012 双極性デイズ
■ 1
こんな夢を見た。
オレは水に落ちる。どぽんと音がして、耳がうまく聞こえなくなり、体が冷えて、手足はなんでもいいから掴もうともがく。
海か川かはわからない。臭いはしない。目を開けるた、不思議と視界は鮮明だ。息が苦しい。水の中は真っ暗で、何も見えない。何も見えない暗闇が、鮮明に映る。
そのうちふらりと手が現れる。海藻かなにかのようにゆらゆらと揺れる手だ。白くて華奢な女の手だ。ゆらゆらとゆれる女の手を見て、愛しさが溢れてくる。オレは女の手に、自分の手をのばす。けれど、水が体にまとわりついて一向に近づけない。
体は芯まで冷えている。
心臓が痛い。
肺が痛い。
手足が冷たくて、眼球が凍りそうだ。
水が体にまとわりついて一向に近づけない。けれど、オレは女の手に、自分の手をのばす。ゆらゆらとゆれる女の手を見て、愛しさが溢れてくる。海藻かなにかのようにゆらゆらと揺れる手だ。白くて華奢な女の手だ。そのうちふらりと手が現れる。
頭がグラグラと揺れる感覚。女の手は少しずつ明らかになって、やがて顔まで見えようとしていた。その顔が見えることはない。見てはならないのだと知っていた。
知っているのは、何をだろう。
オレはどうして水に落ちたのか。
■ 2
「あら、
「……どもっす」
階段を降りようと一段目に足をかけたとき、背後から声をかけられた。振り返ると、夕日の差し込む渡り廊下に
上連はこの四月から赴任してきた新任教師だ。若く美人で、男女問わず人気がある。目元の
それが上連だ。
「夏休みなのに、忙しいね。元気そうでなによりだけれど」
美人に微笑んで問いかけられ、ちょっとだけ緊張した。緊張を隠すように、つい頭をかくような仕草をしてしまう。
「あー、だべってるだけですけどね。今月はコンクールないし」
「そうなんだ。じゃあ、しばらく俊晞くんの写真は見れないんだね。残念」
「部室に来てもらえば、いつでも見せますけど」
「ううん、それはちょっと……。やっぱり、顧問でもない先生が部活に顔を出すって、他の生徒には嫌だろうし」
「そんなことないですよ。
「うーん、そうかな。じゃあ、時間ができたらお邪魔しちゃおうかな」
上連は微かに溜息をついた。
人気がある、というのが空々しく聞こえたかもしれない。オレたちの学年は崩壊していて、生徒間の人間関係が希薄だ。教室では誰もまともに口を開かないし、殆どの二年生が部活動にも参加していない。そんな学年の生徒に「人気がある」なんて言われても、意味不明だったかもしれない。オレたちの学年だって、全く生徒同士で会話しないわけではない。教室の外でなら多少の会話もある。それに、学外では普通につるんでる奴らもいる。教室でだけは全員が沈黙を決め込んでいるというだけで。
……いい気分じゃないよな、それでも。上連は去年のことを知らないから、尚更だろう。
「見に来てくれるとみんな嬉しいと思いますよ。写真が好きで集まってる連中ですから」
「うん。ありがとう。……じゃあ、先生もういくね」
上連は小さく手を振って、立ち去った。
なんとなく、いつもの上連よりも元気がないような気がするが、立ち入って聞くほどでもない。上連から視線を切って階段を振り向いた。
女子と目が合う。
下の階に向かう途中の、窓もなく薄暗い踊り場、ちょうど上連からは見えづらい位置に、一人の女子生徒が立っていた。
陰鬱な容姿の女子だ。
髪が乱れていて、散切り。猫背で目には隈がある。制服も
一目見れば忘れないような、
けれどこうして真っ向から対面しなければ視界に入らないような、
――そんな雰囲気の、女子。
そいつが踊り場に立って、焦点の合っていない目でこちらを見ている。ひと目見れば忘れることがなさそうなその陰鬱な女子に、もちろん見覚えはない。胸元のピンは一年生の深紅色だった。
しかし、見覚えのない後輩女子と目が合ったからなんだというのだ。無視してやりすごすことに決めたオレは、階段を降りてその女子の隣を通り抜けようとした。近づくと、その女子がぼそぼそと小さくつぶやいているのに気づく。
「わたしはあなたを離さない、あなたを必ず手に入れてみせる、だってこんなにも愛しているのだから、こんなにも求めているのだから、何をしてでも手に入れてみせる」
ぞわぞわと背筋を這い上がる寒気。乾いた唇から呪詛のように漏れ出した偏愛の言葉が、皮膚を伝って耳にはいるような錯覚。
何を言っている? 誰に、なぜ?
オレは、悪寒を無理やり押さえ込んで、そのまま通り過ぎる。
「わたしにはあなたが必要だから、あなたもわたしを必要としてるはず。あなたはわたしを選んでくれた。あなたはわたしを救ってくれた。わたしはあなたを愛している」
漏れ出す言葉は止まらない。早足になる。一階に駆け下りて、それから、思わず踊り場を振り返る。乾いた口内が唾を飲んだ。幽鬼と見紛う女子生徒は、ゆっくりとした足取りで、こちらを見ることもなく、そのまま二階に登っていった。
静寂。しばらく待ってみても、降りてくる気配はない。オレが振り返ったことにすら、全く気づいていなかったようだ。あるいは、気づいていて無視したのかもしれないが……。
■ 3
「知ってるよ、その女子」
昇降口を出て、グラウンドの外周に沿う歩道を歩く。途中、休憩中の崩也と会ったので、さっきのことを雑談混じりに話してみた。
「一年の
「いじめられているって、あんまりひどいなら教師連中に相談したほうが良いんじゃないのか」
「一般論としてはそうなんだろうけどな。あくまで噂は噂だよ、現場を見たわけじゃないし、具体的なエピソードや加害者の名前も聞いたことがない。曖昧な噂だけで行動するのは違うだろ。オレたちは噂に流されてひどい目に遭った」
「……たしかにな」
オレたちの学年、つまり現二年生は、七つ怪談という根も葉もない噂話に踊らされて人間関係を破綻させてしまった。あんな噂信じるべきじゃなかったと、今なら誰もが思っている。何人もの生徒が学校を去り、クラスには空席と希薄な人間関係が残った。
「それにしても、体が戻らないな。なんとか来年の夏にはしっかり動けるようになりたいんだが、これじゃ、同学年に追いつくのも一苦労しそうだ」
崩也は去年、ちょっとした事故に
「お前も顔色悪いな」崩也が横目でオレを見た。「体調には気をつけろよ。何事も体が資本だ」
「ああ、うん。気をつけるよ」
体調が悪いという実感はなかったが、友人の忠告はありがたく聞いておこう。今日は暖かくして、早めに寝るかな。
「佐倉環奈だが」
崩也が話を戻した。
「いじめられているというのが事実かどうかはともかく、尋常な人間でないのはちょっと見ただけの俺にもわかったよ。
「別に関わる気はないよ。心配するなって」
ただ――妙なことを言われたから、気になってしまうだけだ。これは警鐘に近い。廃墟の前に鬱蒼と茂った藪を見て、そこにマムシが潜んでいる可能性を想像するような。
オレは佐倉環奈と、どっかで会ったことがあるのか……? 佐倉環奈は、なぜオレを見ていたのだろう。少なくとも、オレは佐倉環奈という名前に覚えはない。あちらがオレを一方的に認知しているという可能性もあるけれど。
「あんま考えすぎるなよ。変なことに首突っ込むべきじゃない。……自分と関係ないと、静観を決め込んでいても、巻き込まれることだってあるけどな」
「わかってる」
「じゃ、俺そろそろ戻らないと」
「おう」
監督とすこし話してから他の部員に混じっていく崩也を見届けて、オレは歩き始める。
去年、崩也が入院するきっかけになった事故も七つ怪談にまつわるものだった。その結果、崩也は怪我をして、サッカーを辞めるかどうか、というところまで追い詰められた。今も全盛期に回復したとは、言えないのだろう。
後遺症が残っている。七つ怪談の後遺症が、学年全体に。
空は薄暗くなり始めていた。グラウンドで部活をやってる生徒も、そろそろ帰り支度を始める頃だろう。日が落ちるとともに影が伸び、人影は少しづつ減っていく。
校門を出て駅に向かう。途中、スマホが振動した。姉からメッセージだ。
「やっほー」
「あれからどう?」
「まだ夢見る?」
夢。そういえば、そうだった。
二週間ほど前から同じ悪夢を何度も見ている。そのことで先週末、姉の友人だという女子大生に相談してみた。確か名前は――
かなり頭がズレてる人だった。見た目が美人だけに残念だ。その人曰く、悪夢を繰り返し見るタイプの怪談は、悪夢の原因を取り除かなければ、どうしようもないらしい。姉はそのことを言っているのだ。
悪夢の原因。
悪夢が何なのかには心当たりがあるのだけれど、悪夢の原因となると全くわからなかった。だからオレは、悪夢の原因こそ佐倉環奈なのではないかと疑ったのだけれど、果たして佐倉環奈が原因という線は薄そうに思う。
■ 4
オレは水に落ちる。どぽんと音がして、耳がうまく聞こえなくなり、体が冷えて、手足はなんでもいいから掴もうともがく。
海か川かはわからない。臭いはしない。目を開けるた、不思議と視界は鮮明だ。息が苦しい。水の中は真っ暗で、何も見えない。何も見えない暗闇が、鮮明に映る。
そのうちふらりと手が現れる。海藻かなにかのようにゆらゆらと揺れる手だ。白くて華奢な女の手だ。ゆらゆらとゆれる女の手を見て、愛しさが溢れてくる。オレは女の手に、自分の手をのばす。けれど、水が体にまとわりついて一向に近づけない。
体は芯まで冷えている。心臓が痛い。肺が痛い。手足が冷たくて、眼球が凍りそうだ。
水が体にまとわりついて一向に近づけない。けれど、オレは女の手に、自分の手をのばす。ゆらゆらとゆれる女の手を見て、愛しさが溢れてくる。海藻かなにかのようにゆらゆらと揺れる手だ。白くて華奢な女の手だ。そのうちふらりと手が現れる。
頭がグラグラと揺れる感覚。女の手は少しずつ明らかになって、やがて顔まで見えようとしていた。その顔が見えることはない。見てはならないのだと知っていた。
悪夢は消えない。
息苦しさに目を覚ます。
日曜日、オレはカメラを持って外に出ていた。
「先輩、元気ないですねー。顔色悪いですよ。夏だからってそうめんばっかり食べてるんじゃないですか?」
「食ってねーし、体調も悪くねーよ」
蒸し暑い夏の晴れた日。熱気そのものが重力を帯びたような街から離れて、噴水もある緑地公園を訪れていた。部活の後輩、
写真を撮り始めたのは姉の影響だ。姉はオレと違って特定の被写体――つまり、廃墟ばかり撮影している。といっても、姉の主目的は廃墟であって、カメラではない。姉が中学生の頃は、ひとりで危険な場所に出かけるから、気が気でなかった。そんな姉に付き合ううちに、カメラに興味をもった。最初は姉を撮影していたのだけれど、写真部に入ってからは他の人物のポートレイトも撮影するようになった。
写真は良い。
見えないものが見えるようになる。風景を切り取るなんて言われるが、実際のところ写真と肉眼は全く異なる。人間は眼球を通して曲面に現実を投影し、それを視神経を通じて認識しているが、カメラはレンズを通して平面に投影する。この差によって、カメラは肉眼とは違った形状の現実を発見する。写真の中の風景は、文字通り肉眼では見えないものだ。
写真は光学的魔法だ。
「あー、似たような景色ばっかで退屈ですねー」
氏原は木陰の下にあるベンチに座って、暑そうに首筋を仰いだ。モデルが来れなくなってしまったので、風景写真に挑戦しているのだが、成果は芳しくない。風景写真と
「
「いやー、まじで残念だわー。ところでみもなってアイスあるよね。暑いしアイス食べたい」
「この男、わたしの友達をなんだと思っているんだ……?」おいおい眉間にシワが寄ってるぞ。「言っときますけど、巳萌菜ちゃんめっちゃかわいいんですからね。あどけない顔立ちに爬虫類を思わせる表情の読めない目つき、加えて細長くて骨ばった指ですよ。最高にエロいんですから」
そのエロさはオレにも理解できる種類のエロさなのか……?
男子高校生なので、もっとこうおっぱいがすごいとかのほうがエロいと思っちゃうんだよね。
「あー、そういえばさ――」雑談の流れで、聞きたいことを聞いてみることにしたオレである。「――佐倉環奈って知ってる? えっと、なんかちょっと見た目がすごい子」
「知ってますよ。佐倉さん、有名人ですから。あ、でも別にいじめられてるっていうわけじゃないですよ。見た目確かにすごいですけど、いじめとかじゃなくて、こう、
「すごいな氏原、忌避なんて難しい言葉、よく知ってたな」
「バカにしてます? ねえ、バカにしてますよね? これでも現国八六点だぞ? やんのかこの先輩野郎」
八十六点は威張れる数字じゃねえだろ。
ふしゃー、と威嚇してくる氏原穂乃果。
しかし「やんのか」ときたか。喧嘩を売られたからには買うしかないな。ふっふっふ、オレの意外な成績の良さを見せつけてやろう。
「一年一学期期末試験成績バトル」
「お? お? なにかはじまってしまう感じですか? これはもしかして、私のこの間の期末試験の成績と先輩の一年前の期末試験の成績とを開示し合って、負けたほうが何でも相手の言うことを聞くという類の遊びですかね?」
「おっと氏原。そんな不用意なことを口にして良いのか? なんでも言うことを聞くだって? 男子高校生の性欲と頭の悪さを侮っているんじゃないのか?」
「甘く見ているのは先輩の方ですよ。先輩の学年は数学の松尾、現国の篠原、物理の安沢とガチ勢教師のオンパレードですが、私の学年はゆるふわ系で溢れていますからね。点も取りやすかろうというものです。五教科合計で平均八十点くらいの差は固いですよ。このハンディキャップを覆す知性が、
なんでお前はオレの学年の教師事情に詳しいんだ?
けれど氏原の言うとおりだ。オレの学年の教師陣はにガチ勢で溢れている。数学の松尾は最高にやばい、現代日本で彼が摘発されていないのは、奮っている暴力の属性が数学だからだ。フェルマーの最終定理が証明されるまでの経緯を延々と語る数学教師は、高校の教育現場には求められていない。
しかし、教師が強いということは、それはすなわち生徒も存分に鍛えられていることを意味している。
さながら、激流に住む鯛が鳴門骨を得るように、あるいは繰り返し叩かれた鋼が強靭な結晶構造を得るように、オレたちの学年の知性はメキメキと向上するのである。このたとえ話からもオレの知性が溢れるばかりだ。
「先輩のことですからね、どうにか私を丸め込んでえっちな行為を致そうと画策しているのだと思います。ええわかりますとも。これでも私も女子高校生ですからね。男子が私たち女子でナニをナニしているのかなどはもうとても詳しいんです。テレビで見ました」
「オレたちの何がテレビで放送されているんだ……」
思わず男子高校生を代表してしまうオレである。とんでもないテレビ番組もあったもんだ。テレビ、うちだと全然見ないから、たまに話題についていけないんだよね。
「けれどそうは問屋が卸しません。勝負に負けても大したお願いはされないであろうと高をくくって、失うものはなにもないのだから挑み得だ、などと思われては今後の関係性が危ういですからね。先輩にもそこそこのものを掛けてもらう――もとい、失ってもらいますが、もちろんよろしいですよね?」
ははぁ、そんな心配をしていたのか。オレも舐められたものだな。
挑戦的な流し目を送ってくる(地味に難しい)氏原に対して、オレは懇親のドヤ顔で答えた。
「当たり前だ。勝負ってのは、お互い同じものを掛けるから成立する。バランスが取れない勝負なんてのは、降りるほうが勝ちだからな」
「…………」
「…………」
お互い、無言のまま視線を合わせる。
セミの鳴き声が遠く感じる。ここだけが夏の喧騒から切り離された、静謐な勝負の場にでもなったような錯覚を覚える。
「六教科の合計で勝負だ」
「望むところです」
一瞬、間合いを測るような微かな時間が過ぎ、そして――
「オレは三百六十三点だ!」
「ふふふ――五百五十二点」
な、なんだと!? 五百五十二点? そんな馬鹿なことあっていいのか。この頭のゆるそうな後輩にオレが負けただと――ッ! ていうか失点の半分が現国じゃねえか! まるで現国が得意な風を装いやがって! 騙された!
■ 5
ていうか佐倉環奈のことが聞きたかったのに盛大に脱線してしまった。
オレと崩也のリアルBLが見たいという常軌を逸したお願いをされたものの、崩也の合意が取れていない以上ルール違反だと交渉して難を逃れ、代わりにジュースを買いに行かされている。
「私は処女を掛けたんですから、先輩も処女を掛けてくださいよ」
「お前の処女なんかいらねえよ。せいぜいお前のエロい鎖骨に蜂蜜たらして舐め回そうと思ったくらいだよ」
「最悪……。本当に最悪……。そういうところですよ……」
心に傷を負った。(オレが悪いんだけど)
しかし、――忌避ねえ。
佐倉環奈はいじめられているのではない、忌避されているのだ。
「いじめって、強い立場の人が弱い立場の人を攻撃するじゃないですか。じゃないですか、っていうか、私はそう思うんですよ。いじめられる方が悪い、みたいな言葉も一定の支持を得ちゃうのって、それが良いことではないと思いつつ、どこか納得はできるんですよね。自己責任というか、弱い人間が弱いから悪い、みたいな。弱さを罪とする風潮というか」
わからないといえば嘘にはなる。それはそのままオレたちの学年で――
肌で理解していて、実感していることだ。
「けど佐倉さんは違うんですよね」
言葉を探すように氏原は言った。
「一年生には、いじめをする人もいますけど、いじめを良しとしない人も一定数いて、幸いなことに力関係が拮抗してるんですよ。普通は学校のルールに従う側が、ルールに従う故の弱さを持っていて、だからダーティープレイに弱い、みたいなところがあるじゃないですか。けど一年生の――いわゆる正義くんは」
正義くん。すごいニックネームだ。
「なんというか、そういうダーティープレイをこそ得意としているというか。えーっと、ダークヒーローというか、そういう感じで。だから、先生からするといじめをする勢力も正義くんの一派もどっちも問題児なんですけど、私たち一般の生徒からするととても助かっているというか。そういう勢力図なんです」
