3 鉄格子を挟んで三人
寒さで身体が震えている。その感覚で、目覚めたことを知った。
周囲をぼんやりと眺める。灰色が埋め尽くされているな、と思い、鉄格子が目に入って牢屋に閉じ込められていることを認識する。
身体を起こそうとして痛みが走り、喘ぐ。裾をめくって身体を確認するとあちこちにかさぶたがついていて、その傷跡は収穫祭の事前行事『水渡り』を行ったことが事実であると雄弁に告げていた。
一体僕はどれくらい気を失っていたのだろうか。髪も服も濡れていない――、そう考えた途端、僕は服を着替えさせられていることに気がついた。外套も制服もない。粗末な薄い布を縫っただけの貫頭衣だった。どうりで寒いわけだ、と膝を抱え込んだ。
状況を整理するまでもない。
僕は要塞都市バンザッタの前提を覆してしまったのだ。
一度も越えられることのなかった壁を、代償はどうあれ、僕は越えた。この街に来て一月も経っていない、新参者の、出自を知られていない僕が、だ。それはこの都市にとって見逃すことのできない重大な事件であるはずだった。
フェンは、ウェンビアノは僕に手を差し伸べてくれるだろうか。まさか、堀を飛び越えただけの僕が死罪などの厳罰を受けるはずはないだろう。だから、今の僕にとって目下の心配事はそれだけだった。
それだけだと思おうとした。
他の、例えば尋問であるとか、それに付随するかもしれない拷問などのことは一瞬浮かんだけれど考えれば考えるほど暗澹たる気分になる。そのため、意識的に思考の外に追い払った。
僕は静かに助けを待つ。フェンは事情を知っている。彼が必死に進言したならば事態は幾ばくかは好転するはずだ。
いくつもの「きっと」を信じて僕は底冷えのする牢の中で蹲る。
〇
牢には窓すらなかったため、どのくらい時間が経ったのか、分からなかった。魔法石の燐光だけが薄ぼんやりとあたりを照らしている。
水に体力を奪われていたためうとうととしていた頃に、聞き覚えのある、きんと鼓膜を振るわせる声が響いた。その後に必死に制止するような兵士の嘆願が続いている。
「困ります、ベルメイアさま!」
「あの狼藉者はここにいるんでしょう? このあたしを怖い目に遭わせたあいつに一言言ってやらないと気が済まないんだから!」
「あなたを牢に入れたなどと知れたら馘にされてしまいます! 私には家族もいるんです!」
「そうなったらあんたの家族ごとあたしが養ってあげるわよ!」
あまりの騒がしさにそばの牢で罪人たちが動く気配がした。きんきんとうるさく、これ以上の体力を消耗したくはなかったが、彼女が僕を探しているのは明白で、立ち上がる。七分の申し訳なさと三分の好奇心から鉄格子から顔を出した。
遠くに開け放たれた鉄の扉が見える。そこには必死に行く手を遮ろうとする兵士となんとかこちら側に来ようともがく子どもの姿があった。ピンクのドレス、肩に掛かるか掛からないくらいの波打った明るいブラウンの髪、気の強そうな顔立ちをした女の子だ。
僕は咄嗟に童話などに出てくるおてんばな姫を想起する。兵士の腰ほどしかない小柄な彼女は「通しなさいよ」と兵士を押しのけようとしていた。
ざわめきが牢の中にいる罪人たちの間にも広がり始め、兵士の困惑顔がさらに強くなり――そして、ベルメイアと言ったか、彼女の瞳が僕の姿を捉えた。
「あーっ!」
一際高い声が上がった。その声に兵士が一瞬怯んだのを見逃さず、ベルメイアは彼の股の間を通り、僕の元へと、獲物を見つけた獅子のような速度で突っ込んできた。
無理が通れば道理が引っ込む、ということなのだろう、彼女の闖入を許してしまった兵士は上司からの叱責を想像したのか、今後襲い来る境遇を嘆いたのか、頭を抱え、その場に崩れ落ちた。
「ちょっと、あんた」と僕の牢の前までやって来たベルメイアは尊大な態度で叫ぶ。「昨日のことはどういうつもりよ!?」
