010 殺人性サイレンス

■ 1


 に気づいたのは偶然だった。

 机の上のデジタル時計。ぼくの部屋があまりにも殺風景にすぎるからと、彩智がクリスマスにプレゼントしてくれたものだ。そのデジタル時計の青い光が、現在時刻を表示している。18:21。この表示の「:」の部分が一秒おきに点滅する。

 ――点滅する、はずだ。けれど、表示は変わらない。故障したのかと思って、ペンを置いて時計を手に取り、ぐるぐると回して観察してみたけれど、ぼくの知識では異常があるのかどうなのかはさっぱりわからなかった。

 ため息をついて時計を机の上に戻す。翻訳も煮詰まっていたところだったので、一休みしよう。そう思って立ち上がった。

 キッチンに移動し、電気ケトルに水が残っているのを確認してスイッチを入れる。瑞鳥がいつだったかに買ってきたココアを消費しなければならない。小分けされたスティック状のパッケージをマグカップに空ける。お湯が沸くまでの手持ち無沙汰に、思わず翻訳の続きを始める。頭の中で、覚えている単語を組み合わせてうまい訳にならないかと試行錯誤する。

 ぼくは部長からラテン語の古本を翻訳して欲しいと頼まれていた。バイトが忙しい時期だったので最初は渋ったのだけど、部長から提示された報酬額はかなりのものだったことも手伝って、結局引き受けてしまったというわけだ。特に締め切りなどもないようだったし、のんびり進めている。不慣れなラテン語の翻訳である、という点はストレス要因だったけれど、概ね順調だと言える。

 およそ四分の一ほどの翻訳を終えていた。第三の腕がどうこうとか、命の黒い水がどうこうとか、内容はひどくオカルトじみていて、部長は一体どこからこんな奇書を拾ってきたんだろうかと思わせる。オカルト研究会の逸材ともなると、奇妙なコネのひとつやふたつは持っているものなのだろうか。

 ちょうど今翻訳している部分は、古い魔術師Magiの静謐たる戦いにまつわる覚書おぼえがきだ。この本には執筆者の知識が書かれたセクションと、執筆者の言葉を隣で弟子が口頭筆記をしたようなセクションがある。後者のほうが翻訳は楽だが、内容はより荒唐無稽だと言えるけれど、オカルトものだと思って読めばコレはコレで面白い。頼まれでもしなければ積極的に読むことはないだろうが、全く面白くもない文書を翻訳するよりはいい仕事だ。

 そろそろお湯が沸いたかと思ってケトルを見る。そこで、ぼくは二つ目の異変に遭遇した。

 ケトルの持ち手にあるスイッチが光っていない。この電気ケトルは持ち手にスイッチがあって、スイッチを入れているとその中に入っているLEDランプが点灯する仕組みだ。故障したのだろうかと思って、再度スイッチを入れ直すが、やはり光らない。中身も沸騰しておらず、水のままだった。

「――まじかよ」

 思わず深い溜め息をついた。時計にケトル、立て続けに二つも電化製品が故障したとなると、いくら小さなものだとはいえ気になってくる。買い換えるにしろ修理するにしろ、出費が重なることにもなる。ケトルの方はともかく、時計は彩智からもらったものだ。可能なら修理したい。

 けれど、とにかく仕方ない、なんとか一息つきたいので、コンビニにでも行って飲み物でも買ってこよう。それか、夕食もどこかで食べてきてもいいかもしれない。いつもはコンビニで済ませているけれど、今日はそんな気分ではなかった。――そこまで考えて、ハッと思い出す。そう言えば今日は、彩智に夕食を食べに行こうと誘われていたんだった。コンビニの弁当で済ませたりしたら、拗ねられる。

 ……飲み物だけ買ってくるか。

 玄関で靴を履き、ドアノブに手をかけてひねる。

 ――ドアノブが動かない。

 ドアの建て付けでも悪くなったのか? 不運が続くな、と思って――すぐに思い直す。ドアノブが動かない。何かが詰まっているとか、ドアが歪んだとか、そんなものじゃない。ドアノブが全く動かない――! かすかに動く余裕すらない。まるで彫像かなにかのように、完全に固定されていた。

