第一章 第二節

  9 精神の形状

 ベルメイアは占い師の横で大いにはしゃいでいた。

 どうやらフェンとの相性が素晴らしいと言われたらしい。彼女は僕たちと合流すると占いの内容を声高に語った。報告は次第に恋に関する演説めいたものになっていき、そのため、ひととおり聞き流したあとで別行動を提案しても拒否することはなかった。

 一方で苦い顔をしていたのがフェンである。僕の護衛としての能力はあまりに未熟で、ばらばらになることに危惧を抱いているようでもあったが、バンザッタの治安の良さは方々に響き渡る。彼は何かを確認するように周囲に目を配ると、渋々ながら了承した。


 僕とアシュタヤはいろんな場所を二人で巡った。祭を楽しむ人々の姿を眺めたり、柑橘類の果汁で作ったジュースを飲んだり、イルマの店に赴いて今度は僕が勧めるスープを口にしたり、だ。途中で市民たちの「水渡り」が行われていて、それを見ながら、やっぱり変な催し物だな、と笑いあったりもした。

 時間はあっという間に過ぎた。太陽が傾き、遠くに見える防壁の輪郭が色濃くなっている。気の早い露店の店主たちが魔法石の光を焚いていたため、堀に面した収穫祭のメインストリートには様々な色の球体が浮かび始めていた。


「バンザッタの収穫祭は――」


 僕が一月ほど前にバンザッタに来たことを明かすと、アシュタヤは喜びの混じった驚きを見せ、言った。


「昼は地面から、夜は空から見るのがもっとも美しいと言われているんです」

「空、ですか」


 訊き返しながら僕は空を見上げる。この周辺でもっとも高い建物は等間隔に建てられた見張り塔で、その次に城が続く。そのどちらも関係者以外は立ち入りが禁じられている。一般市民が気軽に立ち寄れる高い建築物は三階建ての宿泊施設くらいだった。

 だが、それを確かめるとアシュタヤはゆっくりと首を振った。


「この時期だけは塔の一般開放がなされているんです」

「へえ、……それは、ちょっと行ってみたいですね」

「最終日がいちばんいいんですが……もう少し暗くなったら塔に行ってみましょうか? 城の見張り台でも十分綺麗ではありますけど」

「いいんですか?」

「もちろん」と彼女は顔を輝かせた。「階段を二百段近く昇らなければいけないのが少し疲れますけどね。散々歩き回ったあとですし」

「そっか」僕はその数字の大きさに細い息を漏らす。「エレベーターとかあれば楽なんですけどね」

「えれべーたー?」


 口を滑らせたわけではない。ウェンビアノからは口外を禁じられていたけれど、僕たちは既に一つの関係性の中にある。それに、アシュタヤは口が軽い人間ではなさそうだ。僕の出自――まったく別の世界から来たことを打ち明けたところで問題が起きるとは思えなかった。


「僕の居た場所では高い場所にほとんど一瞬で昇る装置があったんですよ」

「一瞬で?」彼女は目を丸くする。

「あの塔の頂上に登るくらいなら」

「それは……どのような魔法を用いているんですか? 土を隆起させるのがいちばん現実的ですが」

「いえ、魔法は使いません。滑車などを使うんです」

「滑車、となるとどれだけの人を要するんでしょう」

「いえ、人の力は一切加えません」

「……とんちか何かでしょうか?」


 眉間に皺を寄せて思い悩むアシュタヤの姿がおかしくて、つい僕は笑ってしまう。からかわれていると感じたのか、彼女は口を尖らせた。


「それだけ遠い国から来たんですよ」

「もう、はぐらかさないでください」


 アシュタヤは外見とは裏腹に表情が豊かな女の子だった。それが楽しくて、僕は今まで持っていた常識を得意げに語っていく。そのどれにも彼女は興味深そうに耳を傾けてくれた。食料が自動で生産されていた、だとか、どんな音色を奏でることも可能な装置がある、だとか。そのたびに彼女は「冗談が過ぎます」と頬を膨らませたが、うろ覚えの科学知識を噛み砕いて披露すると次第に信じてくれるようになった。

 真剣に眉を寄せ、「もっと面白い話はありませんか?」と求め始めるものだから僕も調子に乗ってしまう。自動走行する車や軌道エレベーターの話を経由し、生物のクローンまで行き着くとさすがに理解の範疇を超えたようだった。


「生き物の複製なんて、それは嘘ですね」


 断定口調に僕は笑う。話の種として出しただけだったから真実であると強調するつもりにはならなかった。

 アシュタヤとの間にあったぎこちなさはいつの間にか消えていた。殊更に「友人」を意識する必要もなくなっている。ただ言葉を交わしているだけなのに、楽しくて堪らない。

 僕にとっては初めての経験だった。

 超能力養成課程に通っている頃はこんなふうに誰かと雑談したことなどなかったからだ。暴力を振るってくる級友が、その取り巻きと馬鹿みたいに口を開けて大笑いしている姿を冷ややかに見てきたけれど少しだけ気持ちが分かった気がする。

 それだけに不思議でならない。僕は思わず「どうして」と訊ねていた。


「どうして、アシュタヤさまは僕なんかと友人になろうと?」


 アシュタヤの表情にわずかな強張りが混じる。彼女から怒りの微香が漂ってきているように感じられる。

 だが、本心からの疑問であることは変わりがない。木偶の坊、出来損ない、と蔑まれ続けてきた僕にとって、彼女の優しさは何よりも理解できなかった。カンパルツォに「仲良くしろ」と命じられていたとしても、必要以上の親密さを築こうとしているようにも思える。


「『なんか』と自分を卑下しないでください」


 アシュタヤはそう僕を叱り、それから少しだけ考えるような素振りを見せた。自分でもどうしてか分からない、といった具合に彼女は首を傾げる。


「もちろん、伯爵とウェンビアノさまが友人で、ニールさんがウェンビアノさまのお世話になっているというのもあるんですが……」

「でも、初めて会ったときから優しくしてくださいましたよね?」

「あれは」とアシュタヤは口元を押さえる。「傑作でしたね。堀を飛び越えたと思ったら、気絶して牢まで連れて行かれるんですもの。どこのどなた、って私も開いた口がふさがらなかったです」

「……すみません、無礼千万で」

「でも、なんというか、その無礼さ、無礼といったら少し違いますけど……これまで年の近い友人がいなかった私の前に、遠慮のない唐突さでニールさんが現れたとしたら興味が惹かれてもおかしくはないでしょう?」

「それは……」


 そうかもしれない。越えられないとされていた堀を越えて現れ、挙げ句の果てに何をするでもなく気絶した人間を目の前にしたら困惑するか、笑ってしまうかだ。僕にはたぶんできないけれど、アシュタヤの性格ならば面白がる方が自然のようにも思えた。


「それに」と彼女は続ける。「どこか不思議な近しさを感じたんです」


 ――近しさ。

 訊ねられなかった疑問が胸の中で爆発し、恐ろしい勢いで広がった。

 彼女の胸部から伸びる清浄なまでの青い〈糸〉――超能力者の証。どうしてアシュタヤにその印があるのか。


「……あの」


     〇


 僕の疑問は声として出ることはなかった。

 目の前で突如として強く煌めいたその青い〈糸〉に言葉を失ったからだ。

 超能力の使用を表す強い光。それまで笑顔を絶やさなかったアシュタヤの顔が恐怖か、あるいは狼狽で引き攣っている。


「ニールさん」


 温度を失われた声色が僕の背筋を急速に冷やした。彼女は背後を確認しながら呟く。


「フェンさんか、警備の方々の近くに急ぎましょう」

「ど」急に何を言い出すんだ?「どうして」

「いいから早く」


 アシュタヤの焦燥を表すかのように、どこかの催し物だろうか、宙高く火が走った。

 彼女の表情は硬く、有無を言わせぬ緊迫感に満ちている。早足で人波を掻き分けていく姿は、誰かに気付かれまいとしているかのようでもあった。もはや制止する暇もなく、僕は彼女の後を追う。

 ただ、薄々ながら勘づいてはいる。

 幽界の〈糸〉の強い煌めき――アシュタヤは何かしらの超能力を行使し、焦燥するだけの何かを発見したに違いない。

 精神感応の一種だろうか。悠長に質問する場面でもなく、僕は周囲を警戒し、彼女の急変の原因を探すことに努めた。だが、あまりに人が多すぎて特定することもできない。


 いったい誰を恐れているのだ。

 ――僕は無意識ながら、彼女が「人」から逃げていることを理解していた。話に聞く魔獣や建物の倒壊から遠ざかろうとしているならばアシュタヤが沈黙している理由がない。もしここにいるすべての人に影響を及ぼす出来事であるならば彼女はきっと大声を張り上げているはずだ。

 そうしなかったということは、理由は一つしかない。


「……追われているのはわかりました。ですが、こう人がいると逃げるのもままなりません。いったん大通りを外れませんか?」

「いけません」と彼女は首を振る。「あの悪意の質ならまだ私たちの意図に気付いていないはずです。逃亡を察知されたら周りの人に危害を及ぼしかねません」


 悪意の質?

 意味が掴めず、訝ると彼女は簡潔に言った。


「説明は後でします。急ぎましょう」

「あの、アシュタヤさま」


 よほど焦っているのだろう、アシュタヤは僕の言葉を取り合おうともしない。彼女は前だけを見据えている。だから、僕が抱いている違和感に気付く気配もなかった。

 警備の人間の姿が、見えない。

 僕たちが逃げ始めてから既に二百メートル以上は進んでいるはずだ。いかに治安が良い街といえど、収穫祭という大きなイベントにおいてこの距離を警備兵、あるいは自警団とかち合わないことがあり得るだろうか。

 このままではいけない。その思いだけが胸中に重く募っていく。

 僕は業を煮やして、訊ねた。


「アシュタヤさま、一つだけ聞かせてください」

「……どうしました」

「相手は何人ですか?」


 その一言に彼女の肩がびくりと震えた。何を言っているのだ、と非難するような目線でアシュタヤは僕を睨む。


「ニールさん、戦うだなんて馬鹿げたことをおっしゃらないでくださいね」

「僕を止めようだなんて馬鹿げたことをお考えにならないでください」

「ニールさん!」

「僕はあなたの護衛ですよ」

「……武器もなく、見たところあなたが魔法を使えるようにも思えません。それでどうやって対抗しようというのですか!」

「武器ならあります」


 僕の肩甲骨のあたりで、若草色の〈糸〉が強く光を発する。超能力者にしか感知できない光、それが一瞬周囲を飲み込み、すべてを染め上げる。けれど、アシュタヤにはそれが見えないようだった。

 出現する、幽界の腕。

 思ったよりずっと早い出番に膝が震えそうだ。恐怖を勘づかせないように、あるいは自分自身を奮わせるように、僕はもう一度強く言った。


「アシュタヤさま、武器ならあります。それに正面切って戦うだなんて考えていませんよ」


 そうだ。足止めで構わないのだ。

 彼女がその悪意の主とやらをきちんと教えてくれればそいつらをちょっと押し倒すだけで済む。その間に逃げおおせれば良いだけの話だ。


「アシュタヤさま」

「だめです。危険な真似はさせられません」

「冷静になってください。おかしいとは思いませんか?」

「何がですか!」

「これだけ進んでも、警備兵がいないんですよ?」

「あ……」


 彼女は足を止めず、周囲を見回すと愕然とした。あたりにいるのは物騒などとはほど遠い、安穏とした顔で祭を楽しむ市民ばかりだ。


「それに、フェンたちが今どこにいるか、分かりません」

「私にはわかるんです。城の正門近くにいるはずです」

 正門――。「ここからだとかなり距離があるじゃないですか!」

「そこまでに警備兵の方がいるかもしれませんし、まだ攻撃してきていないということはそれほど直接的な性格でもないのでしょう。まずは逃げるべきです」

「憶測だ」


 自分でも驚くほど低く冷たい声が漏れた。アシュタヤの表情に怯えが混ざる。

 ウェンビアノの思慮深さが伝染したのだろうか、それともフェンの冷静さに感染したのか? あるいはこの数日間に行っていた戦闘訓練で、恐怖を飲み込む術を知ったからかもしれない。僕は現状を把握するために必死に考えを巡らせていた。

