004 更新性ウォッチャー

■ 1


 私は大学近くにあるカフェに入った。カプチーノを注文して、テーブルに座る。よく晴れていて、店内から見る通りは明るい。生け垣の花は雨上がりの水滴で光っているし、閉じた傘を握っている女の子が歩いている。

 理沙から、相談があるので会いたいとメッセージが送られてきた。この時間のこのカフェなら混雑しないし、相談の内容がどんなものであれ、雰囲気が温かいのでリラックスできるはずだ。

 なんとなく周囲に耳を澄ましながら一息ついていると、サラリーマン(らしきスーツの男性)が店に入ってきた。少し不慣れな様子で注文をして、私の二つとなりのテーブル席に座る。薄いラップトップを開いて、なにか作業を始めた。急いでいて、慌ててパソコンを開ける場所に入った、という印象だ。

 なんとなくムッとしてしまう。ここは飲み物を楽しんだり、会話を楽しんだりする場所なのである。ああいうのは良くない。……一方的に反感を持ってしまった。お店にとっては、私もあの人も同じお客なのだろうけれど。

 サラリーマンはしばらくすると一段落したのか、ラップトップをテーブルの端によせて、飲み物に口をつけた。ホットコーヒーかな?

 それから三十分ほどで理沙がやってきた。

「やっほー、おまたせ。ごめんね突然」

「ううん、気にしないで。とりあえず何か頼みなよ」

「ありがとー。ここ、コーヒー美味しいよね」

 理沙は私の正面に座った。メニューを見て、ホットコーヒーを注文する。なぜだろう。わたしは少し落ち着かない気分になった。

「それで、相談ってどうしたの? なんで私?」

「あー、それなんだけどね。えっと、ゆかりにお願いがあって。その、ほら、紫って、経済学部でしょ?」

「? そうだけど、何。紹介して欲しい人でもいるの?」

 なんとなく直感でそう言うと、理沙は少しだけ目を見開いた。当たりだ。むにゅむにゅと緩む口元を必死に隠しながら彼女は言った。

「すごいね、なんでわかったの」

「なんとなく。恋愛中だとオーラが出ているから、みたいな?」

「なにそれ! 私、そんなの出てた!?」

「ちょっとだけね」

 化粧がキマっていたり、雰囲気がエネルギッシュだったり、細かな仕草が変わっていたりする。

「うわー、恥ずかしい」

 理沙が顔を隠してぷるぷると震えた。かわいい。

「それで、相手は誰? 経済学部の、一年生?」

「うーん、たぶん?」

「たぶん? はっきりしないね」

「えっとね、私、フランス語とってるんだけど。そこで一緒なんだよ、その人と。で、教育学部と経済学部は語学の講義室が一緒だから、同じ学部じゃないってことは、経済学部かなぁって」

「……なにそれ。同じ講義を履修してるなら、自分で話しかけたら良いじゃん」

 わたしもその人と接点がない可能性もあるし。けれど、そう指摘すると、理沙は顔を真っ赤にした。

「むりむりむり! 絶対むりだって! 声かけるとか、逆ナンみたいじゃん!」

「別に街中で声をかけるってわけじゃないんだから……。どれだけうぶなの……」

「うー、気になる人ができるとか、初めてなんだよ。いつも一緒にいる友達に相談したら、からかわれそうだしさぁ。わたし、高校までは地味だったし、恋愛とかしたことなくて。ストーカーに遭ってしばらく男の人ダメだったし」

「へえ、そうなんだ。それは……うん、災難だったね」

 理沙は美人だし、物腰も大人びている印象を受けていたので、いろいろ慣れているのかと思っていた。よく知らない相手への印象なんて、宛にならないな。本当に。つい先週も、頼りないと思っていた先輩の頼り甲斐に助けられたところである。人は見かけによらないというか。

