8 友達撤回宣言

 収穫祭も折り返しを迎えた三日目の昼、バンザッタの広場は大きく揺れた。

 毎年恒例となっている領主の挨拶でカンパルツォが王都での国政参加を発表したからだ。この二十五年間、先代からあわせれば四十三年間、「カンパルツォ」という名前はこの街の代名詞のようなものだったのだろう。傍目から見ても、その衝撃はすぐには治まらないほどの波紋を起こしていた。王都での国政参加に誇らしげに手を叩く者、後の生活を嘆く者、そして、何も言えずに押し黙る者、反応は様々だったか、彼がいかに愛されていたか、僕はその感情のさざ波からすぐに理解した。


 それから一夜明け、太陽が頂点へとじわじわ昇る今、僕はフェンともに城へと向かっている。今日は僕たちがアシュタヤとベルメイアの護衛をする順番だった。とりあえず確定している近衛が六人、その面通しがてら、彼女たちの護衛を持ち回しているらしい。


「護衛同士は顔を合わせなくていいの?」

 そう訊ねるとフェンは「近々そうなる」と大した問題ではないように言った。「出立まで切羽詰まっているわけではないしな」

「でも、連携とかさ、そういうのがあるでしょ?」

「一人は軍属で、あとの三人も従軍経験があるからな。どうとでもなる」

「そういうものなんだ」

「それよりも、だ。ニール、お前はもっと心配なことがあるんじゃないか」

 僕は言葉に詰まり、歯切れ悪く認める。「まあ、そう、なんだけど」


 アシュタヤの「友達撤回宣言」から二日、城を訪ねるたびに彼女の姿を探していたけれど、結局話す機会は得られていなかった。

 タイムリミット、そんな単語が脳裏に浮かぶ。今日までに答えを見せろ、と命じられたわけではない。だが、刻限であるという思いは薄々以上にあった。僕がアシュタヤと友達になれるチャンス。今日を逃せばそれが永遠に失われるような、寂しい予感が僕の中を占拠している。

 煩悶を抱えながら、跳ね橋を渡る。そのとき、聞き慣れた声が響いてきた。


「あーっ!」


 遠くまで声が届くことは貴族に欠かせられない資質の一つであるのだろうか。ベルメイアのけたたましい声は雲を払うのではないかと疑うほどに良く通る。

 衛兵の横で立っていたベルメイアはフェンの姿を見て、あるいは僕のことも視界には入れているのかも知れないが、とにかく、飛び上がり、こちらに走り寄ってきていた。彼女は主人の帰宅を知った犬みたいな速度と態度で、勢いそのままフェンの胸元へと飛びつく。


「フェン、遅いわよ!」

「申し訳ありません」


 困ったようにフェンは目尻を下げる。その表情は、年の離れた妹に手を焼く兄然としていて、少しおかしく、僕は笑い声を漏らしてしまった。


「なによ、何か文句でもあるわけ?」


 どうやら声を発するだけでなく、聞き取るのも貴族の資質らしい。ベルメイアは僕の笑声を耳ざとく聞きとがめていて、じろりと丸く大きな眼を尖らせた。とんでもない、と僕は首を振る。


「いえ、そういうわけでは」

「言いたいことがあるなら言いなさいよ」


 これ以上彼女に嫌われても何の得にもならない。どう弁明したものか悩み、ベルメイアがフェンの熱烈なファンであることを思い出した僕は精一杯のお世辞を絞り出した。


「なんというか、フェンとベルメイアさまがすごいお似合いだと思いまして」

「なっ」


 その瞬間、ベルメイアの顔が赤く染まった。ぷしゅう、と蒸気を上げかねない熱が満面を覆っていく。彼女はしどろもどろになり、それからフェンに抱き上げられていることを再確認して、ただでさえ赤い顔を耳まで紅潮させた。


「な、なんてことを、いえ、あの、別にフェンが嫌いというわけではないのだけれど、なんというか、その、あなた、なかなか嬉しいことを」


 効果は覿面だったらしい。彼女が発する当てつけのような怒りは雲散霧消している。今度はフェンが睨んでいるような気がしたが、あいにく僕は息を吸うのに忙しくてそれを確かめることはできそうにもなかった。