それも理屈は理解できる。物理的な暴力は、根本原理だからな。目的がどのようなものであれ、それを持たないものには何もできない。スーパー戦隊が暴力を振るうのは、そうしなければ戦えないからだ。暴力がルール違反の環境で、暴力を封じられた「ルールを守る側」は弱い。
「というわけなので、いじめがあるといじめっ子と正義くんのバトルが発生します。これが良い抑止力になっているんですよね。だけど、正義くんは佐倉さんを助けない」
なぜ助けないのか。
「佐倉さんは、いじめられていないから――というか、そもそも弱者ではないから、だと私は思っています。なんというか、佐倉さんは怖いんです。関わり合いになりたくないんです。どちらの勢力からも放っておかれているのが、佐倉さんです。一度、いじめっ子側の、小物――っていうとひどいですけど、あまり目立たない子が、佐倉さんに露骨に絡んだ事があって。一週間くらい続いたんです。
それから、その子――男の子なんですけど、事故に遭って、今も入院してます」
夏なのに、胃が冷える話だった。
ようやく自動販売機を発見する。すこし年季の入っている屋根付きの休憩所の中。トイレも併設されている場所だ。朽ちかけた蔦状の植物がまとわりついている。錆びた金属製のゴミ箱に、テーブルの上に倒れたまま放置された空き缶。蟻の行列が続いている。
自販機の前で財布を取り出そうと視線を下げた瞬間、オレはそいつに気づいた。
「――ッ!」
自動販売機とゴミ箱の間にある狭い空間。
そこに、ぐちゃぐちゃの髪の毛の隙間からこちらを覗いている女がいた。どうやって入ったんだ。女はオレに気づいて、ずるりとそこから這い出してくる。
喪服のような真っ黒の服。なぜか犬の首輪を付けて、真夏だというのに手袋を付けている。
思わず一歩――どころか、三歩くらい後ずさる。
……あ、というかこいつ、佐倉環奈じゃん。
制服じゃないから全然わからなかった。
なんでここにいるんだ。噂をすればなんとやらってやつか……?
「あの、あなた」
「……なんだよ、オレになにかあるのか?」
そもそもこいつはオレのことを認識しているのか……? 廊下で――階段の踊り場ですれ違っただけだというのに。いや、あるいはずっと前からオレのことを認識していたから、階段の踊り場でオレを見ていたという仮説が、正解だったのか?
佐倉環奈は、虚ろな目――表情の読めない目で、こちらを見る――いや見てない。眼球が小刻みに振動している。どこ見てんだ。怖い。
「あ――」
口を開いて、こひゅっ、と変な呼吸音で息を吸った。
「――あなた、呪われてる。笹舟――七つ階段の、三番目。両思いのお
文字通り笹の葉で作る舟だ。
手のひらに収まるサイズの小さな舟。
その笹の葉に自分と想い人の名前を書いておく。
すると、笹舟の使いがいずれ二人を両思いにしてくれる。
笹舟は夜舞坂高校の近くにある川――白浪川に流すことになっている。
この怪談の真骨頂は両思いにしてくれるということではない。
端的に言えば、それは両者を苛む悪夢である。
笹舟に名前を書かれると、悪夢を見る。
繰り返し繰り返し、悪夢を見る。
そして二人は衰弱し、
やがて死ぬ。
心中。
去年の一年生、つまりオレたちの学年で蔓延し猛威を奮った七つ怪談。その三番目にして、最初の事件。最終的にひとりの男子生徒の自殺で決着した。そんな本物の怪談が、オレに関わっているというのだろうか。
「顔色」
佐倉環奈は、ほとんど唇を動かさずに言う。
カサカサに乾燥してひび割れた、不健康な唇で、オレに指摘する。
「顔色が、良くない。冷たい、水から、出てきたみたい」
■ 6
オレは水に落ちる。どぽんと音がして、耳がうまく聞こえなくなり、体が冷えて、手足はなんでもいいから掴もうともがく。
海か川かはわからない。臭いはしない。目を開けるた、不思議と視界は鮮明だ。息が苦しい。水の中は真っ暗で、何も見えない。何も見えない暗闇が、鮮明に映る。
そのうちふらりと手が現れる。海藻かなにかのようにゆらゆらと揺れる手だ。白くて華奢な女の手だ。ゆらゆらとゆれる女の手を見て、愛しさが溢れてくる。オレは女の手に、自分の手をのばす。けれど、水が体にまとわりついて一向に近づけない。
