016 元型性ローズ

■ 1


 薄葵うするぎ問目もんめはぼくの知人のなかでも特に異彩を放っている一人だ。本名は知らない。彼女はそこそこに著名な人形作家で、和服を着た球体関節人形の製作を生業としている。ぼくの部屋にある人形も彼女が手がけたもので、その名を瑪瑙めのうという。

 今回は瑪瑙の話ではない。(ちなみに瑪瑙は、柔らかい微笑みでぼくの方を漫然と眺めている――ように見える)

 そんな彼女――薄葵問目から封筒が届いた。開いてみると、中には手書きのメッセージカードと共に展覧会のチケットが入っていた。


 紅房べにぶさ桔梗ききょうという画家と共同で展覧会をやることになった。是非、君にも来てほしい。チケットは二枚同封しておくから、以前一緒にいた女の子でも誘うといい。


「…………」

 目眩がした。

 紅房桔梗という男も、ぼくの知っている人物だ。この文面だと、どうやら薄葵さんはぼくとあの男との関係までは把握していないらしい。

 幸運というべきか、不運というべきか。

 ともあれ、ぼくとしてはあの男が関わっているのなら顔を出さないわけにはいかない。

 紅房桔梗。彼は端的に言ってしまえば、不気味な画家だ。ことごとく周囲に不幸をばらまく性質を持っていて、彼を野放しにしておくことは、ぼくにはできそうにないと、そう思わせるくらいには邪悪な男。と、そこまで考えて――少しだけ、自分のことを意外に思った。以前のぼくなら、紅房桔梗の邪悪さをどうとも思わなかったかもしれない。ぼくは人が死ぬことを恐れている――きっと殆どの人は、人が死ぬことを恐れているけれど――けれどぼくは、紅房桔梗と関わったことで、ぼくのそれまでの想像よりずっと簡単に、人が死んでしまうことを。それは――些細な不幸の種を見過ごせなくなってしまうという変化に繋がった気がする。

 例えばぼくが手を打たなかったために彩智さちが死んでしまったとして。

 その時ぼくは、ぼくを呪うだろう。


 さて。

 チケットは二枚ある。誰を誘うべきだろうか。


■ 2


「はじめまして、坂上さん。姉ちゃんがいつもお世話になってます」

「今日はよろしく、俊晞としきくん」

 というわけで。

 彩智を誘ったらなぜか彩智の弟くんがやってきた。

 一歳ひととせ俊晞。

 会うのはこれが初めてだ。目付きの悪い男子高校生で、第一印象はあんまり良いとはいえない。彩智曰く「全然なってないダメダメだけど、ここぞという時には頼りになる」らしい。あとぼくに似ているとも言われたな。

 全然似てないと思う。

 ぼくはピアスとかしてないし。

 髪にメッシュが入ってて、首にはプレートネックレスが光っている。同年代だったら絶対関わりたくないタイプというか、お互いに所属するグループが違うと思う。

 俊晞くんはジロジロとぼくを観察して、

「ふーん。思ったより普通っすね。なんなんすかあんた」

「……いや、初対面の人にあんた呼ばわりはないでしょ。敬語を使えとは言わないけどさ、せめて名前は呼べよ」

 敬語については、ぼくはそもそも年功序列が余り好きではないので、相手が使わない分には平気である。とはいえ高校生が年上に敬語を使わないのは勇気か無神経さが必要もので、どうやら彼はなかなか食えない男であるらしい。ぼくは大学生になった今でも、女子高生にすら敬語を使ってしまう。そう考えると、一歳俊晞は只者ではないと言えるだろう。

「失礼しました。じゃあ、坂上さんで良い? 下の名前は馴れ馴れしいよね」

「そうだね、それでいいよ。というか、ぼくの名前は呼ばないほうがいい」

 俊晞くんは不審そうに目を細めるが、特に追求せずに肩をすくめた。

「本当は姉ちゃんが来る予定だったんだけど、急に体調崩しちゃたので、俺が代理ね。前々から坂上さんには興味あったから、ちょうどいい機会だと思って」

「え、彩智ってきみにぼくの話とかするのか」

「聞いたのは昨日が初めてだけど。久しぶりに会いに行ったらやたらそわそわしてるから、問いただしたんだよ」

 ふうん?

