017 代理性セラピー
■ 1
合わせ椅子。
二つの椅子を使った降霊術だ。
だれも居ない教室に二つの椅子を背中合わせに並べる。椅子の片方の背もたれの内側に赤い塗料で鳥居を描く。術者は、鳥居のないほうに腰掛け、呪文を唱えてかこさまを呼ぶ。
かこさま、かこさま、どうかおいでください。
何度唱えても構わない。人に見られるまではいつまでも唱えてよい。と、されている。
やがて背中の椅子に何者かが座る。術者が何者かに語りかけると、何者かは言葉を発しないが、応答するような空気がある。肯定、否定、疑問、相槌、そうした空気だけが背中から伝わってくる。術者は背中に座る何者かに、どんなことを相談しても良い。
佐倉環奈に対する評価は「陰鬱で根暗で、それがあまりにいきすぎているために忌避されている女子生徒」だ。
誰による評価かといえば、それは夜舞阪高校に通うほとんどの生徒にとっての評価、ということになるだろう。佐倉環奈のクラスメイトである一年三組の面々には同情するけど、嫌な奴を無視したりやり過ごしたりする技術も鍛えておいて損はないのだから、うまく佐倉環奈をやり過ごしてほしいものである。
皆に忌避されているものを正しく忌避することができるというのは、一般的には「危機管理能力」にカテゴライズされる技術だろう。そう考えると、オレは危機管理能力が低いということになってしまうが。
そうかもしれない。オレは、忌避されているはずの佐倉環奈と関わりを持ってしまった。
佐倉環奈とオレが関わりを持ったのは、けれど、オレにとっては必然というか、僥倖――だったのだと思う。言ってしまえばオレは、佐倉環奈に命を救われた――とまでいうと行き過ぎだけど、窮地を救われたというのは過言ではないだろう。
だからその代わりに頼みがあると言われてしまえば、それを引き受けることは吝かではない。
そして――問題の、佐倉環奈のお願いとは、つまり「消えた兄を探してほしい」というものだった。まず佐倉環奈に兄がいたことに驚いた。そして、その兄を心配しているというのにも驚いた。気持ちの上で言えば、正直、消えた人間一人を探し出すほどの恩を感じているわけではない。かといって、何もしないのも座りが悪いという程度の恩は感じている。
「確約はできないけど、できる限りのことはするよ」
という玉虫色の返事をして、その場を凌いだ。
オレは自分の命に対する優先度が低い――低いというよりも、高くないというべきだろうか。もちろん自分の命は重要だけれど、なんというか、それがある日突然失われてしまっても仕方がない、運が悪かったと諦められるというか――体は生存を欲しているけれど、精神はその限りではない、などというと高二病なんて揶揄されそうだけど、そういう感覚で生きている。
だからその分、佐倉環奈への恩義も薄れるというものだ。これがたとえば、佐倉環奈が姉の命を救ってくれたなんていうなら、なんでもしてやるんだけど。
■ 2
佐倉環奈は写真部に入部した。
うちの学校の入部届けには、入部理由を書く欄がある。佐倉環奈が提出した入部届けにも、もちろん入部理由は書かれている。その内容は「一歳俊晞が入部しているので」だ。
勘弁してください。
何故それをオレが知っているのかというと、部長から「恋愛事情を部活動に持ち込むのは部長としてあまり歓迎できないが、その辺りの節度は守れるのか」と呼び出しを受けたからである。恋人でもないしなんなら友達でもないが無下にできる相手でもないという説明をして、どうにか誤解を解くことができた。(できたか?)
