005 衆目性インプリンティング

■ 1


「悪天?」

「そう、悪天。悪辣の「悪」に天元の「天」で、悪天」

「その説明はむしろわかりにくいが……」

 水曜日の昼。瑞鳥みずどりと二人で昼食を取った後、僕は彼女から今週末の予定を尋ねられた。この間の集団ストーカーの事件が解決したので暇だと伝えると、瑞鳥は演劇部の公演があるので、一緒に見に行かないかと誘ってきた。

 悪天、というのは公演の名称である。演目といえば良いのだろうか。

「週末って、日曜日でいいのか」

「あ、一緒に行ってくれるんだ。そうそう、日曜日の十九時スタートのやつにしようかなって思ってるんだけど」

「十九時って、遅くないか」

「いいじゃんかー。坂上くんと私の仲だろー?」

 瑞鳥ははじめからぼくが断ることなんて頭にないみたいに、屈託のない顔でニコニコとしている。こういう瑞鳥の裏表のなさは、毒だ。本当に裏表がないならば良い友人だろうけれど、こいつのこれには裏がある。ぼくはいやというほどそれを知っていた。

 生まれながらに嘘をついている……いや、生まれながらに隠し事をしているというか。隠し事に慣れているというか。

「まあ、いいよ。場所は?」

「やったね! えっとねー、十束プラザホールだから、綿貫わたぬき駅前で待ち合わせがいいかな? あ、それとも坂上くん、車出してくれる?」

「ぼくは車なんて持ってないぞ」

「知ってる。冗談だよー。あ、他の女の子は誘っちゃダメだよ。今回は私とデートだからね」

 瑞鳥とデート……? 火星に一人で取り残されたほうがまだマシじゃないか?

「……じゃ、待ち合わせ時間なんかはまたメールするね。あ、夜はバイトとか入れちゃダメだよ。せっかくだし、一緒にごはんでも食べにいこう」

「別にいいけど……」

 珍しいな、瑞鳥がぼくをこんなふうに誘うなんて。先月の頭なんて、ぼくを肝試しに誘っておいて、瑞鳥自身は来ない始末だったし。

「やったー! この間、お仕事手伝ってあげたんだから、日曜日は坂上くんのおごりだからね」

「それは所長からちゃんと報酬が出てると思うけど……」

「もらってませーん。あ、唯峰さんがくれなかったんじゃないよ。私が受取拒否したの。あとで坂上くんに請求するのが筋だと思ってね」

「……そうかよ」

 あの件はぼくが無理を頼んだ部分もあるし、そう言われると言葉も無い。


■ 2


「そういうわけで、日曜日は空いてないんだよ」

「ふうん。輪廻りんねとデートなんだね。へえ。そう」

 全学部向けに公開されている解剖学の講義室に向かっている途中だった。手書きのレジュメを使うことで有名な教授が担当している。

 ふと隣を見ると、彩智の表情には険があった。体調でも悪いんだろうか。そう思っていると、彩智がチラリとこちらを見て、溜息をついた。

「もういいよ、坂上君。私が悪かったよ」

「え、何が?」

「……演劇部のっていうと、悪天だっけ? ポスター、掲示板に貼ってあるよね」

「あ、そうなんだ。掲示板、全然見ないからさ」

「坂上君、普段は案外抜けてるよね。周囲を観察していないし、人の気持ちに気づかないし」

「昔からよく、鈍感だって言われるよ」

「ポスターには土曜日と日曜日の公演で、全部で三回やるって書いてたよ。日曜日の十九時からは、最後の公演だね」

 ふうん、なるほど。プロの公演ならもっとやるんだろうけど、大学生のサークルがやるんだったらそのくらいの日程が限度かもしれない。夏休みでもないし、平日は講義があるからな。キャストの日程を揃えることも難しいだろう。

「ほら、こっち」

 彩智が次の講義室へのルートからそれて、階段を降りる。踊り場の掲示板には、「悪天」という二文字が明朝体でレイアウトされたポスターがあった。

「けっこうおどろおどろしいよね」

 彩智の言葉にぼくは頷く。ポスターには黒い空と、雷、それから翼の生えた人型の像が配置されている。黒い空の部分に白抜きで公演の情報が掲載されていて、それによると、確かに日曜日の十九時は最後の上演のようだ。

