2『水渡り』と二つの壁
太陽も中点をだいぶ過ぎ、暮れの時間帯が近くなっていた。朝よりは暖かいが、やはり寒さの予感が足下から這い上がってきている。風が吹くたびに等間隔に植えられた木々から枯れ葉が落ちる。手のひらに似た形の葉っぱは地面を滑り、水路へ降りたつとゆっくりと流れていった。
イルマはとても気さくで、頼もしい人だった。フェンと同じ髪と肌の色のせいか、不思議な親近感がある。僕と同じくらいの身長の彼女はすらりとしていて、美しく人目を惹いた。屈託なく笑うそのさまは、燦々と照る太陽の下で背を伸ばすひまわりのようでもあった。
会ったばかりの人間に世話を焼くのと相手から敬語を取り除くのは「土の民」に共通する性格なのだろうか。そんな風に思いながらも、疎ましくはなく、僕は彼女に連れられるがまま、街のあちこちを回った。そのほとんどが旦那さんとの思い出の場所で、訪れるたびに彼女たちの愛の歴史が挿入されるのはいかんともしがたいことだったけれど。
「どう、フェンといて堅苦しくない? 叔父さんがいるからまだましだろうけど」
街の中央にある城を囲う堀沿いを歩きながら、イルマはそう言った。その気遣いの中に、家族の絆、みたいなものが感じられて、僕は少しだけ羨ましくなった。
「堅苦しいなんて……返せないほどの恩を感じてるよ。あの人たちがいなかったら僕はどうなっていたか分からないから」
記憶が甦る。元の世界で参加したワームホールの生成実験。〈腕〉を通してエネルギーを送った瞬間、ワームホールは暴走し、僕の身体を飲み込んだ。気がついたときには実験施設は消え失せていて、深い森だけが周囲にあった。彷徨っているところをフェンたちに拾われてこの街へとやって来たのだ。
その経緯を語るわけにもいかず黙っていると、イルマはふうん、と唸った。それから引き締めた顔を僕に向けてくる。
「ねえ、ニール。答えづらいかもしれないこと、訊いてもいいかな」
彼女の表情から質問の内容は、おおかた予想がついた。僕くらいの年齢の男は独り立ちしているのが普通らしいが、異国人となると別だ。参加していたコミュニティからはじき出された彼らの多くは家族や友人を切り離せないものとして固まることが多い。
「家族なら元気だよ。僕のいた……国で、もしかしたら僕を心配してくれているかもしれない」
「もしかしたら?」
怪訝そうに眉を顰めるイルマに、僕は慌てて取り繕う。「あまりいい子ではなかったからね」成績のいい子どもではなかった、という意味で。
「寂しいことを言うね、あんた」
「半分は冗談だよ」
「まあ、あんまり突っ込まないけどさ……、そうだ、兄弟はいないの?」
「兄みたいな人が一人、いるよ」
「義理の兄弟とかそういうの?」
「んー、まあ、そんな感じ?」
「仲は良かったの?」
「フェンとイルマほどではないかもね」
その返答にイルマは気味が悪そうに舌を突き出した。
「……あのね、私たちなんて朝飯前に喧嘩して、昼飯前に喧嘩して、晩飯は普通に食べるけど、寝る前にまた喧嘩するくらいには仲悪いんだよね」
「たぶんこの国とか、ロダ・ニダ・ドズクアにも『喧嘩するほど仲がいい』っていう諺に近いのがあると思うんだけど教えて欲しいな」
「……あんた、たまーにとんでもなく憎たらしくなるね」
「昔から虐められて育ったから歪んじゃってるんだよ」
「それは」と彼女は顔を顰めた。「あんた以上のひどい人間か、もしくはあんたを虐められるほど勇気がある人間か、どっちかだね」
きっとどっちもなんですよ、と口の中で呟く。
流れるように続いていた僕たちの会話が止まったのは、城の正門近くから反時計回りに歩き、三つ目の橋にさしかかっていたときのことだ。バンザッタには東西南北に大きな通りがあり、斜めに交差する形で水路が設けられている。南にある軍部地区と東部農業地区のちょうど境目あたりで僕は異常な光景を目の当たりにした。
子ども達が堀を覗き込んでいる。その視線の先には水の冷たさに喘ぐ一人の少年がいた。
突き落とされたのか?
