019 過睡性エンカウント

■ 1


 唯峰ただみね探偵事務所は、ぼくのバイト先だ。

 普通、探偵事務所――いわゆる興信所はアルバイトを使わない。ごく当たり前のことだけれど、探偵業において最も重要なのは金でも能力でもなく、守秘義務を守れることだ。普通のアルバイトにそれを守らせるのはなかなかの困難を伴うのだという。

 ではなぜしがない大学生に過ぎないぼくが唯峰探偵事務所でバイトできているのかというと、端的に言えばそれは所長――唯峰所長の眼鏡に適ったからだ。

坂上さかがみくんは、あれだよね。自分の能力とか、全然信じてないよね。たとえばおじさんがどんなに坂上くんの人探しの能力を買っていたとしても、この人は俺のことを勘違いしているな、とか普通に思うタイプ」

「はあ、そうかもしれません」

「だから良いんだよ。自分のことを信じてない人間は、手柄を吹聴しないからね。それは君の美徳だと、おじさんは思うな」

 自己否定も行き過ぎれば毒だけれどね、と唯峰さんは嘯いた。


■ 2


 その日は雨の降っている日だった。たしか二回生の――九月の終わり頃だったと思う。ぼくはその日、偶然が重なって一人で依頼人と会わなければなくなった。といっても場所は事務所だったし、所長は用が終わればすぐに戻ってくるので、あくまで応接室に通してお茶を出して、基本的な確認事項をチェックシートに記録しておくだけだ。

 ぼくの仕事は基本的に、人探しと雑用だ。接客はあまりやらない。

 依頼人が来るのが十六時で、所長が帰ってくるのが十六時半。それまで少し眠れるな……。昨日はレポートで疲れてたし、ちょっと横になっておこうかな。

 探偵事務所は応接室と事務室に分かれていて、事務室の奥にある給湯室の横には仮眠用のソファもある。主に所長が使うんだけど、たまにぼくも使わせてもらっている。

「……いや、やっぱ起きとくか」

 眠るのは良くない。さすがに。一応仕事中なわけだし。

 代わりに給湯室でコーヒーを淹れる。自分用のマグカップ(瑞鳥みずどりが買ってきたやつ)に適当に淹れたインスタントコーヒーを注いで、それを持って事務室に行った。

 こんこん。

 音のした方を見ると、着物姿の女性が立っていた。切れ長の目に白い顔の、髪を結った隙のない立ち姿の女性だ。三十代後半、くらいだろうか。ぼくのような人生経験の足りてない大学生には、女性の年齢はどうもはっきりとわからない。

「……すみませんけど、早くついてしもうて。あなたが所長の唯峰さん?」

「あ、いえ。所長は別件で出ていまして。すみません、十六時半には戻ると思うんですが」

 そう言いつつ、いつの間にか入ってきていた女性を応接室に通す。入り口にインターフォンあったと思うんだけど、鳴らなかったよな。

 おおきに、と言いながらソファに腰掛ける女性。座る姿も様になっている。こういう所作から美しい人にはなかなか会ったことがない。ぼくの身の回りには基本的に変人か、あるいは同世代しかいないからな。

「はじめまして、所員の坂上です。本日は所長の唯峰に代わって、まずぼくがお話を伺います。――と言いたいところなんですが、先程も言ったとおり、戻りが十六時半になるんですが」

 名刺を差し出して自己紹介しつつ、どうしましょうか? と言外に問いかける。現在時刻は十四時半。まだ二時間もある。

 女性は唇に指先を当てて少し思案すると、ぼくをじっと見つめてきた。落ち着かない。

「ほやったら、あなたにしましょう。唯峰さんの噂を聞いて来たんやけど、あなたの話もよく聞きますよ。人探しの鬼、いうて」

「鬼ですか」

「ええ。神業や、なんていう話やないですか。ふふ、逆神なのに神業て、面白い話やけど」

 全然面白くなさそうに、きれいに作られた微笑みでそういった女性。そのまま立ち上がって、すたすたと歩き始めた。

「ほな行きましょか。お話は道中しますので」

「はあ」


■ 3


 車に乗った。運転席には人が座っていて、それだけでぼくはちょっとびびってしまった。四辻さんとともに後部座席に乗り込む。たしか運転席の隣が上座だったっけか?