 作・光音浮揚、演出・朴寺目白。

「天使、かな。これ」

 思わず彩智に尋ねた。ポスターの中心にレイアウトされている、翼の生えた像のことだ。最近、天使という言葉があまり良い使われ方をしていない事件があったので、気になってしまった。

「そうじゃないかな。演劇部の制作物は毎年デザインがしっかりしてるらしいよ。そういうのに詳しい友達が言ってた」

「ふうん……。作、って、脚本を書いた人ってことなのかな。えっと、光音みつね浮揚ふよう、であってる?」

「うん。少しだけ有名人だから、聞いたことあるの」

「有名人?」

 ぼくは全く知らない名前だ。彩智はぼくを見る。

「ほら、ゴールデンウィークに落書き事件が起きたよね」

 落書き事件……えっと、なんだっけ? 瑞鳥が少しだけ話していた気がするな。確か、工学部棟の壁面に黒いペンキで変な図形が描かれてたってやつだっけ。ちょうど広場の真正面で、話題になったとか。インターネットにも写真がアップロードされたらしいけど、ぼくは見てないんだよな。

 彩智はぼくがよく知らないことを察してくれたのか、補足説明を加えた。

「魔法陣みたいな図形でね、すごく緻密で複雑だったんだよ。それで、光音先輩はそれをって、主張してたみたい」

「消さないように?」

「そう、消さないように。別に光音先輩が描いたわけじゃなかったみたいだけど」

「どういうこと? なにか、その光音って人の知ってる絵だったの」

「うーん、そのあたりは私もちょっと。最後には学生課に説得されて折れたみたいだけど」

 そもそも工学部棟の壁面はその人の私物ってわけじゃないんだから、きちんと説得した学生課がすごい。問答無用で消してしまっても文句を言われる筋合いはないだろう。

 彩智がポケットから取り出したスマホを操作し始める。すぐに画面をこちらに見せてきた。ぼくは彩智と顔を並べて、ディスプレイを覗き込む。

「ほら、これがその図形だよ」

 見上げるようなアングルで撮影された工学部棟の壁面に、奇妙な図形が描かれていた。二重円の内側に数本の線が描かれていて、確かに図形にも見えるが、何かの絵のようにも見える。外側の円と内側の円の間にはヘブライ文字のようなルーン文字のような、奇妙な文字が描かれていて、オカルトの匂いがする。

「何人かはこれを見て気分が悪くなっちゃったんだって。わたしは平気だけど、坂上君は?」

「ぼくも平気だよ。写真で見る限りは。ぼく、そんなに感受性が強いほうじゃないし、何かあっても何も感じないだろうけど」

「ああ、そういえば坂上君、鈍感だっけ」

 彩智は意地悪く微笑んだ。

「それはそうと、日曜日がダメなら別の日はどうかな。なんなら平日でも良いんだけど――」

 彩智が言いかけた時、スマホが鳴った。ディスプレイを見ると、バイト先からだった。何か緊急の要件かもしれない。

「ごめん、彩智。ちょっと電話に出てくるね」

「……いってらっしゃい」

 ――電話の内容はなんでもないものだったけれど、戻ってきてからしばらく、彩智がトゲトゲしかった。


■ 3


 十束プラザホール。そんなに大きくないホールで、三百人ほど入れるらしい。受付でお金を払って、チケットを受け取る。チケットもポスターと同じようなデザインで、デザイン担当者の仕事ぶりが伺えた。二人で二千円。

「おー、力入ってるなー。楽しみだね、坂上くん!」

「そうだね。盛況みたいだし」

 観客席は九割ほど埋まっていた。二百人以上は集まっているということだ。前二回の上演でもこれくらいの人が集まったのだとしたら、合計で七百人弱が、彼らの演劇を見に来た計算になる。

 七百人。

 ぼくの人生、小学校から会話したことのある人を全部合わせても、そんなにいないと思う。

 チケットに席の指定はなかったけれど、早く入った人のほうがいい席に座るのは順番だから仕方がない。ぼくと瑞鳥は後ろの方に座った。ここもそんなに悪くはないなと思いつつ、ステージの方を見る。