 ここに至って、ぼくはようやく認識を改めた。どうやら何か、とても良くないことが起こっているらしい。


■ 2


 部屋中を調べて回ってわかったことがいくつかあった。

 第一に、ドアノブとは違い窓の鍵は動くが、窓そのものは動かず、そしてドアそのものも全く動かない。ドアの立て付けには普通、僅かではあるけれど余裕があるので、ドアノブを捻らなくとも数ミリであれば押したり引いたりできるものだけれど、ダメだった。まるでドアの形をした壁のようだ。これは窓も全く同様で、窓を動かすことはできない。ドライバーで換気扇の枠を外そうとしたがダメだったし、エアコンのダクトを固定しているパテを引き剥がそうとしたが無駄だった。どちらも固く、動かない。

 第二に、部屋の外から音が一切聞こえない。換気扇の向こう側からも、ドアの向こう側からも、窓の向こう側からも。鳥の鳴き声も電車の音も車の音も隣人の生活音も聞こえない。

 第三に、照明が消えない。照明のスイッチを操作しても何の変化もない。これは電気ケトルのスイッチを操作しても何も起こらなかったことと同じ現象かもしれない。デジタル時計も動かない。スマホはスリープ状態から復帰しない。エアコンは稼働中のランプが点いているが、実際には全く動いていないようだ。

 そのあたりまで調べて、なんだか何もかも嫌になってベッドの上に寝転がった。

「わっけわかんねえ!」

 思わず叫ぶ。ついでに深いため息もついてしまう。

 まるで部屋が隔離されたかのような、別世界に切り離されたような感じだ。窓の外には夕焼けが広がっている。デジタル時計の表示通り、十八時半頃だというのなら、たしかにこのくらいの明るさだろう。まだ日は長い時期だ。

 窓から見える景色には人の気配が一切ない。ぼくの部屋は地上十階だ。このマンションのベランダ側は川に面していて、ベランダから下を覗いても人がいるなんてことはないのだけれど、どちらにせよ掃き出し窓が開かないのであれば確認することもできない。川向かいに立てられている別のマンションは見えるので目を凝らしてみたが、干しっぱなしの洗濯物は風に揺れることもなく、カーテンを開け放している部屋の中では何かの影が動くこともなかった。

 まるで街全体が透明な膜で満たされているような不気味さだ。あるいは、この景色が精巧な街の模造品のようでもある。夕焼けの街を切り取りたかったのだろうか。今日の夕焼けは美しかったけれど、終わらない夕焼けは妙に心をざわつかせる。

 もう一度ため息をついて、ベッドから起き上がる。棚の上を見る。そこにはもう一つの違和感があった。

 瑪瑙めのう

 和装の球体関節人形。ぼくの部屋に似つかわしくない彼女の名前は、瑪瑙という。人形師・薄葵うするぎ問目もんめが作ってぼくに押し付けた人形。彼女は時折、まるで生きているかのように感じさせることがある。一切触れていないのにも関わらずいつの間にかこちらを向いていたり、近づくと呼吸しているような生々しい息遣いを感じたりする。そんな彼女が、この異変が始まってから全く動かなくなっている。

 生きた人形からただの人形になってしまったような。

 そんな違和感を感じる。

 ――そもそも、生きた人形ってなんだろうか。オカルトに脳が毒されてる。そう思うとちょっと可笑おかしくなった。

 ぼんやりと考えを整理していると、お腹が鳴った。時計は止まっているが、体感では二時間ほどが経過している。いや、一時間かもしれない。とにかく空腹だ。冷蔵庫になにか食べ物はあっただろうかと開けてみるが、マヨネーズと明太子しかない。米を炊こうにも炊飯器は使えないだろうし、ガスもおそらくはダメだろう。――試してみたが、ダメだった。ガスが出ている音すらしない。

 食糧が全くない。これは非常にやばい。とにかく何か口に入れよう。マグカップに入れっぱなしだったココアを喉に流し込む。けれど、味がしない。匂いもない。最悪の感触だった。

 本当に何が起こっているんだろうか。この異変の原因はなんだ? 何か、これまでとは一線を画す程の怪異に巻き込まれていることはわかる。だったらその正体は何なのだろう。

 とにかく体力を温存しよう。そう思ってベッドに再び横になる。

 ぼくはこの部屋に隔離されているのだろうか? そういえば、もうかなり時間が経ったにも関わらず、彩智からの連絡がない。スリープ状態から復帰しないスマホで電話やメッセージを受け取れるのかわからない。けれど、彩智は待ち合わせの場所に現れないぼくを不審に思って連絡してくるはずだ。彩智は絶対にそうする。けれど連絡がつかなかったら、きっとこの部屋まで来るだろう。彩智が不審に思ったまま僕の部屋を訪ねたとするなら、そこはどうなっている? 向こう側からもドアは全く動かないのだろうか? 窓の向こうからはここがどう見える? 壁を破壊すればどうなる? 建物そのものを破壊すれば出られるか? いや、そうじゃないだろう。そんな物理的な手段で脱出できる場所ではないように感じる。じゃあどうすれば脱出できる?

