021 殺傷性ヴォイス

■ 1


 母親からの電話で目を覚ました。スマホのディスプレイに表示されている坂上さかがみ伊織いおりというのが、母親の名前だ。

「はい」

「出るのが遅いぞ」

 即ダメ出しが入る。昔からこうだ。

「勘弁してくれ。母さんみたいに早起きじゃないんだよ」

「鍛え方が足りないからそうなる。それよりお前、前に言ってた舶来物の本があるだろう。エディタの暗示Significatio Editae

「ああ、あれか。見つかったの?」

 エディタの暗示、という本がある。ヨーロッパから日本に持ち込まれた品で、ラテン語で書かれた古い大冊だ。もともとはオカルト研究会の部長の持ち物だったのだけれど、ぼくが翻訳を頼まれて読み進めていた。

 その途中で事故があって、結果としてぼくは入院し、当の本はぼくを助けてくれた彩智の手によって焼却された。ぼくが燃やしてもらったのである。

 あのときは仕方なかったとはいえ、部長の持ち物を燃やしてしまったことはちょっと気になっていた。部長はむしろぼくを危険な目に合わせたことを謝罪してくれたけれど、半ばはぼくの不注意だと言えなくもない事情だったので、一方的に謝罪されっぱなしなのも座りが悪い。

 そういうわけで、母親のツテをつかって、同じ品か、あるいは写本でも手に入れられないものかと探してもらっていたのである。ちなみに母さんは古書店を営んでいる。

「あったにはあった、というか、まあもってるらしい人の連絡先を手に入れたんだが。変わり者みたいでね。あんたが欲しがってるって言ったら、本人から直接連絡させなってさ」

「なるほど……」

 母さんに言われるままに連絡先をメモする。教えてもらったのは住所で、文倉市のものだった。徒歩圏内、とは言えないが、バスか地下鉄で行ける距離ではありそうだ。

「そういえばお前、そろそろ彼女の一つでもできたか。もう二年だろう」

「できないし作る気もないし、居たとしても母さんには紹介しないよ」

「なぜだ? 恋仲になったんなら、最後には結婚するんだろう。だったら紹介しに来なさい。だいたいお前は実家を出た途端全然連絡をよこさなくなったじゃないか。たまに連絡したかと思えば、あの本を探しているだのこの本はどこにあるだの、そんな話ばっかり。私はお前の仕事仲間になった覚えはないぞ」

「あーあーあー。わかった、悪かった。ぼくがわるかったです。ごめんなさい」

「はぁ。すぐ適当に謝るのはお前の悪癖だな」普段はそんなことしてないよ。あんたがしつこいからだ。「……こっちまで電車一本だろう。たまには帰ってきなさい」

「面倒なんだよ。……まあでも、わかった。たまには帰る」

「ああ、そうしなさい。非臣ひおみさんも会いたがってる」

 非臣というのは、父さんの名前だ。ぼくの両親はお互いを名前で呼び合っている。ともかく、母さんの小言が続く前に、ぼくは適当に電話を切り上げた。

 実家に帰る、ねえ。そういえば、瑞鳥は夏休みの間実家に帰っていたんだっけか。


■ 2


「実家? 私の? なになに、坂上くん。わたしのことが気になるの?」

「うんまあ、気になる……といえば、そうかもしれない」

「いやぁー、だれかさんには申し訳ないことしちゃったな。わたしってば、ついうっかり坂上くんの心を射止めちゃったか。キューピッドしちゃったか」

「そういう意味じゃないし、キューピッドはこの場合間違ってる」

 わかってて言ってるのだろうけれど。

「実家なんて大したことないよ。まあ、パパもママも死んじゃってるから」ドキリとした。瑞鳥があまりに平然と言う。「おじいちゃんとおばあちゃんの家に引き取られたんだよね。ただの農家だよ。けどたまに顔見せに帰ってるの。まあ、ここからそう離れてないんだけど」