 この姉弟、どういう関係性なんだろう。

 よその姉弟事情に深入りするのはデリカシーがないな、というごく当然の配慮を発揮して、ぼくは本日の目的を果たすべく移動を開始する。待ち合わせたのは大学近くの駅で、ここから市バスに乗って美術館まで移動することになるわけだ。

 件の展覧会は文倉市にゆかりのある芸術家を集めて、二人組のペアで共同制作を行ってもらい、それを展示するという内容らしい。なかなかに棘があるというか、普通に聞くとうまくいくのかどうか不安になるような内容だけれど、実現しているということは、誰か腕のいいネゴシエイターでも居たのかもしれない。

 バスの中はエアコンが効き過ぎて、少し肌寒かった。夏の熱気が急激に冷やされていく。

「そういや坂上さん、チケットくれたっていう人形作家の人とはどういう関係?」

「別に親しくはないな……。ただ、一方的に気に入られてるって感じ。会ったきっかけは彩智に誘われて行った、うちの大学の展示会だったんだよ。彩智はあの人の人形、結構気に入ってたから」

「人形かー。球体関節人形だっけ、撮れ高ありそう」

 そういって指でフレームを作る俊晞くん。すこしそわそわとした顔がどことなく彩智に似ていた。というか姉と同じ趣味なのかよ。

「写真撮るんだ?」

「写真部だからね。まあ、姉ちゃんに影響されてなんとなく始めたんだけど」

 やっぱりか。

「でもやってみると面白くて、ハマっちゃったんだよ。去年、市のコンクールで特別賞とったんだぜ。ほらこれ」

 そう言ってスマホを出してくる俊晞くん。見せてもらった写真は退廃的な廃墟の写真だったけれど、彩智が撮るような陰鬱な雰囲気はなく、不思議と爽やかで清々しい印象に仕上がっていた。

「良いね、これ」

 ぼくが短くそう答えると、俊晞くんは機嫌を良くしてあれこれと語り始めた。彩智はあまり写真の話はしないから、カメラにまつわる薀蓄うんちくや撮影時のエピソードなんかを聞くのは新鮮で面白い。

「あ、そういえば坂上さんってオカ研なの?」

「ぼくは違うよ。けどオカ研に知り合いが多くて、たまに顔を出してるって感じかな。サークル活動とかあんまり興味ないんだよ」

「ふうん。まあ、坂上さんはあれだよね、超然としてるっていうか、学食で平気で一人飯してそう。それについて本気でなんとも思ってないというか」

「一人は席を見つけやすくていいよね」

「…………」

 はじめて抹茶を飲んだ人類みたいな顔をされた。

「オカ研の人にちょっと相談したいことがあったんだよね。でもまあ、坂上さんでいいか」

「なんか変なことでもあった?」

「いや……なんかさ。後輩に幽霊みたいな女子がいるんだけど、そいつの兄貴が行方不明になったんだって。どうやって見つけたもんかなって思ってさ」

 人探しか。

「まず専門家を頼るといいよ。ぼくのバイト先を紹介しようか? 探偵事務所で手伝いしてるんだ。有料になっちゃうけど」

「探偵事務所でバイトってかっこいいな……。いや、そっか。それじゃあ、紹介してもらおうかな。けどあいつ連れていくのすげえ嫌だな……」

 どんな女子なんだ……。

 しかし――オカルト研究会に相談というからには、オカルティックな案件だと思ったのだけれど。ただの人探しとなると、それはオカルト研究会に相談すべき案件なのだろうか? 俊晞くんの中で、オカルト研究会はどういう位置づけなんだ? あるいは、その女子の方に問題があるのかもしれないけれど。

 バスが目的地に到着した。文倉市立美術館。市を代表する美術館だけあって、専用のバス停が設置されている。すなわち「文倉市美術館前」である。降りると、残暑の熱気がぼくたちを包む。

