009 交錯性ビューイング
■ 1
ぼくが
三剣梨々花。一年生。
「一目惚れです、付き合ってください」
「ごめん、恋人は作らないようにしてるから」
というやりとりがオカルト研究会の部室で交わされ、しかもそれが僕と梨々花ちゃんのファーストコンタクトだった。彩智が微笑んでいた。
ともかくその日はオカルト研究会の部長から調べてほしいと頼まれた品を預かって、彼女たちから逃げるように帰宅した。なぜオカルト研究会に所属していない僕が調べ物を頼まれたのかというと、話が長くなる上に、今回の本筋からも逸れてしまうので、割愛しよう。
梨々花ちゃんはオカルト研究会に興味があって、たまたま見学に来ていたとのことだ。
そして後日。
「なんか、梨々花、本当にオカ研に入っちゃいましたよ。坂上先輩との接点がほしいとか言って。坂上先輩、梨々花ちゃんに何したんですか?」
「何もしてないよ。やめてくれ、本当にまいってるんだ。付きまとわれたらたまったもんじゃない」
ぼくは恋人を作る気はない。いまいち恋愛というものがわからない。性欲の方がよっぽどわかる。
紫ちゃんはカフェのアイスティーをチュウチュウとストローで吸って、それから怪訝そうに口を開いた。
「本人はすごい盛り上がってますけどね。口を開けば坂上先輩のことばっかりで、わたしまで坂上フリークになりそうですよ。わたしと梨々花で3Pします?」
「せめて三角関係という言葉を使え」
ホントにやめてほしい。真っ昼間のカフェで3Pとかいうな。
「……紫ちゃんの方からも何か言ってくれよ」
「うーん、とりあえず振られたんだったら諦めたら? とは言ってみたんですよ。でも、まだわたしの魅力がわかってないからだ! って逆にヒートアップしちゃってて。ほら、梨々花って男子受けはすごくいいから、振られたことないんですよね。かわいいじゃないですか」
「まあ、顔は整ってるよね。けどぼくは、紫ちゃんみたいな純朴そうな子の方が好みかな」
ぶほっ、と派手な音を立てて、紫ちゃんがアイスティーを吹いた。ちょうどストローを口にしていたタイミングだった。そのままゴホゴホと咳き込んで、ペーパーナプキンを取ってテーブルと口周りを拭く。
「
「彩智がそんな危ないことするはずないだろ……」
するはずないのに、彩智が包丁を握ってこちらに向けている絵面は容易に想像できてしまう。彩智は怒るととても怖いからな……。
「あー、それでですね。梨々花が坂上先輩と一緒に肝試し行きたいって言ってるんですよ。わたしは幽霊だめなので行かないですけど、えーっと、部長と、梨々花と、坂上先輩と、
「え、やだよ。断っといてよ」
「ですよねぇ。瑞鳥先輩もご実家に帰ってますし、部長がいるとはいえ、何かあってからじゃ遅いですし。
「待って、なんて?」
「え、端剥の廃病院、ですか?」
廃病院……? ん、一応、建物だし、市内の心霊スポットってことだよな。まだ行ったことは……無かったはずだ。念のために行っておいたほうが良い……かな? うーん、でもなぁ。梨々花ちゃんには会いたくないし。
「……紫ちゃん、ぼくさ、バイトは結構実入りが良いんだよね」
「はあ。突然なんの話ですか」
「だからさ、紫ちゃんがもしその肝試しについてきてくれるんだったら、頼れる後輩のためになんでも買ってあげたくなっちゃうかもしれないなって」
「……なるほど,そう来ますか。そう来てしまいますか。坂上先輩も汚い大人になったものですね。金で年下の女子を懐柔しようなどと、汚れた大人の発想です。でもそういうの大好きなのでついていっちゃいます」
入学してから二回も引っ越しを経験した貧乏学生は、金の力に簡単に籠絡した。
ちなみにこの後、ぼくはかなり手痛い出費を強いられた。