その瞬間、僕の頭はかっと熱くなった。考えるより先に足が前に出る。しかし、イルマに肩を掴まれ、それ以上踏み出すことができなかった。
「離してよ、イルマ! 助けなくちゃ!」
「大丈夫だって、収穫祭の風物詩だよ」
「風物詩?」にわかには理解しがたく、訊き返す。「こんな時期に水の中に飛び込むのが?」
「大地の恵みのおかげで去年よりずっと遠くまで飛べるようになりました、ってさ。子どもにとっちゃただの度胸試しかもしれないけど。ほら、大丈夫そうでしょ」
そう言ってイルマは鷹揚に笑い、堀に落ちた少年を指さした。そこで僕も安堵する。少年は冷水と木枯らしに震えていたものの楽しそうに声を上げ、友人達へと手を振っていた。少年は降ろされた縄に掴まり、引っ張り上げられる。対岸で警備をしている兵士も微笑ましそうに眺めていた。
「……確かに、いやな感じはしないね」
「でしょ? ニールもやってみる?」
「冗談だよね?」
「半分本気。この国に来たとき、フェンも周りの大人に囃し立てられて飛び込んだのよ。しかも魔法まで使って全力で、ね」
「そのせいでフェンは若者を囃し立てることを覚えてしまった」
「それについては否定できないね」からからとイルマは笑う。「飛んでみなよ、せっかくだしさ」
「やだよ。僕は十七歳だよ? こんな子どもの遊びに――」
言い切る前に、一際大きな喚声と水音があたりにこだました。
僕は耳を、それから目を疑う。堀の中にはあごひげを生やした体格も年齢も僕の倍以上にもなろうか、という男がいた。彼は腰まで水に浸かっているというのに嬉しそうな雄叫びを上げている。
いい大人が何をしているのだ。
あんぐりと口を開けていると、イルマは意地の悪い笑みで背中を叩いてきた。
「子どもの遊びが、なに?」
「いやいやいや、嘘でしょ」
「大人だって収穫祭にははしゃぐもんだよ」
「だからって、そんな」
しどろもどろになって、僕は拒否する。
どこの世界にこの寒風吹きすさぶ中、冷たい水に飛び込んでうれしがる大人が、ああ、僕の世界でもかつてはそんな風習があったな、この世界でもそうだし、これだからはしゃぐ大人は手がつけられないんだ――これはまずい!
イルマのにやにやとした視線に僕は必死で言い訳を探した。
一刻も早くこの場を離れなければ本当に水に飛び込ませられる。いくらこの制服が快適な環境を作り出しているといえども、水の中では役に立たないのだ。
「あー、次は自警団の連中が飛び込むみたいね」
その言葉に僕は頭を抱えた。今か今か、と身体をほぐす男たちは見覚えのある、この街でも一際体格のいい自警団の面々ばかりだ。それだけならまだいい。あろうことかフェンすらも一緒になっている。
用事ってこれかよ! そう胸中で声を荒らげたとき、自警団の視線がこちらへと向いた。僕の姿を認めた彼らはやんややんやとはしゃぎは始めた。
「ニールよお、来ねえと思ったらイルマちゃん連れ回して何してるんだ」
「人妻に手を出すのは感心できねえな」
「フェンの怒りに触れちまうぞ」