ちなみに
佐倉環奈は陰鬱な雰囲気をまとった不潔な女子生徒で、コミュニケーションに大きな課題があるものの、かといって別に悪人というわけではない。どちらかといえば善人である。と思う。それに、自分が他人から忌避されていることについても自覚的だ。他人に好かれようと思っていないことと、ものすごく怠惰な性格が合わさって、忌々しい雰囲気になってしまっている。みたいだ。
女子を形容する言葉としてかなり不適切だが、「気持ち悪い益虫」である。
いや外見が気持ち悪い益虫って、実際には害虫と紙一重だよな。
「実際、佐倉さん、悪い人じゃないですけど、居て欲しい人でもないですよね」
「そういうことはもっと人気のない場所で言えよ。オレの恩人なんだぜ。感謝してるんだ本当に」
「先輩の恩人であって私の恩人ではありませんから」
オレと氏原は写真部の部室からほどほどに近い非常階段の踊り場で、パックのジュースを嗜みながら雑談をしていた。雑談というか、情報収集というか。
氏原に佐倉環奈の事情を改めて聞こうというわけである。特に兄について。一方で氏原も佐倉環奈の入部について問いただしたいことがあるらしく、目を吊り上げてやってきたというわけだった。
「ていうか、結局のところ佐倉さんと何があったんですか? その辺の話、全然聞いてないんですけど。私は普通に不愉快です」
不機嫌さを隠そうともせずに言われた。なんで不機嫌なんだよ、別にいいだろ仲間が増えただけだよ。
「悪いけど、あんま詳しくは言えないんだよな」
オレの言葉に、氏原は眉間にシワを寄せる。難しいことを考えて難しく頭を使うのが日常になっている後輩だ、少しくらい機嫌の悪い顔をされてもいつもと変わらないなと思えてしまう。
数週間前、オレのトラブルを解決してくれたのが、他ならぬ佐倉環奈だ。呪いとか悪夢とか、他人に話して信じてもらえるようなエピソードではないため、いくら氏原が物分りの良い後輩といっても、詳らかに語ってみせるのは憚られた。
「まあとりあえず、あいつのおかげでオレは悩みが解消したんだよ。恩があるってのは本当なんだ。写真部に入部してくるとは思ってなかったけど」
「佐倉さん、先輩のことが好きなんじゃないんですか?」
「それはないだろうなー。そもそもあいつに恋愛感情ってあるんだろうか」
「失礼な人ですね……」
先程まで「居て欲しい人ではない」などと宣っていた口に失礼だと非難されるとは。
「それで、佐倉環奈から兄探しを手伝ってほしいって相談されてるんだよね。でもオレ、人探しとかやったことないし、失踪した人間の探し方なんて、全然わかんないわ」
氏原は「うーん」と悩ましげに首を傾げる。
「普通の人は人探しなんてやったことないですよね。そういうのは探偵さんとか刑事さんとか、専門家の仕事じゃないですか?」
「そうだよなぁ。とりあえずその辺聞いてみるか。けどなんか、正直聞きづらいんだよな。いろいろ聞き出した挙げ句、断るのは気が引けるというか」
「悩みは付きませんねぇ」
他人事だと思ってるからか、氏原は困ったように笑った。いや、他人事か。氏原にとっては。
「とりあえず、佐倉さんにお兄さんがいるという話は初耳でしたよ。一年生でも知ってる人はいないんじゃないかなぁ。先生だったら、もしかしたら生徒の家族構成も知っているかも知れませんが、それでもすべてを記憶しているということはないでしょうから、聞いてもすぐに教えてくれるとは限りませんよね」
たしかに。
オレが氏原に聞きたかったことは、佐倉環奈に本当に兄がいるのか、ということだ。同じ一年生なら少し位なにか知っているかと思ったが、宛は外れたみたいだ。良く考えたら、オレだって
「ていうか、そもそも、バカ正直に付き合う必要はないんじゃないですか?」
「ん? いやでも、それは気が引けるって話で……」
「それはもちろん、わかりますけども」
話に飽きたのか、氏原はぐでーっと非常階段に身を投げだして寝そべった。制服が引っ張られて、お腹が少しだけ見える。目をそらした。
「汚れるぞ」
「平気ですよ。教室の床よりキレイです」
そんなもんか。
氏原は話を続ける。
「そもそもですね、先輩は佐倉さんに恩を感じていて、佐倉さんは先輩の恩に付け込んでお兄さんを探してもらおうとしているわけでしょう」
「んー?」オレは首を傾げた。佐倉環奈が恩に付け込んでいると表現されると、あまりしっくりこないが、客観的にはそう解釈することもできるか。「まあ、そうだな」
「だから問題は先輩が恩を感じているという点なんですよ」
――ん? なるほど?