 さすがに市外だけどね、と付け加える。

「あー、悪い」

 なんとなく、まずいことを聞いてしまったかな、という気持ちになってしまった。

「パパとママのこと? うーん、悪いって言われても、別に悪気があったわけじゃないでしょ。死んじゃったものは仕方ないし、それで変な空気になるほうが嫌だよ、私は」

「……そういうものか」

 まあ確かに、両親の話になる度に暗い雰囲気になられても嫌だよな。それに、おそらく瑞鳥の中で、両親のことは整理がついているんだろう。……ただの友人でしかないぼくとしては、そう思うしかなかった。

 ぼくと瑞鳥は学食の隣にあるカフェにいた。チョコレートパフェをつつく瑞鳥と、それを眺めつつコーヒーを啜るぼく。カフェは空調が効いていて、いつ来ても快適だ。今は二限目の途中なので比較的空いているけれど、もう少しして昼休みになると混んでくる。

「坂上くんのところは?」

「うちは……まあ、うん。今朝、母さんから電話がかかってきて、彼女はできないのかとか、たまには帰ってこいとか言われたよ」

「あはは。男子大学生と母親の会話って感じ」瑞鳥は目を細めて笑った。素直に笑ってると瑞鳥も可愛いんだけどな……。「実家、帰ってないの?」

「ん、まあ」

 単に帰るのが面倒だからだけど、流石に瑞鳥の前でそれを言うのはデリカシーがないかなと思ってしまった。……こうやって気を使われるのが、多分嫌なんだろうな。ただ、気になってしまうものは仕方ない。

「帰る理由ってのがさ、あんまないんだよね」仕方ないので、ぼくはそんなことを言った。言ったことは本当のことだけれど、ここでする話としては不適切な気もする。「結局、実家に帰ってもやることがないんだよ。父さんは放浪癖があるから、多分いないだろうし。母さんと話すにも、話題がないしさ」

「別に気にしなくていいと思うよ。私とか、彩智さちとか、ゆかりちゃんとか、凛々花りりかちゃんとか、いのり先輩とか、木乃香このかさんとか、身の回りにいる人の話をしてあげればいいと思うな」

 女子しか挙げられなかったところに、そこはかとない悪意を感じる。別に、ぼくが女の子とばかり仲良くしているわけではないんだ。ただなんとなく女の子のほうが身の回りに多いだけで……。

 いや、ぼくが自分から他人と関わらないから、自然と面倒見の良い女の子だけが残っていくのかもしれない。彩智と瑞鳥がいなかったら、ぼくなんて引きこもりと大差ないからな。紫ちゃんにしろ、祈先輩にしろ、ほとんど二人に引き合わされる形で知り合ってるわけだし。

「坂上くんは他人と関わりたくないって思ってるけど、人嫌いってわけじゃないよね」

「……まあ、そうかもしれない」

 凛々花ちゃんとももっと仲良くしてあげればいいのに、と瑞鳥は言ったが、それは聞き流しておいた。

「あ、そうだ。母さん、古書店やってるんだけど。エディタの暗示を探してもらってたんだよね。それが見つかったって連絡があってさ」

「へえ。エディタの暗示ね。坂上くん、あれでひどい目に合わなかったっけ? 親切で物知りな私が邪視について教えてあげてなかったら、死んじゃってたんじゃない?」

「その節はありがとう。お前の言うとおりだよ。まあ、その時にほら、エディタの暗示、焼いちゃったから。見つけれるなら見つけて、部長に返したいと思ってたんだ。持ってる人、市内にいるっぽいから、よかったらついてきてくれない」

「ほほう?」

 瑞鳥がニヤリと笑う。なにか面白いことを思いついた時の顔だった。

「坂上くん、それって彩智のためでしょ」

「…………」

「本に火をつけたのは彩智だもんね。本人は全然気にしてなさそうだったけど、もしかしたら内心では気にしてるのかもしれないし。そういう心残りみたいなものをどうにかできるならしておきたい、ってそういうわけなんだね。坂上くんってば、口では他人なんてどうでもいいって言ってるけど、いろんなことを気にしながら生きてるよね。そういうの私は嫌いじゃないけど、もっと露骨になってもいいと思うよ」

