011 開放性ダリア

■ 1


 紅房べにぶさ桔梗ききょうの個展が文倉市で開催された事実を、ぼくは忘れることはないだろう。それは、彼の作品が鮮烈だったから――ではない。単にぼくが、死者を忘れられないからだ。

 人が死ぬことを恐れているからだ。

 雨の日だった。静々と雨の降る日だった。べっとりとした粘着質な空気がまとわりつく日だった。湿度の高い空気が不快で、ざらつく雨音が不快だった。

 頭部がへこみ、肩が砕け、膝が折れ曲がり、血を撒き散らしたその人は。人が、血と肉の袋であることをぼくに突きつけた。ぼくの体もなのだと思わされて、吐き気がした。

 飛び降り自殺。

 エトワルというギャラリーで開かれてた紅房桔梗の個展を観覧し終えて、ちょうど建物から出たところだった。ひとりの女性が、地面と衝突して半身を潰した。こふり、と血を吹き出して、下手くそなマリオネットのように手を震わせて、力を失う。

 死んだ。

「――い、いやああああああああ!!」

 彩智の悲鳴が遠く聞こえた。無意識に体が動いて、死体と彩智の間に割り込む。意味のないことだと頭のどこか遠い場所で考える。でも体が動いてしまう。

「ひぃ――な、なぜ……なんで……!」

 低い悲鳴。エトワルのオーナーだ。

 ビルの上を見る。人影はないが、何者か突き落としたのだとしたら、まだ近くにいるかもしれない。エトワルの向かいにあるビルは七階建てで、位置関係からして非常階段から落ちたことは明白だった。

 ビルとエトワルの間は細い路地になっている。ぼくはすぐに雑居ビルに向かおうとしたが、袖を引かれて足を止める。振り返ると、腰を抜かした彩智がぼくの袖を引いた。

「いや、だめ。いかないで、坂上くん」

「……わかった」

 奇妙な感覚だった。

 彩智がとっさにぼくを止めたのはわかる。いろいろな感情があったことは想像できる。女性を突き落とした何者かがいるかもしれない場所にぼくが向かって、無事に帰って来ないかもしれないという心配。死体を目の前にして一人で置き去りにされることへの不安。純粋に人が死んだことへの恐怖。

 それらは痛いほど想像できた。

 もう一年近くこうして一緒に過ごしている。それくらいは理解できる。

 恐怖に見開かれた瞳が、ぼくを見る。白い傘が道端に転がって、雨の中地べたに座り込んだために水色のワンピースはぐしゃぐしゃに濡れている。頬にゆるくウェーブした髪が張り付いて、明るい色だったそれは濡れて暗く萎んで見える。

 そんな彩智を、鬱陶しいと思っているぼくがいた。

 

 ぼくには調べたいことがある、だから邪魔しないでほしい。そんな気持ちを抱いていた。彩智に対してネガティヴな感情を抱いたことは、はじめてだ。

 とにかく傘を拾い上げて、彩智を雨から守る。抱きかかえて、エトワルの中に移動させた。オーナーが救急か警察に電話している。ガチガチと歯を鳴らす彩智。顔色が真っ青で、ぼくより酷い状態であることは明らかだった。

 瑞鳥に電話で連絡して、彩智を迎えに来るように伝える。瑞鳥より先に警察が来て、任意同行を求められたので、ぼくだけが応じることにした。


■ 2


「どうだろう、少し話をしないか? これもなにかの縁だと思うんだが」

 紅房桔梗。切れ長の目と節くれだったシルエットが特徴の、痩せた男で、室内にもかかわらず帽子を被っている。ぼくと彼、それからエトワルのオーナーが、警察からの任意同行に応じた。

 飛び降りた瞬間を目撃したのはぼくだけだ。後日、彩智の元に確認に行きたいようだった。瑞鳥からの連絡によれば、ひとまず精神状態は落ち着いたそうだ。今後の経過によってはPTSDになる可能性もあるので、しばらくは様子見になるらしい。そのことは警察に伝えて、できればそっとしておいてほしいとは言ったが、果たしてそのとおりにしてくれるかどうかは怪しかった。