「先輩が恩を感じなければ良いんです。それでこの話はおしまいです」
「……感じてるものはしょうがないだろ。実際、助かったんだし」
「はいそうです。なので、恩の範囲でできることをすればいいんです。具体的には、佐倉さんのために有能な探偵を探して紹介するとか、佐倉さんと適切な人材との間に入ってやり取りを助けるとか、そういうことをすれば良いんですよ。バカ正直にお兄さんを探す必要はないですし、そもそもそれは事態の解決に繋がりません」
あー、確かにそうだ。恩を感じているというなら、佐倉環奈に手を貸してやりたいと思うなら、現実的な手段を――自分にできることを、まず最初に模索すべきだった。
「なるほどね」オレは頷いた。「勉強になる。助かったよ、氏原」
どういたしまして、と氏原は満足そうにはにかんだ。寝そべったままでお腹がチラ見えしていたが、そのことは指摘しないでおいた。
■ 3
「お前さ、マジ汚えんだよ。ゴミ箱から出てきたみたいに臭えし。二度とゲロ吐けねえようにガサガサの唇縫い合わせてやろうか?」
「あははは、
「そうそう。それに、手ぇ汚れちゃうよ? 汚いからやめときなよ」
怒声と笑い声。特別棟二階の女子トイレから聞こえてきたその声は、明らかにいじめのそれと思われた。氏原と別れたあとそのまま帰宅しようとして、いつもと違うルートを通ったことで、トラブルを引くことになるとは……。
このあたりは滅多に人が来ない。人に見られたくないあれこれをやるにはうってつけの場所だ。
深くため息をつく。一年生だろうか。オレたち二年生は、いじめとかそういうのは絶対にないからな。三年生が受験を前にして不用意なことをするとも思えないし。
さてスルーするか対処するかどっちだろうと思案していると、聞き慣れた名前が聞こえてきた。
「おい佐倉、てめーシカトしてんじゃねえよ!」
怒声と鈍い音。笑い声と水の跳ねる音。なかなかお盛んですね。ていうか佐倉って、佐倉環奈のことだろうか?
だとすると、うん。これはおあつらえ向きな状況じゃないか? ここで助けに入れば、佐倉環奈に恩を返した、と思えるかもしれない。そうすれば面倒な兄探しをせずに済む。佐倉環奈も、手助けを強要はしてこないだろうから、それでオレと彼女の関係も終わりだ。いいアイディアだ。
やるか。
オレは女子トイレに入る。
三人の女子生徒に囲まれて、ボロボロの佐倉環奈がトイレの床に座り込んでいた。腕を抱いてガタガタと震えている。全身水浸しで、取り囲んでいる女子生徒のうち一人は水の出ているホースを持っていた。リーダー格の女子生徒は足を壁にグリグリと押し付けていて、その足は佐倉環奈の髪を踏んでいた。ただでさえ手入れされていない髪が、あれではもっとひどいことになる。
三人の女子生徒はどうやらオレが入ってきたことに気付いていないので、スマホで写真を撮影する。シャッター音に驚いた三人組が、ぎょっとした顔で振り返った。
「撮ってんじゃねえよ! てめえ、誰だ? 男子が入ってくんなや」
「君たちさあ、壁新聞部って知ってる?」
三人組のリーダー格が怪訝な表情になる。残りの二人は怯えたように彼女に寄り添った。どうやら、リーダー格の一年生に従っているだけで、大したことはなさそうだ。一方、リーダー格の子はオレを警戒していて、敵愾心を隠そうともしない。据わった目が非常に怖い。
ふむ。
これは、単に気に入らないからいじめているとか、そういう感じでもなさそうか……? そもそも、佐倉環奈はいじめられたりしない、忌避されているのだ、という評価は氏原を始めとした一年生の総意と言っても良いはずだ。その情報に偽りがないのなら、これは典型的ないじめではなく、明確な意志に基づいた攻撃だと考えるべきだろう。
頭で考えながら、口を動かす。
「湯川先輩が部長やってるんだけど、校内での影響力はダントツなんだよね。オレもその子も写真部なんだけど、この写真、どうしようかな。湯川先輩に送ったら、君たち、全校に注目される有名人になれるよ。昇降口の壁を飾るのは、サッカー部のエースでもなかなか難しいんだぜ?」
リーダー格の一年生が一層険悪に睨みつけてくる。可愛らしい顔立ちの少女で、検のある表情が逆に迫力を感じさせる。普段はシュークリームとか食ってそうな顔なのだけど、今はキレた豹みたいだ。