 頭を垂れ、その場をやり過ごそうとしていると小さな笑い声が耳朶を打った。僕ははっとし、導かれるようにその方向に眼を向ける。声の主であるアシュタヤはベルメイアが羞恥に悶えているのがよほどおかしかったのか、口元に手を当ててくすくすと笑っていた。


「もう、エイシャまで、なに笑ってるのよ」

「いえ、別に」すました顔で彼女は応える。「早く向かわないと催し物が始まるんじゃない?」

「そうだった! ねえ、フェン、今日は西の農場にある舞台で旅芸人たちが色々やるらしいの! 早く行きましょう?」


 ベルメイアはじたばたと手を動かし、降ろすように催促する。地に足をつけた彼女は紅潮をごまかすかのように波立った栗毛を何度か撫でつけた。

 微笑みを湛えたアシュタヤが号令を発する。


「では、行きましょうか」


 彼女はベルメイアの背を押すように進み、僕の横を通り過ぎる。その瞬間、今日初めて、僕とアシュタヤの視線がぶつかった。途端に彼女は笑みを消し、不自然に眼を逸らした。

 示威するようでも挑発するようでもある。

 このお嬢様は食えない人だ。僕は与えられた難問に頭を抱えたくなる。

 だけど、それはやはり、彼女と仲良くなりたいという前向きな意志の表れでもあり、もしかしたら、とも感じる。もしかしたら、積極的に認めようとしていないだけで、僕の本能的な部分は既に彼女にやられてしまっているのではないか?


     〇


 旅芸人と呼ばれるのだから、てっきりパントマイムであるとか、ボールをいくつも操ったりであるとか、楽器を奏でながら歌うだとか、そういうものを想像していたが、その予想は裏切られた。なぜ商業地区にある舞台で行わないのか、という疑問が彼らの芸によって吹き飛ばされる。

 目の前で繰り広げられているのは魔法を使った芸だった。開始の花火を皮切りに、舞台の上にいる魔術師たちは入れ替わり立ち替わり、魔法を駆使していく。


 初めに現れたのは二人の男だった。一人は空中に火で虎を作り上げ、もう一人の禿げた大男は水で竜を作り、彼らはそれを器用に動かし、声を当て、劇を披露した。

 万雷の拍手を送られたフィナーレの後に出てきたのは土を操る男だ。彼は幼い子どもを農場の端に立たせ、地面を高く隆起させた。いつの時代でもどこの世界でも、高いところから滑り落ちてくるのは子どもの心を沸き立たせるのかもしれない。五、六歳の子どもたちは急拵えの滑り台を目にするとこぞって手を上げ、自分も自分も、と男にせがんでいた。


 それが終わると舞台には三台の鉄琴のような楽器が並べられる。何をするのかと注目していると、秋も終わりだというのに肌を大きく露出した女が小さな球を楽器へ向けてふわりと投げ始めた。

 球は糸で引かれたかのように音板を叩き、跳ね、空中で動きを止める。おお、と感嘆が広がる。続けざまに投げ入れられた十個ほどの球が楽器の上に浮いたところで、彼女は手を高く打ち鳴らした。その途端、球が独りでに上下へと動き始める。音板の上を踊る球が甲高い音を鳴らし、再び宙に浮き上がる。確かめるように打ち鳴らされていた音はやがて一つの規律に従い、音楽を奏で始めた。


 歓声が上がる。

 それと同時に舞台の裏から、髪を鶏冠のように逆立てた男が登場した。彼が撒き散らした色紙の破片は、高く宙を舞い、空間に色彩を与える。周囲にいる観客すべてが魔法を駆使した芸に舌を巻いていた。

 その中で、一際強く興奮していた者がいる。

 ――僕だ。

 目の前で繰り広げられる幻想的な光景は僕から言葉を奪い取った。

 深い感動に、身じろぎ一つできない。まばたきすら忘れてしまっていた。

 魔法という存在を当たり前に享受している人間には単なる大道芸や派手なパフォーマンスに過ぎないのかもしれない。けれど、僕にとって彼らの芸は紛れもなく常識の埒外に存在するものであり、神の御業に他ならなかった。