「だからさー、お願い、あんま話したことないのにこんなこと頼むのも変だけど、協力してほしいの!」

「別に良いけど。わたしもその人のこと、知ってるかどうか分からないよ?」

「写真があるから!」

 あるのかよ。

 理沙にスマホで隠し撮りしたと思われる写真を見せてもらった。すらっとした印象の、純朴そうな人だ。文学少年って感じの。わたしはあまりタイプじゃない。

 けど、見覚えはあった。経済学部の基本講義で同じ教室の人だ。

「この人、たまにスーツで講義に出席してるよ。たぶん塾の講師かなにかをやってるんじゃないかな」

「す、スーツ……めっちゃ見てみたい」

 理沙の鼻息が荒い。いろいろ台無しだ。

 なんとなく気になって視線を向けると、隣のサラリーマンは再びラップトップと格闘していた。

「名前とか、わかる?」

 ちょっとだけ紅潮した理沙が可愛らしい。

「そこまではちょっと。経済の基本講義は出席取らないから。あー、けどコウヘイって呼ばれてるのを聞いたことがあるかも?」

「なるほど……。何か他にわかることってある?」

「いや、んー、その、あんまり知らない。というか理沙、ちょっとストーカーっぽい」

「そ、そうかな? ストーカーっぽいかな。ん、ストーカーっぽいのは良くないね。落ち着くよ。落ち着く。……うん、落ち着いた」

 仕草や言動がいちいち微笑ましい。思わずほっと息をついてしまった。

「理沙もストーカー被害にあったことがあるっていうならわかると思うけど、いつの間にか自分のことを調べられてたってあんまりいい気分にはならないよ。たぶん紹介できるから、それまで我慢しなさい」

「はーい。……紫に相談してよかったー。他に思いつかなくって」

「経済学部の友達くらい、他にもいたんじゃないの?」

「いるけど、秘密を守ってくれそうで、かつ協力してくれそうな人がいなくて」

「あはは……」

 たしかに、この大学の経済学部はお祭り好きが多い。恋愛相談をしたら楽しげに噂が広まるのは目に見えている。あまりいい気分にはならないだろう。さすがに、本人に伝わってしまうようなことはないと思うけど。

「私、ストーカー被害っていっても、具体的に何かされたわけじゃないんだよね……。気付かなかったし。気持ち悪くて、男の人が嫌いにはなったんだけど。なんでかわからないけど、私のストーカーって、自首しちゃうの」

「自首?」

「うーん、自首っていうのかな。もしかしたら違うのかも。つまり、自分で自分をストーカーだって、警察に言っちゃうの。警察が事情を聞いて、私に確認しにくるみたいな。意味わからないよね」

「たしかに。それ、本当にストーカーなの?」

「盗撮写真とかは持ってた」

「ストーカーだなぁ……」

 けれど、ストーカーが自首なんてするものかな。ストーカーって、それが犯罪だってわかっててやってる人なんていない気がするし。自分を正当化しているというか。自分がやっていることは犯罪ではない、って思ってそう。自首するようなまともな感性を持ってるなら、そもそもストーカーにならないんじゃないだろうか。

「そんなことが三回くらいあってね。三人とも、自分が悪かった、もう私には近づかないって、まるでお化けでも見たみたいに怯えてたらしいの。私は直接会ったことはないんだけど」

「なんか怖いね」

「そうかな? ストーカーから守ってくれてるのは、守護霊様かなにかだって、中学の時は思ったんだよね」

 理沙はそう言って、ホットコーヒーに口をつけた。


■ 2


 一週間が経過した。


 死んでしまった。理沙は、昨日。

 自殺だった。


 雨が降っている。と、ねばつくような雨だ。昼間は暖かかったのに、夜になると寒くなった。傘を忘れていることに気づいた。取りに戻るのが億劫で、そのまま雨の中に踏み出した。

 あまり悲しくはなかった。

 悲しいという気持ちは、要するに「それまで出来ていたことができなくなった時に感じるもの」であるらしい。死んでしまった誰かに会えなくなったとか。事故で片腕を失って絵が描けなくなったとか。だから、新しく何かができるようになることは、喜びなのだそうだ。

 お父さんが言っていた。

 理沙は友達だ。

 けど、もう二度と会えなくなることが悲しいと感じられるほどに、友人ではなかった。友人が死んでしまったというだけで心揺さぶられる人間だったなら、涙も出たのかもしれない。けれど私はそこまで情緒的ではない。

 ううん、考えるのが億劫だ。悲しくないということは傷ついていないということではないのだ。初めて気がついた。数日前からすこし気分の良くなかったわたしは、理沙の訃報で完全にまいってしまった。

 頭のなかに黒い煙が充満しているみたいな感覚だ。

 雨に濡れながら深呼吸をする。息苦しい。

 理沙は一人暮らしの自室で首を吊って自殺していた。部屋には扉にも窓にも鍵がかかっていて、合鍵は友人達が知るかぎりなかった。私も知らない。つまり、内側から施錠した上で首を吊ったということになる。最初に遺体を見つけたのは同じ学科の友達で、葉風という人だ。彼女が理沙を見つけた時はすでに死んでから二日が経過していて、腐敗が始まっていた。

