11 騒動の顛末

 肉をこそぐような痛みが背筋を走った。息苦しさを感じる。目覚めの感覚が血流に乗って身体の隅々に行き渡ると同時にうつぶせで寝ていることに気が付いた。


「いっ……!」


 身じろぎするだけで意識が赤黒い粘液で塗りつぶされ、呻き声が漏れる。背中には針のむしろを当てられているかのような感触があり、脱力を試みたがどうにもうまくいかなかった。

 また、怪我、だ。

 ここに来るまでに怪我なんて数えるくらいしかしたことがなかった。それに、たとえ外傷を負ったとしても進歩した医療技術は程度の低い傷などたちまちに治してしまう。骨折であっても二日あれば完治してしまうほどだったのだ。

 それなのにこの世界に来てから僕の身体には傷跡が絶えなくなっている。

 どうしたものか、と臥したまま、あたりを眺めた。


 僕がいるのは城の医務室だった。

 いくつも並べられた寝台、赤々と焚かれている暖炉。煌々とした灯りに満ちていて気付かなかったが、窓の外の空は黒く、星が瞬いていた。

 ああ、あの堀を渡ると毎回怪我をしているな。今回は気を失わなかっただけまだましなんだろうけど……。

 自分の情けなさに枕に顔を埋め――それから、僕は寝ぼけていたことに思い当たった。


「アシュタヤさま!」


 背筋に力を入れると、痛覚の弦がつま弾かれる。


「あ、ぐっ……!」


 だが、耐えられないほどではなかった。芝生に突っ込んだだけなのだから肉が抉られたとかそれほどの負傷はしていないだろう。せいぜいが盛大な擦過傷だ。

 激痛を堪え、息を止めて力を入れると、どうにか寝台の上に座ることができた。それだけの運動にじわりと汗が滲み、染みるような痛みの余韻が背中を這う。

 穏やかな声が聞こえてきたのはそのときのことだ。


「あら、お目覚めになりましたか」


 声をかけてきたのは見知らぬ中年の女性だった。看護師、というのだろうか、清潔そうな服装をしている。眉間には深い皺が刻まれ、後ろでくくった髪はぱさついており、より年かさを増しているように思えた。彼女は寝台まで歩み寄ってくると、慣れた動作で僕の背中を覗いてくる。

 動くに動けず、僕は固まったまま訊ねた。


「すみません、アシュタヤさまは」

「アシュタヤさまなら伯爵さまのところにおられるはずですよ」

「そうですか」

 よかった。少なくとも大きな怪我は負っていないらしい。僕は安堵の溜息を吐き、それからもう一つ質問をした。「あの、ここはどこ、でしょう?」

「ここはバンザッタ城の医務室です。あなたはまだ寝ていてくださいね。深い傷ではないですけど、背中一面擦り傷でひどいんですから」

「でも」

「怪我をした男性はすぐに『でも』という言葉を使いたがりますが、その言葉は私たちがいちばん聞きたくない言葉なんですよ」


 くすくすと笑いながら女性は寝台を指さす。


「目が覚めたらウェンビアノかフェンくんに伝えるように言われていました。なので少し待っていてください」

「それなら、僕が」


 わざわざ彼らに来てもらうまでもない。僕は身体をずらし、足を寝台の外に出した。靴はどこだ、と寝台の下を見回す。だが、今日一日履いていたはずの靴はどこにもなかった。


「あれ……僕の靴は」どこですか、と顔を上げ、言葉を失う。

「立ち上がるなら、私から職を奪う心づもりをしてから立ち上がってくださいね」


 柔和な笑顔をしている看護師の手に、見慣れた靴がぶら下がっていた。


     〇


 看護師が医務室を出て行ってからほどなくして部屋の扉が開いた。彼女が戻ってきたものと思い込んでいた僕はいささか以上に驚いた。入室してきたのはフェンとウェンビアノ、そして、カンパルツォだったからだ。

 意志より先に身体が反応し、飛び起きる。その拍子に背中が突っ張り、呻き声が漏れた。カンパルツォは「そのままでいい」と低い声で労ってくれたけれど、目上の人間と寝たまま話すというのも落ち着かない。僕は身体を起こしたまま、強がり、ゆっくりと背筋を伸ばした。

