6 六日間の収穫祭
赤く染まった葉が風に流されて路地を払い、するすると引っ張られるように滑っていく。やがて水路へと落ちた葉は水面を覆う。
紅葉で埋め尽くされたバンザッタは美しく、国中の絵描きが集まるらしい。水路までもが赤と黄色に染まり、その中にそびえ立つ城――『紅葉する街』は死ぬまでに見ておかなければならない景色だと有名だそうだ。
ちょうどその頃、この街では六日間に渡って収穫祭が行われる。自然の恵みに感謝し、翌年の豊穣を願うその祭は王都から離れた南の端にある要塞都市での催しであるにも関わらず、観光客が絶えないという。
カンパルツォとの謁見から二日経った収穫祭の初日、僕とフェン、ベルメイア、アシュタヤは人でごった返す堀沿いの道を歩いていた。堅苦しい近衛兵に先導されずに収穫祭を歩き回るのが初めてなのか、ベルメイアは年相応にはしゃぎ、あちらの屋台へ、こちらの屋台へと忙しなく駆け回っていた。フェンははらはらとした表情で彼女の後ろを追っている。
「ねえ、フェン、あたし、これ食べたい!」
「ベルメイアさま、わかりましたから落ち着いていただけませんか」
「落ち着いてるわよ!」
ベルメイアは形だけの反論をしながら、ぴょんぴょんと跳びはね、店主の作る料理を今か今かと待っている。
彼女はフェンによく懐いていた。僕に向けている態度とはまるで異なり、事あるごとに彼を呼んでいる。話を聞くに、昨年の『水渡り』でのフェンの姿を見て以来、熱烈な信奉者となっているとのことだった。全身を躍動させ、魔法を駆使し、飛び上がった彼の雄々しい姿に彼女は心を奪われたそうだ。だから、今年も『水渡り』を間近に見られる対岸にいたらしい。
小さな女の子が恵まれた体躯のフェンを振り回すさまは、傍若無人な姫君と従順な付き人のようでもある。それが琴線に触れたのか、僕の隣で、アシュタヤがくすくすとおかしそうに笑い声を立てた。
「ベルがはしゃいでしまってごめんなさい、ニールさん」
「いえ、僕はなんとも……」
これまで要人の護衛の経験などない僕は周囲の警戒に必死で、受け答えもぎこちなくなってしまう。だいたい、アシュタヤが隣にいる、というこの状況が僕の緊張を募らせた。美しさか、それとも顔が知られているのか、すれ違う若い男の目がひっきりなしに彼女に向けられていて、僕はそのすべてを威嚇するのに必死になっていた。
この場でサイコキネシスを使えない、ということも遠因だ。警護を頼まれたのはいいが、結局、超能力の使用についてどうすればいいのか、ウェンビアノに訊ねられなかった。だから、もしこの場に彼女を襲う暴漢が突然現れたら、習い始めて間もない拙い武術を駆使するしか方法がない。
道行く人すべてを疑うその形相が見ていられなかったのだろう、アシュタヤは困惑に満ちた苦笑を浮かべ、僕の眉間の皺を覗いて言った。
「怖い顔」
僕は不審者を捜すふりをして目を逸らす。「くれぐれも、と言いつけられておりますから」
「いけませんよ、お祭りなんですから。そんな顔で歩いていたら街の皆さんが警備兵の方に通報するかもしれません」
「しかし、カンパルツォさまは」
「伯爵は私たちが最後の収穫祭を思う存分楽しめるように、と枕詞にしてくださってました。ニールさんが警護をしてくれるのはとてもありがたいですが、幸いこの街は治安がいいですし、それに隣にいる方がそんなに怖い顔をしていたら楽しめるものも楽しめません」
「……申し訳ありません」
「その堅苦しい言葉もです。これから貴族も平民もない時代が来るというのに、そんな話し方をされると私まで肩が凝ってしまいます。歳も、ええと、同じみたいですし、もう少しくだけてみませんか?」
「善処します」
僕の対応が不満だったのか、アシュタヤは細い眉を顰め、小さく「本当に、善処してください」とふくれっ面を作った。怒らせてしまったか、と不安になった僕は大袈裟に眉間を擦り、皺を消そうとする。その仕草が興に入ったのか、少しだけ彼女は表情を緩めた。
西施の例も世の中にはあるけれど、と僕は彼女の横顔を盗み見る。
〇
「ねえ、エイシャ、絵描きが向こうにいたわ。描いてもらいましょ!」
屋台の料理を両手に持ったベルメイアは右手に持った腸詰めで人垣の向こうを指し示しながら僕たちの元へと駆け寄ってきた。動きやすい格好をしているものの、転ばないか、と僕ですら不安になった。