 ステージの幕は降ろされている。

「あ、坂上くん。わたし、ちょっと飲み物買ってくるよ。これ持ってて」

 俺が返事をするより早く、瑞鳥は手提げかばんをぼくの膝の上に置いて、さっさと席を立って出て行った。かばんを他人に預けるなんてぼくには信じられないことだが、瑞鳥はその辺、ルーズなところがある。信用されているのか、警戒されていないのか、判断が難しいところだ。

 女物の鞄を膝に抱えているのは、少し落ち着かない。自意識過剰だろうけど。

 ちらりと時計を見ると、上映まではもう少し時間があった。

せわしないな……」

 瑞鳥はいつもそうだ。初めて会った時から、落ち着きがないというか関心の移り変わりが早いというか、良く言えばエネルギッシュ。

 瑞鳥が戻る前に上演が始まってしまった。

 最初は簡単な注意事項がアナウンスされる。携帯電話の電源を切るようにとか、飲食物の持ち込みはご遠慮くださいとか、そういったことだ。

 ……瑞鳥、買ってきた飲み物はどうするんだろう。案外、出入り口で止められて、先に飲んでいる途中かもしれない。

 演劇が始まった。幕が上がる。誰もいない舞台の後ろに、ポスターにも使われていた天使の像が置かれている。語り部の台詞が流れる。どうやら語り部は人間に絶望しているらしい。いかに人間に絶望しているか、訥々とうとうと語られる。


「人はいつも不安定な世界に生きている。雨雲に覆われた空しか知らない。けれど僕は覚えている。あの雲の向こうに広がる青空を」


 やがて二人の男が舞台に登る。一人はボロをまとっており、もう一人はしっかりとしたスーツ姿だ。二人は天使の像の前に立つ。どうやら、雨宿りをしているようだ。

 男たちは始め、お互いを警戒していたが、やがて身の上話を始める。

 スーツの男は油絵を売っている人物らしい。今も絵をひとつ持っていて、雨で傷んでいないか不安だと言った。絵の値段は、ボロの男にひっそりと伝えた。ボロの男の反応で、かなり高額であることが観客にも伝わる。

 一方、ボロの男は世捨て人のような生活を送っていた。仕事を首になり、妻子に逃げられ、酒に溺れて、ホームレスのような生活をしているらしい。彼の語る悲劇には感情が篭っていて、演技だとわかっていても心を揺さぶられた。

 舞台が暗転し、スーツの男にスポットライトが当たる。

「この男はなんと哀れなのだろう。しかし、彼はきっとこの絵画を狙うに違いない。ああ、親しくなったからといって、安易に値を教えた私が愚かだったのだ。どうにかしてこの場から逃げ出さなければ、絵画を奪われるかもしれない」

 そして今度は、スポットライトはボロの男を照らす。

「俺はなんて運がいいのだろうか。昔、俺は絵を描いていた。もう筆を持つことはないと諦めている。しかし、彼の持つ絵画を見れば、自ら絵を描かずとも、この衝動の一端でも満たせるかもしれない。どうにかして見せてもらえないだろうか」

 それから二人の男は、絵画をめぐって言葉巧みにやりとりを重ねていく。……だんだんとそのやりとりはエスカレートしていく。二人の男は絵画をめぐってだんだんと我を失っていき、ついに狂乱したボロの男は、スーツの男を殴り倒してしまう。

 雨の中、倒れるスーツの男。始めこそボロの男は後悔していたが、すぐに絵画に感心が移る。殺してしまったのだから、絵画を見なければ損だと思い直した。そして、スーツの男が持っていた絵画を持ち運ぶための鞄から、その絵を取り出して、掲げた。

「これこそが、俺が見たかったものだ! これこそが、彼の命だ! この絵画にはすでに、彼の命の価値がある! 俺の殺人の価値がある!」

 掲げられた絵が、見える。ぼくにも見える。観客席に向けて、その絵画は掲げられたからだ。

 そこに描かれていたのは、あの図形だった。遠目なので正確には見えないが、特徴から明らかにそう感じられた。そうだ、あの絵には価値がある。命の価値があり、殺人の価値がある。