 カンパルツォはそばにあった床机に腰をかける。ウェンビアノはその隣に立ち、フェンは入り口の近くに控えたまま、意味ありげな視線を送ってきていた。


「さて」とカンパルツォが膝を打つ。「ニール、まずは礼を言おう。よくぞアシュタヤ嬢を守ってくれた」


 そして、彼は大きな身体で僕に深々と頭を下げた。それだけで僕は狼狽しかける。カンパルツォは一つの街を守る領主で、僕は一般市民、もしかしたら地位としてはそれ以下の存在だ。丁重な礼を受けるだなんて想像だにしておらず、恐縮せずにはいられなかった。


「そんな……僕はただ、逃げただけです」

 しかし、僕の謙遜は即座に否定される。「逃げることと守ることは相反するものではないぞ」

「……ですが」

「それと一つ、謝らなければならん。警戒はしていたが、まさかここまで相手の行動が早いとはこのおれでも予想していなかった。そのせいでお前に怪我を負わせてしまった。本当にすまない。……傷は痛むか?」


「いえ!」と思わず嘘をつく。勢いよく背筋を伸ばした瞬間、痛みが皮膚をじくじくと刺した。顔が歪んだのだろうか、その様子を見て、ウェンビアノが小さく鼻で笑った。


「薬は城が所有している中でも最高級のものを使わせてもらった。二日もすればその嘘も本当になるから安心するんだな」

「その、それはありがとうございます。あの、それで、聞きたいことが」

「アシュタヤ嬢のことなら心配ない」とカンパルツォは鷹揚に答えた。「彼女はほとんど無傷だ。むしろお前の傷を見て慌てふためいているさまの方が重傷だったぞ」


 予想はしていたが、言葉として確証を与えられると安堵感が増した。彼女に怪我がなかったのなら何も問題はない。僕は胸を撫で下ろし、頭を下げた。


「よかったです……それだけが気になっていて」

「それだけ、ではないだろう?」

「え」


 視線を上げる。カンパルツォは顔を引き締め、僕を真っ直ぐ見つめていた。


「聞きたいことは他にもあるのではないか?」


 彼の低い声に僕の意識はあの騒動へと巻き戻る。

 ――そうだ。

 冷静になると、聞きたいことは山ほどあった。

 僕の推理は当たっていたのか。どうして周囲に警備兵たちがいなかったのか、当然ついているはずの僕以外の護衛たちはどうしたのか。あれから、あの賊たちはどうなったか。

 そして、何よりこれからの話。

 どれから問うべきかわからず、黙ったまま、カンパルツォに、それからウェンビアノに視線を巡らす。僕の目は言葉以上に疑問を語っていたのか、彼らは示し合わせたわけでもないのに同時に頷き、事件の顛末を語り始めた。


「ニール、お前が寝ている間にアシュタヤ嬢からも事の次第を聞いた。堀の北西部で一緒にいたところを襲われたのだ、と。それで致し方なく堀を飛び越えた。そうだな?」

「ええ……、あの、一つ聞いてもいいですか」


 カンパルツォが無言で頷いたのを見て、僕は疑問を口にした。


「初日はどうだったかわかりませんが、伯爵やウェンビアノさんは今日、僕の他にアシュタヤさまに護衛をつけていた、そうですよね?」

「そのとおりだ」とウェンビアノが頷く。「伯爵の国政参加表明があったばかりだからな。万が一を考えてアシュタヤ嬢には君の他に二人護衛をつけていた」

「その人たちは」と僕が訊ねると、カンパルツォの表情が沈んだ。沈痛な面持ちで彼は唇を噛んでいる。

 結局、質問に応えたのはウェンビアノだった。

「おそらく、殺された」

「……おそらく?」

「ああ、彼らは時間になっても帰っては来なかった。長年伯爵に仕えていた兵士だ、まさか裏切るということもあるまい」


 努めて冷静に話すウェンビアノの姿にあのとき抱いた恐怖が突如として甦ってきた。殺された、という言葉が質量を持ち始める。僕の知らない場所で、カンパルツォにとっては旧知の人間が明確な殺意により命を絶たれた。そう改めて考えると、全身に錘をつけられたかのように身体が重くなった。

