10 小さな戦い

 僕が伝えた拙い計画に、アシュタヤは難色を示した。ただでさえ難攻不落といわれているバンザッタの「拒否の堀」だ。人を担いで渡るなどバンザッタの民にはそれこそ荒唐無稽であるのだろう。

 だが、あいにく、僕はまったく別の世界から来た人間である。彼らの常識に囚われている余裕などなかった。

 護衛や警備がそばにおらず、市民に助けを求めるとその人に危険が及んでしまうかもしれない――悪意という彼女の言葉が真実であるならば、いずれ相手が愚かで直線的な行為に出る可能性も捨てきれないのだ。散弾のように発せられる攻撃性は僕たちと彼らの間にいるすべての人々を傷つける。

 彼女もそれを十分に承知しているようだった。


「ニールさんの案しか、方法はないのでしょうか」

「下手な考えですけどね」

「でも、ふがいないですが、私には何も代案が浮かびません」


 計画はこうだ。

 行きがけに見た「水渡り」が行われている地点まで百五十メートルほど――そこならば堀に沿って構えられている露店もなく、十分な助走を取れる空間が存在する。そこまで辿りつき、堀を渡る、それだけ。

 そう、嘘を吐いた。

 相手が綿密な計画を練っているのは明らかなのだ。既に僕たちが逃げていると推察していることだろう。ならば、もう襲われてもおかしくはない。


 アシュタヤには僕が相手を攻撃するとは伝えなかった。もしそれを提示したら、彼女が頑なに拒むのは容易に想像がついたからだ。だから、僕は状況を把握するために、という理由だけを彼女に伝えて、相手の位置を教えるように求めた。

 不安が喉元までせり上がる。

 だが、やるしかない。

 恐怖を、飲み込むんだ。


「アシュタヤさま」震えそうになる声を抑える。「位置を、教えてください」

「……わかりました」


 彼女は小さく頷き、振り向きもせず、相手の位置を語り始める。

 僕は自然な動作を装って、目の端でそれらを確認していった。

 一人目は僕たちの後方五メートルほど。顔までは見ることができなかった。二人目、三人目は十五メートルほど左斜め後ろ。四人目とはその倍以上の距離がある。

 堀のある右側、露店の裏に追っ手がいないのは好都合だった。回り込まれる心配は少ない。きっと彼らの認識では僕はただの付き人でしかないのだろう。警戒されているより余程ましだった。


「じゃあ、僕が合図をしたら先に走ってください」

「ちょっと待ってください、ニールさんは」

「小細工を弄します。……さあ、行って」


 僕はアシュタヤの反論を待たずに促した。一瞬、躊躇した彼女も、すぐに意を決したように地面を蹴る。彼女の足音が恐怖で空っぽになりかけた僕の頭の中で何度も反響した。

 そして、振り向き、相手がいるだろう位置に向かって叫ぶ。


「薄汚い金の亡者ども! 怯えてるくらいならさっさとかかってこい!」


 僕の声は喧噪を貫き、往来のすべてに響き渡った。

 道行く人の表情が凍り付く。狂人を目の当たりにしたかのような顔をいちように浮かべ、その中に明らかな敵意を持ってこちらを睨む三人の男を目にした。もう一人はどこにも見えない。だが、それを気にする余裕はなかった。

 男たちの表情には激昂が浮かんでいる。足が竦む。人垣の隙間に小さな刃がちらりと光った。魔法石の灯りと斜陽がない交ぜになった光を鈍く反射している。

 あいつらだ。

 僕はいちばん近くにいるつり目の男に向かって真っ直ぐ〈腕〉を伸ばした。僕のサイコキネシスは間にいる市民の身体を通過し、つり目の男の身体にぶつかる。その瞬間、男の身体ははね飛ばされたかのように、宙を舞った。


 上手くいった――と思うと同時に悲鳴が上がる。

 ほとんど一緒に、怒号も。

 安堵している余裕はない。すぐさま狙いを変える。人をかき分け僕の方へ進んでくる二人目に見えざる腕を伸ばす。

 まだ遠い……まだ! 相手が射程である五メートルに到達するのがカタツムリの歩みほど遅々として感じられる。相手も魔法を警戒しているのか、身をかがめ、人波に紛れようとしていた。

 だが、そのぎらぎらとした目の輝きは隠せようはずもない。フードを被った男が近づいてきている。明らかな害意を持った視線に、僕は〈腕〉を強く突き出した。。

 が、当たるすんでのところで幽界の腕は暴れ牛さながら方向を変える。空気を掻く感触だけが虚しく伝わり、焦燥が冷や汗へと代わった。


「くそっ!」


 やはり、上手く操作できない、この下手くそめ!

 見る間に相手は接近してきている。耳元でうるさいくらいに鼓動が響いている。その一拍ごとに距離が縮まっていく。

 体勢を立て直せ、点で捉えられないなら――

 僕は焦りを覚えながらも何とか〈腕〉を制御し、今度は横薙ぎに、左から右へと振り払った。

〈腕〉から脳に強かな衝撃が伝わった。視界の中央から端へとフードの男がはじき飛ばされたのが見える。幸いにして人がいない空間へと飛んでいったため、捲き込まれた市民はいない。男は通りに面した店の机を捲き込みながら壁に衝突し、うめき声を漏らし、横たわった。


 三人目――。僕は最後の一人がいた方向に視線を向けたが、そこにあるべき敵意に満ちた眼光はどこにもなかった。

 ――見失った!