たしか、倫子とか呼ばれてた子だな。
しばらくオレを睨みつけていた倫子だったが、舌打ちをして「帰るぞ」と言った。オレの隣を通り抜けて、女子トイレから出ていく。取り巻きの二人も慌ててついていった。
ふう。
慣れないことはするもんじゃないな。
しばらく耳を澄ませて、三人組が遠く離れていったのを確認すると、オレは佐倉環奈に近づいた。夏服はびしょびしょに濡れていて、下着が透けている。濡れたボサボサの髪が彼女自身の体にまとわりついて、まるで幽鬼のようだ。ガチガチと奥歯を震わせている。嘔吐したのか、床には吐瀉物が散らばっていた。
「おい大丈夫かよ」
しゃがんで、佐倉環奈の髪をかきあげて顔を顕わにする。ギョッとした。ぼろぼろと涙を流していたのだ。表情らしい表情を一度も見せたことがない佐倉環奈が、泣いている。オレはそのことに動揺して、二の句が告げなかった。
「あ、ひぅ」
佐倉環奈が変な声を出した。
「いぐ、お、う、あぁあぁぁ、うぅぅぅぅぅ、ぅうぅぅぅ」
ぐりぐりと額を押し付けてきた。仕方ないので、頭をなでてやる。ああ、こいつ、人間だったんだな。ぼんやりとそう思った。
冷たくなった佐倉環奈の体を抱きしめてやると、枯れ枝のような手はオレのワイシャツを握りしめた。
首元が変に引っ張られてしまったのか、妙に息苦しかった。
■ 4
佐倉環奈を連れて写真部の部室に戻ると、氏原だけが残っていた。悲鳴を上げた氏原にとりあえず事情を説明して、佐倉環奈をジャージに着替えさせてもらう。制服は適当に干しておいた。夏だし、そのうち乾くだろ。
パイプ椅子の上に体操座りした佐倉環奈は、いつもの能面のような表情に戻っていた。どうやらショック状態から回復したらしい。これはこれで、凄まじい精神力だ。
「佐倉さん、誰にやられたんですか?」
「……
「あー。浅木さんか。なんか最近人が変わったみたいだって噂ですよね。何かあったのかな……」
氏原が気になることを言ったが、それは佐倉環奈の次の発言のせいで追求できなかった。
「私が彼女の顔に吐いた。彼女には私を攻撃する理由がある」
「は、吐いた? 顔に? どういう状況でそうなるんだ?」
思わずそう尋ねると、彼女はぷいと顔をそらした。説明したくないらしい。ええ……息が臭かったとかかなぁ。
「そんなことないですって」
オレが戸惑ってると、氏原が強めに言った。
「あのですね、別に暴力を振るわれたわけでもないのに、三人がかりで暴行して水をかけるなんて絶対普通じゃないです。明らかにやりすぎです。そんなことは佐倉さんを攻撃する正当な理由にはならないです」
おお、氏原がまともなことを言っている。いや、氏原はいつもまともというか、平均的な感覚を持っている女子だが、「居てほしい人ではない」と断言した佐倉環奈相手にでも怒ることができるのか。いや、そうじゃないな。自分の感覚に照らし合わせて怒っているのだ。そういう子だ。
むしろこの場合、こんな有様の佐倉環奈を見て、恩を返すいいチャンスだと思ったり、あるいはいじめの現場を目にして義憤に駆られたりしないところが、オレの駄目なところなのかもしれない。
「先輩、私は許せません。確かにゲロを顔に掛けられたら私でもブチ切れてぶん殴ったりすると思いますけど」
するんかい。
「それでも人気のないトイレでリンチなんて、やりすぎです! ありえねーです! 夏だからいいですけど、冬だったら死んでもおかしくないですよ!」
それは――そのとおりだ。そう考えると、過失致死まで至る可能性があるのか。いや冬に水をかけるかどうかはまたわからないけど。流石にまずいと思ってやめるかもしれないんだし。けれど、そんな理屈は氏原には通じないみたいだ。
「まじであり得ない。絶対許せない。後悔させてやる。というか浅木倫子、おっとりふわふわしといて中身えげつねーな! アレがクラスの人気者とか信じられねえ!」
氏原が言う。おっとりね。見た目の印象で人間は判断できないとはいえ、やはり見た目に人間性は出る。性格がキモいやつは見た目もだいたいキモいし。逆に見た目を気遣っているやつは、なんとなくバランスが取れている性格だと思う。浅木倫子は見た目でいうと、おっとりしていて、他人に上手く合わせそうな人間に見えた。
そう思っていると、佐倉環奈がぼそりとつぶやく。