がはは、と男たちは豪快に笑い声を立てている。訓練に参加するたびに僕を投げ飛ばしてくる彼らは遠慮など何一つ見せずに歩み寄ってきた。引っ張られながら僕は説得の言葉を模索する。人間は話し合いができる生き物だ。きちんと拒否の意志を伝えれば彼らも思い直してくれるに違いない。
「時間が空いていたので案内してもらってたんですが――」
「飛び込むよな?」
「いや、あの」
「飛び込むよなあ」
「あの、ちょっと、フェン、なんか言ってくれないかな」
「……諦めろ」
「いつもの冗談だよね、フェン……ねえ、フェン、なんでこっち見ないの?」
話し合いが通じない――その絶望感に打ちひしがれ、僕は項垂れる。助けてくれ、とイルマに腕を伸ばしたが、彼女は「夫以外には触れさせないの」と身をかわし、手を振ってきた。自分からは触ってきたくせに、という思いも声にはならなかった。
男たちは僕をスタートラインまで引き摺っていく。
「いいか?」――いいとは言っていない。
「よく聞けよ」――聞きたくもない。
「『水渡り』は収穫祭で恒例となっているこの街の公式行事だ。自警団は原則参加することになっている」――そもそも僕は自警団ではない。
それらすべての否定は秋風に流されたみたいに自警団の男たちまで届かなかった。彼らはいたって真面目な顔つきで説明を続ける。
「必ず全力でやるんだ。魔法が使えるんなら使ってもいい。というか、使わなければ、だめだ。そうしないと大地が怒り、来年の収穫は寂しくなるぞ」
「ちょっと待ってください! これって絶対そんな宗教的行事じゃないですよね。子どもは度胸試しでやってるって聞いたし」
「子どもは、な。大人は違うんだよ」
短い髭の生えた親爺、名前はなんと言っただろうか。僕を率先して投げ飛ばしてくる大男は「あれを見ろ」と堀の際にある文様を指さした。長方形の中に模様だとか文字だとかが書き込まれている。魔法が込められた特殊な図形であることは想像がついたが、それがどんな魔法を発するのか、分かるはずもなかった。
「あの魔法陣には、『真偽判別』がこめられてんだ」
「それって」
狼狽が背中をなぞり上げた。身体がびくりと震え、そこで僕はようやくフェンの忠告を思い出した。「堀の周りは危ないから近寄るな」。待ってくれよ、フェン。あの忠告に確たる意味があったのなら言ってくれよ。
「もし、手を抜いたら反応するからな。そうしたら、もう一回だ」
「ちょっ、ちょっとフェンと話をさせてください。その間お先にどうぞ」
羽交い締めにしてくる自警団の面々の腕から抜け出し、僕はフェンの元へ急いだ。ばつの悪そうな表情をしている彼を、火を焚いた天幕の裏まで引っ張っていく。人目がないことを確認して、僕はできる限り声をひそめて、そして、できる限りの非難を込めて、訊ねた。
「なんなの、これ」
「まあ、なんというか、大人がはしゃぐ会、だ。お前がまさかこっちに来るとは思っていなかった」
「忠告を忘れていた僕も悪いんだけどさ……、この際、飛び込むのはいいよ。でもさ、全力って、使っていいの?
