008 継承性ナイトメア

■ 1


 四月の中頃のことだ。僕は礼華女学院の新任教師として、そこそこ生徒に慕われ始めていた。自分で言うのもなんだが、顔は比較的整っているし、若い男だというのも彼女たちの好奇心を刺激したのだろう。放棄されていた飼育小屋を手入れして兎を飼いはじめたというのも、会話のきっかけになっている。

 僕も男なので、若い女の子に囲まれているといろいろと溜まってくる。しかしこの欲求を発散する機会は月に一度しかない。慎重にやらなければならない。慎重にやらなければならないのだが、今日はどうしても心がざわついてしまう。こんな日は爪を切るに限る。愛用の爪切りと、愛用の爪やすりがある。授業のない時間にひっそりと職員室を抜けだして、僕は校舎裏の誰もいないスペースにたどり着いた。ここならあまり人に見られることもないだろう。いや、爪を切るだけなので、見られても構わないのだ。ただ、わざわざ学校で爪を切っているというのは少し変に見えてしまうかもしれない。それはあまり良いことではない。僕はただ誰にも邪魔されず爪を切りたいのであって、変な男だと思われたいのではない。さらには、できるかぎり平凡で無害な男だと思われたいのだ。それは十分な利益がある。僕は深呼吸をする。まだ昼前だ。清涼な空気が肺を満たす。桜が散ってしまっているのが残念だ。すこしずつ爪を切る。丁寧に爪を切る。細切れにして僕の肉体からこぼれ落ちた爪は、コピー用紙を折りたたんで作った箱に落ちていく。爪を切り終えると、愛用の爪やすりを取り出して、仕上げをする。この儀式を終えると、僕の心にあったざわつきは収まる。たっぷり一時間はかけて爪を切り、ようやく僕はひとごこちついた。

 はあ、これでようやく心を落ち着けることができる。そもそもどうして僕はこんなにざわついていたんだっけか。そう考えて、今朝方、駅で出会った女の子を思い出す。その子は明るく染めた髪の持ち主で、凛とした顔立ちが印象的な子だった。細身だが小柄ではなく、痩せているわけでもない。無駄なものがない肉体、とでも言えばいいのだろうか。そんな女の子だった。年はおそらく、二十歳くらいだろう。女子高生とは違う独特の顔つきだったからすぐにわかった。彼女は僕を見て、それから近づいてきた。目と鼻の先まで顔を寄せて、じいっと僕の目を覗き込んだかと思うと、視線を僕の背後に反らせた。それからまたしばらくぼうっとして、突然興味をなくしたように離れていった。僕はその間、目の前にいた彼女の香りを嗅ぎ続けたので、すっかり心がざわついてしまった。一限目はざわついた心のままで授業をしなければならず、生徒たちに不審がられたかもしれない。あの子にもう一度会いたいという気持ちがないわけではないが、もう二度と会えないのではないかという漠然とした予感があった。予感はともかく、僕はその女の子に遭遇したために、こうしてざわつきを抑えることができなくなり、校舎裏で爪を切ることになっているのだ。

 僕は爪が入っているコピー用紙の箱を丁寧にたたんで、それから職員室に戻った。腕時計で時間を確認すると、次の授業まではもう少し暇がある。爪を切っている間に終わらせる予定だった仕事を済ませてしまわなければならない。

「あら、どちらにいらしてたんですか?」

 そう思っていると、ちょうど職員室前で葉風先生に呼び止められた。葉風先生は図書教諭で、職員室に出入りすることは少ないはずだったが、なにか用事でもあったのだろうか。僕は少し困ったようなしぐさをする。

「いえ、ちょっと校内の散歩をしてたんです。まだいろいろ慣れてないから、寝不足気味で、眠気覚ましにと思って。情けないですね」

「それは良くないですね。教師に覇気がないと、生徒たちもだらけてしまう、なんて教頭先生に言われてしまいますよ。昨晩は何か?」

「近所の野良猫がうるさいんですよ。困ったもんで、保健所に電話したらなんとかなるんでしょうか?」

 そう尋ねてみると、葉風先生は曖昧に微笑んだ。彼女はグラマラスな美人で、あまり僕の趣味ではない。ただ男性教諭の間ではワリと人気がある。ミステリアスな雰囲気が魅力的なのだそうだ。