 図星だった上にすごい腹立たしい感じに指摘されてしまった……。

 お前はぼくの何なんだ……。

「わお、怖い顔してる」

「正論は争いしか産まない」

 というか、瑞鳥の場合、もっと気を使った言い方ができるのにしない、っていうのだからたちが悪い。こいつはぼくに対して全然遠慮がないのである。初対面の頃からそうだ。

「まあ、いいよ。エディタの暗示は私も気になるし。原本があるんだとしたら、ちょっとすごいことだと思うよ。焼けちゃったものと合わせて、二冊も市内にあったことになるんだから」


■ 3


 その日の三眼終わりに瑞鳥と集まって、母さんに教えてもらった住所の場所に出向く。てっきり古書店か図書館だと思っていたけれど、ごく普通の民家だった。個人宅で、店でもなんでもない。駐車スペースには車が二台止められていて、カーテンはどの部屋も締められている。今風の、新しい一軒家だった。

 表札には字森あざもりとある。どうやら、教えてもらった住所で間違いないらしい。

「珍しい名字だね」

 珍しさでいえば、瑞鳥もいい勝負だと思うけど。

 瑞鳥がインターフォンを押した。ピンポーン、という鈍い電子音がして、しばらく沈黙が流れる。応答はなかった。

「……留守かな?」

「もっかいいってみよう」

 瑞鳥が再びインターフォンを押した。ピンポーン、という鈍い電子音がして、再び沈黙が流れる。ぶつりと音がして、「はい……」という憂鬱そうな声が聞こえた。

「あのー、わたしたち坂上伊織さんの紹介で来たんですけど。エディタの暗示がここにあるって聞いたんですが」

 瑞鳥がインターフォンに向かっていった。

 すると、しばらく逡巡するような間があって、

「今、両親は留守です」

 と返答された。

 両親は留守、ということは応対してくれたのは子供なんだろうか。スピーカーを通してすこしわかりにくくなっているけれど、たしかに声は幼い印象だ。瑞鳥と顔を見合わせる。

「じゃあ、坂上が訪ねてきたって伝えてもらえますか?」

「はい」

「それから、もしよかったら、いつ頃帰ってくるのかは教えてもらえますか?」

「わかりません。すみません、もう来ないでください」

 ぶつり、と通話が切れる。

 …………。

 うーん? すごい違和感があるけど、なんかうまく言葉に出来ないな。

「とりあえず、どっか入って作戦会議でもしようか」

 瑞鳥の提案で、近くの公園に移動する。

 この辺りは新興住宅地で、もともとは龍喰りゅうばみという地名だったらしい。十年前くらいに開発されて、地名も光葉みつは町になったとか。そのため、さっきの家だけでなく、周囲がどれも新しい一軒家だ。区画もきちんと整理されていて、この手の地域独特の無機質さがある。

「住宅って、それはそれで自然物っていうか……こう、人の営みにも乱雑さがあると思うんだけど。こういう区画整理された住宅地だと、そういう雑さが排除されてて落ち着かないよね」

「言いたいことはわかるけど、多分住んでる人の見解は違うんじゃないかなぁ。ほら、庭とかベランダとか、いろいろと住人の個性が出るポイントはあるしね」

 などと益体もない話をしつつ、自販機で購入したコーヒーを一口飲む。

「なんか違和感あったよね」

 ぼくがそう言うと、瑞鳥は小さくため息を付いた。ちなみに瑞鳥はホットレモン。黄色いトレンチコートを着てホットレモンを飲んでいる瑞鳥は、なんだか絵になった。公園のイチョウを背にしているというのも良い。

「というか、普通に変だよ。だって車あったじゃない。二台も。それで両親が留守ってことは、近くにちょっと出かけただけか、居留守使ってるかのどっちかってことになるかな」

 ああ、なるほど……。そりゃそうだ。さすが瑞鳥の慧眼だった。

「もし近くに出かけてるだけなら、そう伝えるほうが面倒が少ないはずだよ。まあ、そういう余計なことを訪問者に伝えないように、って教えられることもあるかもしれないけど」

「それならむしろ、居留守を使うように教えると思うけどな。もし犯罪者が下見で訪問してきたなら、両親がいないって情報を伝えるのは悪手だよ」

 ぼくも一人っ子で、よく留守番をしていたからわかる。基本的に「家に子供しかいない」という情報を伝えることは、百害あって一利なしだ。少なくともぼくは母さんからそう教えられた。