その後を着いてきているフェンの両手も汁物の入った器でふさがっている。疲れを感じ始めている僕と違って、ベルメイアに振り回されている彼の表情には幾ばくかの疲弊も見て取れなかった。
私たち、一緒に描いてもらったことないでしょ、とベルメイアは左手に持っていた食べかけの芋をアシュタヤに渡し、彼女の袖を引っ張った。見れば、鼻の頭に芋とバターの欠片がついている。
「絵を描き終わるまで我慢できるの?」
アシュタヤは刺繍の入ったハンカチでベルメイアの鼻の頭を拭いながらそう苦笑した。仲の良い姉妹みたいだ、と僕は思い、その後で、ふと疑問が立ち上った。
そういえば――カンパルツォはアシュタヤを娘とは言っていなかった。ならば、彼女とカンパルツォ一族はどんな関係なのだろうか。彼女の気品のある佇まいは貴族然としていて、一介の侍従には到底見えない。
人垣の向こうにいるという絵描きの元へと向かう彼女たちを追いながら、僕は小声でフェンに訊ねた。
「あのさ、フェン。……アシュタヤ――さまって、カンパルツォさまとはどういう関係なの?」
「なんだ、聞いてないのか」
「聞いてない、って誰も説明してくれなかったし」
「本人に聞けば良かっただろう」
「それは、まあ、そうなんだけど」
慣れない状況に緊張して、とは口が裂けても言えなかった。他人のせいにするみたいで気分がよくなかったし、皮肉をぶつけられてもおかしくない。
「で、どういう関係なの?」
「あー……」と言いにくそうにフェンは間延びした声を出し、アシュタヤの後ろ姿を一瞥した。そんな特殊な人間なのかと勘ぐると同時に彼は意地の悪い笑顔で僕に言い放った。「本人に聞け」
「え」
「伯爵さまからも言われただろう、仲良くしろ、と。彼女たちのことを知るのも、自分のことを教えるのも、その一環だ。特に、これから近衛となる俺たちにとって重要なことだろう? 人となりを知っていた方が必死さが増す。だから、俺もベルメイアさまについて回ってるんだ」
「そうかもしれないけど……でも、じゃあ、フェンは嫌々付き人みたいなことやってたんだね」
「人聞きが悪いな。俺は別にああいう子どもが嫌いじゃないぞ」
「なんか雰囲気と違う」
「まあ、お前もちゃんと約束を果たすんだな。別に傍にいたくないほどに彼女が嫌いというわけではないだろう?」
そうだけど、と歯切れ悪く答えた僕の声はベルメイアの歓声にかき消された。
絵描きの前には行列ができている。事前に描いておいた風景画の上から客の姿を付け足しているらしい。列の後ろではなく、絵描きの後ろで、ベルメイアがその絵の美しさに舌を巻いていた。
「ね、ほら、綺麗でしょ! おじさん、これ、どのくらいで描けるの?」
質問された絵描きは手を寸分ほども止めなかった。滑らかに動かされる筆はまるであらかじめ描かれていた絵を浮き上がらせているのではないか、と疑いたくなるほど精密に客の姿を表現していく。それでいながら、絵描きはベルメイアの質問に答えることも忘れない。
「その芋を食べ終わるくらいには終わりますよ」
「それくらいなら私だってじっとしてられるわ」
「はいはい、じゃ、列の後ろに行こうね」
苦笑しながらアシュタヤはベルメイアの腕を引いたが、当のベルメイアは動こうとしなかった。列に並んでいる時間を失念していたのだろう。三組しかいなかったが、その時間も耐えきれない、と言うように彼女は顔を顰めた。
「並ばなきゃだめ?」
「描いてもらいたいならね」
「どうしても?」
「どうしても」
うー、とベルメイアが唸る。が、アシュタヤはすまし顔をしているばかりで折れる気配は微塵もなかった。二人はしばらく押し問答を続けていたが、やがて、ベルメイアが名案を閃いたと言わんばかりに顔を輝かせた。
「じゃあ、予約すればいいのよ! おじさん、予約ってやってないの?」
「あー、本当はやってないんですけど、ベルメイアさまだし、特別に」
だが、絵描きの厚意を、アシュタヤは丁寧に、かつ、きっぱりと押し下げた。
「遠慮させていただきます」
「ちょっと、エイシャ! せっかく――」
「ねえ、ベル。領主の娘だからって特別扱いさせたら子煩悩な伯爵でも、お怒りになられるんじゃない?」
「う」
