002 可塑性ドール
■ 1
モテ期は人生に三度訪れるという話があるけれど、必ずしも人にモテるとは限らない。モテ期というのを抜きにしても、例えば猫や犬などの動物にやたらと懐かれる人や、やたらと物持ちが良い人、つまり器物に好かれる人というのは珍しくもない。そういった人にモテ期が訪れた場合、果たして人に好かれるのか、人以外に好かれるのか、というのは考察に値する……なんて、益体もないことをふわふわと考えていた。
「普通モテ期っていうのは、やたら人間の異性にモテる時期のことをいうんじゃないのかな。動物や物にやたら好かれてもあまり嬉しくない……こともない、かも?」
「どっちだよ……」
彩智は眉間にしわを寄せてうんうんと考え込んだ。ぼくはその間にずるずるとジンジャエールを飲み干す。ぼくと彩智はキャンパス近くのファストフード店で軽い昼食を取っていた。
「うーん、やっぱり男の人よりも猫に懐かれた方がうれしいかも。好きでもない人に好かれるのって、あまり良いことないよね。好きな人に好かれないなら、大変なだけだよ」
そういえば彩智は猫が好きなんだっけか。猫と彩智が戯れる様子は想像するだけで微笑ましい。
「あ、そうそう。猫といえば、こんど文化研が人形展をやるんだって。何人かの人形職人さんにお願いして、作品を借りるらしいんだけど、そのうちの一人がね、猫の人形を作る人なんだよ」
文化研というのは日本文化研究会の略称だ。定期的に催しを開いては話題になる、ある意味で有名なサークルでもある。
「へえ……。猫ね。どんなのか全然想像がつかないな。いつから?」
「んーっとね」
彩智はスマホを操作しはじめる。彼女は意外とソフトウェア類に強い。紙の手帳を使わずにスケジュールを管理するというのは、かなり曖昧で不安定な印象があるが、彼女に言わせれば「バックアップのためにいちいち書き写すの?」だそうだ。一過性の情報にバックアップが必要だというのが、ぼくにとっては理解の外だ。
細い指先がふわふわとディスプレイを撫でる。
「来週の水曜日から一週間くらいだって。ほら、専用のウェブサイトもあるよ」
そう言って彩智はスマホを逆さまにしてこちらに差し出した。くるりと画面が半回転する。和風にまとめられたデザインの中に、何枚かの写真と「天門大学日本文化研究会・第十五回協賛展示会」の文字がレイアウトされていた。ディスプレイにふれてスクロールさせると、確かに猫人形の写真もあった。人形というよりリアルなぬいぐるみといった印象だ。
他に二名の人形師が作品を提供してくれるらしい。学生の企画によく作品を貸し出す気になったなあ。文化研の部長もなかなかの曲者かもしれない。
「ねえ、暇なら今度、いっしょに行く?」
「んー、うん。暇だし、良いよ」
ぼくは彩智の誘いに了承した。
■ 2
学生会館。空き巣注意のポスターが目立つ掲示板をスルーして、一番大きな多目的室に向かう。入り口には「第十五回協賛展示会」と掲示されていて、中に入ると客は少なかった。
ぼくと彩智は受付に名前を書いて中に入る。
申し訳程度に設置されたパーティションで三つのスペースに区切られた会場。それぞれのスペースで作家ごとに分けて作品を展示している。パーティションは不格好だったが、会場設営はやはり手馴れていて、そこそこに見応えを感じた。と言っても、今日の目当ては猫人形なので、ひとまずはまっすぐそこに向かう。
「猫かわいいねぇ。癒されるー。そういえば坂上くんって、猫派? 犬派?」
「どうだろ。動物はあまり好きじゃない派かな。嫌いってことはないけど、わざわざ苦労して飼いたいとは思わない、くらい。猫は可愛いと思うけど」
「猫は猫を好きになったりはしないよね」
「どういう意味?」
などと会話しつつ、表情豊かな猫人形を順番に見ていく。表情豊かな、というのはもちろん比喩で、確かに猫たちの表情も豊かではあるのだが、それ以上に丁寧に表現されているのは仕草だった。じゃれあっていたり、伸びをしていたりする猫たちは、一目見て作りものだと分かるのだけど、まるで生きているかのような躍動感を感じる。これは見に来てよかった。
猫人形もそこそこに、他の作家の作品もみてみる。二人目の作家は
どの人形も着飾っていて、囲まれているだけで別次元に迷い込んだような錯覚に陥る。距離感が狂うというか、立ち位置が曖昧になるというか。