「まあ、来客の対応に不慣れで、とっさに口をついて出た、っていう線もあり得るけど……」

「そうすると、最後の言葉がおかしいよね」瑞鳥はチョコレートケーキの最後の欠片をぱくりと口に放り込んだ。「んぐ、ほら。もう来ないでくださいってやつ」

 確かに。両親が不在だと言ったなら、少なくとも「両親がいないと言えば帰ってくれる」と思っているはずだし、もっと決めつけるなら、内心では両親を頼りにしているということになる。そうなると、両親が在宅であれば来てもいい、という発想になるんじゃないだろうか。

「まあ、わかんないけど。例えばゲームに熱中してて、邪魔されたくなかっただけかも」

「そういうこともあるか……」

 声から年齢は推測できないけれど――例えば小学校低学年だったりすると、そもそも整合性が取れないことを言うかもしれない。ぼくが小学生の時、どんなだったかな。覚えてないや。

「坂上くん、お母様と連絡は取れないの? もともとお母様のツテなら、そっちから直接連絡できれば良いんじゃない」

 お母様というフレーズに若干落ち着かなさを感じつつ、けれど道理だと思ったぼくは、スマホを操作して電話をかけた。というか、最初から母さんが相手の電話番号を教えてくれればよかったんだよな。

「なんだお前、今朝話したばっかりだろう。仕事中に電話してくるな」

 開口一番強烈だった。顔が引きつりそうになったけれど、瑞鳥がこっちを見てるので頑張って抑え込む。

「あのさ、紹介してくれた住所だけど。字森さんって人の家。今その近くにいるんだ」

「なんだ、トラブルでもあったのか」

「まあちょっと、在宅じゃないみたいで。留守番してる子供に追い返されたんだよね。母さんのほうから連絡して、いつ頃訪ねたらいいか聞いてみてほしいんだけど」

「……それは変だな。字森さんは在宅で仕事をしているはずだし、そもそもはずだ」

 ――?

 え、うん?

「いや、けど、子供の声だったと、思うけど。それに、両親は留守だって言ってたんだ」

「両親ね。字森さんのところは、結婚はしてるが、子供はいない。これは確かだ。間抜けなあんたが別の家と間違えてなけりゃ、そいつは字森さんの子供じゃあないってことになるね。親戚の子供でも預かってんのかね」

 そういうことなのか? そんなことあるのか? 親戚の子供を一人で家においておく、なんてこと普通はしないだろう。

「私は忙しいんだ。話が終わりなら切るぞ? ああ、一応、字森さんには私からも連絡してみるが、目の前にいるんならもう一度訪ねてみたらどうだ。それでだめなら、後日改めることだ」

「……ああ、わかった。ちなみに母さん、字森さんってどういう人なの?」

「若い夫婦だよ。奥さんはデザイナーだったかな。私が知っているのは夫のほうだ。高校時代の後輩でね、珍しい本の収集家だよ。高校の頃はあどけない文学少年だったが、当時から外国語全般に堪能だったな」

 外国語全般に堪能だった。それはつまり――読んだのか? エディタの暗示を。

 あの恐るべき、読者を殺す本を。

 ……いや、そうじゃないはずだ。もしエディタの暗示をただ読んだのだとしたら、字森さんだけが死んで、それで終わるはずだ。けれど今起こっていることは、そうではない。

「もういいか? 切るぞ?」

「あ、うん。ありがとう、母さん」

 言うと、即座に電話が切れた。どうやら忙しいというのは本当だったようだ。

 ふう。思わずため息をつく。缶コーヒーは温くなっていたが、まだ飲めないというほどではない。一気に流し込んで、深く息を吐いた。

「なになに、なにか衝撃の事実でもわかった?」

「ああ、うん。字森さんに子供がいないってことがわかった」

 瑞鳥はふうん? と首をかしげる。

「じゃあ、応対してくれたのは何者なのかって話になるね」

「そうなるね。なあ、瑞鳥はエディタの暗示について、なにか知ってることはないの?」

「あるにはあるけど……。坂上くんも知ってることだけど。読んだ者は蒸発するっていうのが、本そのものにまつわる逸話だね。内容については私はあんまり詳しくないんだよね……」