「やるしかないな。あの魔法はごまかすこともできない」
「魔法なんて使えないのに? 僕には魔力とやらがないんでしょ?」
「それは関係がない」フェンはぴしゃりと否定する。「魔法は精神に反応するものだからな。俺だけで構成した陣なら一瞬打ち消すこともできるが、ここにいる何人かで作ったものだからそれも難しい」
「じゃあ、八方ふさがりってこと?」
「まあ、おそらく大丈夫だとは思うが……あの旗があるだろう?」
言いながら彼は堀を指さす。幅十五メートルほどの水路、その中ほどに旗が立っている。
「あれは俺が出した過去最高記録なんだが」
「自慢はどうでもいいよ」
「最後まで聞け。なぜあそこで止まったか、というとあそこを境に二つの壁があるからだ」
僕は目をこらし、その旗の先にある空間を凝視した。だが、壁らしきものなど見えるはずもない。
「この堀には三つ魔法がかけられている。一つは阻害魔法だ。飛び越えようとする奴が使う魔法を打ち消すための陣だ」
「じゃあ、全力に魔法とか関係ないんじゃ」
「助走だとか踏切には使えるだろう」
「ああ、そうか」
「で、そうやって飛び越えようとする奴のためにかけられているのが水壁と風壁の術だ」
そこまで聞いてようやく僕はこの街の歴史を思い出した。
この国、エニツィアは幾度となく戦争の渦中に立たされている。特に南国との軋轢はひどく、バンザッタは南部防衛を目的に作られた街だった。長い歴史の中、街をぐるりと囲んでいる防壁が打ち破られたこともあるそうだ。
だが、敵軍に包囲されてもなお、この城は落ちなかった。魔法をかけられた堀が馬の進行を妨げ、水の壁が飛び越えようとする兵士を遮り、風の壁が矢や魔法を弾き返したからだ。
「そういえば、教えてもらってたよ」
「なら、話は早いな。その魔法が起動する鍵が、あの線だ。つまり、事実上あの位置より先に進めることはない」
「なるほど……、でも、それなりに魔法を使える人がいるんなら、僕が魔法を使っていないこともばれちゃうんじゃないの?」
「ああ、それも気にするな。魔力の流れを確たるものとして感じられるほどの使い手はここにいない」
「じゃあ、別に心配する必要はないんだね」
「おそらくな」
「ところでさ、阻害魔法があるのに、どうして水壁と風壁は発動するの?」
「まあ、それは陣の特徴からなんだが……説明すると長くなる。さっさと跳んだ方がいいな。あいつらがこっちを見ている」
〇
「何をしてたんだ?」という質問に「魔法のおさらいをしてもらってたんだ」と答えた。自警団の間でも僕はフェンの弟子ということになっていたため、そんなおざなりな説明でも魔法を使えない男たちは納得した。
「で、跳ぶんだろうな」
「もちろんです」
僕の言葉に自警団の男たちからむさ苦しい歓声が上がった。詠唱するから少し時間をくれ、というと彼らは「おう、分かった」と頷き、それから賭けを始めた。堀には等間隔に線が刻まれていて、それのどこまで跳べるか、というのが対象らしい。大穴を狙った若い男が旗に大金を賭けて、笑われている。
その光景に僕は少し、ほんの少しだけかちんときた。ただ単に走り幅跳びをしたならば高低差を考慮に入れたとしても絶対に不可能な距離ではあるが――、僕にはサイコキネシスがある。跳んでいるときに背中をちょっと押すだけであそこまでは楽に行けるだろう。
どうせ全力でやらなければいけないのなら彼らに泡を吹かせる絶好の機会だ。脚を屈伸しながらぐっと奥歯を噛みしめる。ざわめきの中、嘘の詠唱を始める。
行くぞ――。
僕は決心を固め、地面を蹴った。人の壁の間を全力で駆け抜ける。その間に誰にも見えない〈腕〉を展開させた。幽界認識器官から生えたエネルギー体の〈腕〉はもがくかのように、強く暴れた。
はじき飛ばす必要はない。手のひらでそっと押すだけだ。
だが、そう考えた瞬間、暗幕のごとき恐怖が翻った。もし――もし、上手く制御がいかず、サイコキネシスが暴走したら、どうなる?
水の壁、風の壁とかいうものがどれだけ強烈なものかは分からない。だが、僕のサイコキネシスが必ずしも打ち負けると言い切れるのだろうか。不器用な〈腕〉が本来あり得ない位置まで僕の身体を運ばない、と断言できるか?