 葉風先生は図書館に向かうようだったのでそこで別れて、僕は職員室に入った。


■ 2


 五月も中頃になった。僕は一年生と二年生を教えている。二年一組の萩間さんが、最近のお気に入りだ。芯の通った印象を与える女の子で、成績も優秀。まるで武装のように制服を着こなしている。部活動は弓道部で、誕生日は十月二十六日、血液型はA型、身長一六七センチ、体重四八キロ、父親の職業は地方銀行の支店長、母親は専業主婦。家庭は裕福で中学からこの学園に通っている。親しい友人は少ないようだが、誰とでもちゃんと話をすることができる。そんな彼女の最近の悩みは僕だ。

 ちょうど一週間前、僕は彼女に愛を告白した。そう、僕は一ヶ月ほど前から彼女のことが愛しくてたまらないんだ。ああ、失礼。正確には、二十六日前からだ。ちょうど二十六日前から、彼女のことが愛しくてたまらない。二十六日分の愛だ。告白した時はまだ十九日分の愛だったのだけど、告白してから一週間経って、愛は深まるばかりだ。心がざわついてしまう。こういう日は爪を切るのがいいのだけれど、あいにく数日前に切ってしまったので、切る爪がない。幼い頃は、無理やり剥がして切っていたことを思い出す。まだ母親がいた頃の話だ。

 授業中、萩間さんに視線を送る。何気なくだ。教室を見回す時に、一瞬だけ、そこで視線を止めるのである。見られている本人にはわかるが、そうでなければわからない程度の時間。さっ、と彼女は視線をそらした。精悍な横顔が、曖昧に緩んでいる。まだ混乱しているみたいだった。

 僕は萩間さんのことを考えながら、授業をすすめる。こうして恋い焦がれている間は、本当に辛い。萩間さんが僕を受け入れてくれるとしても、そうでないとしても、どちらにしろ結果が出るということは、それ以上は恋に苦しむ必要が無いということだ。

 恋。僕はこれまで、何度も恋に落ちた。そして、いつでも一番鮮烈な恋は、今の恋だ。今に勝る鮮烈さなど、過去にはない。最も味わい深いものは、今だ。

 刹那の情熱は永遠の愛と変わらないを持つことができる。僕は、刹那のを高めるために、じっくりと愛を煮詰めている。どろりと赤い、飴のようになるまで、じっくりと煮詰める。

 明日が楽しみだ。

 授業を終えた僕は、職員室に戻る。途中で一年生の生徒とすれ違った。

「あ、先生。わからないことがあるので、あとで職員室行ってもいいですか?」

「ああ、かまわないよ。だけど、最低限教科書くらいはちゃんと読んでから来てね。学校の勉強は、勉強の勉強だからね」

「はーい、頑張りまーす」

 わかったんだかわかってないんだか……。放課後に職員室に来るのなら、二年二組の小テストの採点は、六限目の間に終わらせておかないといけないな。生徒に頼られると、先生として頑張ろうという気持ちになるものだ。


■ 3


 七月の終わり。既に学園は夏休みになっているが、佐古田さんはまだ寮にいる。僕が引き止めたのだ。八月になる前に答えを聞かせてほしいって、そう言って。そして、今日がその日だ。僕は逸る気持ちを抑えて、待ち合わせ場所の飼育小屋前に向かっていた。

 佐古田さんに会うのが楽しみだ。

 佐古田さんは成長期の少女独特の魅力がある。少しだけ着崩した制服は、彼女が自分の魅力に自覚的であることを教えてくれる。緊張すると目線を斜めしたに逸らす仕草が可愛らしい。普段は精悍な印象を与える少女なのに、ふとした瞬間に見せる隙が、彼女を神秘的にしている。