 冷たい汗が背筋を流れる。怖気がせり上がる。

 落ち着け。

 落ち着け。

 見分けならすぐにつく。この騒動の中、おかしな挙動をしている奴を探せ。

 真っ直ぐ僕か、あるいはアシュタヤを追いかける奴が、敵だ。短く息を吐き、周囲を見据える。そのとき、人垣の外、恐るべき速さで駆け抜けていく影を見つけた。

 ――あいつだ。

 アシュタヤを狙って、僕を無視し、走っている。小さな男だった。その両手には鋭利に光を反射するナイフが握られていた。


 まずい! 僕は翻り、小男のあとを追う。人の壁が邪魔でしょうがない。「どいてください!」叫んだが、呆然とする人々は動こうとしない。興奮が焦燥へと変わる。「通してくれ!」


 なんとか五メートル、いや六メートルまで近づけば大丈夫だ。僕は〈腕〉を伸ばしながら地面を蹴る。

 そのとき、小男の声が響いた。


「邪魔だ!」


 金切り声が騒動を切り裂く。その光景に僕は目を疑う。小男はナイフを持った手を、目の前の女性に向けて振り上げていた。

 ――嘘、だろ?

 アシュタヤとの距離を詰めるため、それだけのために、人を傷つけるのか?

 近くにいただけの、罪のない人を、「ついで」で殺そうというのか?

 今、僕たちを襲っている血腥い現実が、現実だという実感が、全身に伝播する。頭が真っ白になる。気付けば自身の肉体の腕すら強くそいつの方向へと突き出していた。

 届け――光がナイフを舐める――届け――切っ先が光る――届け。


「届け!」


 次の瞬間、〈腕〉の指先にかすかな感触が触れた。

 掴んだ――! 認識すると同時に、〈腕〉は小男の身体を宙へとつり上げる。事態を把握していない小男の甲高い狼狽があたりにこだました。硬いものが折れる感触がいくつか、〈腕〉を介して伝わってくる。

 人一人の重量など、大したことはない。僕は持ち上げた小男の身体を、堀の方へと投げ飛ばした。

 丸められた紙くずのように、小男は堀へと突っ込んでいく。中央を越えたところで魔法陣が反応し、奴の身体を思い切り水流が飲み込んでいった。

 これでとりあえず全員、だ。アシュタヤが示唆した最後の一人の姿はまだどこにも見えない。

 僕は人波を縫い、アシュタヤの元へと必死で向かう。あとは彼女を抱えて堀を飛び越えればいい。それだけで逃げ切れる。

 三十メートルほど前方に彼女の姿を発見し、僕は無我夢中で叫んだ。


「アシュタヤ!」


 彼女の視線が僕へと向けられる。突如として巻き起こった騒動に、人の壁が割れ、僕の進むべき道筋を作り上げていた。

 その隙間を突くようにして走る。手を伸ばす。差し伸べられたアシュタヤの腕を、力の限り掴んだ。同時に彼女が僕の手を掴む感触が肌に染みこむ。

 なんて、か弱い――その心細さに必死に彼女をたぐり寄せ、歯を食いしばり、身体に手を回した。


「跳ぶよ!」


 サイコキネシスほど、僕自身の腕力は強くない。だけど、こんな華奢な女の子一人持ち上げられずに何が護衛だ。

 僕は彼女に身体を密着させ、右手で背中を、左手で足を支える。

 そして、堀の縁にさしかかり――、アシュタヤを抱えたまま、思い切り、地面を蹴った。

 ふわりと僕たちの身体が浮く。彼女は恐怖からか、眼を硬くつぶっていた。

 当然だ。一人ならともかく、人を抱えた不十分な体勢でなどそう遠くまで跳べるはずがない。僕の脚力では堀の半分の、そのまた半分までも届きそうになかった。


 脚力だけ、なら。

 サイコキネシスを意識する。アシュタヤに初めて会ったあの日よりももっと強い力が必要だ。歯を食いしばり、身体を丸める。背中を押す、というよりも突くような衝撃に身体がばらばらになりそうなほどの痛みを感じた。

 失速しかけ、放物線を描いて落ちていた僕たちの身体が風に舞い上げられる木の葉のように、高く、高く、浮き上がる。

 内臓がまるごと揺さぶられるかのような浮遊感。

 腕の中でアシュタヤが小さく身じろぎをした。


「……すごい」


 彼女の感嘆をかき消すように、真下で水の柱がとぐろを巻き始める。魔法によって生まれた水柱は一匹の飢えた龍のように、凄まじい勢いで僕たちの身体を飲み込もうとした。

 あの日、できたんだ。

 恐れるな。

 僕は〈腕〉の制御を試みる。幽界の腕も龍さながらに暴れ回り、宙を爪で引っ掻く。全身を打ち付ける水の冷たさを想像した瞬間、〈腕〉がようやく僕の足下に展開した。一拍遅れて、木の葉の鱗をつけた水龍が立ち上り、弾かれた水しぶきが身体を濡らした。

 あとは風の壁だけだ。

 侵入者を押し戻そうとする風の先駆けが肌を切り裂く。

 意識するかしないか、そのぎりぎりの刹那に、〈腕〉が風を払うかのように宙を薙いだ。


 ぽっかりと空いた無風の空間。

 僕たちの身体は吸い込まれるようにその中に飛び込んだ。ちらりと足下を見る。堀の土色が消え、草の緑が視界に入り込んだ。

 ――越えた。

 僕は彼女の身体を包み込む。彼女も僕を守ろうとしたのか、細腕が背中に回されるのを感じた。芝生に突っ込む瞬間に僕の中にあったのは恐怖心や達成感ではなく、暖かな安堵感だった。

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