 瑞鳥でもその程度だとすると、エディタの暗示そのものから検討するのは無駄かもしれない。

「けど坂上くん、考えすぎかもしれないよ」

 瑞鳥が言う。

「わたしたちは幽霊みたいなのとか、妖怪っぽいものとか、怨念とか呪いとか魔術とか怪物とか、そういうのにやたら縁があるから、なんとなく不思議なことに出会うと身構えちゃうけど。普通、そういうことってめったに起こらないものだし、起こったとしてもすれ違うだけだし、まして真っ向から向かい合うなんて普通は人生で一度もないことなんだから」

 瑞鳥が楽しげに指を立てた。女教師のイメージかもしれない。瑞鳥がやると様になるのがすこしだけムカつく。けれど、たしかに瑞鳥の意見にも一理ある。

「じゃあ、時間も経ったし。どうしようか、もう一度くらい行ってみようか。今度は怒られるかもしれないけど、まあ、声の主の正体は気になるところだしね」


■ 4


 字森さんの自宅の前に立った。

 周囲に人気はないが、時刻はそろそろ夕方に差し掛かる。帰宅する人が通りかかってもおかしくない時間帯だ。

 こんどはぼくがインターフォンを押す。その時に改めて観察してみたけれど、このインターフォンは来訪者の顔が見えるタイプのようだった。ということは、ぼくたちは再訪したことは相手に伝わることになる。

 …………。

 反応はない。まあ、そうだよな。

 真新しい一軒家は塀らしい塀もない。窓は正面に見えるものが二つだけで、一階と二階にそれぞれある。古い家なら一階にあるのは掃き出し窓なのだろうけれど、ここはそうではなかった。

「まあ、帰るか」

「坂上くん、こっちこっち」

 瑞鳥は駐車スペースに止められた車をぐるりと迂回して、こちらに手招きする。建物の裏側に回ろうというのだろうか。とりあえずついていくけど……。

「瑞鳥、それは流石にまずいって」

 廃墟探索とは違うんだ。人が住んでいる家に無断で侵入したら、大問題になる。けれど瑞鳥はそんなことは知ったことではないとばかりに、すました顔で進んでいく。家の横から裏手までを囲う小さな柵に沿って歩く瑞鳥についていくしかない。

「なあ瑞鳥、聞いてるのか」

「いいじゃん、ちょっとくらいさ。いざとなったら謝れば許してくれるよ」

 そうだろうか。いや、難しい気がする。

 ……しかし瑞鳥が撤退するはずもない。やると決めたら好奇心のままにすすむのが瑞鳥だ。ぼくに止めることはできない。

 家の裏手に回ると、勝手口があった。瑞鳥がノブを引くと、開いていた。

 不用心なことだ。裏手といっても、そこそこ開けているので、そう神経質に施錠する必要はないのかもしれない。

「入っちゃおう」

「おい、瑞鳥」

 音もなく勝手口に滑り込む瑞鳥。どうするべきか――ええい。入ってしまえ。瑞鳥の後を追いかけて家に入る。靴どうするんだと思ったけれど、瑞鳥は器用に脱いで手に持っていた。ぼくも真似して、スニーカーを脱ぐ。

 部屋は薄暗い。キッチンからリビングが見えるようになっていて、視界に入る範囲に人影はない。少なくとも、最初に応対してくれた人物は家のどこかにいるはずだけど。

「坂上くん」ぼうっと眺めてると、瑞鳥が耳元で囁いた。「人気がないね。留守なのかな?」

「そういう話だけど」

 人気はない、たしかに。照明もつけられていないし、何かが動いている気配もない。よくよく考えれば、中に人がいるかどうかくらいなら、電気メーターでも見ればわかったんじゃないだろうか。

「……臭うね」

 瑞鳥が言った。確かに、なにか変な――気持ちの悪い匂いが充満している。キッチンにというわけではなく、部屋全体――というか、家全体に、だろうか。

 なんの匂いだ?