 ――飛び降りた女性は即死だったそうだ。

 死体を見たのは初めてじゃないけれど、人が死ぬ瞬間を見たのは初めてだ。生物が死ぬという当たり前の事実が、なぜか身にしみた。奥歯が噛み合わない――今更、がちがちと体が震える。

 紅房桔梗の申し出は、とにかく誰かと会話していたかったぼくにとって渡りに船だった。

 ぼくたちは警察署のすぐ近くにあるカフェに移動する。

 ビニール傘を差す紅房桔梗の姿が、雨景色に浮かび上がって見えた。


「なぜあの女性は自殺したんだと思う?」


 紅房桔梗は最初にそう切り出した。とても自然に、今日の天気を尋ねられたように錯覚しそうだ。彼が死を軽く考えているのではなく、意図してそう聞こえるようにイントネーションをコントロールしたのだろうと思う。だからぼくも、自然に返答することができた。

「わかりません。人が死ぬ瞬間は、はじめてみました」

「へえ……。実はね、俺は何度か遭遇したことがあるんだよ。だから正直、少しうんざりしてる」

「うんざり、ですか」

「人が死ぬのには、うんざりさ」

 そりゃあそうだ。何度も見たいものじゃない。

 なんというか、頭の中に真鍮製の細長い杭が打ち込まれたような感覚。重々しくて、邪魔だ。初めてだからこんな感覚を覚えるのか、それとも、目の前で人が死ぬたびにぼくはこうなってしまうのか。

「そういえば、俺の絵を見てくれたんだよね。せっかくだし、感想を聞かせてくれよ」

 紅房桔梗が話を切り替える。楽しそうに微笑んで、コーヒーにシロップを注いだ。細長いが節くれだった古木のような指が、ティースプーンを操る。

「ぼくは付き添いで、ほら、一緒に居た女の子――彩智っていうんですけど、彼女があなたのファンなんですよ。だから、ぼくは今日、はじめてあなたの絵を観たんです」

「それで?」

「心がざわつく絵でした。あんまり、いい気分にはなれませんね」

「そうか。けっこうみんな褒めてくれるんだけど、極稀に、君のような感想を抱く人がいるんだ。やっぱり直感した通り、君と俺は相性がいいんだね」

 相性がいい……?

 普通、逆じゃないか?

「君は芸術についてどう思う」

「全然わからないですね。……美しいものは美しいと思いますし、ださいものはださいと思いますけど、ぼくが良いと思ったものが大したことなかったり、その逆もあったりします。なんというか、観ているだけならいいけど、それだけです」

「自然の芸術、という言葉があるだろう」

 紅房桔梗が窓の外を見る。

 雨は止まない。降り続けている。

「例えば、雨粒が水面に落ちたときに形作る波紋を美しいと思ったり、蜘蛛の巣にみられる彼らの本能的なリズムを美しいと思ったり、珍しい形の雲を観てハッとしたり、透き通るような氷柱を見てため息を吐いたり……」

 それならわかる。

 ぼくは昔から植物が好きで、葉っぱの形を眺めているだけで時間を潰せるんだ。別に植物に関する知識があるというわけじゃないんだけど、あれはとても美しい。

「俺はね、そういう自然の芸術っていうやつは、本来的な意味での芸術ではないと思っている。自然の芸術っていう言葉はね、自然が持つ美しさと、芸術が生み出す美しさとを、どちらも卑下しているんだよ」

「卑下……ですか。ずいぶんと、強い言葉を使うんですね」

「はは、気に触ったかな。けど、たしかにそうだな。卑下というのはすこし極端すぎる表現かもしれない。俺が言いたいのはね、両者は全く性質が異なるっていうことさ。

 生まれながらにして美しい少女と、自ら着飾って美しくなった少女がいるとして、両者の外見が全く同じくらい美しい時、君はどちらの有り様を美しいと思う?