体は芯まで冷えている。心臓が痛い。肺が痛い。手足が冷たくて、眼球が凍りそうだ。
アラームで目が覚めた。
時間を確認する。午前一時。ちゃんと起きられたようだ。
眠気覚ましに洗面台で顔を洗う。ばしゃばしゃやってタオルで拭くと、鏡には陰鬱な顔が写った。オレの顔だ。唇は紫色で、目には隈ができている。顔は青白く、死体のようだ。
気づかなかった。いや、本当は気づいていて、それが笹舟によるものだということも理解していて、だけど対処をずっと先送りにしていた。だって、原因がわからなかったからだ。この悪夢が笹舟によるものだとわかっていても、誰が笹舟を行ったのかがわからない。
「体調には気をつけろよ」
「元気ないですね、顔色悪いですよ」
崩也にも氏原にも指摘されていた。改めて自分の顔を見ると、ひどいな。自分の状態から目をそらしていた。心のどこかで悪夢と笹舟を切り離そうとしていた。これは去年の出来事を引きずっているオレが、自分で勝手に見ている悪夢だと考えようとしていた。
このまま放置していたら死んでいただろうか。
睡眠不足は鬱病の始まりだという。やがて自律神経が乱れ、ストレスが増大し、自殺に至る。あれは脳の疾患で、大半の人間は自ら治癒させることができない。仮に治ったとしても、後遺症が残る。
らしい。
体験したことはないので、実感は持てない。
それにこの顔は、明らかに睡眠不足だけによるものではないだろう。水道水に手を漬ける。熱い。相対的にオレの体が冷えているということ。冷房の効かせ過ぎとか、そんなことではない。蛇口から流れる水を温かいと感じるのは、真冬でもなければありえない。
異常現象だ。このことだけは、悪夢では説明がつかない。つまり笹舟は事実だし、オレは今笹舟の被害に遭っているということになる。
外は雨が降っていた。傘は邪魔になるかもしれないと判断して、レインスーツに着替える。LED式の高光度懐中電灯と、特殊警棒、革製の薄いグローブ。机の上に行き先を書いたメモを残した。財布とスマホは持っていかない。両親を起こさないように慎重に家を出る。鍵は郵便受けに入れた。
「ふう――」
深呼吸。
物理的な暴力は、根本原理だ。
体は芯まで冷えている。心臓が痛い。肺が痛い。手足が冷たくて、眼球が凍りそうだ。
これからオレは、笹舟の実行者を探しに行く。ただし、発見できるという確証はない。今日が駄目なら明日、明日がだめなら明後日、死ぬまでには見つけ出してやる。
去年、笹舟は爆発的に流行した。
両思いのお呪いという触れ込みで広まったそれは、やがて悪夢の噂とともに危険視され、嫌厭されていく。しかしそれでも、自殺者が出るまで大きな問題にならなかったのは、笹舟は繰り返し実行しなければ効力を発揮しないとされていて、実際、そうだったからだ。
毎日、笹舟を流さなければならない。
繰り返し、繰り返し。
そんなことを続けられるほどの胆力がある人間も少なく、また相手に悪夢を見せるだけという効果の程が広まってからは、なおさら実行者は減ってしまった。それでも最後まで繰り返した誰かがいたから、自殺者が出てしまった。
だから、オレの名前を笹舟に書いて川に流している誰かは、今夜もまた川に現れるはずだ。
それを止める。
いくつかの小さな橋が掛けられている――というより、川のほうが道路の下をくぐっているという風に見える。
しばらく歩き回ってみた。補導されるリスクもあるし、そもそも現場を抑えられるとも限らない。笹舟を流すのは一瞬でいいのだから。下流から懐中電灯で調べていくという方法も考えたけれど、水面を照らして探すのは笹舟の実行者に「オレはあなたを探していますよ」と言っているようなものだ。夜中ずっと見張るわけにもいかないのだから、探していることを知られると、避けられて永久に見つけられなくなるかもしれない。
困難で非現実的な試みだ。けれど、何もせずに死ぬわけにもいかない。なるべくうまくいきそうな方法で、試すしかない。
降りしきる夏の雨が耳に煩い。街頭の光が雨粒に反射する。その光の届かない場所は湿った影に塗られている。白浪川を渡る橋は短く、柵もないような小さなものだ。誤って落ちないように注意しながら、顔を見られないようにゆっくり歩く。
雨音が耳朶を打つ。雨音が耳朶を打つ。雨音が耳朶を打つ。
橋の一つに差し掛かったところで、見知った顔があった。
両手で大事そうに、なにかを抱えている。
手のひらに収まるサイズのなにか。