 炎の揺らめきが虎の毛並みを思い起こさせ、水のうねりが竜の鱗を彷彿とさせる。自在に動く土は僕の足下までもを揺るがし、楽器を演奏する風は僕の肌を舐め上げる。

 フェンにせがんで、魔法は何度も目にした。だが、その新鮮な驚きは少しも色褪せない。

 僕はただただ、かかしのように突っ立ち、かかしとしてすら認められないほどに呆けて、その光景に見入っていた。


     〇


 舞台が終わり、観衆たちが三々五々に引き上げていく。子どもたちはもっともっととせがんでいたが、旅芸人たちがにこやかに謝っているのを見るとアンコールはないだろう。僕たちは、誰がそう言ったわけでもないけれど、自然に祭の中心である商業地区へと歩を進めた。

 土の道が石畳へと変わり、足の裏を強く叩く。この世界の靴はクッションが弱くて歩きづらいな、と最後尾でぼんやり考えているとベルメイアが「それにしても」と思い出したかのように言った。


「それにしても、すごかったわね……、どれだけ訓練すればあんなふうになれるのかしら」

「ベルならすぐよ。先生だっていつも誉めてくださるじゃない」

「え」


 僕の素っ頓狂な声にベルメイアは警戒する猫のような速度で反応した。

 まずい。

 僕は嵐のような罵倒を覚悟して身を竦ませたが、彼女の表情にあったのは怒りではなく、むしろ自慢げな表情だった。ふふん、と顎を上げ、自分の偉大さを示威するように胸を張っている。

 出発前に機嫌を取っておいてよかった、とあらためて安堵の嘆息を漏らしかけた。


「どう、驚いた? 先生は筋が良いっておっしゃってくれるのよ」

「……驚いた、というか、魔法って誰でも使えるものじゃないんですよね」

「当たり前じゃない!」


 それからベルメイアは自分がどのような努力をしているのか、うんざりするほど仰々しい形容詞を用いて僕に説明してきた。魔法というものがいまだ腑に落ちない僕にとってその努力がどれだけ効果的なものなのか、やはりぴんと来なかった。けれど、彼女も傍若無人に振る舞っているだけではないのだな、と考えるとなんだか微笑ましくて、思わず「ベルメイアさまは努力家なのですね」などと言ってしまう。すると、彼女は殊更に鼻高々になって歩調を早めた。

 人波に飲まれそうになりながら僕たちは彼女の後を追う。秋晴れの下、日増しに人の数が増えている通りではベルメイアの後ろ姿を視界の端に入れておくのすら一苦労だった。


 ――バンザッタの収穫祭は一生かかっても楽しみ尽くせない。

 ウェンビアノの斡旋所で誰かが言っているのを聞いたが、それも嘘ではないのかもしれない。初日にはただの道だった場所に露店が出店していたり、至るところで出し物が行われていたり、限界かと思われていた活気がさらに漲っているようだった。


「ねえ、フェン、あっちで占いをしてるみたい。行きましょ?」


 往来の中央でベルメイアが飛び跳ねて、遠くを指さしている。ああしていろんなものを見つけられるのも一種の才能なのだろう。


「承知しました」

「ちょっと、その硬い喋り方やめて、って言ったじゃない」


 人の流れに逆行してフェンのそばに駆け寄ったベルメイアは不満げに彼の袖を引っ張った。フェンはどうしたものか、と頭を掻いて苦笑する。


「しかし」

「しかしも何もないわよ。あたしのお願いなんだから」


 ほら、と彼女は、今度は強くフェンの裾を掴み、連れて行こうとする。フェンからしたら十歳ほどのベルメイアの膂力など大したものではないはずだけれど、抗いがたい力があるのか、彼は敗北した。一度困惑した顔をこちらに見せ、周囲に目を配らせるとそのまま流されるように去って行ってしまった。

