7 きみまで七歩
イルマが運んできた魚介のスープは僕の好きなメニューの一つだったけれど、味がしなかった。突然硬化したアシュタヤの態度に僕はどうしようもなく困惑し、「おいしいですね」であるとか「どうですか」であるとか「ベルメイアさまは大人しくしてらっしゃるでしょうか」であるとか、当たり障りのない会話から彼女の機嫌を取ろうと試みたが、そのすべてが失敗に終わった。彼女はそっけなく、「そうですね」「おいしいです」「そうだといいですね」と応えただけだった。そのくせ、イルマにはにこやかに対応する。
僕が一体何をしたというのだろう。
先ほどまで彼女が僕へと発していた親近感めいた優しさは身を潜めている。「身を潜めている」――そう、その感情そのものが消え失せているようには思えなかった。
しっくりくる表現……、ああ、そうだ。
店を出て、絵描きの元へとまっすぐに突き進むアシュタヤの背中を見ているとふと、思い通りにならなかったときのベルメイアの姿が重なって見えた。
そこで、ようやく僕は今の彼女にぴったりとくる形容詞を発見した。
アシュタヤは拗ねている。
ただ、それがわかったところで僕にどうすることもできない。
「怒る」と「拗ねる」の最大の相違は謝罪を受けたときに動く感情のベクトルだ。怒っているとき謝罪を受けたならばいくらか態度は軟化するだろうが、拗ねているときは逆効果になる場合も多い。
これまで友人らしい友人を持たなかった僕にようやく可能だったのは、どうすれば良いのか、懊悩することだけだった。諍いは何度も起こしたことがあるけれど、それは友情を前提としたぶつかり合いではなく、仲直りという友情を深める儀式について僕が有している知識はあくまでも表面上のものにすぎなかった。
だから、僕は彼女の感情のねじれを解消する優れた術を知らない。かける言葉を知らない。ささくれた感情をぶつけられたことはあっても、ぶつけ合った経験のない僕に状況を改善する策など思いつくはずもなかった。
そして、何よりたちが悪いのが――
アシュタヤの拗ね方が本気のものとは到底思えないことだった。
言うなれば、僕は怒りの専門家である。ふがいない他人に発する尖った怒り、謂われのない非難を受けて蓄積される鬱屈した怒り、どうしようもない状況に陥れられる困惑の怒り、失敗を叱責する愛に満ちた怒り。
怒りを発したことは数えきれず、受けたことに至ってはその何倍もあった。
その僕が断言する。間違いがない。アシュタヤが僕に表明している感情は明らかに虚飾の匂いに満ちていた。どこか戯曲めいた、虚飾の手触り。
彼女は僕が逢着すべき唯一の正解を設け、そして、その瞬間を待っているかのようでもあった。
〇
結局、僕は彼女の持つ正解にたどり着くことなく、収穫祭の初日を終えた。
途中からフェンは僕とアシュタヤの間にある不自然に膨張した不和に勘づいていたようだったが、特に何を言うこともなかった。助かった、とも言える。祭の幽鬼となり果てていたベルメイアがそれを知ったら、たちまち正気に戻り、僕を厭味と罵声の濡れ鼠にするに決まっていたからだ。
斡旋所の二階にある簡易的な宿に帰ってからもフェンから受けたのはねぎらいの言葉ばかりだった。大人なんだからヒントくらい、と戸惑ったが、自分で考えをまとめたかったのは事実でありがたくもある。そうして、いつものように寝て、起きて、その日のアシュタヤとベルメイアの護衛は別の人間がする、という連絡に困惑したところでフェンが静かに言った。
「ニール、城に行くぞ」
城で、正確に言えば、城の地下に作られた鍛錬場で僕を待ち受けていたのは、当然、女性の心を掴むための講座などではない。土色に覆われた広々とした空間で、フェンは「戦うための訓練をする」と宣言した。
「本当は基礎体力が十分についてからのつもりだったが、そうもいかなくなったからな」