「――上連先生」
ビクリと肩を震わせて、その人――上連は、オレを振り返った。
「え、あ……あ、はは。奇遇ね、俊晞くん」
一瞬、視線が左右に走った。半歩だけオレから距離を取る。左手をとっさに、背後に隠した。
「こんな夜中に出歩いてたらだめじゃない。お家の人は?」
「オレひとりですよ。つーか先生こそ、なんの用でこんなとこに? あれ、この辺に住んでるんですっけ?」
「違うよ。私の家は――そんなことより、俊晞くんこそ、あなたのお家は二駅も離れてるじゃない。だめだよ夜中にこんなところまで。送ってあげようか? 私、車で来てるから」
「――何をしに、わざわざ?」
「何をって……それは」
視線を逸し、体を強張らせる。けど、すぐに上連は諦めたようなため息を付いた。
「笹舟を流さないと、俊晞くんは、こうして会いに来てくれなかったでしょう」
上連は、左手に隠した笹舟を川に落とす。笹舟は真っ直ぐ水面に落ちて、それからゆっくりと沈んでいった。
水に沈む悪夢。
笹舟によって見る夢。
そこにどんな真相が秘められているのかと、一瞬だけ思考が内向する。オレは本質的に内向的な人間だと自覚している。だから他人の感情には疎く、また自分が他人からどう思われているのかも上手く認知できない。ジョハリの窓が偏っている。笹舟は両思いのお
「夢を見るの」
上連が静かに語る。
「俊晞くんが必死に私に手を伸ばす夢。川に落ちて、私は俊晞くんと離れたくなくて手を伸ばすの。そうしたら、苦しそうに顔を歪めた俊晞くんが、真っ直ぐ私に手を伸ばして、必死に私と繋がろうとするの」
はぁ、と熱い息を吐く上連。成熟した年上の女が発情して眼の前に立っているという状況に、精神が削り取られていく。望んでいない相手から性的な視線を向けられることの気持ち悪さは、まるで海藻が全身に絡まってどんどんと体が沈んでいくような不気味さに似ている。あるいは、醜悪な獣が牙と舌を覗かせてこちらを見ているような感覚に近いだろうか。
どうして笹舟を知っている? とか。なぜオレのことを? とか。聞きたいことはいくつもあった。けれど、それを今聞くべきなのかと自問してしまう。雑談に来たわけではない。そして、犯人を見つけてどうしようとしていのか、何も考えていなかったことに思い至った。
「上連先生、オレはあんたみたいな、根暗でジメジメした女が嫌いです」
「そう――」上連は目を細める。「私を気遣ってくれているのね、俊晞くん。教師と生徒だもの――やっぱり、本心は明かせないものね。でも大丈夫、私はちゃあんとわかってるから。俊晞くんは私のものになりたがっているの」
ざわざわざわと背筋が泡立つ。本当に気持ち悪い。口の中が乾燥していて、唾液が粘つく。湿度の高い夏の夜だというのに、体は震えていた。右手は腰のホルスターに下げている特殊警棒の位置にある。気温が下がったような気がした。
「そうだ、夏休みだし、もしかして数日なら外泊しても大丈夫なのかしら? 私から、お家の人に電話してあげる。そしたらしばらくは先生の家にいられるから、一緒に暮らせるわね。先生、その、最近料理の練習していてね。俊晞くんに食べてもらえるって思ったら、苦手だった料理も頑張れてるの。大丈夫よ、ちゃんと俊晞くんが食べられないものはわかってるから……心配しないで。うふふ、私、今年で二十六だから、そろそろ妊娠しないと、四人くらい子供を作るにはやっぱり時間が足りないと思うの。冬休み前には産休に入れるかなぁ。ねえ、俊晞くんは男の子と女の子、最初はどっちがいい? 結婚できるようになるのは来年だから、それまで先生待ってるからね」
上連がこちらに近づいてくる。
オレは距離を取ろうとしたが、体がうまく動かない。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
遠い街灯に照らされた上連は、顔に不気味な影を落としたまま、なおも語る。
「ねえ、俊晞くんは私のどこが好き? 言ってくれないと、私、わからないな。こうして会いにきてくれただけじゃ、足りないの。夢を見る度に私はどんどんあなたのことを好きになっていった。あなたの夢にも、私がいたんだよね? だからここに来てくれた――そうでしょう?」
違う――オレの夢に出たのは、顔の見えない女だ。
上連ではない――断じて違う。
あれは笹舟の悪夢でしかない。それがわからないのか?