 ……やはり、本だろうか。机の上に置きっぱなしのラテン語の古書。一抱えほどもある大きさの本。その翻訳を書き記したノートは既に三冊に達していて、それがここ一週間の成果だ。あの本を翻訳したことがこの怪異の原因なのだろうか。

 あの古書を預かったのは八月に入ってすぐの日、ちょうど僕が初めて梨々花りりかちゃんと出会った日のことだ。オカルト研究会の部長に呼び出されて部室に顔を出すと、そこには部長だけがいた。


「ああ、良く来てくれたね、坂上。入会届にサインをしてくれない頑固者の坂上。俺は君が来るのを待ちわびていたよ」

「入りませんよ、オカ研。僕は心霊スポットにしか興味ないですから」

「柔軟性を持ち給えよ坂上。柔軟性マインドは大事だよ。まあいいか、それは今日の本題じゃない。いざとなったら一歳さんに一肌脱いで籠絡してもらえばいい話だからな」

 部長は肩をすくめて立ち上がった。座れということだろう、ゲスト用のパイプ椅子を引いて、それから冷蔵庫に入っている缶コーヒーを取り出してテーブルに置く。

 オカルト研究会の部長。曲者揃いのこのサークルで部長を務めるだけのことはある食えない人物で、専門家のタマゴだと本人は自称している。果たして何の専門家なのだろうか。

「何はともあれ来てくれてありがとう」

 部長は向かいの椅子に座って、長く伸びた髪をくくりながらそう言った。

「今回君に調べてほしいのは、本だ。古書なので慎重に取り扱ってほしいのだが、いわゆる曰く付きの品だな」

「いや、ぼくにそんなもの渡されても……つーか瑞鳥とかいるでしょ。ぼくより適任なんじゃないですか?」

「あれ、知らないのか。瑞鳥さんは実家に帰省しているから、頼めないんだよ。翻訳関係に明るい人は俺の知人だとそう居なくてね。どいつもこいつも平気で原文を読みやがるから、翻訳は逆に苦手なんだ」

 そう言って部長は本棚に横たえてあった木箱を取り出した。蓋を開いて、さらにその中のものを包んでいる布を開くと、そこから古い革装丁の本が現れた。乾燥した生臭い匂い。表紙は黒く汚れていて、白っぽい斑模様がある。埃っぽい。サイズはちょうど、A4くらいだろうか。留め金が数か所に打たれている、アンティークな印象を受けるデザインだ。タイトルは……サイン……シグ……?

「それは素直に読むならシニフィカーティオ・エディタエーとなる。ラテン語だね。意味は『エディタの暗示』かな?」


 "Significatio Editae"


「Significatio にはとか、あらわれ、予兆なんて意味もある。本の内容は暗喩に富んでいて、曖昧な表現も多い。ラテン語だから仕方ないのかもしれないけれどね」

「読んだんですか?」

「まさか。こんな分厚い本を読み込むなんて俺には無理だよ。ドイツ語ならともかく」

 ドイツ語なら読めるのか……。

 渡された本を数ページ開いてみると、むわりと古書の香りが立ち上った。中には整った筆記で文字が敷き詰められていた。手書きのようだ。ラテン語ってことはもしかしてローマ時代のものだろうか。……いや、流石にそれはないか。おそらく、原本はその頃のものだろうけど、その写本かなにかだろう。

 ページのところどころに奇妙な印や図が挿入されている。また、余白には誰かが付け足したような書き足しもあった。

「あまり目を通さないほうが良い、その本の所有者には死者や行方不明者が多い」

 さっと本から距離を取った。

 曰く付きのレベルがヤバイ。

「そんな危ないものを平然と部室に置くのはやめてくださいよ……。何かあったらどうするんですか」

「ああ、それは大丈夫だよ。過去に死んだ人物は皆、その本を読み進めていたみたいだから。おそらく、読まなければ大丈夫なのだろうね。内容を理解するにつれて死が近づいてくる、という類のものだ、というのが俺の推測だ」