「この絵を!」

 男が叫ぶ。

「この絵画を求めるものよ!」

 ぼくに呼びかけられている気がした。ぼくは舞台の目の前の座席で、その絵画を見上げていた。立ち上がりそうになる。けれど、立ち上がることができない。

 瑞鳥の手提げかばんを預かっていた。これを置いて座席を立つことはできない。

 体が熱い。熱狂していた。熱に浮かされていると自覚する。

 赤い線で描かれた図形だ。二重円の内側に何本かの線が描かれている。文字もだ。あれはそう、古い人々の文字だ。

 周囲の観客が立ち上がる。隣の観客も立ち上がった。ぼくは立ち上がった観客たちに囲まれている。ぼくも立ち上がるべきだけれど、立ち上がることはできない。そうすれば、瑞鳥のかばんを放り捨てることになってしまう。観客たちは拍手を始めた。熱狂的な拍手だ。

「この絵画を求めるものよ! この絵画を求めるものよ! この絵画を求めるものよ!」

 男の叫びが頭に響く。反響する。平衡感覚が失われる。熱い。熱い。熱い。空調がぶっ壊れてるんじゃないのか。観客たちは三本指の手を頭上に伸ばしてしきりに打ち鳴らしている。ぼくの目は絵画に釘付けになっている。

 やがて男は絵画を叩き割った。男の顔は憤怒に燃えていた。目を爛々と輝かせた。すべてを失って枯れてしまった男は、絵画によって再び血を得たのである。ボロを脱ぎ捨てた男は、筆を取り出す。舞台に横たわったスーツの男から流れ出る血液を筆に染み込ませ、そして壁に図形を描き始めた。

 力強い筆使いだ。腕の筋肉が膨らみ、素早く振るわれる。指先まで繊細に操られ、線を描いていく。血で描かれたその図形こそが、価値あるものだ。ぼくは男の筆使いを、それそのものが芸術であるかのように、観察した。いや、芸術なのだ。芸術を生み出すということもまた、芸術だ。そうでなければ、なぜここまで心惹かれるのだろうか。瑞鳥のかばんさえ無ければ、ぼくはきっと舞台に登って、自ら筆を執り、あの芸術に加わっていただろう。そうできないことが惜しいとさえ感じた。

 男の動きが止まった。書き上げたのだろうか。いや、ちがう。不完全だ。最後の仕上げが残っている。無数に絡みあった線を、小さな円で結びつける工程が。男は呟く。小さく、か細い声で。――

 そして、ゆっくりと振り返った。落ち窪んだ瞳がぼくを見る。観客席の中心にいるぼくを。舞台の目の前にいるぼくを。観客たちは静かにぼくから遠のいた。衣擦れの音だけが聞こえた。ぼくは、瑞鳥のかばんによって、石の座席に釘付けにされている。

 舞台の上の男が筆を差し出した。スポットライトが熱い。焼けるようだ。頭の芯が、熱で凝固していく。

 ぼくは筆に手を伸ばす。けれど、男が腕を伸ばしても、ぼくが腕を伸ばしても、筆を手に取ることはできない。少しだけでも腰を浮かせれば、それで筆を執ることができるのに。ぼくが仕上げることができるのに。この可哀想な男のために、封じそこねた男のために、ぼくはこの図形を描き上げなければならない。

 ――描き上げなければならない?


 ――


■ 4


「坂上くん」

「…………」

 瑞鳥の声でぼくは目を覚ました。……目を覚ました? ぼくはいつから眠っていたのだろう。隣を見ると、瑞鳥が不思議そうな顔でぼくを覗き込んでいた。

「上演、終わっちゃったよ。結局、飲み物持ったままだと入れなくてさー。私、見るの諦めちゃったけど。三十分くらいの演劇だったし」

「……そう、か。ぼくも、寝てたみたいで」

「そうみたいだねー。あとで坂上くんにどんな内容だったか聞こうと思ったのに。あ、かばんありがとね」

「ああ、うん」

 ぼくは瑞鳥にかばんを手渡す。それから立ち上がろうとして、掌が汗で濡れていることに気づいた。……それどころじゃない、全身汗びっしょりで、酷い有様だ。空調はちゃんと機能していて、少し肌寒いくらいなのに。

「坂上くん、汗酷いね。風邪ひきそう。ちょっとまってね、ハンカチくらいなら持ってるから」

 そう言って瑞鳥が手提げかばんをまさぐる。ハンカチを取り出して手渡してくれたので、それを受け取ろうとして、ぼくはなぜかペンを持っていることに気づいた。いつも胸ポケットに挿しているボールペンだ。

 どうして手に持っているのだろう?