僕がこの世界で生きてこられたのは職業斡旋所の人々の庇護下にあったからだ。寝床と食事と仕事、学習機会、それら必要不可欠なものを与えてくれる人がいたからこそ僕は今ここにいる。所長であるウェンビアノがなぜ、僕をそんな待遇で扱っているのか、その裏にある野心は未だ知らない。だが、「人前で超能力を使ってはならない」という彼との約定を破ったのならば、僕のいる煉瓦の家が崩れてしまうような気がしてならなかった。
躊躇を抱えたまま、跳ぶ。
展開していた〈腕〉ははいつの間にか雲散霧消していた。
「――っ!」
風が頬を撫でる。
内臓が慣性に持ち上げられる。迫り来る着水の衝撃に歯を食いしばった瞬間、足を冷たさの塊が覆った。流れる水の中を転がる。同時に声にならない声が、喉から、恐ろしい勢いで噴き出した。
寒い寒い寒い、冷たい!
毛穴の一つ一つに氷を詰め込まれているような感触が全身に伝播し、筋肉が一気に緊張していく。前後不覚になったまま、声が聞こえてくる方角に目を向けた。今し方飛んだばかりの踏切地点から縄が垂れているのが目に入り、僕は不格好に走る。
毛羽だった縄を掴むと、上からかけ声が響いてくる。早くしてくれ、凍え死んでしまう。がちがちと奥歯が音を立て、身体のあらゆる部分が震えていた。
吹き付ける木枯らしがさらに体温を下げていく。引き上げられた僕は急いで包まる布を探すが、そんなものはどこにもなかった。
周囲に広がっているのは楽しそうに笑う、無邪気な、悪意のない大人たちの笑顔だった。彼らは一斉に魔法陣を指さす。地面に描かれた文様が、全力ではなかっただろ、と告げ口するように、意地悪く赤々と光っていた。
〇
「じゃあ、ニール、今度こそ全力だぞ。魔法陣が反応したらもう一回だからな!」
「俺なんて去年四回も跳んだんだ。どうってことないぞ」
「最高記録は十七回だ、あと十六回跳べるぞ」
口々に好き勝手なことを言う自警団の連中の声が悪魔の嬌笑のようにも聞こえる。
……嘘だろ?
血の気が引いていくのを感じた。あんな温度の水にもう一回だって? 冗談じゃない。
だが、その言葉を叩き付けることはできなかった。
彼らの表情には僕を苦しめようという魂胆はまるでなかったからだ。あるのは宗教的使命感と、僕を一人の仲間として認める純粋な気持ちだけだった。級友たちのように無様な姿を嘲笑する腹づもりはどこにも感じられない。
だから、僕は口から飛び出しかけた拒否の思いを飲み込まざるを得なかった。ウェンビアノたちと、自警団などのこの街の人々を乗せた天秤がどちらかに傾いたわけではない。ただ単に無碍に固辞する選択肢がとれなくなった、それだけのことだった。
背中を押され、流されるがまま、僕は再びスタートラインに立つ。
「さあて、街の新しい住人、ニール君は何回で成功できるかな」
背後で心底嬉しそうな声が聞こえる。スタートを促すように、カウントダウンが始まった。フェンを探す。頭を抱えている。イルマを見る。徐々に下がっていく数字に声を合わせている。
五を切ったあたりで、僕は詠唱のまねごとをしなければならない、というルールを思い出し、慌てて始めた。元々使っていた言語である英語で繰り返す。
『何事もなく終わりますように、ばれませんように、平和な結果に終わりますように』
カウントがゼロになる。「行け!」という声が背中を押す。意識したわけでもないのに足が一歩、前に出た。
良心とまっとうな判断とやけっぱちな思いが僕を拘束し、次第に混乱に陥れていく。
もう、躊躇している暇はなかった。
腕を振り、足を前に出す。徐々に速力を増していく身体は冷水のせいで風を敏感につかみ取る。景色が流れていく。別次元の〈腕〉を展開すると、一瞬、世界が色づいた。
僕は地面の縁で強く踏み切る。身体が宙に投げ出される。浮遊感が膀胱のあたりをふわりと持ち上げた。同時に後ろに回した〈腕〉で自らの身体を思い切り、押す。