「うわー、どの子も可愛いね」
「人形好きなんだっけ?」
「女子ってわりと人形が好きな子は多いんじゃないかなー。ていうか、女の子は子供の頃から人間に興味がある子が多いんだよ。だから人形で遊ぶんじゃないのかな」
「へえ、そんなもんなのか」
「ほら、この作者さんも女の人みたいだし」
そう言って彩智が示したのは、作者について簡単に書かれたパネルだった。写真こそないものの、略歴と写真集について記されている。プロフィールの欄には、確かに「女性」とあった。
「へえ。人形の写真集があるんだって。買っちゃおうかな」
「珍しい本って探すの大変だと思うけど。この辺りの本屋に置いてるのかな」
「? ネットで買えばすぐだよ?」
昨今の若者は近代文明に毒されている。いや、近代文明に毒されているのが若者らしさだとするならば、むしろぼくの方が年寄りということになるのか。
やがてぼくと彩智は二人目の作家の、最後の作品にまで辿り着く。黒く大きな瞳の、長い黒髪の人形だった。他の人形はそうでもなかったのだけれど、その人形からはどこか不気味な印象を受けた。見ていて落ち着かないというか、心がざわざわする。血のような彼岸花の模様が施された、白い
まるで恋に落ちているような。
「気に入ってくれたかな?」
ぼくと彩智が人形に見とれていると、背後から声をかけられた。振り返ると、少々――いや、かなり奇抜なファッションの女性が立っていた。背が高くて、左手は落ち着きなくピアスをいじくっている。指が長い。
「気に入ってくれたかな?」
女性は再びそう言った。彩智ではなくぼくを見ていた。
「ええ、まあ。可愛い人形ですよね」
「可愛いなんて言ったらもっと惚れちゃうよ。君、名前はなんていうのかね」
「ぼくですか? ええと、坂上ですけど」
「坂上……坂上……ふうん、逆神ね。わたしはね、名前というのはそのものの運命を表すと思っているのだよ。さしずめきみの運命は、幸福と不幸の非対称性にあるのかもしれないね」
何を言ってるんだこの人は……? いや、というか誰だ。こんな奇抜で背の高い女性、学内で見かけたらなかなか忘れられない。ぼくはあまり周囲を観察しているタイプではないけれど、それでもだ。
「あの、もしかして
「うん? そうだよ、まあ、そうだね。わたしが薄葵問目だ。いや、もちろん薄葵問目というのは作家としての名前で、本名は別にあるのだが……。それは、話の本筋ではないので今はどうでもいいことだ」
薄葵さんはずいと近づいてきて、ぼくに顔を寄せてきた。かなり近い。切れ長の目がこちらを覗き込んでくる。けれどそれも一瞬で、ふらりと離れて、彼女はぼくたちが見ていた人形に近づいた。
彩智がぼくの袖を引っ張って、かすかに身を寄せてきた。薄葵さんを警戒している。気持ちはわかる。正直、あまり近寄りたくない属性の人だ。
「人間と人形の違いは変化の有無だと考える人は少なくない。けれどね、人形が変化しないということはないし、人間が変わり続けるということもない。わたしに言わせれば、人形も人間も変化するよ。ただ少々、人形の方が頑ななだけで」
「はあ。えっと、何の話でしょうか」
一歩距離を取る。この人は遠くで見ていたいタイプの人だと直感した。直接会話をすべき相手じゃない。
薄葵さんは振り返って、左手で左のピアスをいじりながら言った。
「わたしはね、かならず未完成の作品を一つ、こうした展示会に出すことにしているんだ。今回の場合、その未完成の作品というのが、この子なのだよ。未完成なので名前もない」
言われてみると、確かに最後の人形の前に設置されているプレートには、何も記入されていない。他の人形には、鈴蘭とか杜若とか、名前があったのだけれど。
「あの、この子はどこが未完成なんですか?」
彩智がぼくの影から身を乗り出すようにして尋ねた。薄葵さんは薄い唇で笑みを作ってから、彩智に視線を向ける。
「この子にはまだ心が伴っていなかったんだ。先程も言ったが、人形は頑なだからな。一度決めた心はなかなか覆らない。だからわたしは、無理に心を込めるのではなく、人形に心が備わるまで待つのだよ」
「心ですか」
「そう、心だ」
薄葵さんはうっとりとそう言った。そして、会話は途切れる。ぼくも彩智も、いまいちなんと返せば良いのかがわからなかったからだ。戸惑っているぼくたちに、薄葵さんは「引き止めて悪かったね」と肩をすくめてみせた。