 瑞鳥がポケットからペンライトを取り出して、スイッチを入れる。廊下に移動すると、炊事場らしき場所に通じているだろうカーテンと、二階への階段、それからもう一つ部屋があるようで、そちらにつながる扉もあった。真っ直ぐ進むと表玄関につながっているようだ。他に異常はない。

 二階への階段はリビングキッチンから出てすぐ真左にあった。瑞鳥はすばやくもう一つの部屋の扉を開けて、それから二階に視線を向ける。

「瑞鳥、この辺にしよう。撤退すべきだ。字森さんは留守だった、それでいいだろ」

 瑞鳥の視線がこちらを向いた。……黒く表情のない目がぼくをまっすぐに見つめる。薄暗がりの中で見る瑞鳥は綺麗だ。その瞳に表情はなくとも、生きている者の瑞々しい力が満ちている。

「坂上くんはさ」

 瑞鳥の唇が動いた。手が伸ばされて、ぼくの頬に触れる。

「道端にちょっと大きめの石が落ちてて、道の向こうから小さな女の子が歩いてきてる時に、その石を拾う人だよね。もしかしたら、女の子が石に躓いて転んじゃうかもしれないから」

 ――それは、そのとおりだった。チリチリと頭の片隅がしびれるような錯覚を覚える。この街からぼくが取り除こうとしている男のことを思い出すと、いつもこうだ。

「わたしは坂上くんが好きだよ」

 瑞鳥はぼくから目を逸らさない。

「彩智も好きだし、紫ちゃんも好きだし、大学の友だちも、おじいちゃんとおばあちゃんも好きだよ。わたしは好きな人を守るためなら、この街のすべての道から、石を取り除いて回るって決めてる」

「ここに何があるっていうんだよ」

「なにもないかもしれない。それは確かめなくちゃわからない」

 瑞鳥はそうして、二階への階段を上り始めた。――ぼくは、瑞鳥の後を追う。

 後を追いながら、考える。この街のすべての道から、石を取り除いて回る。そうしなければ安全を確認できない。そんな風にしか考えられない瑞鳥は、すでに正気を失っているのかもしれない。

 二階に上がると、匂いは強くなった。ここまで近づけばわかる。これは、腐臭だ。以前嗅いだことのあるものよりずっとマシだけれど、それでもおそらく――人の死体の、腐った匂い。

 突き当りに一つの扉があり、そこから右手側に通路が続いている。覗き込むと、更に扉が二つ見えた。二階は三部屋あるようだ。どの扉の前にも、ドアプレートの類は掲げられていない。ただ、うっすら開いているのは、二つ目の扉だった。匂いの発生源はおそらくそこだろう。

 瑞鳥と共に慎重に近づいて、部屋に入る。遮光カーテンが引かれていて、特に暗い部屋だった。クイーンサイズのベッドが部屋の真ん中に置かれていて、寝室であることがわかる。

 寝室。その寝室に、二人の男女が寄り添って眠っていた。いや――充満する腐臭からして、眠っているのではなく死んでいるのだろう。

 体が重くなる。呼吸が一瞬だけ乱れたけれど、すぐに持ち直した。

 瑞鳥が部屋に入って、ペンライトで顔を照らす。一瞬だけ躊躇したけれど――ぼくも、部屋に踏み込んだ。腐臭が――死がまとわりついてくる。

 ベッドに横たわっている遺体は――パッとしない顔の男性と、素朴そうな女性の二人だ。皮膚が黒く変色し始めており、生前の顔立ちも崩れかけているように見える。ベッドには微かに、遺体から漏れ出た液体が染みている。

「死んでるね」

 瑞鳥が言う。そして、黙祷した。ぼくも、目を瞑る。

 祈りに意味があるだろうか。いや、祈りに意味があると、瑞鳥は思っているのだろうか。

「これで決まったね。生きている人間にしろ、そうでない何かにしろ、私達が最初にここを訪ねた時にインターフォンの向こうにいたのは、字森夫妻じゃない」


■ 5


 寝室には、写真があった。木製のフォトフレームに収められたには、字森夫妻と赤子が一緒に写っている写真があった。二人の子供だろうか。写真はそう古いものだとは思えないし、遺体の顔と写真の字森夫妻の間にそう長い時間が経過しているとは思えない。