「……あれは浅木倫子ではない」
陰鬱で不吉な声で、かすれた声で、彼女はそう言った。オレと氏原はぽかんとしてしまった。
「あれは合わせ椅子によって、浅木倫子と入れ替わった、なにか」
――佐倉環奈が言うと冗談には聞こえない。
オレは――オレは、オカルトを否定はしない。それは実際に怪異の被害にあったから――というのもあるし、なにより姉が何度もそういう出来事に遭遇しているから――というのもある。
そしてなにより、佐倉環奈の超能力を体験したことがある。
詳細を聞いたわけではない。ただ起こったことを説明するなら、あれは一種のテレパシーだろうか。
だから少なくとも、一般に「ありえない」と言われているものからでも、この世が作られているということは、実感している。
理解していなくとも、実感はしている。
だから、人の心を乗っ取る化け物がいたとしても、それそのものは――不思議ではない。昔だったら腑に落ちなかっただろうが、今となっては「そういうこともあるかもな」と思えてしまう。
なによりこれは合わせ椅子の話だ。
「合わせ椅子って、あの七つ怪談のですか?」
氏原が首をかしげる。眉間に皺が寄っていて、佐倉環奈を胡散臭そうな目で見ている。佐倉環奈はうつむき気味のまま頷く。
合わせ椅子。
二つの椅子を使った降霊術だ。
だれも居ない教室に二つの椅子を背中合わせに並べる。椅子の片方の背もたれの内側に赤い塗料で鳥居を描く。術者は、鳥居のないほうに腰掛け、呪文を唱えてかこさまを呼ぶ。
かこさま、かこさま、どうかおいでください。
何度唱えても構わない。人に見られるまではいつまでも唱えてよい。と、されている。
やがて背中の椅子に何者かが座る。術者が何者かに語りかけると、何者かは言葉を発しないが、応答するような空気がある。肯定、否定、疑問、相槌、そうした空気だけが背中から伝わってくる。術者は背中に座る何者かに、どんなことを相談しても良い。
ただそれだけの怪談だ。怪談というにはオチが不明瞭で、今ひとつ怖い要素もないようなこの話は、七つ怪談が爆発的に流布した去年の一年生――つまりオレの学年において、唯一被害者らしい被害者を出していない怪談でもある。
「合わせ椅子って――そういえば、最近ちょっと噂になってますよね」
「噂って、合わせ椅子が? なんで?」
「わかんないですけど、女子の間でちょっとした話題って感じで。なんだろうな、やった人がいるってわけでもなさそうなんですけど。本当になんでも解決してくれるし、秘密は漏らさないから、って触れ込みでしたね」
「私も、聞いている」佐倉環奈が口を挟む。「浅木倫子が、噂を聞いて、実践、した可能性。十分」
肺の中に淀んだ空気が溜まってるような気がして、深く息を吐いた。ちょっと待ってくれ。整理させてほしい。
「合わせ椅子の噂はオレも知ってる。一年にまで広まってるとは思ってなかったけど。アレだろ、かこさまが相談に乗ってくれるっていう降霊術」
「そう」佐倉環奈は頷く。相変わらず顔色は悪いが、少しはマシになっている。
「一年の女子の間で広まってるなら、たしかに浅木倫子がそれを聞いた可能性も十分に考えられる。それに、実践した可能性もなくはないだろう。けどそれが、どうして心の入れ替わりに繋がるんだ?」
合わせ椅子という怪談が真実だとして、浅木倫子の原状が事実だとして、その二つが結びつく根拠が見えてこない。
「百歩譲って、合わせ椅子が化け物と人間の心を入れ替えるものだとして――どうして、お前がそのことを知っているんだ?」
陰鬱そうな表情を動かさず、死体のような落ち窪んだ目で、佐倉環奈はオレを見返す。その目からは、面倒だとか、どう説明しようだとか、そういう感情は一切感じられない。
沈黙。
「厳密には」ややあって、佐倉環奈はぼろぼろに荒れたの唇を開いた。「確証が、あるわけではない。半ば当てずっぽう」
「……そう、か。けど、当てずっぽうにしろ、何か根拠はあるんだろ?」
小さく頷く佐倉環奈。
「合わせ椅子はおそらく、降霊術に見せかけた精神交換術。そうすれば、辻褄が合う」
精神交換。
合わせ椅子の結末――相談に答えていたのは自分だった。それはつまり、相談に答えていた側の――呼ばれた側の何かが――呼び出した側と、本人すらそうと知らずに入れ替わっていた――ということになるのか?