■ 2
なぜこうなったのかは分からないが、「わたし、祈先輩と行きますね!」という紫ちゃんの宣言により、ぼくは梨々花ちゃんと廃病院を歩いていた。梨々花ちゃんの腕がぼくの腕に抱きついている。距離が近くて落ち着かない。しかし露骨に邪険に扱う勇気もなく、頑張って我慢していた。
ていうか紫ちゃん、普通に裏切りやがった。いろいろ買ってあげたのに。契約不履行だろこれ。
「えへへー、坂上先輩、こんなところに二人きりなのに全然動じないんですね。かっこいいです」
「ああ、うん。その、慣れてるから」
「なんだか装備も本格的だし」
「これは彩智に借りたんだよ。多分、部長から今日の話を聞いたんじゃないかな。それで、ブーツとライトと、他にもいろいろ貸してくれたんだよ」
貸してくれたというか、押し付けられたというか。
「……はあ、一歳先輩ってなんか重い女なんですね」
「え? いや、彩智の体重は軽いと思うけど」
「なんで知ってるんですか?」
「一度抱きかかえたことがあるからだよ」
「……変態」
「いや、不可抗力だからね。あの時はそれどころじゃなかったんだ」
くそ、なぜこんな弁明をしなければならない。少し不機嫌になった梨々花ちゃんだったが、腕を放してはくれなかった。
時刻は夜。少し前までは真っ赤な夕日が差し込んでいたが、今は既に暗くなっている。廃病院には当然だけれど明かりがない。彩智に借りたライトだけが光源だ。かなり光が強く頑丈なライトみたいで、明るさが不足するということはない。
足元が不安定な場所は今のところなかった。瓦礫が散らばっている箇所はあったが、建物が老朽化しているわけでもなく、なんというか、風雨に晒されただけの建物、という印象だ。虫がいたり、土埃がひどかったり、植物が入り込んでいたりするが、床が崩れていたり、天井が抜けていたり、壁が壊れていたり、といったことはない。
エントランス部分の床には数人掛けの椅子が設置されていた痕跡があったけれど、肝心の椅子はどこにも見当たらなかったので、放棄される時にまとめて撤去したのだろう。ただし、病室にはフレームの歪んだパイプベッドが残っている部屋も少なくなかった。なぜ回収されなかったのだろうか。マットレスが残っているものもあった。
なんというか、紫ちゃんがどこかから仕入れた「かなりヤバイ心霊スポット」という前情報に反して、案外こんなものかという感じだ。
「なんか、怖いですね」
「そりゃ、心霊スポットだからね。ちなみに、どういう風に怖いの?」
「お化けが出そうじゃないですか。坂上先輩は怖くないんですか?」
「ぼくはそんなに。全く怖くないわけじゃないけど、やっぱり慣れてるしね」
脅かしておいたら二度と誘ってこなくなるだろうか。行ったことのない心霊スポットにはなるべく行くようにしているが、梨々花ちゃんはいないほうが都合がいい。彼女の相手をしたいわけじゃないのである。彩智だったら、わりとどこを調べるにも付き合ってくれるし、いろいろと思ったことも言ってくれるから、助かるんだけど。
「そういえば、坂上先輩って、オカルト研究会で肝試しにもたまに参加するんですね?」
「うん、そうだね。よく
「そうなんですよー。どんな人なんですか? かわいいですか? 美人さんですか?」
「瑞鳥は美人っていうタイプかな? 奇人だから表立ってモテるって感じはないけど、隠れファンは多いみたいだよ。たまに知らない男子からいろいろ聞かれる」
「へえ……。坂上先輩の周りには、可愛い人とか、美人な人とか、多いんですね。ちなみにわたしは可愛いですか?」
「自分で聞く人は初めてだな……。まあ紫ちゃんにも言ったけど、梨々花ちゃんは可愛いと思うよ。恋人にって言われると困るけど」