 ……子供を亡くしたのだろうか。

「坂上くん、他の部屋を調べてみよう。あとこれ、いつも持ち歩いてるお守りなんだよね。念の為もってて」

 そう言って瑞鳥が押し付けてきたのは、親指の先くらいの大きさの瓶だった。細いチェーンが取り付けられていて、首にかけられるようになっている。中にはオレンジがかった赤い液体が入っていた。

 血っぽいな。なんの血だろう。

「私の血だよ」

「うえっ?」

 変な声が出た。……とりあえず首にかけておいた。

 二人で寝室を出る。一番奥の部屋から調べてみることにする。というか、瑞鳥がそちらに向かったのでついていく。扉を開くと、そこはどうやら書斎のようだった。本棚、机、椅子、ブランドで遮光された窓、いくつかのメモ書きに積まれた本、コースターとその上に放置されたマグカップ。

 瑞鳥が本棚を物色しはじめたので、ぼくは机の上を調べる。メモ書きにかかれているのは、どうやらエディタの暗示の翻訳のようだった。ぼくは先頭から順当に本ヤウを進めたけれど、字森さんは途中から始めたみたいだ。こうしてメモ書きが残っているところを見ると、ラテン語をそのまま読めるというわけではないらしい。ただし、すべてが書き留めてあるわけではなく、訳すのが難しい箇所だけメモを取っていたようだ。ほかにも、内容についての覚書もいくつか記録されている。

 エディタの暗示、第七章。悲鳴を上げる者monstrum clamorous。字森さんのメモ書きをいろいろと繋げて何が書いてあったのかを推測していく。といっても、わかりやすくまとめられているわけではない。はっきり言って、理解に時間がかかる。

 ともかく、生物の死体を材料にしたなにかを作り出す方法について書かれていたようだ。材料にした生物を殺す能力があり、そして材料にした生物に似た姿を形作る。のだろうか。素直にメモを照らし合わせるとそうなるが、それ以上の詳細はわからない。

 頭を振って深呼吸してみたけれど、空気が淀んでいてあまりすっきりはしなかった。

「坂上くん、エディタの暗示はないみたいだよ」

「……じゃあ、とりあえず他の部屋を調べてみるか」

 瑞鳥と一緒に部屋を出る。

 そして、ぼくたちは遭遇した。

 廊下の先、一番奥にある書斎からまっすぐ伸びた突き当りに、ぼくたちの背後から差す夕日に照らされるようにして、そいつは立っていた。

 小柄だった。小学生くらいの子供に見えた。体はちぐはぐで、痩せこけた胴は脊椎だけで体を支えているかのようにすら見えるほどだ。腕は床につくほどながく、足は短い。ただし、口だけは整っていた。目は白く濁っていて、鼻は長い。おとぎ話に出てくるゴブリンや、それに類するものを連想させるいびつな外見だった。

 いびつな姿をした子供は、口を開く。

「来ないでっていったのに」

 子供の声で流暢に喋った。

 ただそれだけの音で、全身が震えて力が抜けた。ボロボロと涙がこぼれてくる。なんとか壁に寄りかかって立っているけれど、瑞鳥は床に手をついていた。膝がガタガタと震えて、力を入れようとしてもうまくいかない。体のコントロールを失っている。

 ズキズキと頭が痛む。かとおもえば、視界が赤く滲んだ。とっさに目を押さえようとした手のひらに血が落ちる。鼻血か血涙かわからないが、血管が破れてしまったのかもしれない。奥歯を噛みしめる。手は動かせる。かろうじて壁に寄りかかって立っていることはできる。けれどそれで精一杯だった。