 ぼくは再び本の表紙を見る。人が死んだと聞かされてからだと、いやに不気味なものに見えてくる。装丁に使われている革が人のもの、なんてことはないよな。先程触った時、やけに柔らかい革だと感じたけど。古書の装丁ってそんなものかもしれない。

「推測ってことは、確信を持てるほどの材料はないんですね」

「まあね。とりあえず、所持者の話をしよう。俺が知っている五人のうち、最初の三人にはあったことはない。伝聞で聞いただけだ」

 これを譲ってくれた誰かから聞いたということだろうか。部長のコネクションは計り知れない部分がある。どんな人物を伝ってきたのだろうか。

「一人目は、大正時代の書生だ。彼は欧州ヨーロッパの舶来物を扱っている人物から、この本を譲り受けた。貴重な品だということ以外になにも知らされていなかったらしく、それ以前のルーツを追うことはできていない。早速翻訳を進めた書生は、この本が世に出してはならない類のものであることを知る。三ヶ月もすれば、正確なところはともかく、概ね概要を理解することはできたが、その頃には書生の精神はひどく消耗していたらしい。そしてある日突然、死亡した。死因はだった。彼は日記を残していたが、特別変わった記述は見つからなかったそうだ」

 餓死。

 飢え死に。

 ぼくは自然、息を呑む。現代では通常考えられない死因だ。その書生が餓死したのは、大正時代だから? 現代ではないから餓死が起こりうる背景があったとか、そういった話なのだろうか。大正時代の餓死者の数って、どんなものだったんだろう。

「二人目はその書生の、兄の息子だ。アンティーク好きだった彼はこの本と書生の日記を見つけて、書生の死の原因がこの本にあるのではないかと考えた。日記にはいろいろと読み方のコツというか、端書みたいなものが残っていたらしくてね。それを参考に本を読み進めていたそうだ。自分の研究室に引きこもってね。そしてそのまま消えた」

「……消えた? 神隠しじゃあるまいし」

「時代が時代だったからね、まさに神隠しだと言われていたみたいだ。三人目はその男の妹の友人で、大学で民俗学を専攻していた女性だ。言ってしまえばこの大学のOGなのだけどね。ああ、もちろんもう何十年も前の話だよ。書生の日記とこの本と共に、男が消えたエピソードを聞いた彼女は、本に興味を持って読みはじめたわけだ。その後――ま、結論だけを述べようか。この女性は失踪している。なぜか書生の日記と共にね」

「……それで、三人だけですか? その、死んだり行方不明になったり、っていうのは」

「いや、全部で五人だ。四人目は――」

 部長が続きを話そうとした時、部室の扉が開いて、紫ちゃんと彩智、それから、この時は初対面となる梨々花ちゃんが現れた。その後、梨々花ちゃんに突然告白されたりしたので、部長との話は有耶無耶になってしまい、とにかくぼくはその本を預けられたのである。


■ 3


「もうちょっと詳しく話を聞いておけばよかったな」

 ベッドの上でぼんやりとつぶやく。四人目と五人目の話は結局のところ聞いていない。

 本音を言えば、ぼくはこうなることを全く想定していなかった。心の何処かで大した事ない品物だと侮っていたわけだ。オカルト現象が起こったのはただの偶然だとか、噂に尾ヒレが付いただけだとか。これまでに何度も怪異と触れているのに注意を怠っていたし、警戒が不足していた。たかだか本を読んだだけで何かが起こるなんて全く思っていなかった。

 これからは認識を改めなければならない。

 ぼくは怪異との関わりを完全に断つことはできないだろうから。

 『エディタの暗示』第三章、静謐たる戦いPugna tacitulus。魔術師エディタと砂漠の魔女との暗闘を、弟子が書き留めた記録だ。灰色の石でできた塔が立ち並ぶ砂漠で、エディタと弟子は砂嵐に巻き込まれて道を見失う。遠くから風に乗って微かに聞こえ届く魔女の声に気づいたエディタは、緑のランプから炎を取り出して飲み込むと、弟子にもそれを与え、そして静かに、砂の上に文字を描いた。奇妙な線の組み合わせで表現されたその文字は、砂の上に残った。