 一歩間違えていたら、僕も……。

 今になって怯えが内臓をくすぐっている。その感触に身体が震えた。


「結論から言ってしまうか。アシュタヤさまを襲おうとした輩は全員取り逃した」

「取り、逃がした?」

「同時に小火騒ぎだの喧嘩だのが起こっていてな、君たちがいたあの地域だけ、警備兵が出張っている状態にあったのだ。他の地区から駆けつけた警備兵が取り押さえたことができたのは壁に叩き付けられて眼を回していた男と堀に落ちた男だけだった」

「え?」言っていることが違う――

「――だが、詰問する前に奴らは自害した。隠していた毒を飲んだそうだ」

「自、害」


 意図せず、僕はその言葉を繰り返していた。意味がゆっくりと脳に染みこみ、全身に鳥肌が立った。恐怖が、獣のように舌舐めずりして首もとに息を吹きかけてくる。全身に痺れが走る。

 ウェンビアノは抑揚のない口調で続けた。


「何を明かすこともなく、奴らは冥府へと逃げおおせた、ということだ。まあ、確証はないが、首謀者は察している。レングさんの国政進出を阻もうとしている他の貴族だろう」


 その瞬間、喉が詰まり、視界がくらりと揺れた。人が死んだ、という事実ではなく、情報を漏らさない、その一点のためだけに死を選ぶその精神構造に、僕はこれ以上ない恐怖を感じていた。

 ――そんなのもはや狂信者じゃないか。

 自身の死すら厭わず目的を遂行する――その歪んだ思考に戦慄を抱く。宗教がより強い意味合いをもって人々の心を救っていた、そんな時代に生きていた僕だからこそ彼らの異常性に言葉を失った。

 宗教は人を救うために存在する。一神教でも多神教でも、あるいはもっと噛み砕いて、自分のそばにいる人間に心酔し、仕えることも一種の宗教と言えるのかもしれない。金だって宗教となり得る。かつて資本主義教が全世界を席巻していたこともあった。


 しかし、それらには共通した原則が存在しているのだ。つまり、どれだけ形を変えても、宗教が人のためにあるという原則である。

 しかし、その原則が彼らには成り立っていない。

 宗教のために――貴族のために人がいる。

 先日、カンパルツォが言っていた言葉が脳裏を過ぎった。「貴族というのは民に安定と発展を与えるために存在する」。だが、僕が遭遇したのはまったく逆の状況だ。

 民を救うために存在する貴族が、民を使い捨てにしている。


「どうして、そんな……なんのために」

「情報を漏らさないために、だろう」

「そうじゃありません!」


 背中の痛みも忘れ、僕は叫んでいた。情報を漏らさないため、あるいは失敗の責を負って、そんなことはわかっている。僕が聞きたいのはどうしてそこまでの覚悟を抱いてカンパルツォを、そしてアシュタヤを襲えたのか、ということだった。


「カンパルツォさま」

「……なんだ?」

「あなたの目的、民衆を政治の舞台にあげる、というのは他の貴族にとって、そんなに都合が悪いことなんですか? 人を殺してまで、その人たちが守りたい理想って……一体何なんですか?」

「自身の幸福だ」


 簡潔で寂しげな物言いに呻き声を上げそうになった。

 古今東西、権力を手にした人間が抱く飽和することのない欲望。あらゆる物語で語り尽くされた陳腐で下卑た事実。僕は――アシュタヤはそんなもののために狙われたというのか? そう考えただけで先ほどまで胸中を占拠していた恐怖が憤慨に焼き尽くされていった。僕は拳を握りしめ、ゆっくりと息を吐く。


「……なんで、そんなことで!」

「ニール、おまえが怒っている理由はよくわかる。おまえの怒りはおれたちの怒りと同じものだ。その怒りを持っておれたちはこの二十余年生きてきた」


 カンパルツォは座ったまま、目を瞑り、顎を上げた。遠い記憶を思い起こすような、穏やかな顔。彼はしばらくそうしてから、やがて瞼を開いた。その中央にある茶色の瞳には落ち着いた光があるように思えた。