 早く佐古田さんに会いたい。会いたくてたまらない。彼女の神秘を穢したい。校舎の角を曲がり、飼育小屋の前に到着する。

 そこに立っていたのは、見知らぬ女の子だった。

 ……いや、違う。思い出した。四月に会った女の子だ。四月に、駅で僕をじっと見た女の子だ。

 彼女はゆるく微笑んで、僕に手を降った。

 どうして彼女がここにいる? 学園は関係者以外立入禁止だ。

「君、誰だい? ゲストカードは持ってるの?」

「ごめんね、お目当ての女の子じゃなくて。わたしで我慢してほしいな」

 我慢? 我慢だって! そんなことできるはずがない。今日は佐古田さんの日だ。佐古田さんをぐちゃぐちゃに壊す日だ! そのために愛用のニッパーだって持ってきたんだ。丁寧に爪を切ってあげるつもりだったんだ! それなのに、この女は!

「爪を切った後はどうするの?」

「決まってるだろう、その後は指だ。一本ずつ順番に切っていくんだ。切る度に丁寧に止血する。そしてまた次を切る。手の指が終わったら、今度は足の指だ。指がなくなったら、次は背中の皮膚を剥がす。お腹と開いて内蔵の色を確かめるんだ。そしたら、佐古田さんの内蔵の色を初めて知ったのは僕になる。そして――」

「あー、もういいオッケーわかったから。もうそれ以上は聞きたくない。不愉快だからやめてほしいな」

 自分から聞いておいてなんて言い草だ。僕は憤慨する。そういえばさっき、この子はわたしで我慢してほしいなんて言ってたっけか。僕は彼女の体を見る。悪くない。それに、強気な女の子が屈服する姿は、とても良いものだ。愛することはできなくても、心のざわつきを抑えることくらいはできそうだ。

 そう思って、僕が女の子に近づこうとした瞬間だった。


 僕は転んだ。


 前のめりになった。足がもつれたような感じがして、見てみると、足がなかった。右足が根本からなくなっていた。遅れて激痛が走る。

「が、があぁぁぁぁぁあ! ない! なんで!? なんでないの!? 僕のあし! あしが、あしがない! どうして!?」

 痛い痛い痛い痛い! あああ、ああああああ! なんで? なにが起こった!? 足がなくなるなんて、普通じゃない! ありえない! 女の子は全く動いていない! どうして! なにをした!?

 けれど、僕の混乱はすべて無視される。

「うるさいでーす。じゃ、さよならだね」

「――――。」

 女の子が僕を指差す。すると、上空から、なにか黒いものが覆いかぶさって、それで、僕の意識は消えた。黒いものに塗りつぶされて、消えた。


■ 4


 僕は目を醒ます。

 悪夢を見た。女の子が現れて、僕を殺す夢だ。その夢の中で、僕はひどい殺人鬼で、赴任先の生徒に拷問まがいのことをしては、兎に残骸を食べさせていた。殺してはいないので、殺人鬼ではなかったのだろうか。夢の中の僕は、そうして生徒の体をバラバラに切り刻む時、すごく興奮していた。ああいうのを、心がざわつくって言うんだろう。退屈だった日常に色が戻ったような心地だ。

 けど、最後に現れた女の子はなんだったのだろうか。僕を殺した女の子。あんな、殺意も敵意も感じられない、まるでちょっとコンビニに出かけるかのような気軽さで人を殺せるものなのだるか。……いや、夢の中の出来事に整合性を求めるほうがどうかしてるか。

 僕はベッドから起き上がって、シャワーを浴びた。寝汗が酷い。頭を洗っていると、ふと爪が伸びていることに気づいた。シャワーを終えてバスルームを出る。体を拭いて服を着ると、ソファに座った。爪切りを手に取る。