「私は四辻よつつじ遠江とおえです。よろしゅう、坂上さん」

「あ、はい。四辻さんですね。よろしくおねがいします」

 良いのだろうか。いくらお客さんとはいえ、ほいほいついてきて。四辻さんはまっすぐ正面を向いていて、その姿は凛としている。こころなしか、ぼくもいつもよりまっすぐ座ってしまう。なんとなく、下手なことはできないなと感じた。無言の圧力というか、人を使うことに慣れているような感じだ。こういう時は、下手に逆らわないほうが良い。

「あの、四辻さん。先に質問してもいいでしょうか」

「なんでしょう?」

「ぼくの噂なんて、誰から聞いたんですか?」

「あら、そんなこと気にしはります? あなた、有名やから。私も話に聞いたのはほんの数日前になりますね。保坂ほさか友梨ゆうりさん、行方不明の女子中学生。遺体を見つけたんはたしか、坂上さんでしょう」

 保坂友梨。聞き覚えのない――いや、そうだ。言われて思い出した。ゴールデンウィーク明けに端萩の洋館で見つけた女子中学生の遺体。あの子がそんな名前だった筈だ。

「それに『天使を見守る会』の狼藉者共を見つけたんもあなたやったね。確か去年に七継ななつぐ兄妹を見つけて保護したいう話も聞きました。坂上さん、あなたじつは有名人なんよ」

 言われてみると、どの話も身に覚えがある。

「もちろん唯峰さんも言っとったよ。うちには優秀な所員がおりますから、なんでも頼んでください、いうて」

 ……実績と実力は同じものじゃないし、それに、いままではどちらかというと運が良かっただけだ。特に七継兄妹の時なんて、本当に偶然だ。

「せやから、唯峰さんがおらんでも、あなたがおれば十分やと思います」

 顔だけまっすぐ前に向けたまま、目線だけくるりとこちらに向けて、四辻さんはぼくを見る。……買いかぶりだ。

「一度、所長に連絡しても構いませんか?」

「それやったら、私の方からしておきましょ。そのほうが通りもええやろうし」

 言うなり、四辻さんは電話をかけ始めた。仕方なく、ぼくは窓の外に目をやる。この車、どこに向かってるんだろう。すでに文倉市から離れて、東の山林部に入ってきているようだった。

 雨がひどくて、視界が悪い。

「それで、私らからの頼みごと、話してもええやろか?」

 通話を終えたらしい四辻さんが言ったので、ぼくは慌てて居住まいを正した。

「もちろんです。先程の話からすると、依頼内容は人探しですか?」

 だとしたらぼくはどこに連れて行かれているんだ?

 そう思ったのだけれど、四辻さんは怪しく笑って、首を横に振った。

「それやったらすぐ終わってしまうんやろうけど、そうやないんよ。坂上さんに頼みたいんは、婿選びや」

「婿選び?」

「そうや。いや、坂上さんに選んでくれいう話やないんやけどな。うちの娘が今度結婚するんやけど、婿候補の中に一人だけ正直者がおるいう話で。うちの娘は嘘つきが嫌いなもんで、その正直者が誰なのか、暴いてほしいんよ」

 それは――果たして探偵事務所の仕事なのだろうか?


 到着したのは武家屋敷のような家だった。武家屋敷なんて見たことない。武家屋敷のような、というのはようするに、ぼくのイメージする武家屋敷に似ているという話で、そもそも武家屋敷がなんなのかすらぼくはよく知らない。

 ようするに重厚で大きくて威圧感のある和風の家である。

 家に入ると、明かりはついていなかった。通されたのはテーブルと座布団しかない八畳の部屋で、ぼくと四辻さんが向かい合って座ると、すぐにお茶が出てきた。使用人までいるのか……。イメージ通りの女中さん、という風情の人は、緑茶と茶菓子(練り菓子だった。美味しそうだ)を出して、すぐに部屋から出ていく。

 部屋の明かりはない。曇った空から差し込むうすぼんやりとした光だけが光源だった。重々しく陰鬱な雰囲気だけれど、不思議と居心地が悪いとは感じない。気圧が低いからだろうか、頭が少しだけ重かった。

