003 残留性アポトーシス

■ 1


 ぼくはサークルにも部活にも所属していない。

 天門大学ではサークルと部活の区別はあるものの、手続き上の違いはともかく、実質の違いはあまりない。どちらも大学側に公認された学生団体だ。ちなみに、オカルト研究会や日本文化研究会はサークルに該当する。

 どちらにも所属していないぼくには、そういったグループ内でのに上下関係というか、つまり先輩や後輩と呼べる相手があまりいない。

 あまりいない。

 あまりいない、というのは、少しくらいならいるということだ。

 数少ない後輩の一人が、双葉ふたばゆかりである。

 女子にしては背が高く、ぼくと視線の高さがほとんど変わらない。知り合ったきっかけはオカルト研究会でやった新入生歓迎会の肝試しで、瑞鳥に強引に連行されたぼくは本気でビビって泣きそうな顔をしている一年生に遭遇した。それが彼女だった。

 聞けば怖いもの、特に幽霊は大嫌いらしい。それなのになぜオカ研の新歓に参加したのかと尋ねると、

「オカルト研究会なら相談に乗ってくれるかと思って。すこし困ってることがあって。気のせいかもしれないから、友達にも相談しにくくって」

 とのことだった。

 その日は詳細を聞かなかった。あくまでオカルト研究会の誰かに相談したいという話だったから、ぼくが聞くのも筋違いだろう。それきりになるだろうと思っていた彼女との関係が継続しているのは、彼女の話を聞いた瑞鳥がぼくに相談を持ちかけるようにアドバイスしたからだ。

 そうして彼女に再会したのが、四月下旬。

「気分が悪いんです」

 紫ちゃんはそう言って、眉根を寄せた。疲労半分、恐怖半分、って顔だ。

「気分が悪いって、どういうこと?」

 一言で気分が悪いと言っても、いろいろあるだろう。体が重いとか頭痛が酷いとか熱っぽいとか吐き気がするとか。病気かもしれないし、精神的なものかもしれない。ぼくが真意を掴みかねていると、紫ちゃんが続きを話す。

「だから、そのままです。家に帰ると、すごく疲れて、気分が悪くてすぐ寝ちゃうんです。朝になって大学にいくと少しくらいマシになって、でもまた家に帰ると嫌な気分になって。それで、家になにかんじゃないかって」

「……? ごめん、話がよくわからない。どうして家に何かあるって思うの」

 なんというか、曖昧な言い方だった。彼女もそう思ったのか、僅かにため息をついて続きを話す。

「家に帰らなかった日はすこしマシだからです。友達の家に泊まった時とか、徹夜でカラオケにいた日とか」

 気分悪いのによく徹夜できたな……。

「気のせいってことは……ないか」

 継続的にその状態が続いているのであれば、少なくとも強いストレスを感じていることは事実なのだろう。精神的な要因によるものだとしても、体調まで崩すというのであればなにか対処は必要だろうし。対処したという事実があるだけでも気は紛れることだってある。ぼくは心理学専門ではないので確かなことは言えないけれど、ええと、プラシーボだっけ。

 改めて紫ちゃんの顔を見ると、確かに顔色は良くない感じだ。明らかな体調不良とではなさそうだけれど、快調には程遠い印象を受ける。

 端的に言えば疲れて見える。

「気のせいかもしれません。けど、気のせいだとしたら、気のせいだっていう原因があると思うんです。人は何もなしに何かを感じたりはしないはずです。わたしはそう信じています」