「……なんか複雑」
梨々花ちゃんは溜め息をついた。
ぼくたちは廃病院を進んでいく。埃の積もった階段を慎重に登る。階段にはガラスが散らばっていて、梨々花ちゃんは恐るべきことにサンダルで来ていたので、ぼくは仕方なく靴でそれらを払ってから進んだ。ざりざりと、ガラスと埃の擦れる音がする。
二階の廊下は一階よりも酷い荒れようで、ガラスはことごとく破られていて、ここから先に進むのはためらわれた。どうしようかと少し悩んでいると、突き当たりを曲がった先の通路に光が見えた。おそらく、紫ちゃんと祈先輩のペアだろう。部長は地下の霊安室を調べると言っていたので、こんなところにはいないはずだ。
つーか、肝試しって設定なのに全員バラバラに探索してるのはなんでだろうな。いつものことなんだけどさ。
紫ちゃんと祈先輩は病室に出たり入ったりしてるので、ここで待っていればそのうち合流できるかもしれない。おそらくあちらにも、ぼくの持っているライトの光が見えるはずだ。下手に歩くのはやめて、待っていよう。
■ 3
階段の前で壁に背を預けて、ぼくと梨々花ちゃんは暇をつぶすことにした。多分、数十分もすれば紫ちゃん達と合流できるだろう。あちらはスニーカーだったので、ガラスが散らばってても関係なく歩いてくるはずだ。
「ねえ坂上先輩、わたしと付き合ってくださいよ。坂上先輩、かっこいいし、知的な感じが凄く好きです」
ああ、もう。鬱陶しいな。ぼくは気づかれないように溜息をついた。
「あのさ、ぼくは梨々花ちゃんが思ってるような人間じゃないよ」
「どういうことですか?」
「恋愛っての、よくわかんないんだよ」
「あはは、可愛いですね。わたしが教えてあげちゃっても良いんですよ?」
得意げに胸を張る梨々花ちゃん。可愛らしい仕草なのだけど、軽くめまいがした。
「そうじゃなくてさ。だから、つまり、ええっと」
なんでこんなことを話してるんだろう。言葉が通じてないからだ。異星人と話している気分になる。
「難しくしか説明できないんだけど」
頭の中を整理しながら、ぼくはそう断った。
「梨々花ちゃんは恋愛対象にぼくを選んだんだよね。それは、恋愛が楽しいものだとか恋愛そのものへの興味とか、そういう動機みたいなものがあるから、自然と、この人を恋愛対象にしようって感じるんだと思うんだけど。ぼくには他人と仲良くなりたいとか、恋愛したいとか友情を育みたいとか家族になりたいとか、そういう気持ちがないんだよ」
梨々花ちゃんはぼくの言葉に少し驚いたみたいで、目を見開いて、それから悩むような仕草をした。……ちゃんと話を聞こうとしてくれる辺り、悪い子じゃないんだよなぁ。
「……じゃあ、坂上先輩は、他人が嫌いってことですか?」
「そうじゃないよ。ぼくだって好きな人はたくさんいる。梨々花ちゃんのことだって、今のところ嫌いってわけじゃない。好きって言えるほどでもないけど、邪険にしたいとは思ってない」
いや、本当は邪険にしたいんだけど、恋愛を求められなければぼくだって普通に接することができるんだ。恋愛というか、特別な関係を求められなければ。
「みんなさ、成り行きなんだよ。彩智も、紫ちゃんも、部長も、ぼくはみんな好きだけど、成り行きなんだ。だからぼくはみんなに会えなくても平気だし、みんなだってぼくに会えなくても平気なんだ。それ以上の関係は、不都合が多すぎる。ぼくにはそういった関係を築くことができない。ややこしくて、複雑で、負担なんだ」
「……じゃあ、たとえば一歳先輩が恋人になって欲しいって言ったら、どうするんですか?」
彩智はそんなこと言わないけどね。