 疑問に思ったけれど、とりあえずハンカチを受け取って、ボールペンを胸ポケットに戻す。ハンカチで汗を拭って、ポケットにしまった。

「洗って返す。ありがと」

「どういたしまして。けど、今日は帰ったほうがいいかも?」

「……いや、大丈夫。この後も付き合うよ。ご飯食べに行きたい、って言ってただろ」

「うむ、そうであるぞ」

 瑞鳥は嬉しそうにはにかんだ。

 二人でホールを出る。すでに客はまばらで、演劇部も撤収を始めているみたいだった。受付の人に、ありがとうございましたと頭を下げられる。

「あ、古谷ふるや先生だ」

 瑞鳥がそう言ったので視線を追いかけると、確かに解剖学の古谷教授が立っていた。演劇部らしき人と話しをしているので、関係者なのだろうか。講義を受講しているだけとはいえ、二年ほどの付き合いだ。挨拶くらいはするべきだろうか。……そう悩んでいるうちに、教授は関係者用の通路に入っていってしまった。

「古谷先生、演劇部の顧問なんだよ。公演はいつも見に来てるんだって」

 知らなかった。あの人、演劇部の顧問だったのか……。

「珍しいね、サークル活動に顔を出す教授なんて」

「古谷先生自身が芸術系の出身みたい。流石に手伝ったりはしてないと思うけど、人気もあるから、アドバイスを求められることもあるって言ってたよ」

 古谷先生は年齢の割に若作りだ。もう四十代になるはずだけれど、見た目は三十代前半くらいに見える。気さくで親しみやすい人柄もあって、人気があると言われると納得してしまう。

 それから、瑞鳥の案内で個室のある居酒屋に入った。ぼくは外で食事をとる機会があまりない。それこそサークルにでも入っていれば、飲み会の機会も多いのだろうけど。

「おっしゃー、坂上くんのサイフでたらふく食べるぞー!」

「ほどほどにしてくれ……。バイトの実入りはたしかに良いけど、それでも裕福ってわけじゃないんだ」

「はいはい、わかってるってー」

 本当にわかってるんだろうか。瑞鳥は聞き慣れない料理の名前を唱えて、さっさと注文を終えてしまった。ぼくはとりあえずお茶を頼む。ちなみに瑞鳥は生ビール。

 しばらくしてお茶とビールとお通しが運ばれてくる。ビールとお通しがぼくの前に、お茶が瑞鳥の前に置かれた。瑞鳥は何も気にせずぼくの前に置かれたビールを手にとって、乾杯と言った。ぼくはお茶を一口飲んで、胸ポケットからボールペンを取り出した。

「それで、結局どんな話だったの、悪天って」

「ん、なんだろうな。最後の方は寝てたからわからないけど、前半は二人の男の騙し合いというか、化かし合いというか、そういう話だったよ。一人は絵を持っていて、その絵を見せたくない。で、もう一人は絵を見たい」

「ふんふん。それで?」

「で、絵を見たい方がもう一人を殴り倒しちゃうんだよ。それで、絵を取り出したんだ。そのあたりで寝ちゃって、あとはあんまり覚えてないんだけど」

 嘘だった。単に、どこからが夢で、どこまでが演劇の内容だったのか、わからないだけだ。

 ……結局、あの絵はなんだったのだろう。どこからどこまでが現実だったのだろう。それが少しだけ気になる。けど、今回のことはぼくのこととは関係がなさそうだし、単に体調が悪くて変な夢を見ただけかもしれないし……。とにかく、あまり気にしないほうが良いだろう。

「へえ。まあ、わたし、もう一回見てるから、内容は知ってるんだけどね」

「……は?」

 瑞鳥が愉快そうに口角を釣り上げた。

「実は、今日の昼にも見たのでした! いえい」

「……なんでまた」

「驚きが少ないなー、坂上くんは。そういうところ、坂上くんのいいところだけど、悪いところだとも思うよ。……えっとね、単に二回見たかっただけだよ。

 これこそが、俺が見たかったものだ! これこそが、彼の命だ! この絵画にはすでに、彼の命の価値がある! 俺の殺人の価値がある! ――っての、すごかったし」

 陶然とした表情で、歌うように演劇の台詞を真似る瑞鳥。なかなか様になっていた。演劇の経験でもあるのだろうか。考えてみれば、瑞鳥は高校の文化祭で劇の主役をやるタイプの人間だ。素人なりに経験があっても不思議ではない。