「ぼくはそうは思わないけど……、でも、たしかに原因はあるのかもしれない。少なくとも、家に帰らない日は少しくらいマシだっていうなら」

「そうなんです。それでわたしが住んでいるマンションを調べて欲しくて、オカルト研究会の肝試しに参加したんです。だれか詳しい人がいるかもしれない、って思って」

「それでぼくなの? ぼくは建築には詳しくないよ。そりゃあ、ゲシュタルト崩壊くらいは知ってるけどさ」

 あとから調べたら、ゲシュタルト崩壊は全然建築と関係なかった。

「瑞鳥先輩が、坂上先輩が適任だって教えてくれたんです」

 適任ってなんだよ……。あいつの中でぼくはどういった位置づけなんだ。絶対適当に押し付けただけだろ。


■ 2


 紫ちゃんに連れられて、彼女の住んでいるマンションに到着した。

 新しい建物で、見た目はデザイナーズマンションだけれど、アパートと言っても差し支えない規模の部屋数だ。……マンションとアパートの違いってどこにあるんだろうね。

「不動産屋はマンションだと言っていたので、マンションです」

「なるほどなぁ」

 そういうものか。

 建物はコの字型をしていた。ダイヤ型のタイルが並べられた、グラデーションのかかった壁の建物が、黒いフレームでてきた通路や階段を囲っているような構造をしている。コの字の開いている側がそのまま入り口になっていて、つまり、ロビーやオートロックなどはない。中庭に外部から入れるわけだ。

 コの字になっている各辺に扉が三つずつ並んでいて、各階に九部屋あり、黒いフレームの通路と階段で複雑に接続されている。あえてそうしているのか、通路にはさまざまなパイプが通っていた。普通、パイプなんかは隠すと思うんだけど、意図して露出させているのだろう。細いパイプの下を通って、不規則な通路を歩く。三階まで登って、部屋番号を示すプレートのない扉の前にたどり着いた。

「ここが私の部屋です」

「気分はどう?」

「あまり良くないです。……先輩はどうですか?」

「少し良くないかも。車に酔った、みたいな」

 うまく言えないがすこしだけ違和感がある。チリチリとした焦燥感のような、なにか落ち着かない鈍さが頭の片隅にくすぶっている。けれど、その正体はわからない。

 幽霊の類が住んでそうな場所ではなく、どちらかというと近未来的なデザイナーズマンション、という印象を受けるのに。仮に幽霊が住んでいても、霊感とは縁遠いぼくにそれがわかるはずもないので、霊がいそうだとかいなさそうだとか、そういう勘は全然当てにならないんだけれど。

「どうぞ、上がってください」

「うん、おじゃまします」

 紫ちゃんに促されて、部屋にはいる。狭い部屋だと感じた。通路には正面と、それから右手に二つ、出入り口がある。一番近い出入り口は小さな部屋に通じていて、二つ目は洗面所みたいだ。

 まっすぐ進んだ部屋に案内される。小さなカウンターキッチンのある部屋だ。リビングとして使っているみたいで、テーブルと椅子があった。

「…………」

 しばらく眺めていて気づいたが、壁紙には変わった模様がほどこされている。といっても、目立つようなものではなくて、わずかにある壁紙の凹凸が陰影を作って、それが模様に見えるわけだ。少し引いてみてみる。大きな円が同心円に並んだような模様だ。

「思ったより広い部屋だね」

「はい。二部屋もありますから、一人暮らしには贅沢です。広い部屋の方がいいって思って、ここにしたんです。家賃も安かったし。あ、前に住んでいた方が自殺したとかで」

「めちゃめちゃ曰くつきじゃねえか」

 目眩がした。そんな情報、聞いてない。事前にわかっていれば断って、部長に代わってもらったのに。

「そういえば紫ちゃん、結局さ、オカ研には入るの?」

「考え中です。先輩がわたしの悩みを解消してくれたら入りますよ。部長さんが、メンバーが少なくて困るって言ってましたから」

 ぼくが頑張っても得をするのはオカ研ってことか。なぜこんな役回りになってしまったんだ。ぼくはオカ研じゃないのに。瑞鳥のせいだ。後で文句を言わなければなるまい。彩智を紹介された時も厄介なことになったし、今回もこのパターンかよ。

 ……けど、ぼくの人間関係がほとんど瑞鳥に依存しているというのも考えてみれば事実である。あまり他人と関わらずに生きるというのも望むところではないので、こういった機会でもなければ後輩なんてできなかっただろう。オカ研のメンバーはあくまでも知り合いといった程度の間柄だし。そう考えると、瑞鳥にはもっと感謝すべきだろうか。