その瞬間、「あっ」と声が、僕の喉から漏れた。
思い切り――そんなつもりは毛ほどもなかったのに。
気付けば僕の身体は宙高く浮き上がっていた。視界がぐるぐると回る。無様に回転して飛んでいく僕の身体に誰もが驚愕しているのが、かすかに視界の端に映った。
「うわ、うわ」
上擦った声が耳に届く。僕の声だ。内臓が揺れ――、その直後に、後悔が重くのし掛かった。サイコキネシスでそっと身体を押すなんて器用な芸当、今までできたことなんてなかったじゃないか。自己嫌悪が胃の底で弾け、僕は呼吸を止める。
崩れた姿勢の中でフェンの記録を示す赤い旗が目に入った。
あの旗を越えれば、水と風の壁が僕の身体を襲う――
そう考えた瞬間、僕は思わず身構えてしまっていた。
意識したわけでもないのに、後ろに棚引いていた幽界の腕が急速に縮まり、身体を包み込んだ。畳もうとするが、制御が利かない。それがどんな結果をもたらすのかさえ、想像がつかなかった。
「越えるぞ!」
後方から聞こえた叫び声が僕を追い抜いていった。
眼下にある水が、ぐん、と盛り上がる。真下で生まれた隆起は爆発的な勢いで水の柱となり、僕の身体を――すり抜けた。
「え」
代わりに狼狽と絶望がぶち当たる。覚悟していた冷たい水の感触はついぞ僕を襲うことはなかった。水柱は〈腕〉に触れたところで二叉に割れ、あらん方向へ立ち上っている。
サイコキネシスが水を弾いている。
その事実に気付いた瞬間、水よりも冷たい焦りが喉のあたりを強く刺した。このままでは――このままでは、この堀を飛び越えてしまう。
必死に身体を後ろに押し戻そうと〈腕〉を振り回す。だが、不安定な体勢で動いている物体に対して干渉するほど、高い操作技術は持っていない。〈腕〉は癇癪を起こした子どものように、あるいはのたうつ蚯蚓のように、見当違いの方向を掻き続けた。
風の壁を突き抜けている、と気付いたのは服がばさばさと翻り、音を立てていたからだった。しかし、圧力は感じない。制御の利かない〈腕〉が前方で遮っているせいで、風の壁すらも飛翔する僕に作用しなかった。
「あ、あ」
高速で動く眼下の景色から水の青色が、消えた。
代わりに出現したのは一面を覆う紫とピンクのコスモスの群れだった。
美しい花畑が近づいてくる。違う、近づいているのは、僕だ。
知らず、身体が縮こまっていた。痛いほどに歯を食いしばっている。固く目を瞑ったと同時に、衝撃が、内臓を貫いた。僕の身体は地面に激突し、蹴り飛ばされた人形さながら、何度も跳ね上がる。花畑を削りながら進んでいくうちに痛覚が浸透していき、そのうちに肉の潰れるような音がかすかに聞こえた、ような気がした。
どこかで響いた悲鳴が耳の奥にこだまし、頭の中をかき回す。
「う、ぐっ、がっ、……あぁ」
押しつぶされた空気が肺から漏れたところで、意識の飛翔が停止した。
うつぶせに倒れた僕は腕を突っ張り棒にして起き上がろうとする。だが、激痛が肘のあたりで渦を巻いていたせいで腕を伸ばすことができなかった。痛みが濁った声となって吐き出されていく。
そのとき、きん、と高い声が近くで響いた。
「警備兵、警備兵はどこ!?」
顔を上げる。僕の目の前には、二人の女の子が立っていた。
一人は豪奢なドレスに身を包んだ、十歳過ぎくらいの、高貴そうな顔立ちの女の子。
そして、彼女を守るように腕を回しているもう一人――、僕は彼女を見た瞬間、痛みを忘れた。
流れるような黒の髪、はかなげな白く細い腕、そして、意志と静けさを感じさせる力強い眼差し。向こうの景色が見えるのではないかというほどに彼女は透明感に満ちていて、その美しさに見とれるうちに――僕の意識は闇に吸い込まれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます