018 毒性ナイト

■ 1


 放生会ほうじょうえがなんのためのお祭りなのか、わたしはよく知りません。

 わたあめが食べられて、りんご飴が食べられて、金魚すくいができる夜です。

 世界がきらきらして、恋に満ちる日なのです。

 わたしにとって大事なのは恋であって、放生会がなんのためのお祭りなのかは、知らなくてもよいのです。


 わたしといっくんとるーちゃんは、放生会にきています。

 放生会がなんのためのお祭りなのかは知りませんが、秋のお祭りであることは知っています。毎年、秋になると友だちをさそって出かけるのです。

 門限にきびしいお父さんも、こういうときだけは許してくれます。もちろん、いっくんがいないとだめって言われちゃうけど。

 いっくんは、わたしの仲良しの男の子で、一緒に登校している。昔から、いつも一緒にいた。きっと、ずっと一緒にいると思う。

 るーちゃんはクラスメイトで、二学期になってから仲良くなった女の子です。二学期になって委員会を決めるときに、たまたまいっくんと同じ飼育係になったので、私とも仲良くなったのです。

 るーちゃんは可愛らしい女の子で、細っこくて柔らかい髪をしている。今日は浴衣で、鮮やかな椿模様をまとっていました。赤いりんご飴をもったるーちゃんが、だいだい色の提灯にいろどられた出店通りを歩く姿は、とても美しくて。

 私は、そんなるーちゃんの浴衣姿に恋をしたのでした。


■ 2


「ねえ、きーちゃんって、いっくんのこと好きなの?」

 るーちゃんがわたしに言いました。おしとやかでいつも優しげなるーちゃんの目が、きらりと光っていました。

 ちなみにいっくんは、食べるものを買いに行っています。

「好きだよ」わたしは答えます。「いっくんは、わたしの口の傷も、お腹の火傷も、動かない左手の指も、好きって言ってくれるの」

 だから好き。

 いっくんは大好き。

 だけどわたしは、いっくんには恋しない。わたしが恋するのは、きれいなものだけだから。だっていっくんは、汚れてしまったから。

「わたしもいっくんが好き」

 るーちゃんが、りんご飴で口元を隠したまま、言いました。

「だから、言っておこうと思って」

「大丈夫だよ。いっくんは、るーちゃんのことも好きだよ」

 いっくんはたいてい、誰のことでも好きだから。

 だけど、いっくんが特別に思っているのは私だけ。

 だって――

「わっ」

 どん、とるーちゃんが大人の人にぶつかりました。みんなが歩いてるところで立ち止まったら危ないよね。あわてて振り返ったるーちゃん。

 ぱしゃりと音がして、どろのようなものがるーちゃんの浴衣につきました。あーあ、きれいな着物が台無しになっちゃった。

「すみません」

「おや。小さな人だね。珍しい」

 大人の人は全身真っ黒で、ずんぐりしていて、白いお面をつけていました。お面には黒い目と口が書いてあります。その人はもぞもぞとしゃがむと、るーちゃんに視線をあわせました。

「大丈夫かい? 怪我はしていない?」

「は、はい!」

「そうかそうか。じゃあ、飴をあげようね。もうぶつかってはだめだよ」

 そういって、黒い人は手を差し出しました。大きな体とちぐはぐな小さくて細い手が、ゆっくりと伸びます。るーちゃんはおそるおそる、その手の上にある紙の袋を取ったのでした。

 黒い人はこちらを向いて、わたしのことをじっと見ました。それから、ゆっくりと手を差し出します。

「君にもあげよう。どうぞ」

「いらない」

「そう言わずに、さあ。おいしいよ?」

「知らない人からもらっちゃだめって、いっくんに言われてるから」

 黒い人は不思議そうに首を傾げます。わたしの言葉に逆らえるなんて、なんて強い子供だろう、と言ったのが聞こえました。

「そういうことなら、君にあげるのはよしておこう。その代わり、彼女をよく見ていてあげるんだよ。一人は寂しいからね」

 一人は寂しい。それは、そうだと思います。

 いっくんが見つけてくれるまで、わたしも寂しかったから。

 るーちゃんはもらった飴を口に入れて、びっくりしたのか目を見開いてました。そんなに美味しかったのかな。だったらもらえばよかった……。はやくも心がぐらつきます。


「ただいま。たこ焼きと焼きそば、どっちがいい?」

 いつの間にか黒い人はいなくなっていて、いっくんが戻ってきていました。

「……いっくん、ふわふわのわたあめとか、きらきらのラムネとか、もっと気の利いたもの、買ってきてよ」

「ええ……。お腹すくよ、それだけだと……」

 それにラムネはちゃんと買ってきたって。いっくんが不満そうにぼやいた。

「わたしはおなかすいてるから、わたあめよりそっちがいい。いっくん、ちょうだい」

 るーちゃんが言って、いっくんからたこ焼きを受け取った。わたしはたこ焼き、あんまり好きじゃないなぁ。わたあめがよかった。

 ……あれ? るーちゃん、飴、なめ終わったのかな。

「ほらきーちゃんも、食べおわったら、わたあめ買ってきてあげるから」

「……じゃあ、がまんしてあげる」

 たこ焼きは好きじゃないので、焼きそばにしておいた。それから、いっくんはハンカチを差し出して、浴衣が汚れないように気をつけて、と言ってくれた。いっくんはいろんなことによく気がつく。

 るーちゃんがたこ焼きを頬張りながらあつーい、と悲鳴を上げる。いっくんがあわてて、ラムネを差し出す。なんだか仲が良さそうでちょっとムッとする。

 いっくん、るーちゃんのこと好きなんだろうな。るーちゃんは可愛いし、ちゃんといっくんを頼るし、口を縫わないし、左手の指も動くし。

 …………。

 るーちゃんの浴衣はきれいだし、わたしはきれいなるーちゃんに恋してるので、とりあえず、今日のところは良しとしておくことにします。


■ 3


 金魚すくいです。

 きらきらの金魚たちが泳いで、掬われて、ぴちぴちと跳ねます。

 なんてきれいなんだろう。わたしは金魚に恋してます。

 私は一匹の金魚をすくいました。赤くて金色の金魚です。いちばん数がおおい。きれいなきれいな金魚。いっくんはうまくすくえなくて、おじさんに一匹おまけしてもらっていた。そして、るーちゃんは三匹もすくっていた。

 るーちゃんすごい。

 真剣な目で金魚を見て、さっとすくっていた。

「えへへ、すごいでしょ。おにいちゃんにコツ、教えてもらったんだ」

 ぶい、とピースしてみせたるーちゃんは得意そうだった。

 おじさんから黒い出目金をもらったいっくんは、不服そうに立ち上がります。

「つぎのとこにいこっか」

「うん」「はーい」

 わたしもるーちゃんも頷いて、立ち上がります。るーちゃんは金魚をつまんでぱくりと食べました。手元の黒い汚れが気になって、そういえば、この汚れは、きれいに洗わないとダメそうだな、なんて思ったのです。

 ん?

「ふあ、あー。なんだか眠たいね。わたし、いっくんと来るのが楽しみであんまり眠れなかったんだ」

「るーちゃん今、金魚たべた?」

「え?」

「金魚、食べたよね……?」

 あれ? 金魚って食べ物なんだっけ。わたあめやラムネやりんご飴みたいな。多分、違うよね。

 るーちゃんは首をかしげます。目の奥にちらちらと星のようなものが見えました。黒い影がゆっくりと歩いていきます。ちゅるり、と赤い舌が金魚を捕まえて、こくんと喉が動いて飲み込みました。

 その時のるーちゃんの顔を、私は一生忘れられないでしょう。愕然とした、呆然とした、あとから知ったそんな表現にふさわしいものでした。その言葉を、中学生になってからいっくんに教えてもらったときに、なるほど、るーちゃんの顔だな、なんて思ったから。

 きっといっくんは、わたしのそんな顔を見たことがあるのでしょう。だから、いっくんにとってわたしは特別な女の子で、いっくんにとってるーちゃんは特別な女の子ではないのです。

 これは、順番だっただけ。

 いっくんがゆっくりと、るーちゃんから離れます。いつの間にか雑踏はなくて、周りを歩くのは黒い人ばかりです。白いお面をつけた人たちは、とても不自然でした。

 不自然なのに、ここを歩いているのが自然で。

 多分、わたしたちのほうが迷子なのです。

 るーちゃんがいっくんを見て、手を伸ばそうとして、諦めて、いっくんから視線をそらして、それからまた金魚を飲み込みました。ちゅるりと飲み込まれた金魚の尾びれが、一瞬だけるーちゃんのくちびるから見えて、けどすぐに喉が動いてしまって、見えなくなります。

「いっくん、きーちゃんのことが好きなの?」

「……きーちゃんと約束したんだ。ぼくは死なないし、きーちゃんも死なせないよ」

「べつにきーちゃんを食べたりしないよ。けどわたし、いっくんは食べてみたいかも。今はそんな気持ちになってるよ」

 るーちゃんの声は震えていました。

「ねえいっくん、わたしのものになって」

「それはダメだよ。順番だから。きーちゃんが先だった。ぼくはきーちゃんに、死なないって約束したから、るーちゃんに食べられるのはダメ」

 悲しそうな目。

 それもまた、きっといつかの私の目なのでしょう。恋を諦めた私の目。

 いつもいつも、私が恋したものばかり、この世界から消えてしまう。

 るーちゃんは悲しそうな目のまま、ゆっくりとゆっくりと、眠るように目をつむりました。


■ 4


 ゆっくりとゆっくりと目をつむったるーちゃんは、うずくまって、背中が開きます。浴衣から染み出してきた黒い汁はじゅくじゅくと飛び散りながらあつまって、大きな羽根になりました。羽ばたいて出てきたのは、白い、なめらかな芋虫のようなものでした。頭には細長い管があって、つるんとした体には赤いがあり、三つのしっぽの先端は孔雀の羽根のような模様があって、赤の柄は椿の花のようでもありました。汁に濡れた羽根は、やがて汁が滴り落ちると、半透明だとわかりました。何本もの灰色の管に支えられた、膜のような羽根でした。

 美しい、と私は思ったのです。るーちゃんは、美しいものだったのだと知り、私は悲しくなりました。それは、私がるーちゃんの美しさを知らなかったからなのか、それとも、るーちゃんがるーちゃんでないものになってしまったからなのか、わかりません。

 私はそして、そんなるーちゃんに恋をします。美しいものになったるーちゃんに、恋をするのです。

 るーちゃんはゆっくりと飛びたって、夜空に消えました。


 るーちゃんの抜け殻は、いっくんと二人で埋めました。

 近くの森でるーちゃんを埋めて戻ってくると、そこは温かい灯りが点った出店通りで、黒い人達はもういません。


 それからしばらくして、るーちゃんのお家が燃えました。

 理由は知りません。

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