「それに、私たちが思い描いている世界は領主の娘だからといって特別扱いされる世界じゃないでしょ」
「そうだけど……」
ベルメイアの表情が途端にこれまで見たことのないほどに昏くなった。ほとんど泣きそうになっている彼女に、アシュタヤは申し訳なさそうに溜息を吐いて、首を傾げた。
「じゃあ、どうする?」
「並ぶ……」
蚊の鳴くような声でベルメイアは応え、その返答にアシュタヤは大きく頷いた。それから僕たちにもやはり、すまなそうに頭を下げた。
「ごめんなさい、フェンさん、ニールさん。そういうことで少し待っていただけますか?」
そう言われて、僕たちが拒絶できるはずもなかった。ここで「いやだ」と言ってしまったらベルメイアが癇癪を起こしかねない。
〇
結論から言えば、順番が来るまでの、おそらくは三十分ほどになるだろうその時間を、ベルメイアは耐えきることができなかった。彼女はしばらく絵描きの一挙手一投足に注目していたけれど、しばらくしたらそれにも飽きたようで、今度は通りを歩く人が歩き食いしている食べ物を検閲するがごとく目を光らせていた。挙げ句の果てに僕を並ばせて、フェンをつれてその店へと走って行ってしまった。
一回だけならアシュタヤも許したのかもしれない。
だが、串に刺さった肉を胃に収めたベルメイアが再び列を外れようとすると、アシュタヤは柳眉を逆立てて、彼女を叱責した。穏やかな物腰ではあったけれど、圧迫感は強く、まさか、親しい姉のような存在にそこまで窘められるとは考えもしなかったのだろう、ベルメイアは借りてきた猫のように大人しくなった。
「じゃあ、今度は私たちが列を外れましょうか。行きましょう、ニールさん」
「え、ちょっ」
僕はアシュタヤの細く、柔らかな手に引かれ、振り払うこともできず、続く。彼女はしばらく道を突き進み、ベルメイアの姿が人垣に埋もれたことを確認すると立ち止まった。ふう、と小さな吐息が溢れる。
「ごめんなさい、ニールさん。お騒がせしました」
「……あの、いいんですか」
「いいんです。元はベルが並ぶと言い出したんですから」
「しかし……」
「あの子、きっと私が傍にいると意地を張るかもしれませんしね。せっかく絵に描いてもらうんですもの、しっかり頭を冷やして仲直りしてからでないと。フェンさんなら上手く窘めてくれるでしょうし」
確かに、そうかもしれない。フェンは僕から見ても大人だ。それに、彼の言うことならベルメイアも素直に聞くだろう。少なくとも僕が残ったとして、それで事態が好転するとはとても思えなかった。
「それに、実を言うと私――」
そこまで言いかけたとき、彼女の声は小さな腹の音にかき消された。
反射的に顔を上げる。
信じられないほど顔を真っ赤にしたアシュタヤが恥ずかしそうに俯いていて、僕は以前彼女に対して感じた畏怖など忘れ去ってしまった。
「もう、ニールさん、笑わないでください」
非難めいた目つきを向けられて、笑いをごまかすように顔を逸らす。
ベルがあんまりおいしそうに食べるからずっと我慢していたんです、と彼女が頬を膨らませるものだから、僕は「何か食べていきましょうか」と自分の望みを口にする。
〇
「何を召し上がりたいですか?」
腹の音を聞いてしまったというだけで、僕はそれまでよりずっと気軽にアシュタヤに話しかけられるようになっていた。
人が人と打ち解けるきっかけなんて、おおよそ単純なものに違いない。彼女が意図せず鳴らした腹の虫の声は僕たちの間にあった、正確に言えば、僕が勝手に築いていた鉄の壁を驚くほど脆いものにしていた。堅苦しい、と指摘された喋り方は残っていたけれど、隙間を埋めるために苦心して言葉をひねり出さなくとも会話が続き、それを素直に楽しいと思えた。
「そうですね、甘いものは少し……、できれば暖かくて、塩気のあるものがいいです」
「じゃあ、それでお腹にたまるものを探しますか」
「……あの、ニールさん。私が食いしん坊みたいにおっしゃっていませんか?」
「そんなつもりは決して」
「本当ですか?」
「本当です」
嘘ではない。みたい、だなんてそんなあやふやには思っていない。
事実、何か食べに行こうとなったとき、彼女の顔は確かに輝き、品定めするかのように屋台を見回していた。彼女が我慢をしていたのは、歩き食いがはしたないと思っていたからだろう。周囲にも屋台の食べ物を口にしながら歩いている市民が多かったからベルメイアに注意できなかっただけなのかもしれない。