「熱心に鑑賞してくれていたから、つい声をかけたのさ。話を聞いてくれてありがとう。悪いね、デートの邪魔をして」
「……デートではないです」
彩智は律儀に訂正した。
ちなみに、三人目の人形作家は雛人形を専門にしていた。
■ 3
インターフォンの電子音で目が覚めた。
六月に入ってからは雨の日が増えていて気が滅入るが、この日は比較的晴れていた。雲が少なくはないが、雨は降らないだろうという程度の空模様。カーテンを開けて外の様子を確認してから、玄関に向かう。
「坂上さんですね。宅急便です。受け取りのサインをお願いします」
「あ、はい。……えっと、誰からですか?」
ぼくに荷物を送る人物に心当たりがない。母さんは一人暮らししたのなら自分で全てまかなえという主義の人だし、父さんは放任主義で放浪主義だ。実家からでないとすると友人だけど、ぼくの現住所を知っているのは文倉市に来てからできた友人ばかりで、わざわざ荷物を送ったりはしないだろう。
荷物は、そこまで大きくはなかった。両手で抱えられる程度の大きさだ。重たい、というわけでもない。ただ、「われもの注意」のラベルが貼り付けられている。
「ええと、送り主は薄葵問目さんですね」
……あの人形作家か。なんでぼくの住所を知ってるんだ。
突っ返すわけにもいかないので、ひとまず荷物を受け取って部屋に運ぶ。開封すべきか放置すべきか少しだけ悩んだが、部屋の隅に未開封のブツがあるのも不気味だと思い、ひとまず中身を確認することにした。いらないものなら送り返すなり、処分するなりすればいいだろう。
カッターナイフで封を解く。なかに入っていたのは、丁寧に梱包された人形だった。
「…………」
膝を抱くようにして箱のなかに収められている。窮屈そうだ。運搬するのにこの姿勢を取らせるのは、あまり良くないんじゃないだろうか。だったらどんな格好をさせるのが良いのかと言われると、わからないんだけども。
……捨てるべきか残すべきか逡巡する。人の形のものをゴミ袋に入れるということに抵抗を感じるというのもある。それに、この人形が美しいことは、ぼくだって知っている。作品と呼べる品質の物を、いらないからといって捨てるのにも、やはり抵抗がある。
かといってぼくが持っていても仕方がないし、そもそもどうして薄葵さんがぼくにこの人形を送りつけたのかが分からない。
「……とにかく、箱から出してやるか」
人形の胴体に慎重に手を回して、持ち上げる。小さな人形の体の形が直にわかり、なぜか不安になる。吐息が首に触れた。低い棚の上にスペースがあったので、そこに座らせた。すこし手足をいじって、安定する格好にしてやる。
ぼくの手のひらはじっとりと湿っていた。
他に何かないかと思って箱の中を調べると、カードが一枚入っていた。表と思われる側は装飾が施されていて、「
ぼくは即座にスマホを取り出して、電話をかける。電話のかけかたがわからなくて少し手間取った。数コールすると相手が出る。
「やあ、早かったじゃないか」
電話番号の主は、やはり薄葵さんだった。
「何がしたいんですかあなた。なんでぼくの住所を知ってるんですか」
「なんでって、オカルト研究会の部長さんが教えてくれたんだ。ああ、オカルト研究会の部長さんは、日本文化研究会の部長さんに紹介してもらった。坂上君って有名人なんだね」
あのクソ野郎。なんてことしてくれたんだ。こんど瑞鳥をつれてスプラッタ映画を見に行ってやる。復讐だ。
「それで、なんであの人形を送ってきたんですか?」
「人形じゃない。瑪瑙だ。ちゃんと名前を呼びたまえ。わたしだって君をきちんと坂上君と呼ぶだろう?」
「……あのカード、名前だったんですか」
言われてみればそう見えるな。……電話口から溜息が聞こえた。
「あの子は君のものだよ。乱暴に扱わなければ大丈夫な造りだから、あまり保存を気にする必要はない。埃をかぶったり、水に濡らしたりすると嫌がるだろうから、その辺りは気をつけてやってくれ」
「ちょっと待ってください。困りますよ。だいたい、高いものなんじゃないんですか? 受け取れません」
「値段は気にしないでいいよ。ああ、けど、間違っても売ったりしないでくれ。それと、捨てるのも、他人に譲るのも無しだ。わかってると思うが、そんなことしたら許されないよ」
「勝手なこと言わないでください。とにかく、送り返しますから」