 わたしと違って、理沙が住んでいたのは普通の家だ。人を自殺させる建物なんかじゃない。だから、理沙には理沙の、自殺するための踏み台があったはずだ。その踏み台の正体はなんなのだろう。

 ――わたしが考えても意味がない。それに、もう理沙は死んでしまったのだから、考えたって意味がない。気が滅入るだけだ。

「濡れるよ」

「……先輩」

 いつの間にか、坂上先輩が隣に立っていた。先月、私の住んでいた部屋の謎を解いてくれた人だ。見渡すと、わたしは公園の前にいるのだとわかった。たしか坂上先輩の家がこの近くだ。ぼんやりとしたまま歩いていたらしい。こちらには何度も足を運んだことがあるので、違和感を感じなかったのだろう。瑞鳥先輩の家もこちら方面で、私はたまに遊びにいく。

 先輩は持っている傘を傾けて、わたしが雨に濡れないようにしてくれた。無機質な瞳が細められた。

「あー、傘貸そうか?」

 坂上先輩は厭世家を気取っているようなところがあるけれど、付き合いは良い。ただ、何かに誘うととても疲れた顔をするから、普通の人は遠慮してしまう。だから遠慮のない人、例えば瑞鳥先輩なんかとはとても相性が良いんだと思う。

「先輩、そこは普通、送っていこうかって言わないと」

「いや、ぼくの家すぐそこだし、送るのはちょっと……」

「送ってください」

「……はい。ああ、じゃあちょっと待って。傘持ってて。タオル取ってくるよ」

「あ、やっぱり先輩のトコにお邪魔します」

「ええ、まじ? んー」

 先輩は目をそらして唸る。なにかまずいものでもあるんだろうか? そういえば、先輩は帰宅途中だったのかな。それとも、部屋の中からでてきた? どっちだろう。ぼんやりしていたからわからない。

「まあいいや。じゃあ、おいでよ」

 凶暴なペットがいるんじゃなかったっけ? あれ? ちがったかな。……ちょっと違った気がする。なんて言ってたっけ。

 先輩に連れられて、エレベーターで十階に昇る。傘から落ちた水滴が、エレベーターのマットに染みこんでいく。足跡がたくさん残っていた。蛍光灯の不足した明かりが目に毒だ。わたしは沈殿している。

 先輩の部屋は小奇麗にまとまっていて、ものが少なかった。哲学者の部屋みたいだ。ただ、チェストの上に座っている和服の球体関節人形が異質だ。なんかこっち見てるし。

 ……先輩の趣味かな? お人形さんが好きなのかー。ちょっとイメージと違うな。本当に、他人への印象なんて、あてにならない。

「そこに座って。はい、タオル。使っていいよ」

「ありがとうございます。けど、シャワー貸してくれるともっとうれしいです」

「君は一人暮らしの男子にどこまで要求するんだ……。わかったよ。瑞鳥を呼んどくから、使っていいよ」

 やった。

 脱衣場にさっさと入って、さっさと服を脱ぐ。まるで恋人の部屋にお邪魔しているみたいだ。ちょっとドキドキする。さっきまでの沈んでいた気分はなくなっていた。


■ 3


 シャワーを浴び終わって浴室を出る頃には、瑞鳥先輩が来ていた。着替えやその他諸々がいつの間にか用意されていたので、そうだろうとは思っていたけれど。

「やっほー。紫ちゃんやるねー。この朴念仁の家に上がり込んだ女子はきみで四人目だよ」

「思ったより多い気がしますね?」

 瑞鳥先輩、一歳ひととせ先輩と……あと誰だろう?

 坂上先輩がしかめっ面で溜息をついた。瑞鳥先輩は来客用の一人掛けソファ(みたいに見えるが、ソファと呼ぶにはすこし細っこい)に座っている。向かい合うみたいにして、坂上先輩はデスクの前の椅子に腰掛けていた。わたしはどこに座ったら良いのかな?