合わせ椅子によって入れ替わった――佐倉環奈の言う化け物は、化け物であるという自覚もなく、人に成り代わって生きている。
「合わせ椅子という怪談の不自然さと、私が感知した浅木倫子の現状を統合すると、それが一番、自然」
「それは――妄想、だろ。流石に根拠が薄い」
自分で言って、声が震えていることが自覚できた。だってそうだろう。佐倉環奈の言葉が真実を言い当てているとしたら、オレ達の学年にいる七つ怪談の被害者は、六人ではなく七人、もしくはそれ以上いるということになる。
佐倉環奈はオレを見る。木のうろのような目は、無感情だ。
「どうでもいい」
佐倉環奈が言う。
「浅木倫子のことは、水が冷たいだけ。それより、あなたには、お兄ちゃんを探してほしい」
■ 5
土曜日。佐倉環奈の願いについてどうしたものかと悩んだオレが姉に電話をすると、どうやら体調を崩してしまったらしく、姉の弱々しい声を聞く羽目になった。姉が弱っている声は可愛らしく、正直ぐっときた。が、明日のデートに出かけられなくなったなどと言い始めたので、一体どこの馬の骨とデートをするのかと問い詰めまくると、サカガミなる男について聞き出すことに成功する。
サカガミという名字からしていかにも怪しい。逆神って。
全国のサカガミさんに失礼なことを考えていることは伏せて、代わりにオレがその人と会うことを提案した。どうやら向こうもオーケーしたので、日曜日はそいつと美術館に出かける。
というか。
デート相手の代わりに弟が来ることを了承するって、それデートだと思われてないんじゃないのか……?
我が姉ながら不憫だ。基本的に姉を全肯定するオレだが、これについては一度真剣に忠告したほうが良いと思った。
「そういえば、行きのバスで言ってたことだけど」
帰りの道中、坂上さんが思い出したように口を開く。
「なんだっけ」
「ほらあの、兄を探してる女の子がいるって話。あれ、本当に紹介してほしいんだったら、いつでも連絡してね。最近ちゃんとスマホで電話取れるようになったから」
そう言って渡されたのは名刺だった。
唯峰探偵事務所、調査員。坂上。
名字だけが書かれた不思議な名刺を受け取った。
「あー、ありがと。明日にでも行くかな……。探偵事務所って、直前のアポでも大丈夫なの?」
「場所によるんじゃないかな。依頼人のバッティングはもちろん避けるけど、うちは応接室をひとつは開けておくから、突然でも大丈夫だと思うよ」
そのために開けてるんだろうし、と坂上さんは続けた。
じゃああとは、佐倉環奈の都合だな。
月曜日。
オレは佐倉環奈のクラスに出向いていた。教室の前で逡巡する。下級生のクラスを上級生が訪ねるのって、地味に勇気がいるよな。かといって緊張していることを悟られるのもかっこ悪いという自意識が働いてしまって、堂々巡りに緊張する。
とりあえず教室の入り口から中を覗いてみるが、佐倉環奈はいないようだった。近くの一年生に声をかけようかと思ったところで、ある女子生徒とばっちり目が合う。見覚えはないが、その子は目があった瞬間笑顔満面になって席を立ち、こちらに駆け寄ってきた。
ええ。
怖いんだけど。
「こんにちは、一歳先輩ですよね!」
「お、おう。そうだよ。一歳俊晞だよ。そういう君は誰……?」
「はじめまして!