「婿候補は三人おります。それぞれ別の部屋に通してますので、順番に話をしてもらえますやろか」

「はあ。まあ、やれと言われればやりますけど。あの、先に聞いておきたいんですが、その、三人の中に一人だけ正直者がいる、というのは本当なんですか?」

 いや、こういうことが聞きたいんじゃないんだけど。

 というか全然状況についていけてないんだけど。

 四辻さんはぼくの混乱を知ってか知らずか、ゆっくり頷いた。

「そのとうりです。この部屋を出て右手の通路を進んでもろうて、そしたら三部屋ありますから、順番に婿候補と話しはってください」

「はあ、わかりました」

 四辻さんが案内してくれるってわけじゃないんだな。というか、出されたお茶、味わう暇もないんだけど。

 仕方ない。

 奇妙な依頼だけど、とにかくやってみないことには始まらない。


■ 4


 一つ目の部屋。座っていたのは、スーツ姿の男性だった。二十代後半くらいだろうか。ぼくが部屋にはいるなり、明らかに挙動不審になった。

 年上にこんな感想を抱くのは失礼だと思うのだけれど、うだつの上がらないサラリーマン、って印象の人だ。寝癖のついた髪と、シワが残りっぱなしのスーツ。体つきもそんなに良くないし、背中も曲がっている。四辻さんを見たあとだとなおさらダメそうに感じてしまう。

「あの、はじめまして。坂上といいます」

「は、はい。あの、手端てばたさとるです。あの、四辻さんのお嬢さんと結婚できるって、本当でしょうか」

 いや、僕に聞かれても困るんだけど。

「それはぼくにはわからないんです。……とにかく、ぼくはその――あなたからお話を聞いてこいと言われていまして。えー、じゃあまずは、自己紹介をお願いできますか?」

 手端さんは恐縮したように縮こまって、それから口を開いた。

「あの、わたしは営業マンです。成績もそんなに良くはないのでして、現在恋人もおりません。四辻さんの娘さんと結婚できるなら願ったりです。趣味は登山です」

 なんかお見合いみたいになってきたな。

 その場合、見合い相手はぼくじゃなく、「四辻さんのお嬢さん」であるべきなのだろうけれど……。

 というか、婿候補の嘘を暴けって、そもそも何についての嘘なんだ? ぼくが嘘を見抜くために話していることを、伝えて良いのだろうか? いや、嘘を暴けとは言われてないんだよな。正直者は誰か、という話であって。

 何もわからない……。

「一つ伺いたいんですが」

「はい、なんでしょう」

「四辻さんと結婚できるなら願ったり、とおっしゃっていましたが、具体的には何を期待しているんですか?」

 なにもわからないので、露骨に聞いてみた。手端さんはバツが悪そうに視線をそらした。

「四辻さんのお嬢さんと結婚すれば、四辻家の財産が得られると思ってしまいまして。まとまったお金があれば、転職だってできます。私にだって、もっと活躍できる会社があると思うんです。ただ、今の成績では転職活動のためのお金もなく……」

 なるほど。

 社会人ってのは大変だなぁ……。ぼくも来年から就職活動をすることになるのかもしれない。めちゃくちゃ嫌だ。

「それに、四辻さんのお嬢さんはとても美人だと聞いています。その、やっぱり美人な奥さんがほしいと思うのは、男ってもんですよ」

「そんなもんですか」

「ええ、そんなもんです。きみだって、恋人は美人なほうがいいんじゃないですか?」

「美人――うーん。どうでしょう。不潔な人は嫌ですけど……」

 ぼくの周りで美人といえば、やっぱり瑞鳥みずどりだろうか。瑞鳥輪廻りんね。大学生にもなってツインテールを貫く、ミステリアスな美女だ。瑞鳥の話を地元の友達に聞かせたところ、「ツインテールってことはロリ系なの?」って聞かれたんだけど、瑞鳥はロリ系ではない。断じて違う。

 他に美人というと――彩智さちもキレイだけど、美人っていうイメージじゃない。なんというか、瑞鳥が薔薇ばらで彩智が向日葵ひまわり、みたいな感じだろうか……。

 あと誰だったか。昔からよく知ってる美人がいたような。たしか、紺色の浴衣がよく似合う――、

「なんですかその顔は」

 手端さんが不愉快そうに言う。

「きみ、さては身近に美人の友達がいるんでしょう。あーあ、これだから若い連中は、すぐに合コンだとなんだのと。軽薄ですねえ。どうせ見た目の良い女友達は、どいつもこいつもイケメンと体の関係があるんですよ」