 すこしずつ爪を切る。丁寧に爪を切る。細切れにして僕の肉体からこぼれ落ちた爪は、コピー用紙を折りたたんで作った箱に落ちていく。しかし、今ひとつしっくりこない。夢の中で使った爪切りは、もっと良かった。この部屋には爪やすりもなく、少しささくれだった感触を爪に残したまま、僕は溜息をついた。やはり愛用の爪切りでなければならないのだろう。心のざわつきは少しだけしか収まらなかった。

 僕は四月から兎の世話をしている。学校の飼育小屋を借りて、何匹かの兎を実家から預かったのだ。夢の中の僕は、いろいろな女性を分解して、兎に食べさせていた。毎月一人づつ。十歳の頃からの日課なので、もう百五十人近いのか。夢に現れた彼女たちは、皆一様に美しく、愛しかった。現実で出会っているなら、僕は彼女たちに恋せずにはいられないだろう。……いや、待てよ。僕はふと思い至る。夢に出た女性に、僕はこれまで何度も会ったことがある。佐古田さんだって、学園の生徒だ。全員ではないが……数十人は、現実に会ったことのある女性だ。間違いない。

 これはどういうことだろう? 僕は空寒いものを感じた。夢は夢だ。朝のコーヒーを飲んで、僕は自宅を出る。駅までは歩き、二駅ほど移動して、そこからは徒歩だ。

 駅のホームで電車を待つ。悪夢のせいで少し早起きだったためか、いつもより人が少なく感じる。時刻を見ると、たしかに一本速い電車に乗ることができそうだ。自宅の最寄り駅は快速電車が止まらない。なので、快速電車を一つ見送って、次の電車に乗ることになる。ホームにアナウンスが流れて、快速電車がやってきた。銀色の列車が速度を保ったまま近づいてくる。僕は点字ブロックの上に立っていた。


 ――――。


 背中を押された。バランスを崩す。体を無理やりひねって、なんとか戻ろうとするが、無理だ。背後にはあの女の子が立っている。夢の中で僕を殺した女の子だ。ニッコリと微笑んで手を振っている。バイバイ、バイバイって。僕を押したのは彼女? けどおかしいな。僕が立っていた場所からずっと離れた場所に立っている。そんなとこからじゃ手は届かない。電車が近づいてくる。肩が砕けて顔が砕けて肋骨が砕けて腰が砕けて脚が砕けて首が折れて心臓が破裂し血がバラバラ僕がバラバラ心はザワザワどうして僕はバラバラが好き佐古田さんを壊したかったのに


■ 5


 僕は目を醒ます。

 悪夢を見た。女の子が現れて、僕を殺す夢だ。その夢の中で、僕はひどい殺人鬼で、赴任先の生徒に拷問まがいのことをしては、兎に残骸を食べさせていた。殺してはいないので、殺人鬼ではなかったのだろうか。夢の中の僕は、そうして生徒の体をバラバラに切り刻む時、すごく興奮していた。ああいうのを、心がざわつくって言うんだろう。退屈だった日常に色が戻ったような心地だ。

 あれ? 違うな。殺人鬼のような僕の夢は、夢の中の僕の夢だったはずだ。それなのにどうしてこんなに鮮明に覚えているのだろう? 夢の中の夢? どこまでが夢で? あれ? 今も夢なのか?

 ……深く考えるのはよそう。とにかく、僕は学校に向かって、佐古田さんを壊して、兎に食べさせなければならない。今日は僕が朝の餌やりだったはずだ。僕が言い出した事なのに、五和先生にやってもらったりしたら目も当てられない。葉風先生にも何を言われるやら……。僕は急いでシャワーを浴びて身支度をする。爪が伸びているのに気づいてどうしても切りたい衝動に駆られたが、我慢して駅に向かった。

 駅の改札に向かう途中、悲鳴が聞こえた。次の瞬間、僕は頭部に重い衝撃を受けた。体から力が抜ける。

「看板が落ちたぞ!」「人が下敷きになってる!」

 叫び声と悲鳴、それからシャッター音が聞こえる。頭が冷たくなる。眠たい。また夢を見るのだろうか。薄れる意識。視界の隅に、僕を見てバイバイと手をふっている、あの女の子の姿が見えた。