「こっちこっち、おいで。髪乾かしたげるよ」

「あ、はい」

 瑞鳥先輩のソファの前にクッションが用意されていた。座ると、瑞鳥先輩がドライヤーを取り出して、私の髪を乾かしてくれる。坂上先輩は私達をボーッと眺めている。

「なに、坂上くん。こっちジロジロ見て」

「女の子が二人でイチャイチャしてるのは絵になるなと思って」

「うえ、変態っぽーい」

「そういうんじゃねえよ……。微笑ましい気分になるってこと。やましい気持ちはない。断じて」

 坂上先輩がちょっとムキになってる? 珍しいものを見たかも。いや、単に瑞鳥先輩が相手だからかな。……この二人は、本当に仲がいいみたいだ。一歳先輩がうらやましがるわけだ。

 ふと視線を感じた。そちらにちらりと目を向けると、坂上先輩の人形が私を見ていた。――あれ? あの子、最初は玄関のほうを見てなかった?

「あの、坂上先輩。その人形ですけど」

「……あー、えっとね、彩智と一緒にいった人形展でね、作者にもらったんだよ。貰い物だから捨てられなくて」

「そうじゃなくて、あの、なんだか見られてるような気がするんですけど」

「そんなことないと思うけど……」

 嘘だ。坂上先輩は嘘をつき時や何かをごまかす時にすぐ視線をそらす。わかりやすい。あの人形、なにかあるのかな……。

「それよりさ、紫ちゃん、よく気づくの? そういう周りからの視線って」

「んーそうですね。気づく方だと思います。見られてるとすぐわかっちゃって。あと、みんなに注目されたりすると気分が悪くなったりしますね。沈んだ気がするというか。視線って重たいですよね」

「ああ、うん。確かに、視線って重たいね。そういう感覚はわかる気がする。普段は気づかないけど」坂上先輩がうなづく。

「私もわかんないなー、そういうの。ニブチンだからかな」

「瑞鳥はズボラなんだよ。なにもかも。紫ちゃんみたいな感受性の強い子と比べるな」

「ひどい! 坂上くんひどい! 言葉のセクハラだ!」

「セクハラは普通、言葉の問題だろ……」

 ああもう、すぐ話がそれる。

「感受性が強いことって、普通はいいことだってもてはやされるけどさ。紫ちゃんを見てると、良いことばかりじゃないというか、本人にとっては大変なだけなんだなって思うよ。ぼくは鈍い人間でよかったかな」

「先輩が鈍いことで不幸になっている人もいますけどね……?」

「え、そうなの? 誰?」

「ああ、いえ。たぶんそういう人もいますよっていう話です。例えというか、想像です、想像」

 一歳先輩のことを口走るわけにはいかない。あの人は地味に怖いひとなのだ。何をされるかわかったものではない。背後から瑞鳥先輩の含み笑いが聞こえてくる。

「それで、なんで雨の中を傘もささずに歩いてたの?」

 坂上先輩がそう言った。

「……友達が死んじゃって。自殺したみたいなんです。それでちょっと沈んでたというか。とても仲良しだったわけじゃないですけど」

「そうか……。お通夜には行った? ああ、いや、地元の子じゃないなら無理か」

「そうなんです。行くかどうか悩むくらいの関係だったので。えーっと、恋愛話はするけど、学校の外では一緒にいない、くらいの」

「ふうん……よし、乾いたよー」

 瑞鳥先輩がドライヤーを止める。それから脇を掴まれて、引っ張りあげられた。え、なに? なんだ。

「紫ちゃん可愛いからギューってしてあげよう」

「や、やめてくださいッ! 坂上先輩が見てるじゃないですか!」

「見てなかったらいいの? じゃあ坂上くん、あっち行ってて」

「家主はぼくなんだけど……。まあいいや。ぼく今からバイトだから、ふたりとも適当なタイミングで帰ってよ」

「お、話がわかるー。さすが坂上くん!」

 瑞鳥先輩が楽しそうだ。坂上先輩はため息をついて立ち上がり、Tシャツの上にジャケットを羽織った。濡れても大丈夫そうなやつだ。それから、先輩が壁にかけられている鍵を指差した。