「昨日?」僕はその言葉を繰り返す。もう、夜が明けているのか。
「ちょっと、しらばっくれる気? 堀を越えてあたしに襲いかかってきたじゃない」
ぷんぷん、という形容詞は彼女のためにあるに違いない。ベルメイアは低いヒールのついた靴をかつかつとその場で鳴らし、怒りの程度を僕に表明した。そのさまはかわいらしく、少しだけ気が緩み、表情まで緩みそうになる。だが、そうしたらさらに彼女の怒りの炎は盛んに燃え上がるのは想像がついて、なんとか顔を引き締めた。
「申し訳ありません、ベルメイア」兵士が彼女に敬称をつけていたことを思い出して、付け足す。「さま」
「申し訳ない、で済むわけないでしょ! 聞き分けのいいふりをしたってそうはいかないんだからっ! まず、あたしを見下ろしていることが気に入らないのよ! 本当に謝る気があるなら跪きなさいよ!」
彼女は勢いよく手を振り、地面を指さす。仇敵のように睨まれる僕は、罪人たちの舌打ちを耳にしていたたまれなくなり、そっと膝を落とした。目上の者に対する礼儀は習っていたものの、こんな場面で役に立つなんて、なんとも情けない。
「ふうん、聞き分けと顔立ちだけはちょーっといいようね」
「本当に申し訳なく思っているんです。あれはただの事故で、あなたに何かをしようとするつもりは小指の先ほどもありませんでした」
「事故であの堀を越えられるわけがないでしょ」
にべもなくベルメイアは言い放つ。彼女にとって僕は紛うことなき咎人なのだろう。腕を組み、僕を舐めるように見た後で、何回鞭で打ってやろうかしら、であるとか、何時間馬で引き摺ってやろうかしら、などといった残酷な想像をまるで夕飯のメニューを発表するかのような気軽さで突きつけた。
僕は懇願を込めて彼女の目を見つめる。そのさまが気に入ったのか、ベルメイアは薄く笑みを浮かべて「何よ、その目は」と殊更に声色に嗜虐心を滲ませた。
そのときだった。
「ベル、その辺にしておこうね」
その静かな声に、僕は身を震わせる。
いつの間に現れたのか、黒く長い髪の女の子がベルメイアの肩に手を添えていた。
意識を失う前に見た、彼女だ。細い腕でベルメイアを守ろうとしていた女の子。そう気がついた瞬間、僕の胸の内を切なさが握りしめた。
……一目惚れであるとか、そういう淡い感情も少しはあるのかも知れない。静けさを湛えた彼女の表情は、まるで人の手に触れることのない湖面のように透き通っていてとても美しかったし、細い身体も摘み取られた一本のかすみ草のような儚げな雰囲気に満ちていた。健康的な肌の色をしているベルメイアとは比べものにならないほど肌は白く、くすみなどどこを見ても見当たらない。
けれど、僕の心を握りつぶしたのはその美しさではなかった。
畏怖と郷愁、だ。
不思議な色合いをしている彼女の瞳をちらと見て、彼女の視線が僕に向けられていることに気付く。見透かすような瞳に、慌てて頭を垂れて、もう一度、「申し訳ありませんでした」となんとか口にした。
「でも、エイシャ、こいつは」
「ベル、言葉遣い」
ベルメイアを静かに窘める声はそれほど大きい声量ではなかったけれど、確かな強度で牢の中に響き渡った。先ほどまで騒いでいた罪人たちですら一言も発していない。叱られたベルメイアも彼女には反発できないのか、うぅ、と小さく声を漏らして、勢いをなくしていた。
「ねえ、ベル。この人もこんなに謝っているじゃない。沙汰は私たちが決めることじゃないでしょう?」
「でもでもっ」
「……それに、この人はそんなに悪そうなひとには見えない」
彼女の一言に、どうしてだろう、視界が涙でにじむのを感じた。僕は必死で嗚咽を堪え、ごまかすように「申し訳ありませんでした」と繰り返す。そうすることしかできなかった。
「あの」