 旅芸人の一座の公演でも思ったけれど、彼らの無邪気な推進力は超能力や魔法以上の、計り知れない力であるような気もした。その無尽蔵なエネルギーを羨みながら僕は歩を進める。

 ひとまず、のんびり周りでも眺めつつ、フェンたちを追うか――

 ――悠長にそう考えた瞬間、ようやく、現状に気がついた。

 忍ぶ鼠のようにそっと視線を動かす。僕の隣には貼り付けたような笑顔をしているアシュタヤがいた。


 なんとまあ、これほど唐突にこの状況がくるなんて。

 彼女との間に漂う不自然な空気を払拭する最適な魔法はないものか、とありもしない、使えもしないものに縋りたくもなる。


「あの」


 僕は精一杯の勇気を振り絞ってアシュタヤに声をかけた。が、返ってきたのは冷ややかな「はい」という一言だった。まだあなたは正解を出していないでしょう? と言いたげな態度に頭を掻きむしりたくなる。

 僕が何かしましたか? と声を大にして訊ねたかった。しかし、それはもっとも口にしてはいけない不正解に違いない。

 このまま歩いて行くとすぐにベルメイアが走って行った占い師のテントに行き当たってしまう。僕は時間を稼ぐために少し前を歩くアシュタヤに提案した。我ながら、とってつけたかのような提案だった。


「あの、アシュタヤさま、少し、二人で歩きませんか?」


 その瞬間、彼女の歩みがぴたりと止まった。

 嘘だろ? 僕は愕然とし、彼女の後頭部を眺める。

 ちょっと待ってくれ、歩くことすら拒むのか?

 じゃあ、どうすれば良いのだ。二人で一緒にいるのがいやならさっさとベルメイアたちの元に向かうなりすればいいのに。それとも、時間を稼ごうとしている僕の姿勢を咎めているとでも言うのか。

 これはもう「捻くれている」では済まないぞ。

 周囲の人が往来の真ん中で立ち止まった僕たちを睨む。睨むと同時にその片方がアシュタヤであることに気がついたのか、そそくさと視線を逸らす。それが伝播して、僕たちが斥力を発しているかのように、いつの間にか人の流れに穴が空いていた。

 アシュタヤの黒く、長い髪が揺れる。

 たったそれだけのことに、僕の身体はいとも容易くびくりと動いた。


「――」


 脳につけられた翻訳装置が未だ知らない、固有名詞らしき音の連なりが聞こえた、気がした。振り向きつつあった彼女の薄い唇がかすかに動いたように見えたが、定かではない。

 アシュタヤはその吸い込まれそうなほどに深い、灰色の瞳を僕の目に向けている。すべてを見透かすような瞳は僕が畏怖していたものそのもので、よっぽど目を逸らしてしまおうかとも思ったけれど、上手くいかなかった。あるいは、目を逸らすという行動を身体が忘れてしまっていたのかもしれない。

 沈黙を保ったまま、彼女は僕の目を見据えている。何かを待っているようでもあるが、真意など推し量るのも不可能で、僕は立ち尽くした。

 どれだけの時間が経ったのかわからない。一分か二分か、それとも一瞬に過ぎないのか、周囲から向けられる奇異の目とその何倍も強大なアシュタヤの視線に居たたまれなくなり、僕はおずおずと訊ねた。


「あの、アシュタヤさま?」

「もう一声」

「は?」


 頭が混乱する。

 もう一声? もう一声って、どういうことだ? 

 何がなんだか、わからない。この状況の発端は僕にあるのだろうけれど、それ以上にアシュタヤの言語中枢に重大な障害が発生したのではないかとすら疑いたくもなる。「もう一声」なんて単語は商いの場以外で発せられることがあるのか? だいたい僕は商人でもないし、会話の中に「もう一声」なんて言葉を誘発する単語があったわけでもない。

 大いに虚を突かれ、そうなると不思議なもので、混乱した人間の思考回路はあるべき立場の差だとか、それまでの関係性だとかそういったものをすべて取り去ってしまうようだ。僕の喉から滑り出た声はまったく無遠慮にアシュタヤへとぶつかった。