「なにかのっぴきならない事情でもできたの?」
「お前がウェンビアノさんの計画を早めたからだ」
「あ」と僕はばつの悪さに頭を抱えそうになった。そういえばウェンビアノも「順番が狂った」と言っていた。そういう順番も含まれていたのか。
「まあ、予想以上に身体ができていたのは好都合だったがな」
「武術はからきしだけどね」
「武術なんてお前にはそれほど意味がない。反骨心を煽るためだけのものだった」
「え?」
ちょっと待ってくれ。
僕がどれだけ投げられ、転がされ、這いつくばらされたと思っているんだ。
視線にできる限りの抵抗を込めたが、フェンが受け取ろうとする様子はまるでなかった。詰ることも叶わず、僕は続きを促す。
「そもそも、剣術、槍術などといった武術がなんのためにあるか、わかるか?」
「それは」と口ごもる。「それは強くなるために」
「半分、正解だ」
「半分?」
「ああ、武術の根底にある基本思想は『弱者が強者に立ち向かうこと』だ。だから、必然的に防御の技術が重要になる。だが、武術は圧倒的な暴力の前にはいとも簡単に平伏する」
「……ごめん、よく分からない」
正直に困惑をぶつけると、フェンは頭を掻いた。
「例えば、そうだな……、武の極地に至った達人がいるとするだろう。そいつは体躯が数倍もある魔獣を前にしたとき、必死で武術を駆使しようとする。だが、それで生き残るのはほんの一握りだ。あるいは、山の崩落、火山の噴火、そういった場面では武なんてものは一向に役に立たない」
「ちょっ、ちょっと待ってよ。なんか極論に走ってない?」
「極論じゃあない。前の世界でどうだったか知らんが、ここにはそんなことにありふれている。遠くから魔法を放たれたら、武は意味をなくす」
「フェンの言うことは正しいかもしれないけど……それなら武術なんてとっくに廃れているはずじゃないか」
「それは武術がこと人間同士の戦いにおいては魔法の天敵だからだ」
「天敵」と咀嚼するように、僕は繰り返した。「それは、詠唱に時間がかかるから?」
「そうだ。戦争には歴史がある。少し長くなるが、聞いておけ――」
これは、きっと、僕にとって重要な話だ。そう直感し、居住まいを正す。
フェンは一度目を瞑り、滔々と語り始めた。
「……魔法なんてものが体系化していなかった時代、人間は武器を持ってぶつかり合っていた。そこでものを言ったのは統率力と練度、つまり、統一された多数の力だ。そこに魔法という先進的な技術が用いられるようになると戦争は変わった。百人の優秀な兵士を単発で屠る魔術師が重用されるようになったんだ。いわば、圧倒的な個人の力が戦場を支配した。だが、優秀な魔術師を持てない国も中にはあった。当然、行き着くのは詠唱の妨害だ。そこで発達したのが圧倒的な速さで相手に近づく軽歩兵であるとか騎馬隊だった」
「弓とか、飛び道具は発達しなかったの?」
「牽制程度だな。弓はあらゆる壁に遮られる。水壁、風壁、人の壁。それに正確に射貫くためには一点に留まらなくてはならない」
「魔法の餌食、ってことだね」
フェンはゆっくりと、噛みしめるように頷く。
「そうやって堂々巡りになり、現代の戦術に帰結した。魔法を使えない者は身体を鍛え、その素早さをもって魔道士を殺す。魔道士はなんとか距離を取って、魔法を放とうとする。結果として、前衛と後衛の概念が強固に確立した。その後で出現した阻害魔法が戦場における最新の戦術だ。これが厄介でな、そうなると必然的に優先的目標はそちらにかわる。つまり――」
「阻害魔法の術者を先に……殺した方が圧倒的に有利ってことだね」
「そこで、だ。少し試したいものがある……。ちょっとお前の超能力を使ってみてくれ」
「え、うん、いいけど」
僕は背中の方に意識を集中させ、サイコキネシスを発動させた。若草色の、ぼやけた輪郭の〈腕〉がぶらりと宙を掻く。