巳萌菜という名前には聞き覚えがあった。
「ああ! 氏原がポトレのモデルで紹介してくれようとしてた子か。その節はありがとう、体調崩しちゃったんだっけ」
巳寅さんは表情豊かに目尻を下げて、品を作った。かわいい。
「そうなんですよー。私すぐ調子悪くなっちゃって。それで先輩、なんでうちに来たんですか? 誰かお探しですか? 巳萌菜ですか?」
ちげーよ。
かわいいけどこいつ、けっこうキてるな。
「佐倉さんに用があって。教室にいないけど、どこにいるか知らない?」
佐倉という名前をだすと、巳寅さんは露骨に「あちゃー」という顔をした。黒目がちな瞳がすいっと逸れる。
「佐倉さんはー、なんというか。取り込み中? あんま関わらないほうがいいですよお」
「……そういえば、浅木さんもいないね」
「げ、先輩なんでそれ知ってるんですか。……ええ、佐倉さんと先輩ってどういう関係なんですか? ナイト様的な?」
それはない。ちょっと恩があるだけだ。
しかし、一年生の正義くんは何やってんだ。露骨ないじめを看過するような人間なのか? いや、氏原がいってたか。佐倉環奈は弱者ではない――だとかなんとか。
本当にそうか?
水をぶっかけられてガタガタ震えて、目の前の脅威にただなすがままにされている佐倉環奈が、弱者ではない?
そんなことはないだろ。
「浅木さん、どこにいるかわかる?」
「あの、先輩。一年生の事情に口出しするのはおすすめしないというか」
「良いから。教えて」
「あ、あの、多分特別等の女子トイレだと……」
ありがとう。巳寅さんに礼を言って、オレはすぐにその場所に向かう。
オレには正義感なんてない。
あったらとっくにこの学校から消えている。
じゃあなんでオレは佐倉環奈を助けようとする? それは、恩を感じているからか? 助けられたのは事実だとしても――佐倉環奈がいなければ絶対に死んでいた、みたいな状況ではなかった。
命を救われた、という見方はもちろんできるけれど。繰り返すが、オレは自分の命を重視していない。
だとしたら、これは不合理さに腹を立てているのかもしれない。
だって、佐倉環奈に落ち度はない。浅木倫子からすれば、むしろ正当な報復なのだろうけれど――佐倉環奈の特殊性を知っている人間からすると、不合理な言いがかりだ。
そもそも合わせ椅子なんて怪談に手を出したのが悪い。
七つ怪談。
不幸を生み出し続ける、この学校の不安の種。
数日前と同じ場所、つまり特別棟二階の女子トイレで、浅木倫子は佐倉環奈を踏みつけにしていた。トイレの床に顔を押し付けて、上からぐりぐりと体重をかけている。今日はどうやら、一人のようだ。
「お前さあ、なんつーか、ホント何考えてるのかわからねーよな」
浅木倫子が言う。
「不気味だし目がイってるし、絶対彼氏とかできなさそう。きたねーままババアになって死ぬんだろうなぁ」
「何やってんだよ、浅木倫子」
「は? あー、またあんたか……。つーかさあ、なんなの? あんたとこの女、なんかあるわけ? 付き合ってんの?」
「ちげえよ……」
つーかこいつ、今こうして喋ってるのは浅木倫子じゃないんだよな……。佐倉環奈の言葉を信じるならば、だけれど。けれど、周囲はどうやら彼女を浅木倫子だと認識しているらしい。
違和感を感じつつも。本人だと疑っていない。
体が同じなんだから疑いようもないんだけど。
それでも、彼女に起きている異常に確信を持っているのが佐倉環奈だけだ、という事実は皮肉だ。
「合わせ椅子」
佐倉環奈がつぶやく。ぎょろりとした目で、踏みつけにされたまま、オレを見上げる。その目は無機質で、浅木倫子のことなど意に介していない。浅木倫子が舌打ちをしてなにか喚くが、オレはその声を意識から消した。
「合わせ椅子の本質は、居場所の数。一人だけでやる必要もない。余分が一つあればいい」