 文倉市美術館はかなり郊外のほうにあって、企画展でもなければ話題に上がらないくらいには、大学生の生活からは縁遠い場所だ。かなり近代的なビジュアルをしている建物だと思ったのだけれど、築年数はすでに二十年ほどになるらしい。だとすると、当時はかなり先進的過ぎるデザインだと評されたのではないだろうか。アートに疎いぼくだが、建築はその中でも特に疎いので、世間からどういう評価をされたのかは全くわからないんだけど。美術館っていうのはそういうものなのかもしれない。

 館内は適度にエアコンが効いていて、バスの中と違ってちょうどいい温度だ。

「今回のって企画展だっけ? あとで常設展の方も見ない?」

「いいよ。今日はバイト入ってないし」

 そんな話をしつつ、案内に従って階段を登る。「文倉を彩るアーティスト展」は、本日から二週間の予定だ。数人とすれ違いながら階段を登り終え、角を曲がると、そこには

 ――トラブル発生につき、展示会は一時中止しています

 という立て看板があった。


■ 3


 学芸員さんに話を聞こうとしてみたけれど曖昧な返答しかもらえなかったので、仕方がないから常設展の方だけでも見るかと思っていると、薄葵さんがやってきた。

「あれ、坂上君じゃないか。来てくれたんだね」

 あまりに背が高すぎる女性がカツカツとハイヒールを鳴らしながら歩いてくる図は、人生経験の浅い大学生にはなかなか胃にくるものがある。しかも相手は薄葵さんだ。背が高いだけでなく、ファッションも奇抜だ。静謐な美術館の空気とあまりに不整合過ぎて、ギャグみたいになってる。

「おや、そちらの少年は……恋人かい?」

「そういうのやめろまじで」

 普通に最低だった。

「だれすかあんた」

 露骨に俊晞くんが不機嫌になる。薄葵さんは最初ぼくにあった時と同じように、ずいと俊晞くんに顔を寄せて、じろじろと観察した。しばらくそうしていると何か納得したようで、顔を離す。その間、俊晞くんはその悪すぎる目つきを最大限に駆使して薄葵さんを睨みつけていた。

「この間の女の子の血縁者かな? 顔と骨格が少し似ているね」

 骨格とか言い始めたぞ……分析力なのか洞察力なのか、とにかく人間離れしていた。

「俊晞くん。この人が薄葵問目さん。人形作家だよ」

「あー、なるほど。はじめまして、一歳俊晞です。姉がお世話になりました」

「社交辞令はよしたまえよ、一歳君。いや、混乱するから俊晞君と呼んだほうがいいかな? きみは素質がありそうだから、そのうち私の新作に会ってもらいたいところだけど――今日は生憎、暇がなさそうでね」

 そう言って、彼女はちらりとぼくたちの背後を見る。そこには、トラブル発生を告げる立て看板と、困った顔の学芸員さんがいた。

「そうだ、君たち、ちょっと意見を聞かせてくれないか。これ絡みなんだが、どうにも手に負えない気がしているんだ。紅房桔梗がいれば手を借りる必要もないんだが、連絡が取れなくってね」

 彼らは私の関係者だよ、と薄葵さんは学芸員さんに声をかけて、ぼくたちを展示エリアに招いた。

 カツカツと足早に歩く薄葵さんを追いながら、横目で展示を見る。どうやらアーティストとアーティストのコラボレーションがテーマというのは本当らしい。別に疑っていたわけではないのだけれど、掲げられたお題目に対して実情が伴っていないというがっかりな感じではなかった。鉄器職人と華道家、製紙職人と書家、陶芸家と家具職人。よくもまあ文倉市内だけでこれだけのバリエーションを集めたものだと感心してしまう。と同時に、アーティストというものは、ぼくと縁がないだけでいろいろなところにいるものなのだなと思った。そう思わせることがこの展示会の狙いなのだとすれば、大成功だと言っていい。