「で、何をどうすればいいの?」
「いや、もう十分だ」
その一言に何を動かすのだと身構えていた僕は拍子抜けする。息を巻いて暴れ回ろうとしていた幽界の腕までもがしな垂れ、寂しそうに蠢いた。
「やはり、睨んだとおりだった……、ニール、お前のその力は阻害魔法の影響を受けないらしい」
「え」
「この部屋には阻害魔法がかけられていてな、それを試したかった」
「なんだ、そんなことだったのか」
僕の力は魔法じゃない。魔法を阻害するための術の影響など受けるはずなんてないじゃないか――
そう言おうとして、僕は固まった。
フェンの眼差しが、僕の無知をあげつらうような炯々たるものになっていたからだ。
「そんなこと、ではない。いいか、ニール。これはお前の力が均衡を崩し得る力になる、ということなんだぞ」
「そんなばかな」と言いかけて、やめる。
おだてようとしているわけではない、真剣な声色。僕はそれでも彼の言葉を飲み込めず、慣れきった自嘲の笑みで頬を引き攣らせた。
これまでそんなこと、言われたことがなかった。動揺が背筋の奥を引っ掻いている。全身にむずむずとした痒みが走った。
「ちょっと待ってよ。僕のこの、どうしようもないサイコキネシスがそんな大層な力のはずないじゃないか! 魔法って遠い距離からでも効果があるんでしょ? そこに僕が放り込まれたところでなす術なくやられるだけだよ」
「だから、言っただろう。これまでの戦争は歩兵がいか魔術師に近づくか、ということに焦点が置かれていた。小規模戦闘でも同様だ。その中にお前がいればいい。お前は剣よりも離れた場所から攻撃することができる。簡単だ」
「全然、簡単じゃない!」
人を傷つけるために作られた刃物、その鋭利なイメージが形となって心を刺した。皮膚が裂かれ、肉を破られるその感触が恐怖に変質し、肌を撫でる。
「フェン、僕は今まで命の奪い合いなんてしたことがないんだ。ただでさえ……ただでさえ、僕は生き物を殺せないように作られている、そう説明したじゃないか! そんな大勢が殺し合うための野蛮な場所で動けるはず……」
僕は唇を噛みしめる。言葉として吐き出したことで興奮に覆い隠されていたはずの真実は彩度を増した。
守る――それは美しい言葉かもしれない。だけど、そこにあるのはどこまでも血生臭い現実だ。僕が任されていたのは暴力に暴力で対抗する、極めて原始的な役割。
それに気付き、愕然とする。わかっていたはずなのに――理解して、ウェンビアノやカンパルツォと約束したつもりだったのに。拳を握りしめ、僕は地面を睨む。ふがいなくて、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
どれだけそうしていただろうか、フェンはわずかに躊躇いの滲んだ声で言った。
「ニール、お前は立っている場所を勘違いしている」
「だって、そうじゃないか! 僕に人を殺す手伝いをしろって言ってるんだろ。僕は……僕は盾だって、そう言われたんだ……」
「……殺せ、とは言っていない。戦え、と言っているんだ。……いいかニール、伯爵さまとウェンビアノさんはそんな場所に立とうとしている。捲き込みたくはないが、ベルメイアさまも、アシュタヤさまも、そこに否応なく立たされることになる」
その言葉は、静かに、けれど、どんな刃物よりも鋭く僕の心を突き刺した。
きっと彼らの理想はこの国に大きな対立を生むのだろう。繋がりがあるというアシュタヤやベルメイアもその危うい綱の上に立たされるのは明白だ。そして驚くべきことに――あの二人はカンパルツォとウェンビアノの理想についていこうとしている。
「私たちが理想としている世界」――
僕はアシュタヤの言葉を思い出し、歯噛みした。
なにが、この世のあらゆる危機から彼女を遠ざけたい、だ。
真っ先に危険から遠ざかろうとしているのは僕自身じゃないか!