「だが……、最近はこうも考えるんだ。奴らにとっては、あるいは市民にとっては、おれたちこそが自身の幸福を追求する獣なのではないか、と」

「レングさん」


 彼の後ろにいたウェンビアノが窘めるように鋭い目を向けた。しかし、カンパルツォはそれを気にするふうでもなく、続ける。


「ウェンビアノ、これは自虐でも後悔でもないぞ。考え方の相違を客観的にとらえているだけだ。そしてここからが何よりも重要だ」


 カンパルツォはそこで言葉を切り、僕を、力強い眼差しで見据えた。老年にさしかかる男とは思えない澄んだ眼だった。


「おれは、おれの考えが正しいと、誰に何を言われても揺るぎない正義であると考えている。……ニール、お前はどう思う?」


 僕は即座に同調しようとして、やめた。そして、熟考する。

 幸福追求権、公共の福祉、民主制、衆愚政治、国家、正義。十七歳の僕にとってそれらの単語は知識でしかなかった。脳内の書物アーカイブで埃に埋もれているような単なる言葉に過ぎない。

 だが、僕の中に一つだけ、絶対的な価値観が浮かび上がっていた。級友や周囲の大人たちに虐げられ、鬱屈した日々でも抱かなかった価値観。


 僕の世界でもっとも重要なのは僕自身だ。


 急に降って湧いたこの考え方は、極めて利己的なものなのだろう。しかし、それはひとつの生物としてあって当然の価値観であることもまた、事実だ。僕にはその認識が足りなかった。だから迫害されても利用されても、反抗することなく黙って恭順していたのだ。

 だが、もはやそんな日和見主義では済まされないことを、僕は知った。

 これまで頭の中にあったのは朧気な「相手」だった。だから襲われている最中でも、僕は恐怖に震え、自身を発奮させなければならなかった。

 ――それではもうだめなのだ。

 今、目の前に立ちはだかっているのは「敵」だ。僕の世界を、僕の世界を形成する全員を脅かす、敵。僕は生きる場所を脅かされている。カンパルツォを信じる僕を、攻撃されている。

 対峙しているのは絶対的な「敵」。

 それを認識しなければならない。


「……カンパルツォさま、僕のいた世界でも同じようなことが、きっと、あったと思うんです。尽きることのない欲望を刃にする人間と、それを是正する人間の争い……もしかしたら、カンパルツォさまやウェンビアノさんの言葉の中に嘘であったり、ご自身でも気付かない落とし穴があるかもしれません。現状を変えようとしているお二人は他の貴族からすると、あるいは一部の民衆からすると、悪と看做される可能性もあります」


 僕は窓の外に広がっている暗い空に目を移す。

 既に僕の中には興味本位で彼らの行く末を見たい、などと浮ついた気持ちはなかった。頭の中にあるのは、僕の世界は敵に溢れていて、僕自身が幸福になるためには闘わなければならないということだった。

 そして、その正義はきっと人の害とはならない。

 それだけは自信を持って言えた。僕の正義は敵の正義と異なり、関わりのない人の幸福を奪わない。あのとき、通行人に向けられた鈍い刃の光が脳裏に甦り、僕は拳を握った。


「それでも、カンパルツォさま、僕はあなたのおっしゃっていることが正しいと思います」

「……そうか」


 そこで彼は嬉しそうに眼を細めた。まるで少年のような表情に僕の頬も綻ぶ。同士を得た頼もしさに溢れているようにも見えた、といったら自意識過剰だろうか。


「ニール、お前がいた世界の仕組みは、おれたちの世界よりずっと進んでいるんだったな」

「ええ、先進国では決められた家系が特権だけを享受する政治制度はとうに滅んでいます。もちろん、例外はありますけど」

「そこで生きていたお前がおれの考えを認めるならば、これほど心強いことはない。それつまり、おれたちの行動には歴史的正当性があるということだ」


 強く拳を握るカンパルツォの後ろで、そんなことはわかりきっていたことじゃないか、と言いたげにウェンビアノが口元を緩めた。


「では、これからの話をしましょうか」


     〇


「おれたちが王都レカルタに向けて発つのはおおよそ一月後になる。冬の行軍になってしまうが、春になる前に到着しておかなければならなくてな」


 それはどうして、と訊ねるまでもなく、ウェンビアノが言葉を引き継いだ。


「春になると建国祭が執り行われるのだ。そこに出席しておかなければレングさんがこう陰口を叩かれる。『冬眠でもしていたのか、田舎熊』とな」

「おいおい、そこまでは言われんだろう」

「確実に言われますね」ウェンビアノはきっぱりと言い切り、鼻で笑った。「まあ、なんにせよ周囲の貴族の反応もよくない。王自体もよくは思わないだろう。面子が潰れるということだな」