「どうですか?」

 紫ちゃんの声に思考を中断する。少し頭を振って、深呼吸した。脳に酸素が送り込まれて、すこしだけ思考がすっきりとした気がする。

「どうって言われても、広い部屋で、壁の模様は変だけど、他に変わったところはないと思うよ。自殺した人って、ここから飛び降りたわけじゃないよね。三階から飛び降りて確実に死ねるかと言われると、かなり怪しい」

「そうですね。部屋で亡くなったわけではないと言っていました。詳細は聞いていません。……まあ、幽霊とか、怖いので」

「じゃあなんでこんな部屋を借りたの」

「家賃が安かったので……。私、あんまりお金なくて……」

「そっか……」

 金の問題は切実だな……。

 不動産屋から情報収集しなかったためにこんなことになっていると考えると、怖くても話は聞いておいたほうが良かったろうに。いや、詳細を知ったからといって対策が打てるわけでもないのだから、聞かなくて正解だったのかな。

「うーん、自殺した人のことを少し調べてみようかな。時間はかかるだろうけど」

「そんなことができるんですか? 探偵みたいですね」

「本職の探偵に相談するんだけどね。それか部長か。ぼくにはそういうのは向いてないから」

「そうなんですか? けど、瑞鳥先輩が言ってましたよ。坂上先輩は探しものが得意だって」

「そんなことはない……」

 そもそもあいつの前で何かを探してみせたことなんてあったか? 記憶を辿るが思い出せない。

「あとは他の住人に話を聞いてみるとかかな。もしこの部屋だけじゃなくて建物に何かあるなら、他の住人も同じような不調を感じているかもしれない」

「ああ、なるほど。一理ありますね。けどわたし、他に住んでる人にはまだお会いしたことがないんですよ」

「え?」

 ん? ……まあそういうこともある、のかな。引っ越して一ヶ月も経っていないだろうし。時折外泊していたのなら、他の住人に遭遇する機会は減るだろうし。けど、一人も会っていない? それはさすがに、変じゃないか……?

「宅急便の人にはあったことがあるので、誰も住んでいないなんて寂しいことはないと思いますけど」

 ぼくが困惑していたためか、紫ちゃんはそう補足した。けど、ぼくはいまいち不吉な予感を拭えなかった。


■ 3


 紫ちゃんは口をとがらせる。そしてため息をついて、インターホンを見た。

「出ませんね。誰も住んでないのかな」

「そうかもしれないけど、単に留守の可能性もある。……じゃあ、次にいこうか」

 ぼくと紫ちゃんは三階から順番にインターホンを押して回った。黒塗りの鉄骨が絡みあう通路を歩いていると、少し気分が悪くなる。まるで平衡感覚が狂ったような。

 通路からはマンションの壁と、空と、コの字になっている建物の開かれた側の景色が見える。ただ、そちら側は山沿いになっていて、雑木林が見えるだけだ。あまり景観が良いとはいえない。

 三階はすべて空室か留守のようだった。けれど、二階の部屋の二つ目で反応があった。

「――はい」

 インターフォン越しの声。女性のものだ。住人に出会うことを半ば諦めはじめていた頃合いだったので、ぼくと紫ちゃんは思わず顔を見合わせる。すぐにインターフォンに向き直って、ぼくが言った。

「えっと、一ヶ月ほど前に三階に引っ越してきたんですが、遅れ馳せながらご挨拶にと思いまして」

「はい?」

 疑問符の付いた返事が聞こえた。

 ……えっと、そんなに変なこと言ったかな。不安になって紫ちゃんを見るが、彼女は肩をすくめてみせる。

「……あなた、三階に越してきた人? 女の子だと思ってたけれど」

「ああ、すみません。引っ越してきたのはぼくじゃなくて、今日は付き添いなんです」

「そう。まあいいわ。ちょっと待ってて」

 インターフォンが切れて、少し待つと中から人が現れた。先ほどと同じ人物なら、女性のはずだ。髪を伸ばしていて、顔が見えない。腰のあたりまである。手入れされていないのか、ボロボロだ。くるぶしのあたりまである長くて黒いワンピースを着ている。