 …………。

 あ、なんか想像したら胃が重くなってきた。

「その点、四辻さんのお嬢さんはいいですよ。なんたって、礼華れいか女学院を卒業した生粋のお嬢様ですからね。以前、妹の卒業アルバムで見かけたものです」

 礼華女学院。文倉市にあるお嬢様学校だ。以前、頼み事をされて出向いたことがある。

 しかしなるほど。

 そういう話であるなら、「四辻さんのお嬢さん」は少なくとも実在するってことか。流石に非実在人物の卒業記録は捏造できないだろう。未だお目にかかれていないから、ぼくは正直なところ、「四辻さんのお嬢さん」なんていないかもしれないなんて思っていたのだけど。

 四辻さんの狂言だと、半ば思っていたのだけれど。


 二つ目の部屋。あまりに場にそぐわない、イケメンがそこには座っていた。

「こんにちは」

 先に挨拶された。

 襖を閉めてから対面に座る。切れ長の目に薄い微笑みを浮かべているが、瞳が全く笑っていない男だ。

「はじめまして」

 挨拶を返す。男は表情を変えない。

「はい、はじめまして。あなたはどちらさま? 四辻家の人じゃないみたいだけど」

 お、鋭いな。ぼくが知らないだけで、四辻家の人間にはなにか共通の特徴があったりするのだろうか。

「ぼくは四辻さん――四辻遠江さんからあなたの面談を頼まれた者です。自己紹介をお願いできますか?」

「おれは早蕨さわらび九旦くだん。四辻のお嬢さんとはずっと昔に会ったことがあってな。その縁でここに座っている。仕事は――まあ、フリーターってやつだな」

「フリーターですか?」

「そそ。いろんなバイト掛け持ちしてんのよ。ここだけの話だけど――」早蕨さんは内緒話をするように顔を寄せてきた。「――四辻家、隠し財産があるらしいぜ。一生生活に困らないくらいの」

 それは――まあ、説得力はある。

 この家にしろ、庭にしろ、手入れが行き届いている。これだけ大きな家を維持するとなると、相応にお金もかかるだろう。それに、そもそも婿養子を取る、それも三人の候補から選ぶ、なんていうと、いかにも旧態依然としたお金持ちのイメージだ。

 実際のところ、金持ちの友達がいないから、想像で考えてるんだけど。

「なああんた、婿候補は他にもいるんだろう? おれを推薦してくれたら、いくらか助けてやってもいいぜ。なあ、わかるだろ?」

 ニヤリといやらしい笑いを浮かべる早蕨さん。

 悪人顔が様になる。これだからイケメンは……。

「あいにく金にはそんなに困ってないので……」

「そうか。まあ、あんたもそう悪くない顔だからな。貢ぐ女の一人や二人、いてもおかしくないか」

 いないけどな。

 ぼくの周りにいるのはオカルティストと廃墟フェチと聞き分けのない後輩と、あと強いて言えば得体のしれない隣の部屋のお姉さんだ。

 貢がれているというより、迷惑を被っていると言うべきじゃないだろうか。もちろん、嫌だと思ったことはないのだけれど。……見方を変えると、ぼくは彼女たちから生き甲斐を受け取っているのかもしれない。

「女ってのは生き甲斐だからな」

 早蕨さんは言う。

「別に、金だけが目当てってわけじゃねえよ。四辻のお嬢さん――まあ、木乃香このかちゃんは、いい女だよ。おれが知ってるのは小さい頃だけだけどさ。あの子、おれに会うなりさ。閉じ込められていて、外には出られなかったし、それきりここに来ることもできなかったんだけど……おれだったらこの家からでも連れ出してやれる」

 この家から連れ出して、か。

 ますます旧態依然とした家柄のイメージが強くなる。確かに、早蕨さんはいわゆる都会の男という印象だし、四辻家――というより、四辻遠江さんとの相性はあまり良くなさそうだ。ぼくに援護を頼む、というのも頷けるところではある。

「とにかく、頼むよ。おれは本気なんだ」


 三つ目の部屋。

 座っていたのは浪人笠を被った、近代的なデザインの和服(としか言いようがない絶妙なファッション)を着た人物だった。

 男だよな?

「はじめまして、あの、すごい格好ですね」

 ぼくがそういうと、その人物は数泊置いて、頷いた。

 ……喋らんのかい。

「お名前伺ってもいいですか?」

「…………」

「えー、じゃあ。四辻さんのお嬢さんとは、面識があるんでしょうか?」

「…………」

 男は返事をしなかったものの、首を横に振った。

 聞こえていないわけじゃないんだな……。

「ぼくが何者か、とか気にならないんですか? あるいは、結婚に関してなにか言いたいこととか……」

 そう問いかけてみるが、返ってくるのは沈黙だけだった。

 …………。

 男はすっと、浪人笠のまま外を見やる。雨が降っているが、いつの間にか太陽が出ていた。

「天気雨」男が言う。「天気雨というと、狐の嫁入りだ」

 ひどく錆びついた声だった。酒焼けしたような、乾いてひび割れた声。意外と若い声色でもあった。

「日本各地に、珍しい天気と狐の嫁入りを結びつける伝承が残っている。嫁入りとはすなわち、雌の狐が人間の男の元に嫁ぐということを意味するだろう」

 男は一人で話し続ける。

 途中で合点がいく。これは独り言、というつもりなのだ。男は言葉でぼくに応じることを避けている。

「なぜ狐が人に嫁入りするのか? それは、人と狐の混血が、力を持つからだ。現に四辻の家は、それによって保っている。此度の婚姻が滞りなく進めば、再び力を持つことになるだろう」

 狐と人の混血。

 ……いつだったか、瑞鳥が聞かせてくれた話があったな。たしか、人と人でないものとの婚姻のエピソードは昔から数多くあるのだとか。異類婚姻譚というんだったか。その中でも狐は、ポピュラーな婚姻相手だという。

 平安の陰陽頭、安倍晴明も、狐と人の混血だっていう逸話があるよ。というのは、瑞鳥の言である。

「この現代に、狐を娶りたい男がいるだろうか?」

 …………。

 それは要するに、「四辻さんのお嬢さん」は狐だということだろうか。


■ 5


「どないやろ。正直者はわかりはったやろか?」

「いや、全くわからないです」

 正直者が一人、なんて前提がそもそも正しいのかもわからないからな。四辻さんはなにか確信があるようだけれど、ぼくにとっては疑わしい前提条件だ。

 とはいえ、依頼人が求めている真実を用意するのが探偵事務所の仕事ではある。

 深呼吸する。

 始めに来た時は薄暗かった部屋だが、外が晴れたので少しは日が差している。雨は相変わらず振り続けていて、雨音が耳朶じだを打つ。

「一つお願いがあるのですが」

「はい、なんでしょう」

「娘さんと合わせていただくわけにはいきませんか?」

 そう頼んでみると、四辻さんは微かに目を細めた。切れ長の目が細められると、その瞳から光が失われたように思える。値踏みするような視線を真っ向から向けられて、胃が痛い。

 なんだ、嫁入り前の娘には合わせられないってことか?

 そう思ったが、四辻さんは「いいでしょう」と小さく頷いて、手を叩いた。すぐに女中さんが出てくる。

「この方を、木乃香の部屋まで案内しい」

 女中さんは頭を下げて、廊下に出た。ついてくるように目で示されたので、立ち上がって部屋を出る。女中さんが襖を閉めて、それから歩き始める。

 三人の婿候補が控えていた部屋とは違う方向に向かう。いくつもの角を曲がって、階段を降りた。地下。「大事な一人娘」の部屋が地下にあるのは、不自然だ。

 血の匂いがした。それから、生臭い――腐敗する前の肉の匂い。

 地下は板張りの廊下に襖で仕切られていて、光源がところどころ建てられている蝋燭台しかない点を除けば、地上と変わらない。ただ、横たわっている空気は陰鬱だ。

 淀んでいるというか。濁っているというか。

 女中さんが立ち止まる。

「こちらの部屋です」

 そう言って、ぼくに襖の正面を明け渡した。自分で開いて中に入れ、ということだろう。

 嫌な予感しかしない。

 正直、もう帰りたい。

 一方で、怖いもの見たさというか、「四辻さんのお嬢さん」の正体を知りたいという気持ちもある。人か狐か……。まあ、そうは言っても人なのだろうけれど。こんな地下にいるのならば、ただの人ではないのかもしれない。

 意を決して、襖を開けた。


 そこにいたのは肉の塊だった。口があり、目があり、乳房があり、手があり、尾があり、肌色と紫色と赤色の斑で、瑞々しい唇から覗く舌は紅く扇情的に濡れていて、間接の多い六本指は艶かしく粘液をまとって蠢いている。芋虫のようにも思えるその肉塊の先端には、上半身だけの女が癒着していた。女は蛇のように二股に分かれた舌をだらしなく畳の上に投げ出している。腹部にはひときわ大きな口があり、その奥には肉のヒダが何重にもひしめいていた。長く艷やかな黒髪は烏の濡羽色で、瀟洒しょうしゃな髪飾りが彼女の白いうなじを引き立てている。大きな瞳は緋色で、薄い膜のような頬はところどころ穴が空いていた。

 彼女が口を開くと、ぁー、ぁーと声がする。引っ張られた頬の膜が伸びて、穴が大きくなる。鼻は削り取られたように低く、梅毒を連想した。ゆっくりと起き上がると、鎖骨から乳房にかけても顕になる。服は着ていない。

 嫁入り前の娘の裸を見てしまった。

 などと場違いなことを思った。

 息苦しくなって初めて、呼吸を忘れていたことに気づいた。


 えーっと、なんだっけ。

 足に力が入らなくなっていて、いつの間にか木乃香さんを見上げていた。粘液の匂いなのか食事の残り香なのか、むわりときつい匂いがまとわりつく。吐き気がこみ上げてくる。息苦しくなる。うまく息ができないことに気づく。肺が痙攣して胃が裏返る。

 そうだ、嘘つきだ。

 頭を回転させ、現実逃避する。

 この人が礼華女学院を卒業するのは無理だろう。早蕨さんの「閉じ込められている」という発言とも矛盾するので、どちらかは嘘ということになる。そして木乃香さんは事実閉じ込められているわけだから、何を食ってるんだ? 木乃香さんが近づいてきて、両腕をぼくの前について唇を寄せてきた。もぐもぐと動いている口から、どろりと肉の塊が落ちてぼくのお腹に垂れる。甘い匂いがした。なるほど、美人は吐瀉物も醜くないのだ。近づいて気づくが、髪の合間から長い触覚のようなものが伸びていた。思わず手を伸ばして触れると、ぁ、と艶めかしい声がした。

 だから、そう。手端さんは嘘つきだ。嘘つきだから婿にはなれないので、えー、というか木乃香さん、嘘つきが嫌いってことは、言葉が通じるのか?

「は、じめまして。坂上、といいます」

 ぃ、ぃーぃ、ぁ。

 鳴いた。少なくともぼくの声に反応したけれど、右目だけがぴくぴくと痙攣している。ぱたりと力をなくして、上半身がぼくにしなだれかかってきた。思ったより重たい。腕に力を込めて支える。木乃香さんは蛇のような舌を伸ばして、首筋を舐め回してくる。ぐりぐりと、牙が柔らかい首に触れて、息を呑んだ。

 四辻の家が異類婚姻によって力を得ているというのは果たしてどうだろうか。確かに木乃香さんは人との混血だが、狐と人の混血ではないだろう。あれは暗喩だったのか? 木乃香さんは狐でも人でもないが、たしかに人の半身は舐め回された顔がひりひりとしびれてきた。食事前に餌を麻痺させる生き物がいたっけ? だから、婚姻というより捕食で――いや、そうか。

 早蕨さんは幼い頃に会ったことがあると言ったっけか。そんなことはないだろう。けれど、木乃香さんが閉じ込められていることは知っていた。嘘をついていないのは――そうすると、浪人笠の男、ということになる。

 しかしあの浪人笠の男がこの婚姻を望んでいるとも思えない。どういう人選なのだろうか。木乃香さんと結ばれる男はたしかに幸福になるだろうけれど、しかしそれを望まない者もいるのは不思議ではない。それは不思議ではないが、そんな男がこの場所にいるということは不思議だ。

 みぃ、ぃーぃ、くぁ。

 木乃香さんにされるがままに引き寄せられて、その体に抱きしめられる。柔らかくぬめった体からは甘い匂いがした。お腹からこぼれ落ちた肉を木乃香さんは拾い上げて、ぼくの前に差し出す。

 婚姻を望んでいるのは早蕨さんと手端さんか。あれ? だとしたら、正直者は浪人笠の男、ということになるのか? いや違うのか? 婚姻を望んでいる者だけが集められているという前提を設けるなら、浪人笠の男の態度は、むしろ僕に対してわかりやすい回答を示唆している。おれは望んでここに座っているのではないという態度は、不気味な化け物である木乃香さん――あ、そうかこれ化け物か。そう認知した瞬間、吐いた。差し出された肉にぼくの吐瀉物がふりかかる。生肉の吐瀉物和えができてしまった。

 木乃香さんが怒ったように頬を膨らませようとしたが、ぷしゅーと穴から空気が抜ける。それから化け物はずるずるとぼくの吐瀉物を啜った。

 化け物との婚姻を望んでいないのは、正直者だからだろうか。逆に、嘘をついてまでなぜ早蕨さんと手端さんは結婚を望む? 金がほしいと二人は言っていた。それに、早蕨さんは「木乃香さんを自由にしてやりたい」とも言っていた。そもそも彼らの発言が真実かどうかなんてどう確かめるんだ? 事実と違ったことを言っていれば嘘つきということにはならないだろう。何か誤解しているだけだとすると、それは厳密には嘘ではない。

 あの三人はどうやって集められたんだ?

 化け物が目をつぶって、額をこつりと合わせてきた。あ、これもしかして求愛行動? 背筋が泡立つ。ぼくは今、? 待ってくれ、ぼくを誰だと思っているんだ、この化け物は。

 思わず押しのけた。

 ぇぉ? ぁーぃぁ。

 万力のような力で左腕を掴まれて、右の下半身が収められた腹部の口がぎりぎりと閉じようとする。痛みに声が漏れると、化け物は長い長い牙をむき出しにして首に噛み付いた。激痛が走って、意識が一気に遠のいて、頭がズキズキと痛む。

 捕食されようとしているのは、愛されているからかもしれない。

 右腕で思い切り殴りつけるけれど、体の自由を奪われている状態では力が入らないし、なにより木乃香さんは人間離れした力でぼくを押さえつけてくる。人ではないのだから甘い。匂いが壊れて腕が飲み込まれる。

 

 そういえば、そんなことを言っていたのは早蕨さんだったか。だとしたら、早蕨さんは木乃香さんの正体を知っていたことになる。結婚を望んでいるのなら、それは嘘偽りない気持ちだろう。


■ 7


「おい坂上、何寝てんだお前」

 所長の声で目を覚ます。眠っていた――? いや、え?

 そこは唯峰探偵事務所の、ぼくに割り当てられたデスクだった。うつ伏せるように眠っていたらしい。デスクの上にはマグカップに注がれたコーヒーがある。一滴も飲まないままに、冷えてしまったようだ。

「すみません」

 目をこすって頭を振りながら体を起こす。怒り半分、心配半分といった表情の所長がぼくの顔を覗き込むようにした。

「おい大丈夫か? 依頼人が急にキャンセルしてきたから、連絡したんだが。出ないから心配したぞ。真面目なお前が仕事中に居眠りなんて、体調でも悪いのか?」

「いえ、そういうわけでは」

 言いつつ時計を見ると、十六時半。やばい、めちゃくちゃ寝過ごしてた。

「依頼人が来れなくなったからよかったけどな。そうじゃなかったら大問題だぞ。客待ってる間に寝るやつがあるか」

「すみません……」

 叱られてしまった。

 完全にぼくが悪い。

 ――いや、けど。

 ぼくがみたあれは何だったんだ? あんなのがこの世にいるなんて信じられない。夢――だったのだろうか。

 だとしたらどこからが夢だ?

 狐につままれたような気分になりながら、首をかしげる。

「あの、所長。依頼人の名前って、四辻遠江さんですよね?」

「は? 誰だそれは。依頼人は汀目みぎわめ正太郎しょうたろうさんだよ。事前に伝えてなかったか?」

 あれ?

 なんだこれ。

 ……確かに言われてみれば、事前に名前は聞いていた。今更、思い出す。いや、今になってようやく思い出せたと言うべきだろうか。

 どうしてぼくは四辻遠江さんを依頼人だと誤解したのだろうか。

「おい坂上、お前本当に大丈夫か? 調子が悪いんだったら、早めに病院行ったほうがいいぞ」

 所長が本気で心配してくるが、ぼくはなんでもないですと首を振った。

 ぼくは何にも出会わなかった。そういうことになった。


 だから、その日の夜にシャワーを浴びていると腕の付け根や左足がひどく傷んだり、そこを見ると何かに噛みつかれたような不気味な傷跡が残っていたことは、きっと夢とは無関係のはずだ。

(ぼくは何にも出会わなかった)

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