「坂上さん、なんでオレたちついて行ってんの?」

「いや、どうせ逃げられないだろうなって」

「……負け犬根性染み付いてんなぁ」

「やめて。頼むからやめて。本当のことでも言っていいことと駄目なことがある」

「まあオレもあの人にはちょっと、逆らいたくはないけど。さっきは正直、ムカつき半分、ビビリ半分だった」

 意外と素直に心情を吐露する男子高校生だ。

 ただ付け加えておくならば、ぼくもただ打算で(つまり薄葵さんに逆らうより従っておいた方が総合的に得だろうという考え)ついて行っているのではなく、本当のところは、彼女の言った一言が気になっていた。「紅房桔梗がいれば手を借りる必要もない」という言葉だ。あれはすなわち、紅房桔梗が作品になにか仕掛けた、ということではないだろうか。彼と連絡がつかず、それについて問いただすことができない故に、トラブルを解消できないというのなら。

「紅房桔梗っていう男はさ」

 俊晞くんにだけ聞こえるように、小声で言う。

「作品を使って、人に働きかける画家なんだよ。例えば、人の欲望を絵なんかを描くことができる」

 およそ人智を超えた画家だ。存在そのものがオカルトの領域にある、人の形をした魑魅魍魎というべきもの。彼がこの街にいる限り、ぼくは――彼を見過ごせない。

 混沌としたギャラリーを進み、たどり着いたのは一つの人形が展示されいてるスペースだった。人形はいくつものカンバスに取り囲まれている。そのカンバスそれぞれに、人形の姿が異なった様相で描かれているようだった。

 なるほど。これは確かに、人形師と画家の合作と言えるだろう。

 人形はやはり薄葵問目の作品というだけあって、和柄の装いだが、いわゆる和服ではなく、それを現代的にアレンジしたような服を着ている。切れ長の伏し目がちな目がどこともしれない場所を見つめていて、手にはほとんど花びらが散ってしまったバラを持っている。薔薇の花弁は、座っている人形の膝や床に落ちていた。

 カンバスはすべてイーゼルに立てかけられていて、それぞれが不規則に並んでいる。ただどれも、中央に座っている人形に背を向けている。人形をモチーフに、複数の画家が作品を描いている光景をイメージさせる。といっても、カンバスに描かれている絵画はどれも完成していて、「描いている最中」ではないのだけれど。色合いも画風も、何より切り取られた表情が大きく異なる絵画。

「この絵は全部、紅房桔梗が描いたんですか?」

「ああ、そうだよ。人形と十三の絵画、という題だが……まあ、題はどうでもいい。そこまで意味のあるものじゃないからな。みて分かる通り、わたしがあたらしく人形を作り、紅房桔梗がそこから十三の表情を取り出してみせる、というものだ。絵はどれも表情が違う。よくぞ同じ人形をここまで様変わりさせるものだと関心したが」

 絵画をじっくりと見てみるが、たしかにどの二枚をとっても、おなじモチーフを絵にしたとは思えない。絵と絵を見比べても、「これは同じものを描いた絵だな」とは思えない。それなのに、絵と人形を見比べると「ああ、この人形の絵なのだな」と思える。

 ええと、最近講義でこういうのやったな。たしか、近傍だっけ? 似ているものに似ているものが似ているとは限らない、みたいなやつ? 違うっけな。

「これすごいっすね」

 俊晞くんが言う。

「見てるとなんか感覚おかしくなってくるな……。ゲシュタルト崩壊のもっとひどいやつになりそう」

「そうだ、それだよまさに。君も筋がいいらしいな。坂上君の周囲には感性が光る人間が多いと見える。どうやらこの展示に影響を受けすぎた人間が出てしまってね。症状は数時間で収まったんだが……心因性の相貌失認そうぼうしつにんに陥ったようだった。知っているかい、相貌失認というのは。基本的には脳の器質的な損傷によって発生すると考えられている高機能脳障害の一種だ」