 そういえば、あの女の子に最初に会ったのも駅でだったっけ。あれは夢の中のことだったかな。


■ 6


 僕は目を醒ます。

 悪夢を見た。女の子が現れて、僕を殺す夢だ。その夢の中で、僕はひどい殺人鬼で、赴任先の生徒に拷問まがいのことをしては、兎に残骸を食べさせていた。殺してはいないので、殺人鬼ではなかったのだろうか。夢の中の僕は、そうして生徒の体をバラバラに切り刻む時、すごく興奮していた。ああいうのを、心がざわつくって言うんだろう。退屈だった日常に色が戻ったような心地だ。

 あれ? けど女の子が僕を殺したのは夢の中の夢の話で、ああ、それと夢の中の夢の中の夢の話でもあるけれど、夢の中では事故だったのだっけ。女の子に殺されたのではないんだろうか。けど、夢の中の夢でも、夢の中の夢の中の夢でも、駅で看板が落下するなんて事故は起こらなかったわけだし。どうして? ああ、違う。夢は夢で現実は現実だ。


 ピンポーン


 ……誰だろう、こんな朝早くに? 僕はなんとなく嫌な予感がして、けれど無視するわけにもいかず、ゆっくりとした足取りでモニター付きのインターフォンに向かった。モニターに写ったのは、あの女の子だ。その姿を確認した途端、僕は息が詰まりそうになった。夢で、夢の中の夢で、夢の中の夢の中の夢で、僕はこの女の子に殺されている。どうしてここに? 僕は彼女に会ったことは無いはず……いや、違う。四月だ。四月に駅で、彼女に会っている。もう八月になる頃だ。なんで彼女が僕に会いに来る? 駅で会った時だって、会話らしい会話もしていないのに。

 彼女は何者なんだ。

『こんにちはー、いる? タチバナセンセー。礼華女学院の新任教師、たちばなかおるセンセー。いないなら殺しますし、いるなら殺しますよ』

「ちょっとまってくれ!」

 僕は思わずインターフォン越しに怒鳴った。

「なんで殺されなきゃならないんだ!? 君は一体何者なんだ! どうして僕の家を知っている!」

『えーっと、タチバナセンセーが殺されなきゃいけないのは、害だからだよ。あ、この世界のタチバナセンセーが悪いんじゃないけどね。ただ、悪くなくても、害だから。タチバナセンセーは狭間兎の呪いにかかってて、前の世界の出来事を継承しちゃってるから』

 呪い? 継承? 何を言ってるんだ、この子は。けれど、兎――今、兎って言ったか。夢の中の夢の中の夢で、僕は兎に女性を食べさせていた。そうすると、女性の存在がまるっきり無かったことになるのだ。これがあるから、僕は好きな女性にどんな風にでも愛することができた。そのことと、何か関わりがあるのか? 夢の中の出来事は、夢だろう。

『タチバナセンセーが継承した狂気は、必ずこの世界で犠牲者を出すからね。もし私のお友達が犠牲者になったら最悪だから、こうして世界から退場してもらおうってこと。あ、呪いっていうのはね、狭間兎の使にかけられるペナルティのようなもので、死亡するとそのままこの世界から消滅して、別の世界の夢になるってものね。だから、ええと、狭間兎を使った精神は、永遠に継承されて、無限に死に続けるわけ。他の世界のその人を巻き込みながらね。うふふ、これから先、何度でも死ぬことができるんだよ。良かったね』

「人殺しなんて、そんなことをしたら警察に捕まるだろう!」

『頭悪いなー。だから、タチバナセンセーは、死んだら痕跡もなにもかも全部消えちゃうんだよ。最初からいなかったことになるの。綺麗さっぱり、跡形もなく、後腐れもなく。まあこの部屋が空き家になっちゃうとか、不自然な齟齬は残るかな? けど、橘薫という人物は、名前も残りません。お母様が可愛そうかな、お腹を痛めて産んだ息子がいなかったことになるなんて』