「合鍵はアレだから。もしぼくが帰る前に家を出る時は、アレを使って。ポストにでも入れておいてくれたらいいから」

「はいはーい。じゃあ、バイト頑張ってねー」

「こんなことなら最初から瑞鳥の家に連れて行けばよかったよ……」

 坂上先輩がブツブツと文句を言いながら玄関を出た。カチャリと音がして、錠が落ちる。部屋には私と、瑞鳥先輩と、人形が残った。

「じゃあ坂上くんのベッドで坂上くんの匂いを感じつつ一緒に寝よう! それとも修学旅行の夜みたいに夜更かししちゃう? 怪談とか語っちゃう?」

「なぜ泊まる流れ?」

「え、泊まらないの? シャワーまで借りたのに? ワンナイトしない?」

「泊まらないです……一歳先輩に殺されたくないです……」

「あの子、そんなに物騒じゃないと思うけど……。まあいいや、コーヒーでも入れよっか。飲めたよね?」

「あ、はい。ありがとうございます」

「あー、この部屋の合鍵、コピーして彩智にあげたら喜ぶかなー」

 そんなことを言いながら、瑞鳥先輩はキッチンスペースに向かった。勝手知ったるなんとやらというか、妙に手馴れている。もしかして何度か来ているのかな? 瑞鳥先輩が押しかけて、坂上先輩がしぶしぶ部屋に通す図は、容易に想像できてしまう。

「怒りそうですけど。『どうしてあなたが坂上くんの部屋の合鍵を持ってるの?』って言いそうですね。すごい笑顔で、こう可愛らしい角度で首を傾げて」

「可愛らしくない感じに可愛らしいやつだね」

「というか、そもそも合鍵ってそんなに簡単に作れるんですか?」

「鍵の写真があれば作れるよ。もちろん鍵の写真なんて鍵屋に持ち込んだら、とても怪しいから、作ってはくれないと思うけどね」

「写真だけで……?」

「そもそも、鍵ってようするに、同じ形のものを作ればいいんだよ。ああ、普通のシリンダー錠なら、ってことだけどね。だから、正確に撮影した写真があればコピーできちゃう。気をつけないとね」

「はあ……なるほど」

 そんなもんなのか。知らなかったら気づかないうちにSNSにアップロードしちゃいそうだ。……しちゃうかな? うーん、どうだろう。

 先輩がマグカップを二つ持ってもどってきた。白いマグカップで、柄はなにもない。コーヒーが注がれていて、熱かった。

「ねえ、小椋おぐら理沙ちゃんがどうして自殺したのか、知りたくない?」

 瑞鳥先輩が突然そう言った。心臓を掴まれたような感じがした。

「……どうして、理沙の名前を知ってるんですか?」

「昨日自殺した天門大学の女子生徒といえばその子でしょ。それくらいは調べればすぐわかるよ?」

 いつ調べたのだろう? スマホを触っているようにも見えなかった。シャワーを浴びてる間に? けど、理沙のことを話したのは、シャワーを浴びて出てきた後だ。

「それより、自殺の理由だよ。知りたい? 知りたくない?」

「そりゃ、知れるなら知りたいですよ。気になります。心残りもありますし……」

 結局、わたしは理沙に例の男の子――聖塚ひじりづか光平こうへいを紹介できていない。今更なにができるわけでもないけれど、それでもここ一週間、わたしは理沙と何度も連絡を取り合った。

 ……今まで頭が回っていなかったけれど、絶対におかしい。理沙が自殺するなんてありえない。理沙には何か自殺するに足る理由があったのかもしれない。だとしても、自殺を思いとどまらせる要因だってあった。わたしと聖塚くんのことでやり取りしている時、理沙は楽しそうだった。

 電話越しの弾んだ声を、今でも鮮明に思い出せる。

 理沙は自殺なんてしない。人を自殺させる建物にも住んでいなかった。だったら、どうして自殺したのだろう?

 わたしは理沙の傍観者で、理沙の聞き手だった。わたしは彼女に何も語らなかったし、だから、わたしと彼女はただの友達で、ほんとうなら、自殺の理由なんて知らなくても良いのだろう。けれど、知れるのなら知りたい。

「瑞鳥先輩は、理沙が自殺した理由を知っているんですか?」

「知らないよ。けど、もし紫ちゃんが知りたいっていうなら、わたしのできる範囲で調べてみるよ。そうしたらたぶん、わかっちゃう」

「……なにが、ですか?」

「知らないほうが良いようなことが。わたしね、そういう勘だけは良いんだ。小椋理沙の自殺の原因は、知らないほうが良いようなことだって、わたしの勘が告げている。……だからね、もし紫ちゃんが自分で調べてみるつもりなら、わたしに任せてほしいなって」