パキン、と音がして。スマートフォンのディスプレイが割れた。
…………、…………。
え、なんで? なにこれ。
恐る恐るスピーカーに耳を当てると、音はしない。いじくってみたが、電源が入らなくなっていた。壊れたのか。画面が突然割れたりするものだろうか。調べようにも、スマホがなければインターネットは使えないし……どうするかな。
「はあ……。なんなんだよ、まったく」
とにかく人形は返そう……。箱から出しておいてまた戻すのは無駄手間な気がしたけど、仕方がない。振り返る。人形を一瞥して、箱を見る。とにかく梱包材を広げて、人形を入れられるようにしなければ。
そう思って箱に手を触れると、箱が黒ずんだ。
「…………」
想定外のことが起こった時、ぼくは動きが止まるタイプの人間だ。
ダンボールの箱がまるで焼け焦げるように黒ずんでいく。じわじわと。焦げ臭くはない。燃えているわけではない。それなのに、黒く、黒く、朽ちていく。梱包材もまとめて黒く朽ち果てていき、数十秒でぐずぐずに崩れた。
あとには黒いゴミが残った。
なんだこれ。
なんだよこれ。
ぼくは視線を感じて、振り返る。
そこには人形が座っていた。ぼくが置いた場所から動かずに、じっとこちらを見ていた。大きな黒い瞳がぼくを見ている。なにかを問いかける仕草のように、少しだけ横に傾いだ首が、ぼくを見ている。
陶然としている様子だった人形の表情は、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える。なぜだろうか。人形の表情は固くて、変わらないはずなのに。光の加減や観察する向きで、表情が変化するように作られているのだろうか。試しにぼくはいろいろな角度から人形を観察してみたが、受ける印象は変わらなかった。つまり、怒っているような、悲しんでいるような、そんな表情だ。
どうすべきか、少し考えて。
「瑪瑙」
ぼくは人形の名前を呼んだ。
人形の表情は変わらなかった。
■ 4
数日後の夕方、なんとかスマホを新調したぼくが帰宅すると、部屋の鍵が開いていた。
「…………?」
不思議に思いつつも中に入ると、違和感を感じた。ほとんど物を置いていない部屋だけど、わずかに荒らされているような。
深呼吸する。ドアストッパーでドアを開けたままにしておく。靴を脱いで慎重に中に入っていく。
ワンルームなので、扉らしい扉はない。バスルームとトイレがそれぞれ区切られているくらい。部屋の中に入ると、確かに荒らされたらしい痕跡があった。引き出しや小物入れがひっくり返されている。瑪瑙は無事のようだった。
これは……ええと、空き巣か?
鍵を誰かに開けられて、中に侵入された。すでに犯人は立ち去った後みたいだ。通帳や印鑑を確認したけど、問題なくすべて揃っていた。窓を調べるが、こちらは施錠されている。どうやら部屋に侵入したのは良いけれど、すぐに立ち去ったらしい。
今のところ実害もないし、警察に届けるのは後日でいいか……。面倒だし。そう思って、コンビニで買ってきた夜食を食べて、さっさとベッドに横になった。視線を向けると、瑪瑙はこちらをじっと見ている。もう瑪瑙の顔が向きを変えたくらいでは驚かなくなった。
結局、薄葵さんに言われたとおり、処分するでもなく他人に譲るでもなく、ぼくの部屋に置いている。スマホが破壊された件と箱が黒く焦げた件の他には、大きな異変もない。嫌な感じがするわけでもなく、しばらくすると瑪瑙が座っていることにも慣れてきた。殺風景な部屋だし、人形が一体くらい座っていても良いんじゃないか、なんて思えてきた。
振り返ると瑪瑙がいつもこちらを見ている以外には、変なことは起こらない。それに、不思議と見るたびに可愛く感じられるようにもなってきた。もともと可愛い顔の人形だったけれど、尚更というか。もちろん人形の顔が変わるはずはないので、受ける印象のほうが変わっているんだろうけれど。
つらつらと考えていると、いつの間にか眠っていた。
目を覚ましたのは、何か重たいものが倒れた音と、くぐもった男の悲鳴が聞こえたからだ。
飛び起きる。照明をつける。玄関に向かう廊下に、黒っぽい服を着た男がうつ伏せに倒れていた。手足を痙攣させて、ジタバタと必至で前に進もうとしている。「うぅー! うぅー!」と、猿轡でもかまされているかのようなくぐもった悲鳴。
誰だ? なんで倒れてる?