 これはつまり、そういう問いだ。最初から美しいものと、自ら美しくあろうとするもの、芸術とは後者のことを言うんだよ」

 絵を生業にしているだけあって、芸術という言葉には一家言あるらしい。けれどそう断言されると、反論を試みてみたくなる。

「じゃあ、例えば自然が作り出したもの、透明な氷柱とか、真っ直ぐ落ちる滝とか、雲間に見える紫電なんかを、芸術的だと形容するのは、認められないってことですか?」

「誤解しないでほしいんだが、俺はなにも言葉狩りをしたいわけじゃあないんだ。道行く人々の耳を引っ張って、芸術という言葉の正しい意味を解説したい、っていうわけじゃない。そうじゃないんだよ。

 それにね、芸術的だという言葉は、それそのものが芸術の性質を現しているだろう。芸術的なとなにかを呼び表す時、そこには「まるで芸術によって作り出されたかのような、精巧さと、美しさと、神秘が感じられる」という意味が込められている。――つまり、人の手によるある種の技術によって生み出されたもの特有の、鑑賞者の心を揺さぶる性質。それを指して芸術的だと呼ぶんだ」

「つまり、技術によって生み出されたものが芸術であると」

「そういうことだ。だから、俺が描いた絵を美しいという者は多いが、けれど俺が心血を注いだのはそこじゃあないんだ」

 熱弁を振るう紅房桔梗。

 切れ長の目の奥には、火が灯っているように見えた。純粋で明るい火。まるで子供が、道端で拾ったビー玉を自慢げに披露しているような。純真な熱。

 この人はどうやら、ぼくとは違う人種らしいと確信する。

「俺は、人の心を自由にしたいんだ。そのために絵を描いている」

「……じゃあ紅房さんは、人の心を自由にする技術を磨いてきたんですか?」

「そうだよ」

 彼は断言した。

 人の心を自由にする。そんなこと、可能なのだろうか。

「……人の欲望は、複雑です。漫画やアニメじゃないんですから、その人が本当にやりたいことなんて、単純にどうこうできるわけがない」

「君にも理解できるように簡単に表現するが――要するに、人の心にはロックがかかっている。自意識、法律、利害、良心、理性、そういったものだ。本当にやりたいことを、やってはいけないと思っている。いや、やってはいけないと思っていることにすら、気づかない。それがロックだ。見えない金庫の中に閉じ込められている」

 本当にやりたいこと。

 ぼくにもそういうものがあるのだろうか。自分で、どうしてそれをしたいのかさえわかっていないなにかがあるのだろうか。そんなに、人間は簡単なものなのか?

「ピッキングだよ。心のロックを開けているんだ。俺はずっとそういう絵を研究してきた。視神経は脳に限りなく近い場所にある。そこへの刺激はそのまま、脳に響く。俺の絵と波長の合う人間は、俺の絵を見て心がざわつくんだ。そして運がいいと、ロックが外れる」

「……ロックが外れると、どうなるんですか」

んだ――そして、やりたかったことを、やるのさ」


■ 3


 自殺した女性は、鳩部はとべ夜子よるこという名前だ。二十四歳。化粧品メーカーの販売員。もともと絵画やイラストに興味があって、エトワルに出入りしていたそうだ。

 死体の持っていたバッグを漁ると財布があり、身分証と名刺を見つけた。あとで警察には怒られたが、その時は本能的にそうした。自分の目の前で死んだ人物の名前を知らなければならない気がしたからだ。理由もなく人が死ぬということを、受け入れ難かった。彼女には彼女の理由があるのだと思いたかった。それを探して、安心したかった。

 恐怖に突き動かされた。

 鳩部夜子の自宅はエトワルからそう遠くない場所にあった。うろ覚えの住所でも案外どうにかなるものだ。多少のリスク――具体的には、近所の人に顔を覚えられるリスクを負えば、最終的に正確な住所までたどり着くことができる。