「紫ちゃんでも良いですけど。あとはその、瑞鳥先輩とか? それでも坂上先輩は、特別な関係なんて理解できないって、拒絶するんですか? だとしたらズルいですよね。坂上先輩の価値観だけが優先されるってことですよね。それは、人間関係を盾にした脅迫じゃないです? えっと、だから、ぼくと友達でいたいなら踏み込むな、っていう」
「その通りだよ」
ぼくは断言した。
「人と人はさ、お互いが負担に感じない関係じゃないと続かないよ。どんな関係でも。だから、ぼくも相手も、負担に感じない関係を探っていくことしかできないと思う。もしぼくと特別な関係になりたい人がいて、それは恋人でも無二の親友でも家族でもいいんだけど、ええとつまり、ぼくに選ばれたい人がいて、ぼくに選ばれないことを負担に感じるのなら、ぼくから離れていくしかないかもしれない。ぼくにはそれを止めることはできないし、止めたいとも思わない」
「……そうですか。ひどい人ですね、坂上先輩は」
「そうかもね」
「……じゃあ、友達ならどうですか。普通のお友達なら、なれますよね? 紫ちゃんと坂上先輩みたいな関係になら」
梨々花ちゃんが小首を傾げて、ぼくを見上げた。きっぱりと拒絶させてはくれないらしい。けど、梨々花ちゃんなりに妥協点を提案しているんだし、それくらいなら応じても良いんじゃないか? と思える。すこし考えて、ぼくは頷いた。
「ぼくが負担に感じない程度なら、良いよ」
「うふふ、じゃあ、お友達からはじめましょう」
ふらふらと懐中電灯の光が近づいてきた。そろそろ紫ちゃんたちと合流できるかなと思って、ぼくは廊下に出ようとする。もうすぐそこに来ているみたいだった。
ポケットの中のスマートフォンが震えた。なんだろうと思って、画面を確認する。紫ちゃんからのメッセージだった。
――坂上先輩、梨々花ちゃん、どこにいます? わたしたち、変なもの見つけちゃって、エントランスに戻ってますよ。
■ 4
とっさに梨々花ちゃんの口をふさいで、前に出ないよう壁に無理やり押し付ける。息を殺して、耳を澄ます。
違和感に気づく。
二階の廊下にはガラスが散らばっていた。歩けば必ず、ガラスを踏みしめる音がする。懐中電灯の主は、ガラスを踏んでいるはずだ。けどそんな音は全くしない。単に距離があって聞こえないだけかもしれない。けど、本当にそうか? ガラスを踏んだ音だけじゃない。全く足音がしない。コンクリートがむき出しになってしまっている床だぞ、ここは。
角から身を乗り出せば、すぐに廊下を見ることができる。確認すべきだろうか? もし一緒にいるのが瑞鳥だったら、確認していたと思う。彩智でもそうだ。けど、今一緒にいるのは梨々花ちゃんだ。
梨々花ちゃんの口を抑えている手に、何かが触れた。見ると、梨々花ちゃんが手を外せとジェスチャーしていた。手にはスマートフォンが握られていて、彼女も紫ちゃんのメッセージを確認したらしい。ぼくは梨々花ちゃんを解放する。
「ぷは。びっくりしますよ、先輩。他にも肝試しに来てた人がいたんですかね?」
「……仮にそうだとしたら、話し声が聞こえないのは不自然だよ」
声を潜めてそう答えた。梨々花ちゃんの表情が曇る。
「ひとりで来てるとか?」
「足音も聞こえないんだ。距離があるだけかもしれないけど……。えっと、紫ちゃんに、やばいかもしれないから、何かあったと思ったら瑞鳥に連絡してほしいって、メッセージを送ってくれないかな」
「は、はい」
梨々花ちゃんはスマートフォンをいじり始める。ぼくはその間、光の動きを観察した。懐中電灯の光は、しばらく廊下の先を照らしたと思うと、ふらりと消えて、またしばらくすると、ふらりと現れる。どうやら病室を一つ一つ調べているみたいだ。あちらの持っている懐中電灯は、そんなに光が強いタイプのものではない。ぼくは手に持っていた懐中電灯を光を消した。