 後輩を危ない目に合わせたくないから、と瑞鳥先輩は言う。

 わたしは、少しだけ戸惑って、けれど頷いた。

「おねがいします。わたしは本当のことが知りたいです」

「ん、わかった」

 瑞鳥先輩は満足そうに頷いた。


■ 4


「結論から言えば、ぼくは小椋理沙は自殺したのではと考えている」

「えっと、どういうこと、ですか? 何の話?」

 数日後。坂上先輩に呼ばれて大学近くの喫茶店に来ていた。初めて来る店で、窓がなかったので中が伺えず、本当にここで合っているのか不安になった。室内にはあまりお客さんがいなかったけれど、坂上先輩はすぐに見つけられた。そして坂上先輩は開口一番、理沙は自殺ではないなんて言ったのである。

 いやいやいや、意味がわからないよ。

 入り口近くの丸テーブルの席で、椅子が四つ、ぐるりと囲っている。わたしは坂上先輩と向かい合う位置に座った。

「小椋理沙は自殺ではなく、他殺だ」

「他殺って……、そんなことあるわけないですよ。だって、警察もちゃんと調べたでしょう?」

「遺書は見つかっていない。自殺の動機もない。人間関係も良好だった。彼女のスケジュール帳には二週間先まで予定が詰まっていて、講義にもほとんど出席していた」

「……自殺の原因が見つからないから他殺だって言いたいんですか?」

 そんな乱暴な決めつけがあってたまるか。いくら坂上先輩でも、友達が死んでしまった原因をでっちあげるなんて、許せない。

「そうじゃないよ。ただ、自殺するのが不思議ってのは、きみも思っていたことだろう」

「それは……」

 その通りだ。少しだけ冷静になった。最近、ずっと体が重くて気分も良くなかったから、神経質になっているのかもしれない。店員さんが注文を取りに来てくれたので、ホットココアを頼んだ。

「……状況的には、自殺で間違いない。警察もそう結論を出していて、他殺の線はほとんど疑ってないみたいだ」

「どうしてそんなことがわかるんですか?」

「警察の内情は、まあちょっとツテがあってね。いや、警察がどう思っているかは、まあ、良いんだよ。とりあえず、ぼくが言いたいのは、状況的には自殺としか思えない死に方をしたのに、自殺する原因が見当たらないっていうのは、やっぱり不自然だってことだ。だから発想を逆転させて、そもそも他殺である、って考えてみたんだよ」

「……けど、他殺って、そんなことありえるんですか? 鍵だってかかっていたし、最初に見つかった時、死んでから二日は経っていたって聞いています。ミステリー小説じゃないんだから、そんなの誤魔化しようが……」

「ああ、そうだね。誤魔化しようがない。だから、考え方が逆なんだよ、紫ちゃん。鍵がかかっていたなら、犯人は鍵をかけられた人物だし、死んでから二日経っていたなら、殺されたのは二日前ってだけだ」

「……無理ですよそんなの。合鍵はなかったんだし」

「合鍵はなくても、本鍵ならあった。建物の管理会社は、緊急時のために本鍵を一本、保管している」

「…………」

「ぼくのマンションも、きみの新居もそうだ。ただ、普通は厳重に管理されていて、持ち出すなんてことはできない。それに自殺に見せかけて殺すっていうのも、それなりに専門技術が必要になる。薬で眠らせたりすれば、睡眠薬が検出されるしね。死体に残った痕跡とか首にかかった力の向きなんかでも、首を吊ったのか、絞殺されたのかは、判別がつく」

 なんだ? 何を言っているんだ、この人は。一体、何が言いたいんだ。まっすぐに私を見て、淡々と語る坂上先輩の瞳には、嘘の色は全く無い。ごまかしもない。言うべきだと考えて、言っているのだ。

 わたしが理沙の自殺の理由を知りたがったから? だから、瑞鳥先輩に頼まれて、坂上先輩が調べていた?

「小椋理沙の体からは少量のアルコールが検出されている。死亡したと思われる日の前の晩に飲み会があったみたいなんだ。それで、警察としては酩酊の末の突発的な自殺ということになった」

 ゆっくりと、語り聞かせるように、先輩は説明を続ける。怖い。先輩が教えてくれることは、怖いことだって、そんな予感がする。

 喫茶店に誰かが入ってきた。奥のテーブルに案内されて、歩いて行く。スーツ姿の男性だ。

「彼女を自殺に見せかけて殺した人物がいるとしたら、おそらくこういう方法を取ったんだろう。まず鍵を入手する。本鍵でも合鍵でも良い。そして、彼女のマンションで張り込みをして、泥酔して帰ってきた彼女の身動きを封じる。なるべく痕跡が残らないように、タオルとかラップとかでね。そして首に縄をかけて、彼女を踏み台の上に立たせて、足を操って踏み台を蹴飛ばさせる。指紋なんかも当然細工しただろう。縄と踏み台についていれば十分かな? それから彼女の拘束を解いて、自分の痕跡を残さないように部屋を出て、鍵をかける。これで終わり」