頭の上から声が振ってきた。それが自分に向けられたものであると知りながら、僕は俯き続ける。「……はい」
「もしよかったら、顔を上げていただけますか?」
言われて、僕はどうにか顔を前に向けた。
視線がぶつかる。しとやかに両膝をついた彼女が柔らかな笑みを湛えている。同じ高さに顔があるとは予想しておらず、僕はひどく狼狽した。
淡い緑色の、ちょうど僕がサイコキネシスを発動させるときに世界を覆い尽くす色合いのようなドレスを身に纏った彼女は小首を傾げて、僕に問う。
「あなたの名前はなんて言うのでしょう」
感情が慌ただしく揺れるのを感じる。そのかわいらしさと荘厳さに僕は再び目を逸らし、答えた。
「……ニール、と言います」
「目を見て言ってくださらなければ聞こえません」
いたずらっぽく笑いながら彼女は言う。僕は恐る恐る視線を彼女に戻した。
「……ニールです」
「はい、覚えました」包み込むような、柔らかな声だった。「とても綺麗な金色の髪をしているけれど、異国のひとですか? 家名があったら訊いてもよろしいですか?」
一瞬躊躇し、だが、隠し通すこともできず、自分の名前を口にする。罪を打ち明けるよう気分だった。
「僕の名前は、ニール=レプリカ・オブライエン、と、言います」
「そうですか……。私はアシュタヤ・ラニアと申します。本当はもっと長ったらしいんですけど、今回は省きましょう。覚えていただけましたか?」
僕は必死に頷く。アシュタヤがそれを見て、微笑む。それだけで心が容易く跳ねるのを感じた。
「ニールさん、ベルがごめんなさい。それと、なんの助力もできないことも。けれど、あなたが一刻も早く日常に戻れることを祈っています」
何も言えず、ただ頭を深く下げると、困惑した息づかいが聞こえた。一瞬、間があって、それから目の前の彼女がすっと立ち上がった気配がする。
「じゃあ、ほら、ベル、行きましょう」
「あっ、ちょっと、エイシャ、待ってってば」
足音が遠ざかっていく。緊張から解放されたのを感じ、そっと顔を上げる。連れ出されたベルメイアが僕へ向かって舌を出していた。騒ぎが治まるのを見計らっていたのか、牢の警備役である兵士が彼女たちに近づいている。
「兵士さん、このことは私がしっかりと報告しておきます」
「そんな! どうか、お慈悲を! 私には養わなければいけない家族が」
「勘違いなさらないでください。これは私とベルの責任です。あなたには蟻の涙ほどの非もありません。それに白を切って後で非難を突きつけられるよりも余程いいでしょう?」
「……ありがとうございます!」
兵士の感極まった声が鉄の扉に遮られる。その瞬間、アシュタヤの瞳がこちらに向いて、僕の目はびくりと身を震わせた。彼女の笑顔が目に焼き付いたのを、おかしな話だけれど、ある種の触覚として、感じた。
騒ぎの消えた牢の中で、僕はへたり込む。
アシュタヤに感じた畏れ多さは、美しさであるとか物言いであるとか、彼女から滲み出すすべてから発生したものだった。物心ついたときから宗教的行事に参加していた僕は神の存在を信じていたが、今まで感じたことのないほどの畏怖が身体を貫いている。
そして、もう一つ、彼女から受けた印象――懐かしさ。
それは彼女の右胸から透き通った青色の〈糸〉が伸びていたからだ。
どこまでも清浄なその糸は、この世のものではなかった。僕がいつも触れているあの別次元と繋がった、認識の〈糸〉。
彼女はおそらく、この世界で生まれ育った人間なのだろう。僕のようにあの世界から飛ばされてきた人間が他にいるわけがない。
だが、一つだけ、言えることがあった。
アシュタヤ・ラニア。
自覚しているのか、無自覚なのか、どちらかは分からないけれど、間違いない。
――彼女は紛れもなく、超能力者だ。
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