「はあ、相貌失認ですか」

 とりあえず薄葵さんの講釈を拝聴することにして、僕は近くの椅子に座った。疲れた人や老人に配慮して用意されたものらしい、背もたれのない長椅子がある。

「要するに、人間の顔が区別できなくなる、ということだよ。我々は普段、人の識別を顔の造形で行っているが――もちろん、声や服装、仕草なども重要な情報ではあるよ。けれど、顔が占める割合はかなり大きい。いいかい、相貌失認というのは、顔を全体として認知できなくなる、というものだ。君自信も体験したことがあると思うが、例えば日本人の顔の区別はつけやすくとも、外国人の顔の区別はつけにくいだろう。あるいは、デフォルメされているイラストに見慣れていないと、描かれているキャラクターの区別がつきにくいとか。起こることは、あれを酷く深刻にしたものだと想像してくれればいい」

 見慣れていないものを区別できないことと相貌失認は、本当はぜんぜん違う現象だが、あくまでイメージとして、という話だ。薄葵さんはそう注釈する。

「絵を見ていると、どういうわけか人間の顔がバラバラに見えてくるらしい。さっき俊晞君がゲシュタルト崩壊という言葉を使ったが、それに近いと考えることもできるだろう」

 脳科学者なんかがいたらもっと違う見解もありそうだけれど、残念ながらここにいるのは人形師と大学生と高校生である。

 しかし、心因性の相貌失認ね。ということは、ぼくや俊晞くんがこの絵を見続けていると、相貌失認になったりするんだろうか。

「さて、私は展示会の封鎖を解かなければならない。そのためには、この展示を無害化する必要がある」


■ 4


「はい、質問」

 絵の中の人形が手を挙げた。瞳の中に紫の花が描かれた、粗野な印象の人形だ。

「なんだね、俊晞君」

「単純に、絵を撤去したら駄目なんですか?」

「いいわけないだろ。いいかい、鑑賞者がアートから心理的な影響を受けるのは当たり前のことなんだ。それがすこしばかり過激だからといってアートのほうを撤去していたら、この世からすべてのアートがなくなるだろう」

 アーティストらしい言い分だった。それに筋は通っている。心に傷を与えるものをこの世からすべて取り除けば、残るのは虚無だけだ。その意味で、心は傷つくために備わっている器官なのかもしれない。

「じゃあ、単純に絵と人形をバラバラにするのはどうですか?」今度は別の人形の提案だ。喋っているのはどうやら僕のようだ。「要するにこれって、セットで鑑賞するからハマるんですよね。だったら、バラバラにしたら毒は弱まるというか、被害はほとんど発生しないんじゃないかなって思うんですが」

「これは絵と人形が合わさって一つの作品になっている。もちろん私は人形単体でも作品として成立するよう作ったが、だからといって、あえて分けてしまいたいとは思わないな。それはピザのチーズだけ食べるみたいなもんで、邪道だよ」

 うーむ、頑なだ。

 いくら鈍いぼくでもわかる。これはかなりやばい。さっきから、絵の中の人形がしゃべってるように感じる。人と人の区別がつかないとかそういうことじゃなくて、絵と人の区別もつかなくなってきた。いや、えーっと、絵がしゃべってるってことは、人が絵に見えるのか?

 心が傷を負うとかそういう話なのだろうか、これは。もっと深刻な事態じゃないか? それなのに、展示全体が作品だから手を加えたくない、って。

 心の傷は癒えないんだよな。体の傷が、古くなっても残るみたいに。

 致命傷を負ったら、それに囚われ続ける。だとすると、紅房桔梗という男は、ぼくにとって致命傷だったかもしれない。

「思うんですが、ここで問題なのって、復元不可能な障害を鑑賞者が受けることですよね」

 人形が喋る。これは多分、ぼくだ。

「いくら、アートが心に影響を与えるためにあるなんていっても、けれど、ここに来ている人はあくまで娯楽として訪れた鑑賞者なんですよ。だったらこれは、傷が娯楽に収まっている必要はある。そうじゃないですか?」