――この女子トイレには個室が四つある。
四人分の席がある。
三人の人間がいる。
居場所の数が重要というなら、そもそも席に座る必要もないだろう。胸ポケットからサインペンを取り出して、個室の一つに入り、壁に鳥居を書く。
それから、唱えた。
かこさま、かこさま。
どうかおいでください。
嘔吐感。
時間が消し飛ぶ。
意識が飛んでいるのか、
それともかろうじてあるのか。
ぐるぐるぐるぐると世界が回転する。
トイレの床からオレを見上げているオレがいる。
鳥居に囲まれた迷路で彷徨っているオレがいる。
佐倉環奈を見下ろしているオレがいる。
わたしはだれなのかわからない。
どうしてここにいるのだろう。
オレの過去が消えていく。
意識も時間もない。
ただ空虚で、
暗い。
ぐるりと視界が回って、オレはオレに戻ってきた。
「はぁ……はぁ……」
呼吸が荒い。喉で息をしている。どうなった? 佐倉環奈がオレの腕を掴んでいる。もう片方の手は、鳥居に押し付けられている。その目と真っ直ぐ見つめ合った。
怯えていた。
佐倉環奈は怯えていた。
一体何に?
次に、彼女は床にへたり込んでいた浅木倫子を掴んで、こちらに引っ張ってくる。佐倉環奈が浅木倫子を掴んでいるのとは反対の手のひらを鳥居に押し付けると、浅木倫子がびくびくと痙攣して、それから力を失った。
佐倉環奈が腕を離した。べしゃりと、浅木倫子はトイレの床に崩れ落ちる。
死んだか?
と思ったけれど、少しすると、浅木倫子のすすり泣きが聞こえてきた。
「戻った……戻ってきた……。ひぐっ、暗かった……」
――暗い場所。
鳥居に囲まれた迷宮。あれは一体、どこなんだ?
ぺたりと腕に触れるものがあって、見ると佐倉環奈がオレの体をしきりに触っていた。神経質そうに何度も。怪我がないか確認するような仕草だ。
「……大丈夫だよ。ありがとな」
そう言ってみると、佐倉環奈はこちらをじっと見てたっぷり沈黙してから、短く言う。
「いい」
その瞳はすでに無表情だったけれど、なんとなくオレは、彼女が何を考えているのかわかったような気になった。
■ 6
「あの、ありがとう。気づいてくれて。あなただけだった。気づいてくれたの。本当にありがとう」
「いい、気にしないで。たまたま」
泣きながら何度も何度もありがとうと言う浅木倫子は、普通の女の子で、見た目通りの気弱そうな印象になっていた。
「たまたまじゃないよぉ……。佐倉さん、怖そうって思ってたけど、悪い人じゃないんだね。ごめんね今まで、無視してて。いつも一人でいるから、心配だったの。けどどうしていいかわかんなかったの。ありがとぅ」
「いい。大丈夫」
佐倉環奈がすごくめんどくさそうな表情になっている。貴重だ……。
ともかくこうしてなし崩し的に、佐倉環奈と浅木倫子の問題は解決し、ついでに合わせ椅子によるトラブルも終焉を迎えることになった。いや、果たしてそうだろうか? 浅木倫子だけではなく、まだ何人もの女子生徒が、あるいはオレの学年の人間の中にも、同じように合わせ椅子によって入れ替わられた者がいるのではないだろうか。
チャイムが鳴った。授業には遅刻してしまうが、まあ、良いだろう。もともと素行が良いわけでもないし、後輩女子二人を放ってオレだけ教室に戻るわけにもいかない。
ペンで書かれた鳥居を見る。何も変なことはない。どこかにつながっているということも、あるいはなにかが覗いているということもない。ただ、壁に書かれただけの鳥居だ。
とはいえ。
佐倉環奈の兄が行方不明になった問題は解決していないので、その日の放課後に彼女を唯峰探偵事務所に案内することになった。
その話は、七つ怪談を巡るエピソードとは無関係なので、語るのはやめておこう。
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