 ぱきり、と音がして、瑞鳥にもらったお守りが割れた。中に入っていた液体が塵になって消えていく。

 瑞鳥が血で床になにかを描いていた。それを見た子供は、再び口を開こうとする。あの声をもう一度聞いたら、確実に死ぬだろう。

 とっさに足を踏み出す。

 必死に力を入れて、よろよろと歩く。

 子供に近づいて、倒れ込むようにしてその口を塞いだ。

 手で抑え込んで、声を出させないようにする。

 抵抗はなかった。

 子供は不愉快そうにもがくだけだ。

 意識が朦朧とする。視界が霞む。逆光で瑞鳥の影が黒く塗りつぶされている。ぬるりと瑞鳥の影が立ち上がったところで、ぼくの意識は途切れた。


■ 6


 目を覚ましたのは、夜だった。

 子供だったものの死体に覆いかぶさるようにして倒れていた。なぜだかそれは半分に削ぎ落とされていて、どうしてそうなったのかは全くわからない。

 体に力を入れて立ち上がろうとすると、足と頭が軋むように傷んだ。けれど、起き上がることはできた。

 気を失う直前に何か見たような気がしたけれど、あれは何だったのだろうか。うまく認識できなかった。瑞鳥が大蛇にでもなったように見えたけれど、流石にそんなことはないだろうし……。

 廊下に転がったペンライトを拾い上げて、瑞鳥を探す。彼女もまた、壁にもたれかかるようにして座り込んでいた。

「おい瑞鳥、生きてるか」

 ペシペシと頬を叩きつつ、呼吸を確認した。よかった。生きているみたいだ。

「んぅ? 坂上くん? おはよ」

「おはよう。といっても、もう夜みたいだけど」

 スマホを取り出して時刻を確認すると、夜中の二時だった。八時間くらい気を失っていたことになる。体の芯が冷えていて、調子が悪かった。頭痛も収まらない。ガチガチと歯が鳴ったけれど、深呼吸して無理やり落ち着かせる。気を失ったことで冷静になったと自分では思っていたけれど、体のほうはまだ恐怖が抜けきっていないらしい。本能的なものだろうか。

「なんとかなったみたいだね。まさか声を聞いただけでアウトとは思わなかった」

 瑞鳥がため息を吐きながら起き上がった。ふらついたので、とっさに支える。

「ありがと。……今なら私の体、触り放題だよ。いっぱい触ってね」

「堪能する気力がないから遠慮しとくよ……」

 冗談を言えるくらいには回復しているようだ。

 瑞鳥を支えながら、廊下を歩く。半分になってしまった子供をペンライトで照らすが、動かない。絶命していた。もっとも、これが生き物だったのかは疑わしい。失われた半身がどこにいったのかはわからないけれど、とにかく撃退したということで良いんだろう。

 それから、よく見ると二階に入ってすぐ、階段の隣にある扉も壊れていた。なにか大きなものが体当りしたような感じだ。その部屋の中をライトで照らすと、そこは子供部屋だった。

 ランドセルがあって、教科書があって、学習机があった。

 ぼくと瑞鳥は絶句して、呆然とその部屋を眺めていたけれど、もうできることはなにもない。ほどなくして一階に降りた。

 エディタの暗示は、風呂場にあった。それだけではなく、そこにはよくわからない液体やら、肉やら、干からびたなにかやら、砂やら、露骨に変なものが並んでいた。ぼくはどうにか、革張りの大冊だけを回収する。かばんを持ってきていなかったので、瑞鳥に預けた。

 正直、エディタの暗示のことなんてかなりどうでもいい気分だったけれど、これがまた他の誰かの手に渡ったらと思うと、放置することもできなかった。

 石は拾わなければならない。

 勝手口から外に出る。新鮮な空気をようやく吸い込むことができた。

 星の見えない夜空だった。この住宅地は街灯が一定間隔で設置されていて、比較的明るい。瑞鳥の体を支えながら、瑞鳥に支えられながら、ぼくたちは歩いていく。

 闇の中を歩いていく。

「坂上くん」

 瑞鳥がぽつりと言った。

「わたしは自分が死ぬのは怖くないけど、坂上くんが死ぬのは怖いよ。べつに坂上くんが特別って意味じゃないけど」

 …………。

 怖い。それは、たとえばあの子供よりも怖いのだろうか。数多の怪異よりも、恐るべき魔本よりも、超常の化け物よりも、瑞鳥は、ぼくが死ぬことのほうが――友達が死ぬことのほうが怖いのだろうか。

「だから坂上くんは、いなくならないでね」

 瑞鳥の願いのような言葉を聞いて、ぼくは――何も言うことができなかった。

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