 といっても、ピッキング技術など持ち合わせていないので、部屋を遠巻きに眺めるくらいだ。化粧品メーカーの販売員といえば、美人が多く収入も高そうな印象があるけれど、鳩部夜子の自宅は一般的なマンションだった。一階の部屋で、ドアには目立った特徴はない。郵便受けも空。

 わかったことはそれだけだ。

 無駄足だった。

 そう思って帰ろうとした時、こちらを見ている男に気づいた。ぼくより年上の、がっしりした体格の男。手にはキーホルダを握っていて、車の鍵と部屋の鍵がいくつかぶら下がっている。男はこちらを警戒していた。半歩だけ右足を前に出していて、じっとりとした視線でぼくを睨みつけている。

「誰だ、お前」

「あなたこそ、どなたです?」

「夜子の恋人か?」

 こちらの質問には答えず、一方的に問いかける男。自殺した女性を下の名前で呼び、恋人かどうか尋ねた。自殺した女性の関係者ということになるだろう。年齢は――二十代後半くらいに見える。

「……鳩部さんのお兄さんでしたか」

「なぜ、わかった」

「実はぼく、こういうものです」

 そう言って名刺を取り出して、彼に渡す。探偵事務所でバイトしていると、こういうときに便利だ。バレたら所長に怒られるけど。

「唯峰探偵事務所……エージェント……? 本当か? あんたみたいな若造が?」

「まあ一応は。三日前に亡くなられた、鳩部夜子さんのことを調べています」

「どういうことだ。誰に頼まれた」

 誰に頼まれたのだろう。

 強いて言うなら、鳩部夜子に頼まれて、ぼくは彼女の死の理由を探している。そういう表現はできるけど、それでは納得しないだろう。

「依頼を受けたわけではないんです。個人的にちょっと気になることがあって、すこしでも調べられることをと思いまして」

「気になること……? いや、待て。そもそも、部外者がどうやってここまで入ってきた。このマンションはオートロックのはずだろう」

 オートロックはあまりセキュリティに寄与しない。マンションの住人の出入りに合わせて入ってきただけだ。

「すみません、企業秘密です」ぼくは適当に言葉を濁す。「よかったら、お名前を教えていただけませんか?」

「……鳩部陽介ようすけだ」

 ぼくはその後、どうにか陽介さんをなだめて、夜子さんのマンションから少し離れたところにある個人経営の飲食店に移動した。時間もちょうどよかったし、もともと彼は夜子さんの遺品の整理に来たのだという。

 鳩部夜子。

 半分潰れて眼が飛び出した顔しか知らなかった人だけれど、陽介さんに見せてもらった写真では、なかなかの美人だった。偏見だけれど、自殺しそうな人には見えない。

 しばらく夜子さんの話題は避けて、お互いの事を話した。これは一種のイニシエーションのようなもので、人が他人に親しさを感じるために必要なことだと教わった。効果はあったようで、陽介さんはある程度、ぼくに対して親しげな態度を取るようになった。

「坂上くん、あんたは、どうして夜子のことを調べている? 個人的な理由って言っていたな」

 慎重に、言葉を選びながら彼は尋ねた。

 彼の中で夜子さんのことが、重要な関心事であることが伺える。加えて、夜子さんを大切に思っているらしいことも、ここまでの会話で伝わってきた。少々警戒心が低いと思うけれど、決して悪人ではないことはわかる。

「はい、そうです。勝手に調べていたのは謝ります。ぼくは、どうして鳩部夜子さんが自殺したのか、その理由を知りたいんです。彼女が自殺する理由がなんだったのか、知らなければならない」