「せ、先輩? あの、逃げないんですか? お化けですよね、つまり」
「そうかもしれない。けど、本物ならちゃんと確認しなくちゃいけないんだ」
「い、いやですよ。また来たらいいじゃないですか。怖いです」
「ごめん、静かにしてて」
ぼくは再び梨々花ちゃんの口を塞いだ。彼女が震えているのがわかった。誰かが足音を殺して病室を調べて回っている可能性もゼロではないし、そう考える方が現実的だけれど、直感的に、そうじゃないと感じる。
ふらりと、光が揺れている。手元で安定していないみたいに。そして、ぼくたちのすぐとなりに、それは現れた。――いや、より正確に表現するなら、現れなかった。
懐中電灯の指向性を持った光だけが空に浮かんでいた。ふらふらと浮かんだそれは、くるりとぼくたちの方を向く。いや、正確には、ぼくたちいる階段スペースの方を、だ。そして三階に続く階段に向かって、ゆっくりと前進を始めた。
ガチガチと梨々花ちゃんが震える。
これは、なんだ? 何をしている? 光だけの幽霊? そんなもの、聞いたことがない。他になにかわかることはないだろうかと思い、ぼくはそれを観察する。しかし、全く姿は見えない。というか、霊感の全くないぼくにも妙な光が見えるというだけで、既に異常過ぎる。足元のガラスは全く動かない。透明人間なんてこともないみたいだ。
カタン、と音がした。梨々花ちゃんの足元からだ。手に持っていたスマートフォンを落としたのかと思って、確認しようとした瞬間だった。
ぐるり
浮かんでいた光が僕達を照らした。眩しい。けれど、目を細めることもできなかった。心臓が掴まれたように萎縮する。体が硬直して、筋肉が緊張するのが分かった。思わず唾を飲みそうになって、意識的にやめる。梨々花ちゃんの呼吸が荒くなるのが分かった。
一秒。
二秒。
三秒。
時間が経過しても、光はピタリと止まったまま、ぼくたちを照らしている。ぼくたちを観察しているのか、それともぼくたちが見えていないのか、全くわからない。逃げたほうがいいのか、気配を殺していたほうがいいのか、わからない。
どれくらいそうしていただろうか。やがて光はゆっくりと向きを変え、再び階段の方を向いた。ぼくはようやく安堵する。緊張が緩んだ。
ジャリ、と足音が聞こえた。
隣を見ると、梨々花ちゃんは体に力が入らなくなっていて、ぼくにもたれかかってきたみたいだ。その時、足元の砂利を蹴ったのだろう。
――ガン
空気の流れる気配がした。壁がものすごい力で叩かれた。光が目の前にいた。さっきよりも距離が近い。壁に亀裂が入っている。その位置は、ほんの一瞬前まで梨々花ちゃんがいた場所を、掠めていた。
ヤバイ。
とっさにそう思って梨々花ちゃんを引き寄せる。
――ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン、ガン
何度も何度も壁に何かが叩きつけられて、どんどんコンクリートにヒビが入っていく。けどなにも見えない。攻撃的な意思だけがビリビリと伝わってくる。意味がわからない。これは絶対に違う。ぼくは確信した。何がしたいんだ。梨々花ちゃんを離さないように抱きしめたまま、必死に気配を殺す。
数秒すると音が止んだ。再び静寂が場を包む。光はじーっと、亀裂の入った場所を照らしている。
ちっ、と小さな舌打ちが聞こえた。強い苛立ちが含まれていた。光は再びゆっくりと三階を向いて、ゆっくりと登っていった。光が三階に登り、三階の廊下を照らして、病室に入るのを窓越しに見届けてから、ぼくはようやく梨々花ちゃんを解放した。
「もう大丈夫だよ」
「ざ、ざががみぜんばいいぃぃ」