「その通りだな。要するに私がやりたい無害化というのも、その筋だ。さっき言ったとおり、人が心に傷を負うのは必然だ。だが、どのような傷であれ、それを負うときは準備されるべきだ。いわゆるゾーニングというやつに近いかもしれないが、私がいいたいのはもっと素朴なことでね……。ほら、いるだろう? ホラー映画をホラー映画だと知らせずに友人に勧めるような、愚かさと邪悪さを兼ね備えた知性のないゴミクズが。ああいうのは最も品性に欠けた行いだよ」

「あー」

「いますね、そういうやつ」

 別の絵が同意する。

「気持ちはわかると言うか、結局は勧める側と勧められる側の信頼関係次第、みたいなところはありますけど。別にホラーじゃなくても、どんな創作物でもそうですよね」

 まあ、ともかく。創作論はいまはいいんだ。ぼく(と俊晞くん)にとって重要なのは、薄葵さんがこの作品をそのままの形で残しておきたい、ということだ。

 その条件を満たした状態で、この症状を緩和する方法を考えなければならない。

 なければならないのか? と言われると、そんなの自分でどうにかしろよという気もするけれど。

 カンバスの中にいる人形たちがこちらを見る。その視線は疑わしく、不躾で、好奇心旺盛で、純真で、あどけなく、粘ついて、無味乾燥として、曖昧で、どこを見ているのかわからない。

 それらはみなどこか一様に似ている。人の形をしているからだ。人を模したものを描いた絵が、なぜ人に似ているのだろう? それは人を描いた絵ではないのに。

 十三枚の絵に取り囲まれるというのは、どんな気分なのだろう。いや、そうか。人形の側からは、絵は見えないのだから、気分もなにもないのかもしれない。もちろん、人形にそもそも心なんて――気持ちなんて、ないはずなのだけれど。

 絵画たちに囲まれている人形の表情は誇らしげだ。複製され切り取られた彼女の存在感は、それでも揺らいでいない。そういえば古いオカルトの中に、写真は魂を切り出して封じる装置だ、なんてものがあったか。そう考えると、絵画も人の魂を封じる装置としての役割を持つのではないか?

「瑞鳥だったらなにか薀蓄うんちくの一つでも知っていそうなものだけれど……」

 絵画が言った。そうだな、と同意する。

「坂上はいつもそうやって誰かのことを頼ろうとするふりをするよね。瑞鳥さんだったらなにか知っているかもとか、一歳さんだったらこれに詳しいかもとか、いつもそんなことを考えているけれど、実際のところ、自分から頼ったことなんてないんじゃないの?」

「そんなことない。いつもぼくは誰かに助けられてる」

「それはみんなが勝手に助けてくれているだけだよ。みんな坂上に助けられたから、勝手に助けているだけ。坂上がいい人だから、求められなくても助けてくれるんだよ。みんながいい人だから、坂上のためになにかしてくれる。けど、助けられたからといって、坂上が助けを求めたことにはならないよね」

「……君は、誰なんだ? 紅房桔梗は、何を描いたんだ? 会いたい誰かに合わせる絵でも描いたのか?」

「おまえは」誰かの声がする。「会いたい人がいるのか?」男の声だ。重々しく粘っこい、煙草のような声。「おまえが会いたい誰かに会うことはない。それが誰なのかすら、覚えていないのだからな」

「ぼくは……」何かを言おうとして、違和感を感じる。ぼくはそもそも、誰と話しているんだ? いや、ぼくは誰かと話をしているのか? これは白昼夢の類ではないのか? 以前にも似たようなことがあった。

 どうやらぼくはハマりやすいみたいだ。瑞鳥には、確か相性が良いのに鈍い、と言われたんだっけか。くらくらと平衡感覚が失われそうになったけれど、どうにか堪えて、ゆっくりと深呼吸する。

 自分の居場所を思い出すんだ。ここは、文倉市立美術館で、今一緒にいるのは、一歳俊晞――紗知の弟だ。それから、薄葵問目。人形を取り囲む絵画は十三枚――ゆっくりと一つづつ、縁のない窓のようなそれを数える。