 ここまででアシュタヤの超能力は見当がついている。

 広範囲精神感応だ。

 珍しい能力ではない。僕はテレパスとかそういう能力は使えたことはないけれど概略くらいは知っている。自分の周囲にいる不特定多数の人間が抱いている感情を読み取る力で、範囲が広くなればなるほど単純なものしか感知できなくなるらしい。それで彼女も悪意という曖昧な単語を使ったのだ。

 フェンの位置が把握できるのも嘘ではないはずだ。ある精神感応能力者が「精神は形状である」と語っていた記憶があった。彼女はフェンかあるいはベルメイアの精神形状を記憶し、感覚的に把握しているのだろう。だから、よく知らない警備兵の位置は掴めない。


「アシュタヤさま、落ち着いてください」僕はあるかも分からない頼もしさを振り絞る。「もし相手の位置を教えてくれないのなら、人数だけでも構いません。僕に情報をください」


 彼女は奥歯を噛みしめて懊悩する。しかし、その猶予もないと観念したのか、小さく、呻くように答えた。


「……近くに三人と、あと遠くにもう一人……です」

「四人……、だから、僕を止めるんですね」

「あなたはまともな戦闘訓練を受けていないのでしょう。戦える方に任せるのが当然です」


 戦える人間――彼女の言葉に、嫌な汗が噴き出た。

 カンパルツォは侍従や世話人としてではなく、「護衛」とはっきりと口にしていた。彼はアシュタヤが、あるいはベルメイアが襲われる、とある程度予測していたのではないか?

 政治改革にまつわる反発などどこにでもある話だ。ましてや、カンパルツォは国政参加を宣言した。遠方から見物客が多く集まる収穫祭だ、彼の動向を探りに来た人間もあの宣言を耳にしていただろう。

 それだけ懸念材料があるというのに、戦闘能力のない僕一人にアシュタヤたちの警護を任せるだろうか。

 考えにくい。というよりも、考えられない。長年の悲願を前にそこまで彼らの詰めが甘いはずがないのだ。思えば別行動を提案したとき、フェンは周囲を確認していた。おそらく他の護衛がそばにいたのだろう。


 ――彼らはどうして僕たちに声をかけない?

 神妙な表情で人の流れを掻き分ける僕たちは異変そのものだ。なら、たとえ何か言い含められていたとしても遠巻きに見ているだけなんて不用心にすぎる。

 そこまで考えて背筋に怖気が走った。彼女の言葉が真実で、僕の推測が当たっていたとしたら、彼らは既に――。

 ちらりとアシュタヤの顔を盗み見る。気取られてはいけない。これ以上の不安材料を彼女に与えてはならない。僕たちに護衛が何人つけられていたのかは分からないが、カンパルツォが選んだ人間だ、優秀な兵士がいたはずだ。


 その彼らが誰に悟られることなく、排除されている。それはもはや状況が逼迫していることを如実に表している。どこにいるかも分からない助けを探して走り回るなど、悠長な行動を取っている場合ではないように思えた。

 いつの間にか、喉が渇いている。唾を飲もうとするが、うまくいかない。喉につかえた恐怖心が大きく揺れ動いた。


「アシュタヤさま」

「なんですか」

「もう一つお聞かせください。あなたはこのまま逃げ切れると考えておられますか?」

「それは……」


 アシュタヤは続く言葉を飲み込み、ちらりと後ろを振り返る。僕にはどこに相手がいるのか見当も付かなかったが、彼女にははっきりと見えていたらしく、あからさまに顔に緊張が走った。


「でも、逃げるしか方法がないでしょう!」

「アシュタヤさま、闇雲に逃げても捕まるだけです。絶対に捕まらない場所に逃げ込みましょう」


 アシュタヤの表情が歪む。彼女の言おうとしたことくらいは簡単に分かった。この状況でそんな場所があったら苦労しない、と考えているに違いない。けれど僕には、この状況を覆す最善の策が一つだけあった。

 人垣と堀の向こうにある城を指さす。あそこであれば、危機をやり過ごすことができる。


「城に入りましょう」

「だから、今、こうして――」

「入り口なんて関係ありませんよ。ほら、こっちに来るときに見たでしょう? 向こうで『水渡り』が行われている」

「な」

「僕があなたを抱えて、堀を渡ります」

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