 ……文字。

 そうだ、文字だ。ぼくは本を開く。翻訳しかかっていたページに挟んでいた栞を頼りに、目的のページを探す。

 あった。

 乾燥した蚯蚓みみずを地面に並べたような奇妙な文字。それが弟子の手によって書き写されている。奇妙なその文字が何を意味しているのかは全くわからない。弟子の記述によれば、エディタは三つの文を順番に砂の上に書いたのだという。ご丁寧に三行に、きちんと分割されて書き写されている。

 こういった、書き記された文字や図形を見た相手に影響を与える呪いが存在するという話を、ぼくは瑞鳥から聞いたばかりだった。


 今日の昼。ぼくはラテン語辞書の貸出期間を延長するために大学図書館にいた。手続きを終えてさっさと帰ろうとしたぼくは、ちょうど入ってきた瑞鳥と顔を合わせることになった。

「あ」「お」

 声が重なった。

 瑞鳥はぼくを見つけるなりにやりと笑って、ぐいとぼくの腕を取った。そしてそのまま図書館の外まで引っ張っていく。ふわりと瑞鳥自身の香りがした。

「坂上くん、部長から聞いちゃったよー? 初対面の女の子に告られたんだって? しかも振ったんだって? よ、いろおとこー、シゴロー」

「やめてくれ、本当に。よく知らない相手に突然一目惚れって言われたら、普通断るだろ」

「でも可愛い子だったんでしょ? しかもその後、一緒に肝試しにも行ったんでしょ? わたしってばなんでも知ってるからなー」

「本当にどこからそういう情報を仕入れてくるんだよ……」

 梨々花ちゃんと行った肝試しは一応オカルト研究会のイベント(?)だったわけだし、オカ研に所属する瑞鳥が話を聞いていても不思議ではない。いろいろなことを知っている瑞鳥は、いろいろなことを知っているだけに、変わったことばかり知っていると思いがちだけれど、知っていて当たり前のことだってちゃんと知っているのである。

「で、どうなの? 坂上くん的にアリなの。梨々花ちゃんだっけ」

「いやちょっと……。というかぼく、恋愛ってよくわからなくて……」

「きみは思春期の男子中学生か」

 瑞鳥に引かれた。ジト目で呆れ顔を向けられて、すこし傷つく。

「それより、図書館に用があったんじゃないの?」

 それ以上追求されたくないので、強引に話題を逸らした。瑞鳥は胡散臭そうな目でこちらを見てから、それに乗ってくれた。

「ちょっと邪視について調べに来たの。この図書館って変な本が多いからね」

「邪視? えーっと、なにそれ」

「邪視っていうのは、相手を見ただけで発動するのろいのことだよ。主に魔女とかが使う」思わず瑞鳥から距離を取る。「コラ。誰が魔女だ」

「いや、思わず……」

「わたしは魔女なんかじゃないって」

 どうだろう。オカルトに精通し、不思議なくらいの情報通で、ミステリアスな美人となれば、正体が魔女だったとしても不思議はない。

「あー、うん。けど、見ただけで他者を呪うなんてこと、可能なのか?」

 そもそも呪いなんて実在するのかすら怪しいのだけど、そこを追求し始めると話題が脱線するので、ひとまず棚上げして。ぼくの質問に、瑞鳥は得意気に微笑んで、講釈してくれた。

「呪いにおいて、相手を指し示すとか、意思を込めて見るとか、そういった行為は非常に強い意味があるのよ。とはいえ、これは発想を転換すれば、指し示されなければ、見られなければ、呪いは発動しないということになる。本名を知られると呪いをかけられる、なんてのもあるよね。だから昔は名前を使い分けたりしてたんだけど」

「ふうん……。けど、見られただけで呪われるなんて、対策がないんじゃないか?」

「それがそうでもないんだよなー」

 瑞鳥は楽しそうに指を振った。オカルト話をする時の瑞鳥は基本的に楽しそうで、嫌いじゃない。

「ファーティマの目、ファリックチャーム、コルナ、トルコ石のネックレス……色々と防御手段もあって、原理や性能も違ってるんだけどね。邪視に対する防御の手段っていうのは、結構よく知られているのよ。古くて素朴な魔術ほど対処法も多いっていうこと」

「へえ……。やっぱ瑞鳥は詳しいな」

「まあね。邪視に対しては、防御もいいけど、攻撃もいいよ。文字や呪文の中には、それを見たり聞いたりするだけで効果を及ぼすものもあるから、そういうのでカウンターを仕掛けたりするみたい」