細い身体だから健啖家ではないはずだ。むしろ彼女の小さな口を見ると少食な方だと思えた。少食だからこそ、少ない料理をしっかりと味わって食べる、そんな姿がぴったり似合う気がする。
「では、落ち着いて食事できるところを探しましょう。通りに面した料理店なら腰を下ろすこともできるはずです。耐えられますか?」
「……ニールさん、失礼ですよ」
貼りつくような湿度の高い視線を向けられて、ようやく、自らの過ちに気がついた。イルマの言葉を思い出す。「……あんた、たまーに、とんでもなく憎たらしくなるね」。自分でそうあろうとしているつもりなどなかったが、くせになっているのかもしれない。調子に乗ってしまった。
「申し訳ありませんっ! 別に揶揄しようとしたつもりは」
どのようにして侮蔑を吐かれるのだろう。
肝を冷やした僕は唇を噛みしめて、アシュタヤの言葉を待つ――が、彼女はそこで大きく噴き出した。思わず頭を上げると笑みを押し殺すアシュタヤがいる。
意図をはかりきれず呆けていると、彼女は嬉しそうに「こんな感じなのでしょうか」と言った。「近しい友人は、こんな風に軽口を言い合うのでしょうか」
年齢と身分の離れたウェンビアノとカンパルツォがお互いを楽しそうに貶していた姿が思い浮かぶ。あれはきっと度が過ぎているし、年季が入りすぎているが、きっと彼女の疑問を否定できるものではないだろう。
「私は……私は、今のベルくらいの頃にこの城に招かれました。私の家も田舎貴族とはいえ、一応は貴族の端くれですから、カンパルツォ家の家臣の方々は客人として恭しく対応していましたし、侍従さんたちには甲斐甲斐しくお世話していただきました。でも、やはり、どうも貴族という壁があったようで……、だから、同じような歳の方とこうして楽しくお話する、というのは初めてなんです」
「……そう、だったんですか」
きっと彼女はその一点の欠落に懊悩していたのだろう。
貴族を敬う臣下に囲まれた生活で、彼女にとっては同じ身分であるベルメイアだけが安らげる場所だったのだ、きっと。だが、そのベルメイアも背丈が僕の胸ほどもない子どもに過ぎない。
僕の境遇と、少しだけ、似ている気がした。
僕は遠慮のない悪意の中で、彼女はたぶん、行き過ぎた善意の中で安らぎを探していたのだ。どちらが不幸なのか、一概には言えない。僕は肉体的に精神的にも削り取られていて、彼女は満足な環境を与えられていた。だけど、周囲を憎める僕とは違って彼女は憎むこともできなかったはずだ。
「ですから、ニールさん。もしよかったら、私とお友達に――」
彼女の、鈴の鳴るような声に、無遠慮な呼びかけが重なった。
「あれ、ニール、何突っ立ってるのさ」
喧噪の膜を容易く突き破る快活な声を投げられて、僕は声がした方向へと顔を向ける。その先にはイルマの姿があった。通りに出したテーブルに料理を提供しているようだ。
はっとして、僕は周囲を視線を巡らせる。今まで気がつかなかったが、数日前に訪れたイルマの働く料理店が目と鼻の先にあった。
「こんな往来で立ち止まって――あれ、綺麗な女の子連れてるね、手が早いじゃない、って、ちょっと待った、ラニアさまじゃない、どういうこと?」
彼女は興奮を露わにして、一息に捲し立てる。料理を慎重にテーブルへと置き、足早に近づいてきた彼女は吐息が当たるほどに顔を寄せてきた。
「なに、誘拐とかそういうの?」
「違うよ、イルマ」僕は身体を仰け反らせて否定する。「僕は彼女の護衛だ」
「護衛ぃ? こんなひょろひょろしてるあんたが?」
「いいだろ、別に」
僕は反駁しながらイルマを睨み、それからアシュタヤのことを思い出した。
「あの、紹介します。このひとはフェンの妹で――」
「イルムシュ・アルダと申します、ラニアさま」
僕と話していたときとはまるで違う態度に面食らう。土の民のものなのだろうか、両手を背中に回して頭を下げる変わったお辞儀に、アシュタヤも恭しく返答した。
「アシュタヤ・ラニアです、イルムシュさん。ええと、イルマさん、とお呼びしてよろしいですか」
「もちろんです」
「では、イルマさん。どうやらお食事処にお勤めしているようですが、お邪魔しても構いませんでしょうか」