それが悔しくて、僕はフェンに悟られないように強く拳を握った。
どれだけ恐れても僕が大きな力を握っているのは示されたとおりで、取るべき行動は一つしかないのだ。決意しろ。心の中で繰り返す。決意しろ、決意しろ。
これまでなんの役にも立たなかった僕の超能力を必要としてくれている人たちが、優しくしてくれた人がいる。彼らの歩く道には危機がつきまとう。僕が想像した血生臭い現実が彼らに降りかかる日が確実に来るのだ。
もし、ここでいつものように逃げたら抱えきれないほどの後悔に苛まれるだろう。
そして――僕には彼らの元以外に行くべきところはなかった。
ほとんど生まれて初めて、自分自身の意志で取り付けた約束なのだ。それを違え、裏切ることはあってはならない。僕は恐れを胸に抱いたまま、それを真正面から捉え、自分を奮い立たせるように小さく発音した。
「……やるよ」
これが取り返しのつかない選択になったとしても構わない。必要とされる居場所があるのならば、僕は彼らのそばにいたかった。そして何より、この悪意が渦を巻く世界で彼女を守ろう、と今度はあやふやな希望としてではなく、現実を知った上で、誓った。
〇
戦闘訓練は超能力の把握、という忘れかけていた基本的な事項の確認から始まった。
計測値を思い出しながら、僕はフェンの質問に答えていく。
サイコキネシスの射程――これは五メートルほど。体調や精神状態にも左右されるが、最大でも六メートルが限界だ。そこまで達してもエネルギーが衰えるわけではないけれど、離れれば離れるほど操作は覚束なくなる。ただ、近ければいい、という単純な構造でもない。僕がもっとも力を発揮できるのは三メートルから四メートルの距離だった。
方向に関しては、特に制限がない。もちろん、視界に入れなければいけないのは当然だが、幽界の腕には関節などないから、三百六十度、好きな方向に動かすことができる。
力の程度――、これも問題はなかった。大岩を動かしたほどだ、同じ力で思い切り振り回せば、それだけで相手の脅威にはなる。
一つ自信があったのは継続性である。連続でサイコキネシスを行使したとき、多くの人は倦怠感や疲労感、ときに頭痛を訴えるが、僕はどれだけサイコキネシスを用いてもそうなったことはなかった。
「なるほど、十分に武器になるな」
「そうかな」褒められるのに慣れておらず、僕ははにかんだのを見咎められないよう顔を逸らした。「僕なんて下から数えた方が速かったんだよ」
「どうしてだ?」
「どうして、って、みんな僕より上手かったから……」
「具体的に言え。悪いところを隠して何になる?」
あまりの正論に僕は言葉に詰まる。自分の口で告げるのは気が進まなかったが、見栄だけで逃れられる話題ではなかった。
問題があったのは、やはり操作技術である。超能力養成課程の一級に所属するなら当たり前の同時操作、つまり、〈腕〉を一度に二本以上行使するのは僕にはできなかった。つまり、相手が多数になったときの対応策が必要になる。
また、力の加減も不得手なものの一つだった。僕は非常に大雑把な加減しかできないため、柔らかい物質を掴むと破壊してしまう恐れがあるのだ。だから、誰かが襲われそうになったとき引き寄せるなんて芸当は不可能といってもいい。
「つまりお前の〈腕〉は……とんでもなく不器用というわけだ」
「ずいぶん噛み砕いたね」とはいえ、彼の評価に誤りはない。「そのとおり、僕には細かいことなんてできない。役立たず、って言われてたし」
「そう卑下するな。確かに短所はあるが、長所もある」
フェンは宥めるようにその二つを順に語った。
短所は魔法ほど射程がなく、剣ほど小回りが利かないことである。また、別の方向から二人同時に攻撃されたときは致命的だ。傷ついた仲間を戦場から遠ざけるのにも使えそうにない。そして、これは僕自身の問題であるけれど、一般的成人男性ほどの運動能力で、付け焼き刃の武術しか持たない僕が最前線で暴れ回るはずもなかった。
長所は魔法と同じくらい強力で、剣と同じほど素早いことである。また、予備動作なしに、しかも不可視の攻撃を繰り出せるのは大きなアドバンテージであることは間違いがない。
そうなると、必然的に僕のいるべき空間が浮かび上がる。
「中距離、だな」熟考の後で、フェンがぽつりと呟いた。「せっかく剣の届かない間合いから攻撃できるんだ。無理に近づくこともない」
「そりゃそうだろうけど……近寄られたらおしまいじゃない?」