「ああ、なるほど。相手の特性を逆手に取ってるわけだ。見なければ呪いが発動しないのなら、相手がこちらを見れない、あるいは見ると不利益を受けるような手段を用いると」

「そうそう。便利ではあるけど、そういった呪文は取り扱いが難しくて、呪文が自分に跳ね返ったり、上手く使えなかったりするんだよ。書く時に見ちゃったら自分に対して呪詛が起こるから、そうならないように自分は別の手段で防御しておくとか、あるいは特定の相手にしかかからない呪文を使うとか。そういった一工夫が必要になるの。上級者向けだね」

「なるほどー」

 とても勉強になる。

「まあ、全部ただのオカルトだけどね」

 瑞鳥はそう言って、ぼくの隣をすり抜けて図書館に入っていく。

「じゃ、またね、坂上くん」

「ああ、また」

 そうして僕達は別れた。


■ 4


 瑞鳥に教わったことを信じるのなら、おそらくは見ただけで効果を発揮する呪いということになるのだろう。おそらく、魔術師エディタは、その対策としてこの呪文を用いたんだ。つまり、この奇妙な文字で描かれた三つの文は見るだけで発動する類ののろいで、おそらくは緑の炎こそこののろいの影響を緩和する防御手段なのだろう。

 この呪いを解く方法が見つけられないかと思い、『エディタの暗示』の翻訳を続けてみたが、数時間が経過した辺りで集中力の限界を迎えた。加えて、空腹で体が重くなってくる。翻訳を続けてもほとんど成果がなかったことも、精神的負担が大きい。

 どれくらい時間が経過しただろうか。正確なところはわからない。窓の外には夕焼けが広がっていて、机の上のデジタル時計は18:21のままだ。完全に時間が止まっていて、ぼくはここに取り残されている。

 もしかしてぼくはここで朽ち果てるのではないだろうか。ふとそんな考えが頭をよぎる。このまま、オレンジ色の静寂の中で孤独に死ぬ。それは現実的な可能性だ。

 彩智に会えず。あの廃墟の誓いを果たせず。何も食べられないし、新しい本も買えない。バイトにも行けない。大学を卒業することもない。講義にも出られない。どこにも行けない。何者にもなれない。ただここで孤独に朽ちる。もう瑞鳥と一緒に演劇を見に行くことも、紫ちゃんに誘われてカフェで雑談することもない。そのすべてがたった三行の文字列に奪われるのか?

 ふざけんな。

 椅子を思い切り持ち上げて、窓にぶつけた。ガン、と奇妙な音がして椅子が跳ね返る。窓には傷一つついていない。次は蹴飛ばしてみる。足の裏が痛くなった。構わず何度も蹴りつける。何度も何度も。呼吸が乱れて座り込むまで続けた。

 何の意味もなかった。

 『エディタの暗示』の該当する部分をペンで塗りつぶしてみた。変化はない。ページを破ってみた。変化はない。燃やしてみようと、ビリビリに破いたページをかき集めてガスコンロまで持っていったが、ガスが使えないことを思い出した。そこで突然目眩がして、再び座り込む。

 呼吸が荒い。

「ああ、クソッ!」

 思わず悪態をついて、キッチンテーブルを殴りつける。空腹と睡眠不足で時間感覚が完全に狂っていた。ぼくは数時間を翻訳に費やしたと思っていたけれど、本当はもっと長い時間が経過していたのではないか? 何十時間かは分からないが……。そう考えると、急激に眠気が襲ってきた。

 食事ももちろん大事だが、睡眠も大事だ。瑞鳥が買ってきたココアはもうなくなっていたし、冷蔵庫にあった雑多なものも全部腹に収めた。あとは自分の腕や足を食うしかない。けれど、それは最後の手段だ。

 倒れるようにベッドに横になる。

 

 最初に死んだ書生の死因も、餓死だったな。だとしたら、その人物もこの呪いにやられて死亡したのだろうか。どんな死に様だっただろう。二人目と三人目は、失踪だったか。けど、何故だ? 順当に冒頭から読み進めれば、まずこの呪いに殺される。それなら死体が残るはずだ。

 ――果たして本当にそうか?