「どうしてそんなに夜子のことを気にかける? 坂上くんは夜子のなんなんだ?」

「自殺現場に居合わせました。夜子さんは、ぼくの目の前で絶命したんです」

 陽介さんが深く息を吐く。目頭を押さえて、沈黙する。

 ……まだ三日だ。

 家族が自殺した精神的ダメージがどれくらい酷いのかなんて、ぼくには想像もつかない。ぼくがやろうとしていることは、彼の心を傷つけることだ――心の傷を抉る行為だ。

 他人を傷つけてまでやるべきことだろうか。

 理性はそう考えるが、ぼくの直感は最初からそんなことを問題視していない。それも理解できる。

「ふぅ……。坂上くん、夜子の自殺の理由は、俺も知りたいことだ。正直、全くわからないんだよ。夜子がどうして自殺してしまったのか。何か悩みがあったのか、あるいはひどく傷つくことがあったのか。わからないんだ。もし君がかまわないのなら、あの子の自殺の理由を明らかにしてほしい」

「……わかりました」


■ 4


 正式な依頼になったので、いちど所長を通してもらい、それからぼくと陽介さんは夜子さんの部屋にやってきた。

 生活感のある部屋だった。

 冷蔵庫には作り置きのものも含めて食材が収められている。四日前に発売された雑誌がデスクの上に放られている。浴槽は掃除されているが、汚れてもいる。洗濯物が少しだけ籠の中に残されている。部屋は比較的整理されているが、かといって綺麗だと言えるほどではない。物は散らばっているし、出し忘れたようなゴミ袋が二つ、玄関の近くにおかれていた。本棚はあるが、ほとんど読まれていなかったのか、真新しさを感じる。このあたりとしては比較的広めのワンルームだ。

「一通り警察が調べた後だよ。他殺の線はまずないだろうって」

 自殺が起きた時、警察はまずそれが「自殺を装った他殺」でないことを確認する。それだけそのケースが多いということなのだろう。自殺と認められれば、殺人が露見することは絶対にないからだ。殺人を目論む人間にとって、最良の成果だと言える。

 自殺者の調査は二回ほど経験がある。

 胸を張って言えるような経験ではないし、どちらも苦々しい記憶だ。

 改めて部屋を見回す。普通の部屋で、特に変わったことはない。といっても、自殺の理由を探すのははじめてのことだ。これまでの二回はどちらも、最初から他殺と決めてかかったために、警察が見落としたこじつけみたいな結論にたどり着いた、という感じだったので、ぼくの能力によって真相を見抜いたわけではない。どっちかというと、邪法を使ったという印象だ。第一、どちらのケースも瑞鳥みずどりが関わっていた。

 瑞鳥輪廻りんね。ぼくの同輩だ。得体の知れないところがある女子で、やたらと変なことを知っている。彼女の力を頼った(というか彼女に頼まれての調査だったのだが)という点で、完全に邪法、ズルもいいとこだ。

 今回はそうではない。

 ぼくがぼく自身の動機と、ぼくへの依頼によって、調査を行う。親族からの正式な依頼も受けた以上、真面目にやらなければ。

「……パソコンはないんですね」

「ああ、夜子は機械に弱くてね。俺もそうだが。最近のテレビも、いろいろ機能が増えてるだろう、それで面倒がって買わなかったんだ。スマホがあれば良いからって」

「スマホは使えるんですか? ぼくはスマホも正直あんまり使い方わかってないんですけど」

「それは酷いな……」

 陽介さんがガチ引きした。

 ……これでも、登録されている番号の呼び出しと、メッセージの送受信はできるんだ。

「夜子さん、趣味はなんだったんですか?」

「さあ、わからないな。趣味らしい趣味は、なかったと思うが……。うちは母子家庭でな、俺と夜子は家計を支えるために昔からバイトばかりだったんだ。俺も夜子も自立して、ようやく最近は落ち着いていたんだが」

「……絵画の鑑賞は?」

 ぼくの問に、陽介さんは少しだけ頭を悩ませて、けれど首を振った。

「いいや、知らないな」

「そうですか……」

 本棚を見る。営業全般や化粧員販売員向けのテクニック本、美容に関する資格の本、化粧品に関する本など、仕事に関連したものばかりだ。……いや、一冊だけ、薄い紙が閉じられたスケッチブックがある。開いてみると、数ページだけ走り書きのような絵が描かれていた。お世辞にも上手くはない。