 不気味だ。

「入って」

「え、あ。はい」

「……おじゃまします」

 ぼくと紫ちゃんは促されるままに中に入る。

 女性は鍵を閉めて、ぼくたちを奥に促した。リビングにあたる部屋に入ると、壁の全面が黒いカーテンのようなもので覆われていた。部屋の中央には二人がけのソファが二つ、背の低いテーブルを囲むようにして置かれている。

「座っていい」

「…………」「…………」

 繰り返すが、不気味だ。けれどこちらから押しかけておいて、座らないのも不自然だろう。というか、勢いでここまで来たが、部屋の中まで入るつもりは正直なくて、玄関口で話を聞かせてくれれば十分だったんだが。

 女性はキッチンでなにかしてからこちらに来た。グラスに注がれた水を出される。女性なりのもてなしだろうか。露骨に水道水が注がれたそれを、ぼくはスルーした。

「それで、引っ越してきたのはそちらのお嬢さん?」

「はい、そうです。双葉紫っていいます。三◯二号室です」

「ごめんなさいね、どこかわからないわ。この建物、部屋番号は適当だから」

 女性はかぶりを振ってそう答えた。それから、まるで話し疲れたとでも言わんばかりに、自分用のグラスの水を一口で飲み干す。

 一息ついて、彼女は再び口を開いた。

「わたしはジュネと名乗っているわ。だからあなたたちもジュネと呼んで」

「ジュネさん、ですか。あ、ぼくは坂上っていいます」

「……それで、あなたたちは、多分紫さんのほうだろうけれど、最近部屋に戻ると気分が悪くなるから、そのことについて何か聞ければ、と思ったのかしら」

「すごい、なんでわかるんですか?」

 紫ちゃんが尋ねると、ジュネさんは髪で隠れてほとんど見えない口で、微笑んだように見えた。微笑んだのかニヤついたのか区別がつきにくい。


「ここは人を殺す建物だから、住んでいると死んじゃうわよ」


「……えっと、どういうことですか?」

 ぼくはなんとか質問を返す。この部屋にきてから、焦燥感のようなものはおさまっていた。

「このマンションのデザイナーは、建物を大きな生き物だと考えているらしいのだけれどね。そして、人間は建物という巨大で偉大な生き物に奉仕する種族だと。彼は、建物が人に自らを作らせ、維持させ、そして死すらも看取らせると考えている」

「……えっと、猫みたいなものですか?」

 紫ちゃんがとんちんかんな受け答えを……いや、そうでもないのか? 猫も人に奉仕されていると言えなくはない……気がする。

 ジュネさんは紫ちゃんの言葉に頷いた。

「ものの見方、ということよ。別に、家畜でもいいし、ミームでもいいのだけれどね。ともかく、そのデザイナーはそのような哲学を持っていた。だからこう考えた。人が人を殺すように、建物も人を殺すことがある」

 人が人を殺すように、建物も人を殺すことがある。

 建物がなければ投身自殺も難しいし、建設中の事故ってこともあるだろうし。その、建物の視点に立つならば、それは建物が人を殺したということになるのかもしれない。

「ならば――人を積極的に殺す人がいるように、人を積極的に殺す建物がいても、いいのではないか? ――そういう視点で作られたのが、この建物よ。人を殺す――人を積極的に殺す建物」

 ジュネさんはそこまで告げて、水を飲もうとしてグラスに手を伸ばし、そこに水が入っていないことに気づいた。自分のグラスを置いて、ぼくのグラスを手にとった。飲みやがった。

 ……いいんだけどさ。飲みたくはなかったし。

「その、具体的にどうやって、ですか? 呪いとか?」

「違うわ。呪いなんかじゃない。もっと具体的な手法よ。例えばだけれど、ええと、あなたたち、部屋に入った時、すごく狭いな、って思わなかった?」

 ――確かに思った。狭い部屋だなって。けど、その後、実際の部屋の間取りはかなり広い。なんでだろう?