 餓死した書生は、例えば死体が残っていただけだとしたら。もっとずっと長い時間が経過して、この場所で骨も残らないほどに朽ち果てたとしたら、文字通り蒸発してしまったとしたら、それは、つまり失踪したということになるのではないだろうか。

 あとに残るのは、人とも思えない腐敗した泥だけ。

 そうなってしまったら――そうなってしまったら、どうなる?


 ぼんやりとした意識が不意に覚醒した。眠気は残っているが、頭はかなりはっきりしていた。奇妙に覚醒していた。体は完全に飢餓を訴えている。心臓の鼓動が激しい。腕は心なしか細くなったように見える。人は極度に飢えると、筋肉を燃焼させてエネルギーに変えると聞いたことがある。早くどうにかしなければ、動けなくなる。

 書生は餓死状態で発見された。二人目と三人目は蒸発した。特に二人目は、研究室に篭りきりだったという。それを差し引いても、数時間で人が餓死することはない。完全に衰弱死するまで発見されないとは考えにくい。

 加えてこの部屋だ。

 この部屋の状態とこの呪いとは強い関わりがあるに違いない。水も出ない、ガスも使えない、電気も動かない、窓の外に人がいない、いわばハリボテの部屋。けれど、古い呪いがこんな近代的な部屋を創造するとは思えない。だとしたら……呪いが部屋を形作っているのでなければ、この部屋を形作っているのは、もう一つの要素……つまり、ぼくだ。呪いにかけられた時、ぼくが認識していた状態のままでこの部屋は固定化されている。

 餓死したぼくが見つかるのはいつだろう。書生が餓死状態で発見されたのは、不審に思った同居人が部屋を訪ねた時だったりしないのだろうか。だとしたら、書生は数時間のうちに餓死したことになる。ぼくはもうここで何十時間も過ごしているが、未だに餓死には至っていない。だからこう考えられる。この場所の時間の流れと、現実のぼくの肉体の時間の流れは、

 言ってしまえばここは夢の中のようなものだ。呪いの正体とは、この夢のような世界に意識を閉じ込め、ここで過ごした時間を現実に反映させるというものなのだろう。さしずめ、時間の牢獄とでも呼べるだろうか。

 エディタが砂漠に描いた文字は、砂嵐の中であるにも関わらず、風に吹かれて消えたというような描写はなかった。これは見方を変えれば、呪いを持続させるには、あの文字を残しておかなければならないということにほかならない。しかし、この部屋にある『エディタの暗示』は、おそらくぼくが見ているものを呪いが捏造した贋作だ。あれをどうこうしても、呪いは解けない。

 ベッドから起き上がる。寒い。手足が震える。じんじんとした鈍いしびれが全身を覆っている。

 ぼくがこの世界から出るには、

 確信はなかった。

 けれど、取れる手段は取れるうちに、だ。

 デスクの上にあるカッターナイフを右手に握った。刃を出す。ぼくはそれを、左腕に突き立てた。

「う、ぐぅ――」

 痛い。けど躊躇はしなかった。自分の肉体を傷つけてはならないという生物が持つリミッターはとっくに喪失していた。激しく鼓動する心臓と、頭痛と、妙に冴えた思考だけが、今のぼくに残されたものだ。左腕が痛い。ぼくはカッターナイフを操って、不格好なアルファベットを刻みつける。

 BOOK《本を》 BURN《燃やせ》

 そしてそのまま倒れた。もう力は残っていなかった。これは賭けだ。分の悪い賭け。意味がないかもしれない。助からないかもしれない。いや、助からない可能性が高いだろう。それでも、ぼくは最後まで足掻かなければならない。

 死にたくないからだ。

 ぼくは死にたくない……まだやり残したことがある。やりたいこともある。だから、死にたくない。生きたい。

 焦げ臭い匂いがする。周囲を見回すと、玄関から煙が上がっていた。火の手が一気に広がり、部屋が炎に包まれる。ぼくにも火がついた。熱い。けれど、もう体が動かない。熱い。熱い。熱い! 熱い! 熱い! 熱い! 熱い! 熱い!