 それを見ていた陽介さんが、思い出したように言った。

「そういえば、小さい頃は絵を描くのが好きだったな。小学生の頃、ノートに漫画を描いていた」

「小さい頃、ですか」

「本格的に漫画を描いたことはないはずだ。ここにだって、道具はないだろう」

 確かに、本格的な画材は一切ない。机の上にころがった、HBの鉛筆だけだ。引き出しをあけると、十一本の鉛筆が入った紙製のケースがあった。

 ……。

 なんだか、頭が重くなってきた。

 一体どんな気持ちで、このなにもない部屋で過ごしていたのだろうか。どうやって、仕事の合間の時間を過ごしていたんだ。彼女の人間性が全く見えてこないことに、ぼくはざらついた不安定さを感じていた。

 だってそうだろう。部屋を見れば、その人の人間性が見えてくるものだ。趣味や、経歴や、性格や、友好関係が。けれど、ここにはそういったものがまったくない。たとえばこの部屋を観て、鳩部夜子に兄がいることになんて、全く気づけない。

「夜子さんとは最近、話をしましたか?」

「ああ。といっても、LINEでやり取りをしただけだけどな。一日に一回くらいは連絡がくるよ。だいたいは仕事で褒められたとか、こんなお客さんがいてっていう話ばっかりで、愚痴や不満は一切聞いていない。……俺には言っていなかっただけかもしれないが」

「多分、誰にも言っていないと思います。というよりきっと、夜子さんには仕事に対する不満なんてなかったんじゃないかなと、今のところはそう推測しています」

「どういうことだ?」

「もし不満やストレスがあれば、もっと部屋は荒れているはずです。それは、部屋で暴れるとか、ストレスを解消した痕跡が残るとか、そういうことではなくて。単純に、疲れが溜まって部屋を維持できなくなるということなんですが。ストレスによる鬱症状で自殺する場合、日常生活を健全に維持する気力がまずそがれるものだそうです。この部屋は、それにしては掃除が行き届いていると思います」

 聞きかじった知識で、必ずしも正しいとは言えないが、とりあえず陽介さんへの説明としては及第点だろう。

 クロゼットに服は少ない。そういえば、玄関にも仕事で使われていたもの以外の靴は少ししかなかった。ベッドのシーツは交換された痕跡がある。ここ数週間くらいだろうか。数ヶ月は経過していない印象を受けるが、まあ一概に判断できることではない。とにかく、ずっと暮らしている割には清潔な状態に保たれていた。

「自炊していたみたいですね」

 一人暮らしにしては揃っている調理器具を見ながら、陽介さんに尋ねる。

「ああ、夜子は料理ができたからな。外食はお金がかかるから、自分で料理するように、ってのが母の教えだったんだよ」

「ぼくなんかは、料理ができても、お金を払って食事に出ちゃいますけどね。自炊ってけっこう体力を消耗するし」

「体力よりも金がもったいない、ってことなんだろうな。俺もそう思う。まあ、考えは人それぞれだ」

 ふうん、とぼくは納得してみせた。

 けれどどうだろうか。

 他の人に料理を振る舞うということと、自分のために料理することとは、根本的に異なる。調理器具が揃っているといっても、一人暮らし用の簡素なものが最低限並んでいるだけで、とてもじゃないが料理に凝っているようには見えない。アルコールの類もなければ、嗜好品らしい少し高めの食材もない。いまいち好みの見えない、しいて言えば家庭的な和食を好んで作っていたくらいの特徴が読み取れるだけだが、そんなものは一般的な傾向の一つにまとまってしまうレベル――つまり、単に彼女の知っていたレシピが偏っていただけで、逆に言えば、知っているレシピをただ作っていただけという印象すら受ける。

