじゃないかなあ。僕はきっと特別なんだ。他人とは違う環境で生まれ育ったからね」


 はあ、と大きな溜息がアシュタヤから漏れた。彼女は僕を止める言葉を選別しているようだったが、そのどれも通用しないと観念したのだろう。最後には「わかりました」と頭に手を当てて呟いた。


「じゃあ、行ってくるから」

「ニール、ちょっと待って」


 扉を開けようとしたところで止められる。彼女はなにやら背中をごそごそとまさぐって、それから、僕に手を出すように要求した。


「これ、持って行ってください」


 アシュタヤが僕に手渡したのは、白い鞘に納められたナイフだった。柄の部分に複雑なレリーフが入っている、由緒がありそうな短剣だ。


「私がいつも肌身離さず持っている一族の家宝です。お守りだと思ってください」


 なら、これは家紋とかそういうものだろうか。僕は一度受け取り、眺めてから彼女に突き返した。


「こんなの、借りられないよ。使うにはもったいないくらい綺麗だし」

「使えとは一言も言っていません!」とアシュタヤは声を荒らげた。「……ただのお守りです。あなたがこの短剣をいかなる血で汚すのも許しません」

「なにそれ、そんなの持っている意味ないじゃないか」

「それは約束です」


 アシュタヤの真剣な声色は明瞭な輪郭を持った物質となって僕の胸に当たる。その衝撃に僕の身体は硬直した。


「あなたはただ街を見回ってくるだけ。手がかりがあるなら持ってくるだけ。それ以上のことは許しませんから」

「……わかったよ、約束する」


 頷き、腰のベルトにナイフを提げる。外へと通じる扉を開け、そこでふと僕は思い立ち、振り返った。アシュタヤは差し込んでくる光に眩しそうにしている。


「ちょっと思ったんだけどさ」

「なんですか?」

「アシュタヤって怒ったら敬語になるんだね」

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