「……そんなの、成立しませんよ。誰かが見ていたらどうするんですか?」

「身長と肩幅、それにファッションの傾向と、髪型」

「え?」

 気分が沈んできた。頭に黒い煙が入ってきたみたいな感覚。嫌な感じだ。

 ここ最近、こういう気分になることがとても多い。理沙が死んでしまってからだ。坂上先輩の部屋に初めて行った日から。

「遠目なら、それくらい真似てれば問題なくなりすませるっていう話だよ。成りすました上で出入りすれば、目撃されても大禍ない」

「理沙を殺したのは、女性だって言いたいんですか? 偶然似たような体格の女性が、理沙に目をつけて、自殺に見せかけて殺したって?」

「可能性の話だよ。ともかく、自殺しかあり得ない、なんてことはない。そのことをまず認識してほしかったんだ」

 ……先輩の説明は、荒唐無稽だ。普通に考えれば成り立たない。けれど、一つ一つの要素を検討すれば、全く不可能というわけではないということは理解できる。もしこれがミステリー小説なら成り立たないような話ばかりだけれど。現実的に実行できるかどうかでいえば、奇跡のような確率が積み重なれば、できなくはない。……ような気がする。

「けど、他殺って言い切るには、根拠が足らないですよ。先輩なら、分かりますよね? 自分が馬鹿なことを言ってるって。先輩は賢いから」

「ぼくは愚かだよ」

 先輩は自嘲気味に笑った。けれど、すぐに表情を戻す。

「ぼくのことはいいんだ。ぼくのことじゃなくて、小椋理沙さんのこと。彼女のことをね、少し調べたんだよ。そしたら不思議なエピソードを聞いた。彼女のストーカーのことだ」

「……それはわたしも聞きました。ストーカーが自首するって。何の被害もないうちに、理沙が気づく前に。あの子、守護霊様がいるんだって言ってましたけど」

「守護霊様ね。じゃあ、そう呼ぼうか。小椋理沙には守護霊様がいた。守護霊様は小椋理沙のことをよく見ていて、なんでも知っていた」

「いるはずないですよ、守護霊なんて。幽霊なんていないんですから」

 ……幽霊はいる、とでも言いたそうな間を置いて、先輩は説明を続ける。

「まあ、そこはそれ。今は議論は止そう。どちらにせよ、小椋理沙の守護霊様は、幽霊なんかじゃないから」

「どういうことですか?」

「小椋理沙がストーカーに遭った時、それをいち早く察知してストーカーを撃退できるような何者か、だよ。そういう守護霊様が、小椋理沙にはついていた」

 ――守護霊様。

 理沙を守っていた、守護霊様。理沙を見ていて、ストーカーがいることに、理沙より先に気づくような何者か。

 でも守護霊様は幽霊じゃない……?

「守護霊様は、理由はしらないけど、小椋理沙を見守っていた。小椋理沙にその存在を匂わせても、決して悟らせなかった。一応確認だけど、理沙さんは守護霊様が実在するとは思ってなかったんだよね?」

「……たぶん、そうです。冗談交じりでしたから」

「そう。なら良いんだ。……それで、守護霊様はストーカーを改心させるほどの能力を持っている。なによりストーカーを被害者より先に発見するほどの能力だ。異常と言ってもいい。そんなことをしでかして、その上で本人に存在を知られないなんて、普通の人間にはできない」

「じゃあ、結局、幽霊ってことですか?」

 わたしの問いかけに、先輩は首を横に振った。


「違う。守護霊様は、だって言いたいんだ」


 ひゅっ――と、奇妙な呼吸音がして、自分の喉が締め付けられた音だとわかった。思わずテーブルにうずくまる。息が苦しい。気分が悪い。気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い――ッ!