「面子、ですか」

「そう渋い顔をするな、ニール」カンパルツォは苦々しく顔を歪めた。「体裁を整えておかんとできることもできなくなる」

「私たちに残されている時間はそれほど多くはない。レングさんがあと二十年以上生きるとしても、それまでにこのエニツィアの安定を保ったまま、制度を変えねばならんのだからな」

「おれはあと四十年は生きるぞ」

「ご健勝を祈っております、カンパルツォ伯爵閣下。それと他にも理由を挙げると……きりがないな、ここで全部語るときみの傷が治る。それでも聞くか?」


 むしろ、後にしろ、と言っているようにも聞こえ、僕は苦笑し、首を横に振った。

「問題ないなら後でゆっくり聞くことにします」

 それを聞いてカンパルツォが「それがいい」と笑い声を上げた。「これ以上は小難しいお勉強になってしまうからな」

「言ってしまえば内憂と外患なんだが……ウラグもこれから忙しくなるな、暇なときにフェンにでも聞け。アシュタヤさまも知っているから彼女でもいい」

「わかりました」


 応えながら、扉のそばで控えているフェンに視線を送る。彼は何も言わなかったが、小さく頷いた。戦闘訓練から座学までなにもかも彼に頼ることになってしまうな、と申し訳なく思ったが、彼自身がそれを気にしている様子はなかった。


「まあ、肩肘張るな」とウェンビアノが言い、僕は彼に視線を戻す。「これから一月、ニール、きみがすべきことはそれほど変わりがない。ベルメイアさまとアシュタヤさまの護衛をしながら、戦闘訓練をし、時間があったらこの国の情勢を学ぶ。それだけだ」

「何か質問はあるか?」


 訊ねたいことは山ほどあった。だが、それらのほとんどは彼らの言う「お勉強」に当てはまる事柄で、口に出すのは憚られた。カンパルツォやウェンビアノの顔色にも疲労がかすかに浮かんでいて、長居させるのも好ましくない。

 だから、僕はどうしても気になったことだけを訊ねた。


「……じゃあ、二つほど……、一つはカンパルツォさまの後継となる貴族の方のことなんですが」

「忘れとった!」カンパルツォは膝を手で打つ。「そうだな、一応紹介しておいたほうがよいな」

「最悪、ニールにのされかねませんからね」

「のす? なんで領主代理を務めるほどの貴族の方を僕が」

「女癖が悪くてな」

「え」


 カンパルツォは目尻を垂れ下げている。彼の深い溜息はそれが大きな悩みの種であることを如実に示していた。


「他には何も言うことはないんだがな、今日も街に出て市民を引っかけとった。こればかりは昨日の挨拶で紹介しなかったことが徒となってしまった。渡り鳥に翼、というやつだ」


 渡り鳥に翼、その諺の意味がすぐには掴めなかったが、決してよい意味ではないということだけはわかる。


「それで、その人は」

「この城の客間で寝ている。一人でか二人でか、それ以上かはわからんがな。収穫祭が終わると一度帰るから、明日捕まえられればいいんだが……」

「で」とウェンビアノが促す。「二つ目はなんだ?」

「え、ああ……当然、明日以降の収穫祭の自由行動はとりやめですよね、っていうことなんですが」


 僕がそういった瞬間、空気が固まったような気がした。カンパルツォは先ほどよりも強く顔を歪めて頭を抱えている。ウェンビアノの表情もどこか乾いたひび割れが生じていた。 


「そのことか」

「ニール、君は聡いというか、本当に頭を悩ませているところを刺してくるな」


 非難しようとしたわけではないだろうが、ウェンビアノの言い方に僕は狼狽する。理由もわからず、咄嗟に謝罪すると、項垂れたままカンパルツォが手のひらを突き出した。


「いや、ニール、謝るのはおれのほうだ」

「え」

「ベルメイアをよろしく頼む」


 じゃあ行きますか、と逃げるようにウェンビアノがカンパルツォに声をかける。悪戯をした少年たちが叱責から逃れるような連携と素早さで彼らは部屋を後にした。扉を閉めたフェンが哀れむような、申し訳なさそうな目で僕を見つめている。

 状況を理解できずにいると、ぱたんと木の扉が閉じられた。一人残された僕は頭を捻る。 窓の外から夜更けになっても騒ぐのをやめない男の声が聞こえた。悲鳴のようでも雄叫びのようでもあり、漠然とした不安が募っていく。

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