がつん、と鈍い音がして、上連が倒れた。ごしゃ、としか表現のしようがない鈍い音と主に。そして上連の背後に立っていたのは、佐倉環奈だった。
「――は?」
口から漏れる疑問。
倒れた上連は微かに動いていて、かろうじて意識があるようだった。当たりどころが悪かったのか、ヒキガエルみたいな声を上げている。
佐倉環奈は手に鉄パイプのようなものを握っている。オレが持ってきた特殊警棒とは違う、無骨でそのままの鉄パイプ。警察に職務質問されればそのまま危険物所持で連行されそうな代物だった。
佐倉環奈は何を見ているのかわからない目で上連を見て、それからオレを見た。オレは情けないことに尻餅をついてしまう。体から力が抜けた。
物理的な暴力は、根本原理だ。
「やっと見つけた」
佐倉環奈はぼそりとつぶやくと、上連の右手を握り、それからオレに手を伸ばした。オレは思わず、右手を差し出してしまう。
佐倉環奈を通じて、オレと上連がつながった。
美しい廃墟の写真だった。
不思議と嫌悪感は抱かなかった。
写真部が出品したコンクール。そこで特別賞を取ったのが、
「あれ、先生。見に来てくれたんすか」
少年の声。振り返ると、俊晞くんがいた。すこし照れくさそうにしている。作品を観られて恥ずかしいのだろうか。そんな様子に、私は完全に恋に落ちてしまった。
ああ、好きだな、と。
そうため息をついてしまった。
「――すごいね、写真。先生、感動しちゃった。ねえ、どうしてタイトルが「午睡」なの?」
「あんまり意味はないです。単に、こう、昼寝っていいじゃないですか。なんつーか、平和で退廃的というか、時間が止まってる感じがするっていうか、そういう意味かな」
終始気恥ずかしそうに話す俊晞くんが、私は愛しくて愛しくて仕方がなかった。
彼は私に魔法をかけてくれた。
いや、呪縛から解き放ってくれたのだ。
数年前に私が強姦された廃墟を、こんなにも美しい場所にしてしまえる彼に、こうして私は、恋に落ちた。
初恋である。
「ぐ、げええぇ――」
上連が嘔吐する。吐瀉物の匂いが届く。佐倉環奈はとっくにオレたちから手を離していた。今のは、なんだ? 上連の記憶――?
上連は憔悴していた。ガチガチと歯を震わせて、絶望の目でオレを見る。欄干に手をかけて、必死に体を起こそうとしているが、上手くいっていない。頭部に受けたダメージも回復していないだろう。
「と、俊晞くん――なんで、なんで私のことが、嫌いなの?」
はっとする。
オレが上連の記憶を見たように、上連もオレの記憶を見たのだろう――だとしたら、それはつい先程の、上連への背筋が泡立つような嫌悪を、自分ごとのように実感したに違いない。それくらい、オレが見た上連の記憶は鮮烈だった。――きっとオレと上連は、お互いにお互いをどう思っているのかを、共感してしまったのだ。
佐倉環奈が何者なのか、何をしたのか、それはわからないけれど、でも、今、上連はオレの感情を生々しく実感している――そのことを直感できた。
「私みたいな、汚れた女は――恋をしてはいけないの?」
息が詰まりそうになる。
上連のことを知らなければよかった。こんなところに来なければよかった。問題に対処しようとしなければよかった。瑞鳥さんに頼ってしまえばよかった。そうすればこんなことにはならなかったのに。
「オレは――」薄く息を吐いて、薄く息を吸う――辛うじて。「――あんたみたいな、根暗でジメジメした女は、嫌いだ」
上連は目を見開いて、ボロボロと涙を流す。
子供のように嗚咽を漏らして、声を震わせて涙を流す。
そうして、夏休みに遭遇した怪談「笹舟」にまつわるオレのエピソードは、終わった。
■ 7
だからこれは後日談だ。
夏休みの後半。早めに帰宅しようと、挨拶もそこそこに写真部の部室を出たオレは、階段の踊り場で佐倉環奈と出会った。相変わらず不気味な出で立ちだったが、嫌悪感はない。
「はじめまして」
抑揚のない声で佐倉環奈はそう言った。
「私の名前は佐倉環奈。お願いがあって、待っていた」
これがオレと佐倉環奈との出会い――不吉で不安定な高校生活の始まりだった。
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