ポロポロと涙を流しながら、梨々花ちゃんはぼくにしがみついて離れようとはしなかった。下手したら死んでいたかもしれないし、よほど怖かったのだろう。ぼくも怖かった。
できれば梨々花ちゃんが泣き止むまで待ちたかったけれど、ここにゆっくりしているわけにも行かない。梨々花ちゃんをなだめながら、ぼくたちはなんとかエントランスに戻った。
■ 5
エントランスに戻って部長に見たことを説明すると、すぐに「ここはヤバイ」という結論に至った。紫ちゃんと祈先輩は、一階で血まみれの壁を見つけたらしい。そこには衣服の切れ端のようなものがこびりついていて、壁が何度も大きなハンマーで叩きつけたみたいになっていたとか。その時点で引き返していたから、ぼくたちと合流せずにエントランスに戻っていたとのことだった。
いやいや、すぐに教えろよ。ぼくはそう思った。けど、その時点では「なにかここで殺人事件があったのかもしれない」程度の認識だったらしい。
部長の判断で(当たり前だけど)肝試しは中断し、すぐに帰ることになる。廃病院を出て、部長の車に乗り込んだ。
その瞬間、強烈な気配というか、視線のようなものを感じて思わず振り返った。廃病院の三階の病室に、人影が見えた。真っ暗で何も見えないはずなのに、白い影が見えた。遠くて視線もわからないはずなのに、こちらを見ているのがわかった。
■ 6
「でですねー、梨々花ちゃん、ちょっとトラウマみたいで、オカ研にこなくなっちゃったんですよ」
「まあ、そりゃそうだ」
紫ちゃんに呼び出されて適当なカフェでお茶しつつ、そんな報告を受けた。あの後、改めて下調べをした部長と祈先輩、それに瑞鳥が廃病院に乗り込んで、いろいろと処置を施したらしい。なにをしたのか詳しくは聞かなかったけど、あの三人がもう大丈夫と太鼓判を押したので、大丈夫なのだろう。実際、ぼくにはあれから変なことは起こっていない。梨々花ちゃんの方も大丈夫だろうかと思って、紫ちゃんから話を聞いているわけだ。
「坂上先輩がすぐに帰ってればあんな怖い思いはしなかったのに、って恨み節でしたよ。五年ぶりにガチ泣きしたとか、あの体験よりも、あんな目にあっても平然としている坂上先輩の方がよっぽど怖いとか」
「ぼくも平気じゃなかったけどね。めっちゃ怖かったし。梨々花ちゃんと違って直接狙われなかったからマシだっただけだよ。あと経験の差じゃないかな」
「わたしもそう思ったので、そう言っておきましたけど。あ、でもメゲてないみたいで、復活したら坂上先輩をデートに誘うと言ってました。今度は心霊スポットは絶対イヤだとも言ってましたけど」
「うーん、あまり行きたくないな……。というか、メゲてほしい。実際、ぼくにつきまとってると危ない目に遭うかもしれないし」
「……それって今更というか、わたしたちは大丈夫なのかなとか、いろいろ言いたいことがありますね」
紫ちゃんは不服そうにアイスティーを飲む。
「まあ、良いんですけどね。恋愛対象外ですが、わたしも坂上先輩のことは好きですから。もし一緒にいる時にお化けが出たら、一緒に怖がってあげますよ」
くるりと表情を変えて上機嫌になる紫ちゃん。もしかして、梨々花ちゃんから何か聞いたのだろうか。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ぼくはアイスコーヒーをズルズルと飲み干した。
梨々花ちゃんにはああ言ったけど、いつかぼくも誰かに恋愛感情を抱くのかもしれない。けど順序がある。だから少なくとも、今はそんなことは、できないのだろう。
「ていうか紫ちゃん、梨々花ちゃんに買収されたでしょ」
「……金こそ力ですよ、先輩」
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