「坂上君!!」


 意識が覚醒した。


 冷たい水の感触。バクバクと鼓動する心臓。冷たい体。皮膚に走る傷み。左腕からは微かに血が流れている。オレンジ色の光は、夕焼けのものではなく、ユニットバスの照明だ。

 彩智の顔が目の前にあった。ぼくが目を覚ましたことを認めると、彼女はポロポロと涙を流す。

「さ、坂上君、死んじゃうかと思った……良かった、無事で、ううっ、ぐず……と、突然、坂上くんが燃えはじめて、わたし間違えたかと思って……」

 頭がぼんやりしている。彩智がこぼす涙がぼくの右腕に落ちる。シャワーの水が冷たい。体が焦げ臭い。

 ぼくは彩智が言った言葉を数秒かけてようやく理解して、思わず安堵し、体から力が抜けた。

「ありがと、彩智。助かったよ」

 それだけ言って、ぼくは意識を手放した。


■ 5


 次に目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。

 右腕が冷たい。点滴の針が刺さっていた。

 左腕が温かい。彩智がぼくの手のひらを握りしめたまま眠っていた。目元には涙の跡がある。すごく心配させたみたいだ。

 部屋は暗い。窓の外も。夜だった。面会時間が過ぎているのに彩智がここにいるのはどういうことなのだろう? あまり病院のシステムに詳しくないのだけれど、こういう場合って身内でもなければ宿泊できないのではないだろうか。

 体を起こそうとするが、上手く動かない。力が入らないというか。

「まだ動かないほうがいいよ」

「……部長、居たんですか」

 声のした方を見ると、窓際に部長が座っていた。パイプ椅子を出して、文庫本を手に持っている。

「悪かったね。一歳さんが寝ちゃったから、起きたら連れ出さないといけなかったんだ。大変だったんだぜ、泣きながら電話してきてさ」

 そこまで言って、それから部長は少し気まずそうな顔をした後、ぼくに向かって頭を下げた。

「今回は悪かった。アレは俺の失態だ」

「……いや、部長だけの責任というわけではないでしょう。ぼくも同意して作業してたわけですし」

「それでもだ。もう少し警戒すべきだった。一歳さんが偶然きみの部屋を訪ねなければ、きみは命を落としていただろう」

 彩智は僕の部屋に来るという予想は、十中八九当たるだろうと考えていた。彼女は心配性だ。前にバイトで疲れて彩智との予定を寝過ごした時も、心配して部屋まで来てくれたことがある。

 あまりいい気分ではない。

 優しさに甘えるというか、相手との関係性に基いて何かを予測することに、罪悪感を感じる。

「部屋に入ると君が倒れていて、やせ細っていったと一歳さんは証言したよ。左腕に突然血文字のアルファベットが現れて、『BOOK BURN』の指示通りに机の上の本をガスコンロで燃やしたそうだ。そしたら君の体も燃えはじめたから、慌ててシャワールームまで運んで、シャワーを浴びせたと。なあ、何があったんだ?」

「……かなり推測も入ってますけど、ええと、そうですね――」

 ぼくは部長に、途中まで行った翻訳の内容と、『エディタの暗示』にかかれていた呪いについて説明した。ぼくの考えや、彩智が目撃したという現象への説明も加えて。

 僕の体が燃えはじめたという点については、イマイチ推測が立たない。本を燃やしたことと関連があるのだろうけれど。

 部長は最後まで頷きながら聞いた後で、口を開いた。

「なるほど……。そうだな、せめて五人目の死者について君に話せていたら、もう少しマシな対処ができたかもしれない。いや、やはり難しいか」

「五人目ですか」

 部長は神妙な顔で頷いた。

「五人目の死者。それはこの大学の教授でね。彼は旧教育学棟の研究室で半ミイラ化した状態で発見されたのだが、不思議な事にその肉体には入墨のような跡が残っていたのだよ。後に皮膚を切り出してその文字を解析した者がいたのだが、そこに書いてあったのは論文のようなものだった。タイトルは『精神時間と肉体時間の同期について』。その中で彼はこう書き出している――私は神秘を発見した。ここにそれを書き記す。これこそ私が生まれ、生きた理由に違いない」

 私が生まれ、生きた理由。

 生きた理由を発見したということは、死に場所を発見したということと同じことだ。

「なあ、坂上。お前は、自分の意志で助かったんだ」

 ……そうだろうか。

 ただ単に運良く助かっただけで――単に彩智に助けられただけで、ぼくの生きようとする意志に意味があったなどと、そんな風には思えないけれど。

 ぼくが生きているのは彩智のおかげだ。

 これで二度、命を救われたことになる。もう一度、ぼくが彩智の命を救わなければ、釣り合いが取れないな。そう決意すると、再び眠気に襲われ、僕は意識を手放した。

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