「要するに、天井が低いってことなのだけれどね」

 あ、なるほど。確かに言われてみれば、かなり天井が低く作られている。

「この部屋の黒いカーテンはその対策。天井を高く見せるために、壁が圧迫してくるようにしてるの。あとはほら、壁の模様もストレスの原因だから、それを隠してるんだけど。オーナーの意向で、壁紙の張替えは禁止されてるから」

「オーナーって、そのデザイナーさん?」

「別の人みたい。そのデザイナーをいたく気に入ってる人でね。気に入っているというより、あれはもう信仰しちゃってるわね」

 ジュネさんはついに紫ちゃんのコップからも水を飲み、立ち上がってキッチンに向かって、それから再び水の注がれたコップをテーブルに置いた。ぼくたちの前にだ。どうせ自分で飲むのに。

「じゃあジュネさんは、対策をしているから住んでいられるってことですよね。それなら、紫ちゃん――えっと、彼女もそういうことをしたら大丈夫ってことですか?」

「そうなるわ。けど、そこまでしてこの部屋に住みたい? 通路を歩いているだけでも、感受性の強い人は気分が悪くなるのに?」

「いえ、その……」

 紫ちゃんが嫌そうに言う。

「……もう住みたくないです。実際、気分は悪いですし。人を殺すために作られた建物になんて、嫌ですし」

「そう。懸命ね」

 ジュネさんはそれきり、もう何も言わなかった。コップの水は無駄になってしまったと思ったけれど、言うことでもないので指摘はせずに、ぼくは紫ちゃんを連れてジュネさんの部屋を辞す。

 そして、なんとなくそのまま、紫ちゃんと一緒に建物を出た。この建物にこれ以上居たくなかったのだ。


■ 4


「先輩、今日泊めてください……」

「おちつけ。ぼくは男だぞ」

「坂上先輩は朴念仁でチキンだから安全だって、一歳ひととせ先輩が言ってました」

「なん……だと……」

 彩智がそんなことを言っていたなんて、信じたくない。捏造だ。多分、瑞鳥あたりが言ってるに違いない。

「冗談はおいといてさ。今日くらいなら友達に電話でもすれば泊めてくれるんじゃないの。ぼくの部屋はちょっと嫉妬深いペットがいてさ。泊まってもなんともないとは思うんだけど、万が一ってこともあるし」

「どんな猛獣を飼ってるんですか……。けど、そうですね。そうします」

 大学近くまで歩いて戻り、構内のベンチに座ってそんな話をした。日が暮れようとしている時間で、大学構内は建物の影が長く伸びている。人は多いが、知人が通りかかるということはなかった。

「もしどうしてもダメだったら、うちに来てもいいから。その時はだれか、瑞鳥か彩智を呼ぶよ」

「ありがとうございます。やっぱり、先輩に頼って正解でした」

「頼ったのは瑞鳥に紹介されたからだろ」

「そうなんですけどね。はあ、なんでこうなっちゃうんだろう」

 紫ちゃんは深く溜息をついた。けど、あまり怖がってはいないみたいだ。

「紫ちゃん、怖い話ってダメなんじゃないっけ?」

「怖い話というより、幽霊がダメなんですよ。あと、怨念とか、呪いとか、そういうやつですね。あの建物は人の意思でそういう風に作られてるわけじゃないですか。なのでまだマシです」

「ふうん。そんなもんか」

「一対一で人間相手なら平気なんですけどね。殴れば死にますし」

 物騒なことを言うなよ。

 紫ちゃんは立ち上がって、うーんと背伸びをする。スレンダーな体が伸ばされるのは、猫みたいだ。

「それじゃあ先輩、今日のお礼はまた今度しますね。ありがとうございました」

「別に気にしなくていいけどね。じゃあ、また今度」

 そうやって紫ちゃんとは別れた。

 ……さて、どうするか。大学構内をぼんやり眺めながら、少しだけ悩む。いや、結論は出ているんだけど、やっぱり忌避感があった。

 結局、ぼくはあの建物――人を殺す建物に向かうことにした。

 再び建物に到着する頃には完全に日が暮れていた。

 夜の闇の中で見ると、グラデーションのかかった建物に囲まれた黒いフレームたちは、蛇がからみ合ってるようにも見えて不気味だ。

 敷地に入り、階段を昇る。頭の片隅がチリチリとする。けれど、さっきほどじゃない。通路を注意して歩くと、床が歪んでいる事がわかる。パイプが通っていて天井も狭く感じる。わざと歩く人がストレスを受けるデザインにしてるんだろう。そのことを意識するだけでかなり楽になった。