「そのときは剣を弾き飛ばせ。ついでに言うなら相手が魔術師なら近づけばいいだけだ」
「簡単に言うなあ」
「対策ははっきりしている、ということだ。魔術師相手の鍛錬も後でするが……お前がもっとも力を使える間合い、七歩での戦い方をとりあえず学ぼうか」
そう言ってフェンは立ち上がり、僕に背を向けた。彼は武器が立てかけられている壁際まで進み、訓練用の、殺傷能力のないものが並べられた棚の前で足を止める。
「ねえ、フェン、中距離ってそれに対応する武器ないの?」
「ああ、あるぞ――これだ」
そして、僕は目を瞠る。彼の手に握られていたのは、僕の背丈の倍ほどもある、長い槍だった。
〇
槍の間合いはその長さにもよるが、おおよそ五メートルに満たない。大きな戦いでは六メートル以上の大槍が用いられることもあるが、そんな長物を持って堂々と市街地を歩いたら通報されるのが関の山だ。また、重く携帯性に優れないため、要人の暗殺などには向かない。
中距離で戦うためにもっとも危ぶむべき武器、僕はその対応に四苦八苦していた。
フェンは容赦がなかった。これまで自警団で受けた訓練がなんだったのかと思うほど、僕は容易く地面に転がされた。棒の先を綿で包んだ訓練用の槍は、肌を切り裂きこそしなかったが、身体のあちこちに痣を作った。
「どうした、そんなものか」
頭上から振ってくる声に僕は奥歯を噛みしめて立ち上がる。なんとか一撃いれようと僕は強くフェンを睨んだ。
「来い」
言われるまでもない。僕は足を踏ん張って彼の構える槍の穂先を狙い、全力で〈腕〉を薙ぎ払った。
だが、伝わってきたのは空を掻く、虚しい感触だけだった。
視界の中央でフェンが地面を蹴る。その速度は凄まじく、僕は〈腕〉を切り返すのも忘れ、横へと逃げた。
同時に危機感が頭の中で弾ける。構えられた木の槍、その切っ先が視界から消える。身を捩る暇もなく、肩に衝撃が走った。貫かれたのではないか、というほどの痛覚――。体勢が崩れる。その隙をフェンが見逃すはずもない、痛みの記憶は恐怖となって僕の身体を後方へと押した。
「後ろへ下がるな!」
叱咤が届くよりも速く、血に染まった綿が猛烈に迫り来る。咄嗟に丸まり、胸を守ると腕に重い感触が突き刺さった。身体がはじき飛ばされ、砂埃が舞う。
「もう一度だ」
遠ざかっていくフェンの声。だが、身体中の痛みに反比例して、僕の心は高揚していた。級友たちから受け続けた暴力とはまったく異なる痛み。おかしな話だけれどそこには暖かさと優しさがあった。
僕は何とか身を起こして、呻きながら定められた位置へと向かう。
「いいか、向かってくる槍相手に中途半端に退くな。前に進む速度の方がずっと速い」
「はい」
「左右はもっと悪手だ。人間の目は左右の動きを捉えるのは容易いし、お前の五歩横に移動したとしても相手が軌道を変えるのは一歩で済む。それに方向転換の際、動きが止まるからな」
前へ向かえ、狭い回廊で向かい合っていると思え。
始まる前、フェンは僕にそう言った。そのときは意味がうまく掴めなかったが、身体の痛みが否応なく理解させてくる。槍という武器が持つ最大の刃は「恐怖」だ。切っ先を真っ直ぐ向けられると、本能が恐怖を訴える。それを乗り越えなければ勝ち目などない。
僕は最初、そう時間をかけず、フェンの懐に入ることができると考えていた。
もちろん、綺麗に突きをかわし、一足飛びに間合いを詰められる、だなんてうぬぼれていたわけではない。ただでさえ不可視の攻撃ができるのだ。構えた槍を〈腕〉で払いのけ、近づけばいいだけ――その想像がいかに甘いものかも知らずに。
僕は踵を浮かせ、飛び込む体勢を整える。
短く息を吐く。
殺気、という眉唾なものがフェンには見えているようだった。攻撃しようと〈腕〉を展開した瞬間、彼の目つきが鋭くなる。槍を握る手が硬く締められたのがわかった。予備動作などないはずなのに、すべてが把握されているようだった。
試しに飛び込むふりをする。だが、その小手先の試みはなんの影響も及ぼさない。彼の構えは凪の水面のようにまったく平静のまま――。
痺れを切らし、動いたのは僕の方だった。
歯を食いしばりながら、槍の柄めがけて〈腕〉を払う。今度は確かな感触があった。弾かれた槍が宙を舞う、はず、なのに、フェンの手には槍が残っていた。見えざる〈腕〉の攻撃が来るのを看破していたかのように衝撃に持ちこたえている。
だが、道は開いた。
僕は意を決し、地面を蹴った。フェンの胴体に狙いを定め、そして、愕然とする。
――遠い!