 彼女のこの無機質さが、一体なにによって形成されてきたのかは、明白だった。


■ 5


 ダリア。

 フランス革命後の不安定な情勢の中で流行したため、「不安定」や「移り気」といった花言葉を持つ。和名は天竺牡丹。色鮮やかな花をつけ、様々な品種がある。

 緋色のダリア。

 半分だけ花が落ち、その奥から黒々とした、毛髪のような液体のような得体のしれないものが染み出している。独特の陰影がつけられた白い背景の中で、緋色と黒が際立っている。

 紅房桔梗の個展、その最後の一枚。

 タイトルは「」。

 ぴりぴりと頭痛を覚える。熱い息を吐く。エトワルのオーナーは、バックヤードに引いているらしく、今日は姿を見かけていない。受付には若い男性が退屈そうに座っているだけだ。

 このギャラリーの二階は作家のアトリエとして貸し出していて、紅房桔梗もそこに出入りしている。

 立ち上がる。

 もう十分だ。

 彼の個展を改めて最初から観覧した。赤い花をひたすら描き続ける彼によって構成された廻廊は、鮮烈だ。すこしずつ、心の塗装が剥がされていくことがわかる。自分の内面に意識を向ければ、それは明白な心理的影響だった。

 ぼくは、最初にこの変化に気づけなかった自分の鈍さに愕然とした。

 気分は最悪だ。

 最初は些細な変化だ。けれど少しずつ、自分の思考が極端になっていくのがわかる。少し前にはじめて酒で失敗したのだが、あの感じに近い。ただし意識は正常で、冷静に酩酊しているというか、視野が狭まるというか。

 ぼくが鳩部夜子の自殺の理由を知りたがったのは、たぶんこのせいだ。

 心のロックを解除する廻廊。

 自分の中に下劣な好奇心が潜んでいることを、はじめて自覚した。その本能的な欲求は、彩智すら鬱陶しいと思ってしまうような激しいものだった。普段、どれほど自分の本質的な欲求を抑え込んでいるのだろう。

 けれど、誰もがそうだ。

 殺人者の素養を持っている人間は、きっと多いのではないかと思う。争いを好む人々はいつだって一定数いる。彼らはしかし、社会性によって自らの闘争欲求をコントロールし、上手く解消しながら生きている。ぼくが持つ好奇心だってそうだ。

 眼の前にあるものの正体を知りたいという欲求。

 その形は人それぞれだろう。それは、けれど抑え込まれるべきものだ。

 ぼくたちは欲望の奴隷ではない。

 だからこそ、紅房桔梗を嫌悪する。

 二階に上がる。深呼吸をして、アイスピックを握り込んだ。

 今日、ぼくは紅房桔梗を殺しに来た。

 殺人には無数の懸念事項がある。ぼくに関わった人々の社会的信用は傷つくだろうし、彩智も大きな傷を負うだろう。ぼく自身の人生も修復不可能なほどに破壊される。けれど、やらなければならない。

 あんな画家を野放しにはできない。

 あれを野放しにしていたら、いつ、どこで、ぼくの大切な人たちが傷つけられるかわかったものじゃない。

 彩智が日常的な平衡感覚を失って、その心をぐずぐずに崩してしまうかもしれない脅威を、黙って見過ごすことはできない。彩智はきっと、ぼくにこんなことをしてほしいなんて思っていないだろう。だからこれは、ぼくの自己満足で、自己欺瞞だ。彩智を守るために彩智を傷つけることに、一体どんな意味があるというのだろうか。