 目的の部屋の前でインターフォンを押す。表札も部屋番号もない扉だ。

「はい」

「さきほど伺った、えっと、坂上です。わかりますか?」

「ああ、君の方」

 インターフォン越しの声。中から顔を出したのは、ボサボサの黒髪を伸ばした女性だ。数時間前と同じように中に通される。鍵は再び閉められた。

 ジュネさんに促されてソファに座る。

「それで、何をしに来たの?」

 テーブルには水の入ったグラスがそのまま置かれていた。いや、一つだけ水が空になっている。僕達が帰った後に飲んだのだろう。

「グラス、片付けなかったんですね」

「面倒だったから。それに、また話を聞きに来るかと思って」

「ええ、まあ。……その、ジュネさん、まだ話してくれていないことがありますよね。なにかもう少し、話すつもりだった。だからグラスをわざわざ用意しなおした、のかなって」

「そうよ。会話って苦手なの。すぐに喉が渇いちゃう」

 そう言って、ジュネさんは残る二つのグラスのうち、今はいない紫ちゃんの位置に置かれたグラスを手にとって、水を飲み干した。白い喉が見える。

 それからジュネさんは立ち上がった。

「いい時間だから、行きましょう。見たほうが早いわ。けど、わたしがダメそうならこの部屋までは連れて帰ってね」

 一度鍵をかけた扉を再び解錠し、部屋を出るジュネさんを、ぼくは追いかける。自分が部屋を出る時は鍵をかけないのか、通路にでるとさっさと先に進んでいた。

「鍵は良いですか?」

 と尋ねると、

「わたしが意識を失ったら、あなたはわたしの体をまさぐって鍵を探すことになるでしょう? そちらのほうが嫌なの。それにしても頭がいたいわね、この通路は」

「……デザイナーの話って、本当なんですか」

「本当よ」

 それは本当なんだ……。てっきり、本当のことを隠すために嘘をついたのだと思っていたけど。

 到着したのは、一つ上がった場所にある部屋の前。たしかこの位置は、紫ちゃんの部屋だ。けど、今は鍵かかっている。

「合鍵とか、まさか持ってるんですか?」

「持ってないわよ。それに、部屋の中に入るわけじゃないから」

 じゃあなんで――そう言いかけた時、ジュネさんが突然うずくまり、嘔吐した。びちゃびちゃと吐瀉物が通路の床に落ちる。

 ――ドン!ドン!ドン! ドン!ドン!ドン!

 部屋の扉が叩かれた。

 ――? えっと、誰だ? 誰かが部屋の中に居るのか? ここは紫ちゃんの部屋じゃなかったのか? いや、ぼくが部屋の位置を覚え違えていただけかもしれない。

 ――ドン!ドン!ドン! ドン!ドン!ドン!

 ジュネさんの吐瀉物の臭いが充満する。扉を叩く音は続いている。どうしたら良いんだ? とにかく、ジュネさんだ。ぼくはそう思って、しゃがみこんでいるジュネさんの背中をさする。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫。これが原因。毎晩、なぜか扉を叩くのよ。家に帰りたがってるのかもしれないわ。これがいるから、あの子は気分が悪くなっていた。この建物のストレスだけじゃない」

「……えっと、じゃあ、部屋の中に何かいる?」

 それは確かに、うまく言えないが、すごくやばそうだ。幽霊と一緒に住んでいた、ってことになるのか。気づかなかったのが幸いというか……。絶対に紫ちゃんには内緒にしておこう。

 ――ドン!ドン!ドン! ドン!ドン!ドン!