思い切り距離を潰そうとしたにもかかわらず、フェンの身体は磁石のように反発し、サイコキネシスの射程、その外に移動していた。同時に、僕の動きが恐怖で鈍る。
迷いのない後退は逃げるためのものではなかったのだ。槍の先がいつの間にか僕へと向いている。フェンから放たれた獰猛な威圧感は直線的に僕の胸を貫いた。
喉から息が漏れる。
一歩、踏み出してはならない、と本能が警鐘を鳴らし、咄嗟に前進を停止する。
その判断すら誤りだと悟ったのは、僕が躊躇した一歩をフェンが踏み出してからだった。彼は僕の攻撃もいとわず、いとも容易く踏み込んでくる。萎縮した身体は慣性を殺すのに精一杯で、フェンの突きをかわすことなどできるはずもなかった。
腹部にまともに入った攻撃に呼吸が止まり、僕は土の上にくずおれた。酸素を求めて口がぱくぱくと動く。閉塞感に脂汗が滲み、苦痛の涙が一粒、頬を濡らした。
それからも僕はフェンに挑み続けたが、一矢報いることもできず、訓練は終了した。
〇
「一朝一夕で俺から一本取ろうなんて思っていたのか?」
応急処置で塗られた薬の匂いを漂わせながら、僕たちは帰路を辿っていた。無論薬の匂いを発しているのは僕だけだ。
ふてくされていたわけではないけれど、実際に超能力を使用して、ただの槍相手にここまでこてんぱんに伸されるとは予想もしておらず、僕は終始唸っていた。それを見たフェンは「百年早い」と笑っている。
「でもさ、フェンは僕の力を知っているんだから公平じゃないよ。確かに魔法は使ってないけど、実際の敵は僕の力を知らないんだから」
「しかし、実際の敵の武器には刃がついている。それでおあいこだ」
「そうかなあ」
「そういうものだ」
「フェンくらいの槍の使い手じゃないと柄を弾いたら勝負が決まると思うんだけど」
「まあ、そこらにいる盗賊程度ならな」
「でしょ?」
「だが、俺が槍の達人かと言われればそうでもない。俺は槍を持っていただけだからな」
「あれで?」
即座には信じられず、フェンを見つめたが、彼の眼差しには謙遜も、ましてや弟子をからかう冗談めいたものは一粒の砂ほどもない。紛れもない真実を語っているのがありありとわかった。
落胆が視界の下、長く伸びた影の中を這い、足下ににじり寄ってくる。だが、それで意気消沈するわけにもいかない。フェンの言ったとおり、一朝一夕で何もかもを超えようだなんて虫が良すぎるのだ。恐れを飲み込んだ上で一歩ずつ進まなければならない、と自分に言い聞かせるように心中で唱え続けた。
バンザッタの街の日暮れは他の街よりも少しだけ早い。
太陽はみるみるうちに高度を落とし、防壁に姿を隠そうとしていた。昼近くからずっと稽古を続けていただけあって、身体中が疲労と痛みで軋み、空腹も限界に近づいていた。
僕とフェンはそこらの屋台を適当に選んで、まあ、肉、という絶対的な条件の下にある「適当」なのだけれど、とにかく、食べ物を買い、腹を満たした。
夜の間際となっても、祭の喧噪は衰えていない。屋台の軒先につり下げられた魔法石は淡い輪郭の光を発し、夕闇を照らし出していた。水路を流れる紅葉がその光を反射している。街が光っているようだ、とぼんやり思った。
遠くでは豊穣の舞が躍られているのだろうか、奏でられる楽器の音が染みこむようにあたりを包んでいた。鼓膜を撫でる景気の良い音楽と人々の喧噪は、僕の身体から痛みだとか苦しみだとかを緩やかに取り去っていった。
大々的に催される祭を目にするのはほとんど初めての経験だった。
サンクスギビングデイは宗教的行事としての側面が強くなっていたから、なんだか不思議だ。科学が発展するにつれて、僕の時代の人々は宗教に安らぎではなく、厳かさを求めるようになった。超能力の構造化、つまり、別次元だとか幽界だとか量子世界だとか呼ばれるものが発見され、そことの接続がなされたことにより、僕たちはとてつもなく深い恐慌が蠢く薄氷の上に立たされることになったからだ。