 何を言ってるんだ。何を言ってるんだ! そんな、そんなことがあるはずない。人が消滅するなんて、その生きた痕跡さえ残らないなんて、そんなバカげたことが起こるはずがない。頭ではそう思っても、僕の体は、それを信じていると言うかのように震えていた。口の中がベトベトする。思わずつばを飲む。兎に人を食べさせると、存在が消える。夢の出来事だ。僕は知っている。それは事実だ。だって、僕は学園に行ったら、まず佐古田さんをに壊して、兎に食べさせようと思っていたのだから。

「だからね、さよならですよ」

 背後から声が聞こえた。そして、僕の心臓から刃が飛び出す。なんだこれは? 包丁? けど、包丁で人間の心臓を背後から貫ける? そんなことない。無理だ。どうして? ああ、そうか。これも夢か。


■ 28


 僕は目を醒ます。

 悪夢を見た。女の子が現れて、僕を殺す夢だ。その夢の中で、僕は何度も殺されて、何度も殺されて、何度も殺された。また殺されてしまう。僕は確信している。僕は家を飛び出す。エレベーターに乗り込む。一階のボタンを押す。古いエレベーターは不自然な音を立てて、金属が擦れる音がして、落下した。あれ? あ、今回はこんな風に死ぬのか。僕はエレベーターになった。

 僕の脳が潰れた。


■ 983


 僕は目を覚ます。

 僕はベランダから飛び降りた。

 僕の脳が潰れた。


■ 2193


 僕は目を覚ます。

 僕はベランダから飛び降りた。

 僕の脳が潰れた。


■ 18432521


 僕は目を覚ます。


 女の子を殺さなければ、永遠に死に続けなければならない。僕は、女の子を殺す算段を思いつくまで、何度でも自殺する。何度でも自殺して、無限の世界を渡り歩いて、きっと女の子を殺して、自由を手に入れる。


 僕はベランダから飛び降りた。


 もう何度飛び降りただろうか。ベランダの手すりから飛び出して、地面に落下するまでの数秒が、僕が落ち着いて思考することができる時間だ。即死できる飛び降り方が分かってからは痛みで精神が乱されることもなくなった。

 女の子は最近、僕に会いにこない。二万回くらい前に、試しにと思って駅まで行くと、車に轢かれて死んだ。女の子は野次馬の中にいて、僕に手を振ってくれた。

 そろそろ自殺も飽きてきたし、女の子に殺されにいこうか。楽しみだ。


 僕の脳が潰れた。


■ 4317531293


 僕は目を覚ます。


 今回は女の子に会いに行こう。僕はフラフラと家を出る。駅に向かう。女の子がいた。僕に手を降った。

「わたし、今から大学だから、もう終わりにするね。佐古田さんのことも、他の女性のことも、もう忘れちゃったみたいだしね」

 女の子はブツブツと何かを唱える。僕はぼんやりとする。女の子はブツブツと何かを唱える。僕はぼんやりとする。ぼんやりして、ぼんやりした。


 僕は交差点の真ん中に立っていた。

 慌てて移動する。部屋着姿の僕を、何人もの人が不審そうに見た。あれ? 僕は誰かを探してここまで来たはずなのに、誰のことか思い出せない。僕は何度もその人に殺されて、その人を殺すために一生懸命考えて、なんどもベランダから飛び降りたんだ。けど、思い出せない。確かに何度も顔を見たはずなのに、思い出せない! 僕は頭を地面に打ち付ける。思い出せ! 思い出せ! 思い出せない! なんで! どうして! 僕の口から嗚咽が漏れて、目からは涙が溢れた。こんなにも愛しいのに! こんなにも恋しいのに! 殺して! 殺されたいのに! 壊して! 壊されたいのに! 僕はその人のことを忘れてしまった! 何度も頭を打ち付ける。けれど思い出せない。そして、僕の脳が潰れた。


■ 9941247819542154


 何度自殺しても、僕は思い出せない。何を思い出したいのかも、もう忘れてしまった。僕は永遠に七月にいる。

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