 頭がグラグラする。複数の人間に監視され続けていた? そんなの、そんなの、最悪だ。最低だ。まるで学級会じゃないか。クラスメイトの視線がフラッシュバックする。手足がしびれる。酸素が足りていない。視界が暗くなる。

「紫ちゃん!?」

 先輩が慌てた様子で近づいてくる。わたしの顔を覗き込んで、すぐに背中に手を当てて、ゆっくりと撫でられた。

「ゆっくり呼吸して。大丈夫、落ち着くまで待ってるから。ここは人の視線は少ない」

 どうしてこの人はわたしのトラウマを知っているのだろう。

 ぼんやりとしたまま、そう思考が働く。

 視線は重たいから嫌いだ。

 先輩が撫でる手のペースに合わせて、意識的に、ゆっくりと呼吸する。だんだん手足のしびれが取れて、頭が鮮明になってきた。喫茶店の奥の席に座っているスーツの男性が、なにか電話をしているのが目に入った。

「もう、大丈夫です」

「はあー、びっくりした。ごめん、もうちょっと配慮すべきだった。ぼくの言い方が不適切だった」

「あ、いえ。あの、すみません。本当に大丈夫なので……。えっと、話の続きを」

 先輩はわたしが起き上がると、ホッとした様子で席に戻った。店員さんも近づいてきたが、先輩が大丈夫だと言ったらふたたび引っ込んだ。

「……じゃあ、続きを話すけど。小椋理沙は守護霊様――複数の人間に監視されていた。守護霊様は小椋理沙をずっと守ってきたけど、なにかのきっかけで、守護霊様は小椋理沙を守るのをやめて、殺すことにした」

「殺すって……そんな簡単に。動機が――」

「確かに動機は意味不明だけど、そもそも小椋理沙を見守る理由すら、守護霊様にはないんだ。彼らが本物の守護霊ではなく、複数の人間だとするならね。一人の人間を監視し続けるなんて重労働、相当の動機がなければできない。最初から意味不明なんだよ」

 喫茶店の奥に座っていたスーツの男性が立ち上がって、レジスペースで会計をはじめた。なにか急いでいるような気がする。先ほどの電話で何かあったのだろうか。……どうしてわたしはあの男性が気になるのだろう?

 知らない人のはずなのに。

「彼らの失敗は――」

 坂上先輩がゆっくりと言う。

「――ひとつは、ターゲットの更新先をきみにしてしまったこと。もうひとつは、ぼくに見つかったことだ」

 スーツの男性が喫茶店を出て行った。

 先輩が沈黙する。わたしも沈黙する。喫茶店にはゆったりとした音楽が流れていて、外の喧騒は聞こえない。ここにはもう、わたしたちの他にはだれもいない。

「今の人が?」

 思い出したのだ。理沙と待ち合わせたカフェで、わたしと理沙の二つ隣に座っていたスーツの男性が、今の人だった。なんとなく気になっていたのは、わたしを観察していたからだ。露骨にではなく、微かに。その気配に、わたしは反応してしまっていた。

「そう、今の人が、守護霊様の一人だよ」

 先輩はわたしの疑問に頷いてみせた。

 理沙が発見されたのは死亡してから二日後で、わたしは理沙の訃報を受け取る数日前から、気分が優れなかった。ここ最近もずっとだ。自宅でもそう。唯一落ち着けたのは、坂上先輩の家だけ。たぶん、あの家は想定外だったんだ。だから視線が

 男性の店員が一度店の外にでて、すぐに戻ってくると、私達のテーブルに座った。

「トゥットゥルー、どうやら無事確保できたみたいでーす。お疲れ様、坂上くん。あとは警察がやってくれるよ」

 店員は瑞鳥先輩だった。男性ですらない。え、何その変装技術。声とかどうやったんだ。

「わたしは無限の声色を持つ女……」

「かっこ良くないからな?」

 頭のなかの黒い煙は晴れていた。わかってしまえば何の事はない。人を自殺させる建物に続いて、今度はストーカー被害にあったってことだ。なんて運が悪いのだろうか。

 笑いすらこみ上げてくる。

「はは、あー、先輩方、ところで、わたしってもう一度引っ越しとか、した方がいいですか?」

「……まあ、精神衛生上、一応引っ越しておいたら?」

 引っ越し資金、どうしよう。


■ 5


 あのあと、先輩に教えてもらったことだけを少し。

 男は「天使を見守る会」というウェブサイトでつながった人々で、掲示板には理沙を始めとした数人の女性の写真が、三年から十年ほど、継続的に掲載されていたらしい。

 老若男女関係なく、やく五十名ほどのメンバーからなる団体で、分担して「天使を見守って」いたそうだ。

 彼らの天使は、

 それが、理沙が殺された理由だった。

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