「あの、大丈夫ですか?」


 頭、とつけなかっただけ、冷静だったに違いない。

 ざっくばらんな、聞き手によっては暴言とも受け取られる言葉に、アシュタヤは毒気を抜かれたかのようにきょとんとした。呆け、それから若い女の子相応の笑い声を上げる。何が彼女の琴線に触れたのか、推測することすらできない。

 僕はしばらくその反応に戸惑っていたが、アシュタヤはその間中、ずっと笑っていた。本当に頭がどうにかしちゃったのかと危ぶむほど長い時間だった。

 ひとしきり笑い終えたあと、彼女は目尻に浮かんでいた涙を拭い、「あーおかしい」と呟いた。「こっちの台詞なんですけど」と言ってしまおうかと邪な考えが浮かんだがやめる。

 正確に言えば、その邪な考えが吹き飛ばされていた。

 アシュタヤが初めて会ったときと同様の、柔らかな笑顔を浮かべていたからだ。


「ニールさんってやっぱり失礼なんですね」


 肝が冷えた。


「すいません、そういうつもりでは」ない、という語尾が狼狽によってうやむやになる。悪い癖がまた出てきてしまった。

 だって、と内心で言い訳する。僕の世界には貴族制度とかそういうものはほとんど消え去っていた。表面上は誰もが平等な世界だったんだ。だから、本来の言葉遣いが口をついて出てくることもあるじゃないか。

 しかし、内心の弁明とは裏腹に焦燥がせり上がる。今この場に覆しようのない立場の差があることは事実なのだ。

 謝罪しようと頭を下げる。「違うんです」と彼女が否定したのはほとんど同時のことだった。


「違うんです。別に責めようだとか、そういうつもりはないんです。ただちょっと嬉しくて」

「嬉しい?」

「言ったじゃないですか。友達ってこんな風に軽口を言い合うのでしょうか、と」

「え、ああ、そう、ですけど」

「だから、ニールさんの明け透けな言葉が嬉しかったんです。それに――」


 それに、とアシュタヤは笑顔をさらに深めた。


「――ようやく、ちゃんと眼を見て名前を呼んでくれましたしね」

「え?」

「あら、気付いてなかったんですか? ニールさん、今まで一度も私の名を呼んでくださらなかったんですよ」

「えっと、それは」


 記憶を探る。言われてみればそんな気もして、反論ができない。


「ですので、友達撤回宣言は撤回することにします」

「……そんなことで?」


 そんなことが、虚偽の不機嫌を招いたのか?

 僕は信じられず、彼女の表情をじっと確かめた。だが、そこには虚飾は一切存在せず、当惑する。確かに僕はまともに眼を見ていなかったかもしれない。名前を呼ばなかったかもしれない。だが、そんなことで関係性が拗れるだなんて考えもしていなかった。


「そんなこと、ではありません。初めに言ったじゃないですか。眼を見て言ってくださらなければ聞こえません、と。大体、年上のイルマさんのことは気軽に呼んでいたのに私のことはあのとかその、で呼んでましたし」

「それはまあ、そう、ですけど」

「本当はさまとつけずに呼んで欲しかったんですが、それはいずれとしましょう」

「あの、それはちょっと恐れ多いというか」

「そうですか? 伯爵もウェンビアノさんに呼び捨てにしろ、とおっしゃっていたそうですし、それに、これからの私たちの目的を考えると不自然ではないでしょう?」


 一理あるかもしれない。平民も貴族もない世界が訪れたら僕がアシュタヤに「さま」をつけたり、必要以上の敬語を用いるのもおかしくなるのだろう。

 しかし、現状でそんな難題を求められても僕にはできるわけ――とそこまで考えたとき、ふいに閃いた。


「もしかして、もう一声ってそのことですか?『さま』をつけるな、って?」

「ええ。もし呼び捨てで名前を呼んでくださっていれば、カンパルツォさまの上を行けたんですけどね」


 上を行く、ってそれこそ恐れ多い――そう思いながら、僕はアシュタヤの胆力というか、華奢な体躯に似合わない剛毅さに、まいりました、と諸手を挙げずにはいられなかった。

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