ぼくが混乱していると、男はさらに手足をバタバタと廊下に叩きつけ、背中を仰け反らせる。体調が悪い、なんてのは飛び越えて、生死の境って感じだ。誰なのかはわからないが、救急車を呼ぼう。とっさにそう判断してスマホを手に取り、電話をかける。男はついに泡を吹き始めた。肺が痙攣しているのか、潰された蛙の鳴き声みたいな音がする。
一一九番に住所と男の様子を告げる。可能そうなら応急措置をと言われたが、素人が手を出して良いような様子にも思えない。結局、何もできずに、救急車が来るまで待った。
男が搬送されていき、それを見届けてからぼくは部屋に戻る。何かあればまた連絡が入るかもしれないと言われたけど、知らない人だったしな……。そう首を傾げていると、ふと気づいた。
瑪瑙が、男が倒れていたあたりに顔を向けていた。
「……ああ、空き巣」
ふと思いつく。
あの男は、夕方の違和感の正体だったのだ。ぼくの部屋に隠れられそうな場所は、ベッドの下くらいしかない。おそらくそこに潜んでいたのだろう。それで、ぼくが眠ってから這い出してきて、瑪瑙を取っていこうとしたのだ。ぼくの部屋で値打ちのあるものといえば、それくらいしかない。通帳は即座に発見するのは少し難しい場所に隠しているし、あまり長い間部屋を物色するとぼくが起きだすとも思っただろう。一目見て高価そうな瑪瑙に手が伸びるのは自然だ。
「……落ち着いて寝られるかな」
明日、警察に行こう。そうすれば事実関係もはっきりする。改めて玄関の施錠を確認して、ベッドに横になる。ふと瑪瑙の方を見ると、顔は再び、ぼくの方を向いていた。
■ 5
「それで、やっぱりその人は空き巣だったの」
「警察が言うには。ぼくは盗られたものはなかったけど、余罪があるだろうって話」
「空き巣が潜んでたベッドで普通に眠るなんて、坂上くん、鈍いんだね」
否定出来ない。
翌日。ぼくは彩智と昼の講義が被っていたので、昨日の出来事を聞かせていた。たまに講義が被っていると、一人でいるぼくを見かねてなのか、彩智はよく声をかけてくれる。
「けど、良かったね。あ、結局倒れていた原因はわかったんだっけ?」
「いや、全く。救急車でぼくの部屋から離れたら、すぐ元気になったって。一応検査したらしいから、その時に身元がわかったって言ってたかな」
「じゃあ、やっぱり瑪瑙ちゃんの祟りなんだね」
「祟りね……。不安だったから部長にも見てもらったけど、そういう嫌な気配はしなかったみたいなんだよ」
「ふうん?」
彩智は首を傾げる。くるくるとウェーブした髪がふらりと揺れる。次の講義は統計学だ。二人で渡り廊下を歩く。外は相変わらず梅雨時の空模様で、夕方には雨が降り始めるだろう。
「あのね、坂上くん。わたし気になってることがあるんだ」
「ん、なに?」
「薄葵さんのこと。というか、薄葵さんが言ってたこと。わたしたちが展示会であの人にあった時に、あの人、こう言ってたんだけど」
――可愛いなんて言ったらもっと惚れちゃうよ。
「あれって、不思議だと思ってたの。可愛いって、坂上くん、人形のことを言ったじゃない? 薄葵さんのことを言ったわけじゃないよね。自分の作った作品を可愛いって言われたら、うれしいだろうから、そういう意味かなって最初は思ったんだけど」
彩智は立ち止まって、ぼくを見た。
ぼくも立ち止まって、彩智の目を見返す。
「好きな人に可愛いって言われたら、嬉しいよね。だから、もっと惚れちゃうのかなって。箱が焦げたり、空き巣の人がひどい目にあったのって、
好きな人の側に居たいだけ、だったりして」
……モテ期は人生に三度訪れるという話があるけれど、必ずしも人にモテるとは限らない。
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