 現実感が少しづつ戻ってきた。そして、違和感に気づいた。

 そこに絵画は


■ 5


「坂上さんは、あれでうまくいくと思う?」

 美術館からの帰路――というより、薄葵さんから夕食をごちそうになった帰路、俊晞くんがそう尋ねたので、ぼくは肩をすくめてみせた。俊晞くんは呆れたものを見るような、あるいは非難するような目を向ける。

「まあ、俊晞くんのとった対策は見事だったと思うよ。ちょっとぼくには思いつかないタイプだった。フレームを追加するっていうのは、写真を趣味にしてる人ならではだね」

「まあ、どうも。けどあれ、効果あるかどうかわからないんだけど」

 今回の事態に対して、取られた解決は二つ――ぼくと俊晞くんからそれぞれ一つずつ提案したものを、両方とも薄葵さんが採用したという形だ。

 俊晞くんからの提案は、フレームの追加――要するに、絵だけを見続けるからまずいので、絵と人形をそれぞれペアにするような位置に枠だけを追加してしまえば、絵と絵を見比べる度合いが下がるのではないか、というものだ。その案は採用され、天井から吊るされた白いフレームが十二個、設置されている。絵が見える位置に立つと、自然とフレームによって絵と人形が切り出される。もうここまで来ると、アイディアマン一歳俊晞と二人のアーティストの合作という気さえする。

「まああれは、写真やってる人なら思いつくっていうか。フレーム効果っていうのがあって、写真の中に枠を写すことでいろんな効果が狙えるんですよ。めっちゃざっくり言うと、風景を撮影した写真と、風景が見える窓を撮影した写真では、受ける印象がぜんぜん違うってことなんですけど」

「なるほど……さすが写真部」

 手放しに褒めてみたものの、俊晞くんの表情はどこか渋い。褒められるのが余り好きではないのかもしれない。

「坂上さんこそ、なんというか、姉に聞いてた前情報通りだったよ。最初は冴えないやつだなって思ったけど」

「どんな前情報だよ……」

 機械音痴とかバレてないだろうな……?

「正直、坂上さんの対策のほうが効果ありそうだけどね。何も描かれてない絵を一枚、順路のちょうど真ん中に追加するっていうやつ。いやむしろそれより、薄葵さんを納得させる言い訳のほうがすごかったけど」

「言い訳っていうか、まあ、今回はちょっとズルしてるから。紅房桔梗って画家がやりそうなことだと思ったんだよ。ぼく、実はその紅房って人と会ったことがあってさ」

 人形と十三枚の絵画。そこに十二枚の絵しかないのなら、本当はあったは十三枚目には何が描かれているのか? は、まあ、とりあえず

 紅房桔梗の意図なんて知ったことではない。薄葵さんの人形に対する敬意はあるけれど、あいつの絵に対する敬意はちょっとしかない。

「いくらなんでも紅房桔梗がこの問題を放置したはずがない、彼だってまっとうなアーティストなのだから――本当は真っ白な十三枚目があって、何かの手違いでそれが欠落してしまったのではないか」

 それが、ぼくが使った詭弁だ。

 けれど多分、紅房桔梗は、十三枚目を探させたかったのではないだろうか。相貌失認が起こるという前情報だったけれど、ぼくに起こったのは「人と絵画の区別がつかなくなる」という症状だった。あれは相貌失認というより、あらゆる人間に絵画を――紅房桔梗の描いた人形を見出すという状態に思える。

 永久に見つからない十三枚目。

 例えばそれを探すために、他人の顔を開くような人間が出ても良い、そうなると面白い、くらいには考えていそうである。

「どっちにしろ、薄葵さんが良しとしたなら良いんじゃないかな。効果はあると思うし」

「まあそうだね。つーかさ、その紅房ってやつ、おっかないやつだな」

 俊晞くんが真夏なのに身震いする。

 それはそうだ。

 紅房桔梗は恐ろしい男だ。人の心の脆弱な部分を面白半分で刺激して、壊してしまう能力を持っている。異能と言っても良い。けれど一方で、ぼくは思う。はたして、心などという脆弱なものに頼って生きているぼくたちは、一体何なのだろうと。

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