世界がいい加減に作られている――その事実からなんとか眼を背けようと、人々は神の存在に縋った。まだ知らない神の理論があるのではないか、と宗教に傾倒し、その厳格さに安堵を欲した。今となっては頼りなくなった物理的法則、その上位の確たるルールがあるのだと信じて。
それが、この世界はどうだろう。きっと、彼らも僕らと同じ不安定な土台の上にいる。それは未だに魔法の存在に慣れない僕が生み出した勝手な幻影かもしれないけれど、やはり、多くの人が魔法の正体を知らない、という点では同義であるはずだ。しかし、少なくともこの都市の人々の中には確かに僕の世界にはない、笑顔があった。
曖昧を曖昧なまま受け入れる、柔らかな態度――僕はそれが少し羨ましく、周囲に視線を巡らせる。
そのとき、ふと、人の群れの中にアシュタヤの影を見たような気がした。確かめようとしたけれど、人波の中に消えたのか、色とりどりの光芒の中に垣間見た幻だったのか、結局、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
曖昧さの象徴である、超能力を持った、この世界の少女。
彼女が僕に与えた問いの正解とは一体なんなのだろう。
「どうした、物憂げな顔をして」
「ちょっと、ね」と歯切れの悪い返答をする。だけど、それだけで伝わったのか、フェンは小さく笑みを作って、僕の悩みを言い当てた。
「昨日のことか。アシュタヤさまと何かあったみたいだな」
「わかる?」
「でかでかと顔に書いてあるぞ。何があったんだ?」
「何かあったか、と聞かれても、僕にはわからないんだよね。僕にとっては突然、彼女が機嫌を悪くしたように思えるんだ」
「まあ、あの人は不思議な人だからな」
「フェンとかベルメイアさまには普通に接してたから、僕が知らないうちにしっぽを踏んづけたんだろうけど、どうすればいいんだろう」
「どうにかしたい、とは思ってるんだな」
「当たり前だよ」
「なぜだ?」
「なぜって」
その答えを上手く言語化することはできなかった。ただでさえ、僕は良好な人間関係を築いたことがないのだ。好かれたい、と断言できるほど彼女を恋慕しているわけでもない、と思う、きっと。けれど、嫌われたくはない、と感じているのは事実だった。
彼女は畏怖と郷愁と、僕が味わったことのない種類の暖かさを与えてくれた。言葉を交わしていると、フェンやウラグ、ウェンビアノと会話しているときの楽しさとは異なる喜びがあった。
ただ、一つ、はっきりしている思い。
それは、彼女のことをもっと知りたい、というどうにも恰好のつかない感情だった。
「俺は」とフェンが前に眼を向けたまま、言う。「俺はな、人間の持つ感情は槍のようなものだと思っているんだが」
「どういうこと?」
「憎しみにしても、好意にしても、後ろに下がり、左右に逃げているうちには理解することができないだろう? 結局、その本質を知るためには前に出るしかないんだ。そうしなければ、相手の感情に触れられずに終わる」
ふうん、と僕は気のないふりをする。けれど、フェンの言葉がまったく的外れなものとは思えなかった。
偶然とは言え、一度は踏み込んだ彼女の感情の間合い。それが今は少しだけ離れ、僕は戯曲的な拗ねを突きつけられている。それを攻略するにはやはり、恐怖を飲み込んで踏み出すしかないのかもしれない。
僕の感情が届く、七歩の距離まで。
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