 紅房桔梗のアトリエのドアの前にたどり着く。白いペンキで雑に塗られた、木製のドアだ。鍵もない。ここを開けば、彼がぼくを待っているはずだ。

 深呼吸。

 ゆっくりと、扉を開く。

 そこには――紅房桔梗は、いなかった。


■ 6


 電子音が鳴る。何枚も重ねられた絵画の上に、古いタイプの携帯電話が転がっていた。それが着信を告げている音だ。

 通話ボタンを押し、耳に当てる。

「……坂上くん、かな?」

「紅房さんですか。今、どこです? アトリエに着いたんですが」

「はは、なんでもない風を装うのが上手いね。俺を殺しに来たんだろう? 知っているよ。君は自分の周囲にある危険を無視できない人間だ。不安に弱いタイプだろう」

「不安の種は潰したいんですよ。芽が出たらやっかいですから」

「俺も殺されるのは嫌だからさ、逃げちゃった。まあ、当分会うことはないだろうけど、どうだろうね。これからも俺のファンでいてくれるかな」

「ぼくは紅房さんのファンじゃないですよ。どっちかというとアンチですかね」

「殺意を抱くくらい俺が嫌いなんだったら、それはもう俺を好きなのと同じことじゃないか? 愛の反対は憎しみではなく無関心だ、とはよく言ったものだと思うね」

「愛の反対が無関心だとして、だからって憎しみが愛と似ているということにはならないでしょう。それに、ぼくはあなたを憎んでなんかいない。あなたへの憎しみはありません。あるのは危機意識です」

「へえ?」

「快速電車が駅を通過する時、ホームに立っていたら危ないなと思うでしょう。包丁を触っている人に悪戯をしたら怪我をするかもしれないとか、小さな子どもが道路で落書きしていたら車を警戒したりとか。そういう話ですよ。紅房桔梗を放置していたら、誰がどんな目に遭うかわかったもんじゃない」

「おいおい、よしてくれよ。まるで俺が、鳩部夜子を自殺させたみたいじゃないか」

「みたいじゃない。あなたが、彼女を自殺させたんだ」

「やめてくれ。気づいているだろう? 君なら、調べただろう? 鳩部夜子は、本当は自殺を望んでいただろう?」

 ああ、そうだ。

 彼女には、鳩部夜子には、何もなかった。

 数ページだけ埋められたスケッチブック。紅房桔梗の個展に訪れた理由。それがなんだったのか、本人の口から聞くことはできない。でも、なにかを求めていたことは、わかる。

 頭に杭が突き刺さったようだ。

 肩が重い。

 胃が沈む。

 永遠に今の生活を続けて最後には死んでいく未来しか、彼女には見えなかったんじゃないだろうか。

 それは、途方もない重圧となって、彼女の日々に覆いかぶさっていた。

 未来は重い。

 別段、死んでしまっても構わない。けれど、積極的に死ぬ理由もない。死には一定のハードルがある。痛みや恐怖がそれだ。けれど、紅房桔梗は、鳩部夜子からそれらを取り去ってしまった。

 重すぎない、けれど拭えない、人生に横たわった永遠の重圧に、それが常に付きまとう未来に、彼女はその瞬間、疲れ果てたんじゃないだろうか。

「人は、本質的に死にたがっている――これは、ふふ、俺の好きな作家の受け売りだけどさ」

 紅房桔梗が面白そうに語る。

「だからって、生きる理由を奪うことに、どんな正当性があるんですか」

「正当性? あるに決まっているだろう。だって、本当に死にたい人が、死ぬことを躊躇ためらうほうが、間違っている。

 

「――――」

 絶句した。

 それは、その言葉はひどく正しかったからだ。

 死んでしまいたいと、消えてしまいたいと思ったことのあるぼくは、紅房桔梗の言葉を否定できなかった。

 生きることはすべてが徒労だと、そう悲観したことのあるぼくには、彼の言葉を否定できなかった。

 むしろ、そう悲観したことがあるからこそ、ぼくの周りの誰かだってそう思ったことがあるだろうと想像できてしまうし、そんな誰かが紅房桔梗の絵に触れたらどうなってしまうのか予感できてしまう。

 ぼくたちは本質的に死にたがっている。

「それじゃあね、坂上くん。再び会えるのを、楽しみにしているよ」

 ブツリと電話が切れた。


 携帯電話をアイスピックで貫く。

「ぼくも、お前に会える日を待っているよ、紅房桔梗」

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