 扉を叩く音がうるさい。頭痛がひどくなってきた。どうしてだ?

「違うわよ」

 扉を叩く音がうるさいにも関わらず、ジュネさんの声ははっきりと聞こえた。氷のような声だ。

「部屋の中じゃない。わからないの、にいるじゃない」

 ――ぼくは、ジュネさんを見ていた。

 髪が吐瀉物に浸っていて、洗うのが大変そうだ。

 視界には背中をさすってあげていた手と、黒塗りの金属フレームが入っている。

 薄暗い蛍光灯に照らされた視界が黒くにじむような錯覚に陥る。

 そのさらに奥、視界の隅に扉があって、ぼくは視線を動かせない。


 そう、視界の隅に扉があって、その前には靴があった。


 足があった。

 が立っていた。まっすぐに。革靴だった。男物だ。

 そちらに視線を向けられない。視界の片隅に、はっきりとしない、注目できないような片隅に、けれど、その足は見えていた。

「う、うぐぅ……ああぐぅ――ぐぅぅうあ、あぁぁ」

 ジュネさんが低い奇妙な声を発し始めて、本格的にやばいと悟る。吐瀉物の臭いにまみれたジュネさんを必至で抱え上げて、ガンガンと響くような頭痛に苛まれながら、階段を降りた。ジュネさんの部屋に転がり込んで、鍵を締める。

 鍵を締めた瞬間、頭痛はかなり楽になった。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 ジュネさんは死んだように倒れている。気を使って寝かせる余力はなかった。だいたいジュネさんの方が身長が高い。緊張による呼吸の乱れと急な運動で、肺が痛む。

 呼吸を整えていると、急にジュネさんが立ち上がった。

「原因、分かった?」

「分かりましたけど、見せられなくても信じますよ……」

「あらそう? じゃあ、無駄骨だったかしら」

 何事もなかったかのように、吐瀉物の香りを漂わせる女性は、部屋の奥に戻っていく。ぼくは慌てて靴を脱いで、彼女を追いかけた。追いかけたら、水を飲んでいやがった。

 ジュネさんが振り返る。

「まだなにか?」

「あれ、なんなんですか?」

「前にあの部屋に住んでた人。帰りたいけど鍵がないんじゃないかしら。ただの憶測だけど」

「こんな建物のあんな部屋に? あんな、人を自殺させる部屋に、帰りたいんですか?」

 ぼくがそう言うと、ジュネさんは首を傾げた。

「どんなに劣悪な環境であれ、自分の帰る場所に、人は帰るものよ。死後もね」


■ 5


 紫ちゃんは翌日には別の物件を見つけて、即座に引越の手続きを済ませたそうだ。ぼくは自分が見たものの話はしなかった。

 紫ちゃんはあの部屋によりつかなかったので、引っ越しの際はぼくとオカ研メンバーで荷物を運び出してあげた。

 そしてそのさらに数日後。

 バイト先であの建物について調べてもらうように頼んでいたのだけど、ようやく調べがついたらしく、新聞記事を受け取った。以前あの建物の三〇二号室に住んでいたのは、去年の四月に文倉市に転勤してきた二七歳のOL――ん、ん?

 OLってことは、もちろん女性だよな。

 けど、ぼくが見たあの足は、明らかに男性のものだったのだけれど。

 新聞記事の続きを読む。

 ――女性はストーカー被害に悩まされていたが、ストーカーの存在を示す証拠はなかった。女性の強い訴えに警察も根負けして一度だけ張り込み調査をしたがそれらしい人物は見つけられなかった。

 警察が捜査を打ち切った一ヶ月後、女性は投身自殺をした。勤務先のビルの屋上から。

「…………」

 ぼくは歩きながら呼んでいた新聞記事のコピーを丸めて、コンビニのゴミ箱に突っ込んで、そのままコンビニに入った。

 そういえばジュネさんは、あの足のヤツは住んでいた人だって言っていたけれど、紫ちゃんが入居する住んでいた人だとは言わなかったっけか。

 ……晩ごはんを買って、さっさと帰ろう。

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