「ええ、ぜひ! ――ちょうど店内の席が空いたところですのでご案内いたしますね」
イルマはエプロンを翻し、きびきびと僕たちを店へと導いた。その姿はとても愛想がよく、僕にとっては信じられないものだった。
信じられないものだから、当てつけに不審を口にする。
「僕のときとはまるで態度が違うじゃないか」
「あんたにかしこまったってしょうがないでしょ」
「それはそうだけど」
「仲がよろしいんですね」と笑みを湛えて会話に混じったアシュタヤに、イルマが頬を掻く。「兄の縁もありまして、この街の案内などをしたんです」
「案内って言ったって」僕は鼻で笑う。「好き勝手に連れ歩いただけですけどね。顔を合わせたのも二、三度ですし」
「ふふ、とてもそうは見えませんね」
イルマに案内されて僕たちは店の一番奥にあった座席へと通された。店内は女性ばかりで、彼女たちはアシュタヤを見た途端、口を押さえて、きゃあ、と小さな歓声を上げた。やはり顔を知られているようだ。それまで静かに談笑していた婦人たちは突然現れた有名人に驚きを隠そうともせず、ひそひそと興奮を共有していた。
アシュタヤは慣れているのか、あまり気にする様子もなく、店内に飾り付けられたかわいらしいオーナメントを興味深そうに眺めている。それから、壁に掛けられた木の板のメニューに少し目を通して、イルマにおすすめの料理を訊ねた。
「イルマさん、どれがいちばんおいしいんでしょう?」
「そうですね、うちはスープが自慢なんですが……、魚介は大丈夫ですか?」
「ええ、魚はよく食べています」
「じゃあ、海の幸のスープをお持ちしますね。一緒に食事でよろしいですか?」
「お願いします」
笑顔で頷いたアシュタヤを見てから、イルマは凜とした声で厨房に注文を伝えた。はあい、と間延びした男の声が聞こえる。
メニューを眺めていた僕は思わずイルマに、ちょっと、と苦言を呈した。
「僕もそれにするとは言ってないんだけど」
「こういうときは同じものを食べるんだよ。フェンとかおじさんに聞いてないの?」
そういうものなのか?
にわかに鵜呑みにはできなかったけれど、よく考えたらこんな状況に陥ったときの礼儀など聞いた覚えがない。注文に悩んでアシュタヤを待たせるのも忍びなく、結局同じものを注文した。焼き菓子も僕は好きだったけれど、今回は諦めることにする。
「お好きなものを食べて構いませんよ」
「いえ、僕もそれを食べたくなってきましたので」
「じゃあ、持って参りますので少々お待ちくださいね」
頭を下げたイルマは慌ただしく厨房へと去って行った。僕はその後ろ姿に小さく嘆息し、背もたれにゆっくりと体重を預けた。
ようやく人心地つける。これほどの喧噪の中で護衛するのは決して楽なものではなく、ようやく緊張を解くことができる、その安堵に僕は大いに気を緩ませた。
しかし――、しかし、一介の護衛である僕が貴族であるアシュタヤの正面に座って一緒に食事をしてもいいものなのだろうか。きっと彼女は気にしないだろうが、周囲がどう思うか、気になって仕方がない。
そして、その懸念は、どうやら当たっていたようだった。
傍にいる婦人たちが訝しげに僕を見つめているのだ。その視線が無礼な田舎者に向けられるようなとげのあるものだったので、居たたまれなくなる。上手い具合にごまかせないものか、こういった場ではどういう風に振る舞えばいいのか、アシュタヤに訊ねようと、正面に顔を戻した。
戻して、そこで待ち受けていた彼女の態度に困惑する。「え」と思わず声が出た。
アシュタヤは折り目正しく、ぴんと背筋を伸ばし、そして、まるで僕を決して見まいと意思表示するように顔を横に向けていた。先ほどまであった柔らかな微笑みはどこにもない。不服がうっすらと滲んだ無表情でじっと壁を見つめていた。
また失礼なことをしてしまったのか?
狼狽が身体を揺する。実態のない後悔が腹の奥で渦を巻く。
「えっと、あの」
どうにかして絞り出した声に、アシュタヤはつまらなさそうに応えた。
「私は先ほどあなたに『お友達になっていただけませんか』と言おうとしましたが、撤回することにします」
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