「じゃあ、逆に教えてくれよ。ぼくが寝てて見逃した部分の話」

「ん、そうだね。まあ簡単な展開だよ。ボロの男は絵画を見るんだけど、なんとその絵画は、自分の作品だったの。そのことに気づいた男は愕然として、自分がしてしまったことに震えるのよ。熱が冷めて、こう呟くの。――この絵画に、彼の命の価値はあるのか、って」

「…………」

「ああ、悪天が晴れた。あれこそが天使のはしごだ。彼を迎えに来たのか。なんと美しい空だ。絵画に彼の命の価値があるのではない。この空こそが彼の命の価値だ。ならば、無知蒙昧な俺は、天使に切り裂かれるべき、悪天なのだ」

 瑞鳥は、おそらくは役者の台詞を真似て、語ってみせる。余韻。そして、息をついた。

「まあ、そんな話。元ネタは無知の知かな? 己が悪天であることを知れ、みたいな感じの」

「哲学っぽいな」

「ソクラテスだからねー」

 瑞鳥はビールを飲み干して、追加注文をする。注文を取りに来た店員が小さな悲鳴を上げたけれど、虫でもいたのだろうか。


■ 5


 完全に酔いつぶれた瑞鳥をぼくの部屋に運ぶか、瑞鳥の部屋に送り届けるか、という究極の選択を迫られたぼくは、瑞鳥の部屋まで運んだ上で彩智に連絡を取るという手段を思いついた。我ながら完璧な案だ。

 瑞鳥に肩を貸して歩く。重いので息が上がる。それにしても、瑞鳥の体は柔らかい。どんなに破天荒な性格をしていても、女の子なのだと思い知らされる。

 夜道を歩いて瑞鳥の住む部屋までたどり着いた。殺風景なコンクリート造りのマンションで、瑞鳥はその六階に住んでいる。ちなみにこのマンションは六階建てだ。

 エントランスのオートロックは瑞鳥のポケットから拝借した鍵で突破し、ロビーを通ってエレベーターに辿り着く。ぼくのマンションにはない監視カメラにプレッシャーを感じつつ、エレベーターの六のボタンを押した。

「うへー、坂上くん、くすぐったいよー」

 にへら、と笑う瑞鳥。怖いんだけど。

 程なくしてエレベーターが到着し、ぼくは廊下に出る。瑞鳥の部屋のネームプレートには、名前ではなく奇妙な模様が描かれている。それを確認して、鍵を開けた。中に入って照明のスイッチを入れる。本に埋もれて足の踏み場もない部屋がぼくを出迎えた。

「おい瑞鳥、少しは掃除しろよ」

「あれぇ? なんで私のへや? 坂上くんのへやじゃないの?」

「なんでお前をぼくの家に連れて行くんだよ……。後で彩智に連絡しとくから、それまで寝てろ」

 ぼくは本を蹴散らしながら進み、ベッドに瑞鳥を放った。その頃には描き上げていたので、ポケットからスマホを取り出して、瑞鳥を抱えていたために疲労している左手で、彩智の番号を呼び出す。最近やっと操作法をマスターしたのである。

 緑色の通話開始ボタンを押そうとした。

 瑞鳥が起き上がって、ぼくのスマートフォンを掴んだ。それだけじゃない。右手まで掴まれている。ぎょっとして瑞鳥を見た。俯いていて、表情が読めない。

「……

「は? え、どうした瑞鳥。どっか悪いのか?」

 ぼくはそう言った。

 冷や汗が吹き出す。

「全部で百十二個。正直十個くらいで確認は十分だったけど」

「何言ってんだよ、瑞鳥。まだ酔いが回ってるんだろ。変なこと言ってないで、眠ってろって」

「坂上くんを放ってすやすや寝ちゃうなんて、私にはできないかなー」

 瑞鳥が顔を上げた。酔いは醒めているようだ。もしかしたら、最初から酔ってなどいなかったのかもしれない。

「坂上くん、良く見て。右手を見て。ねえ、ちゃんと見て、自分がなにをしているのか」

 右手。

 右手は――右手は、ペンを操っている。

 腕を掴まれていても、指先を動かせば、ペンは操ることができる。――どうして? 右手が握っているのは、愛用のボールペンだ。白いベッドシーツに、例の図形を描いている。

 悪寒が全身を走り抜けた。なんだこれ。

 そして気づく。瑞鳥の着ているシャツの腹部にも、いくつもの図形が描かれていた。ぼくの右手は酔った瑞鳥を支えるのではなく、この図形をひたすら描いていたのか。

 視線を彷徨わせる。瑞鳥のかばんだけは無事だった。

「展示会のチケットにいくつも描いてたよ。居酒屋についてからは、テーブルにも無理矢理。それから、かたっぱしからペーパーナプキンを広げて、そこにも。店員さんの顔が引きつってたけど、気付かなかった?」

 ――気づいた。気づいたのに、無視していた。

「お前、数えてたのか」

「まあね。わたしのお腹にも描き始めるから、くすぐったくて我慢するのが大変だった」

「……これは、なんだよ」

「たぶん、呪いの一種じゃないかな? むしろ、精神性の感染症? ミームの妖怪かも。坂上くん、相性が良かったんだよ。鈍いのに相性が良いから、異変に全然気づかない」

 鈍感。

 彩智にも言われたことだ。そして、自認していることでもある。

 瑞鳥は続ける。

「だけど、坂上くんのおかげで犯人も分かったし、これは取り除いてあげるから安心していいよ」

 そう言うと、ぼくは力任せに引っ張られて、ベッドに押し倒された。ガチャリという音がする。視線を向ける。右手に手錠がかけられた。そして、その手錠はベッドのフレームに繋がれる。瑞鳥は力任せにぼくの右手首を握りしめて、手の力が弱ったところでボールペンを取り上げた。

 右腕がボールペンを取り返そうと、意識していないのに動く。――いや、ぼくが動かしているのか? 分からない。少なくとも右腕はぼくの意思に反してなどいない。どちらかと言えば、ような。

 そこまで終えると、瑞鳥はさっさとぼくから降りる。

「おい、なんだよこれ。呪いっていうなら、もっとこう、それっぽい解呪の方法があるんじゃないのか」

「いやいや、しばらく描かなかったら発作は収まるよ。あとは例の図形を見なければいいけど、んー、まあ、なんというか、坂上くんには残念なお知らせだけどさ」

「……なんだよ」

「解剖学の単位は、今期も見送りだね。というかもう、諦めたら?」


■ 6


 後日談。

「古谷先生、なんで手書きのレジュメやめちゃったのかな」

「さあ。なにかきっかけでもあったんじゃないの」

 きっかけとは要するに、ぼくが瑞鳥に、解剖学の単位が取れないのは困ると泣きついたことだ。古谷先生がどんな目にあったのかは知りたくない。

「結構好きだったんだけどなぁ」

 彩智はどこかぼんやりと呟いた。

「去年は最後まで手書きだったんだよね?」

「ん、ああ。そうだよ。テストも手書きだった。今時珍しいなって思ったけど、字は綺麗だったし、絵は言わずもがなだったから、不便ってことはなかったけど」

「羨ましいー」

 個人的にはあまりうれしくないのだけど。

 瑞鳥曰く、沈静化しているだけなので、しばらく右手で文字や絵、図形などを書いてはいけないと言われている。左手でノートを取るのは死ぬほど大変だ。その様子を見た彩智には「音声入力にしたら?」と言われたが、意味がわからなかった。

「あ、光音先輩だ。ほら、坂上くん、例の図形事件の」

 彩智が前方を見てそう言った。背の高い男子が僕達の少し先を横切った。手に持っているプラスチック製の透明なノートケースから、例の図形が描かれた図形が透けて見えた。

 大事そうに、大事そうに、それを抱えている。


 ――それで、光音先輩はそれをって、主張してたみたい。


 あの図形がすべて消えると、とんでもないことでも起こるような。そんな気がしたけれど、ぼくは気のせいだと頭を振った。

「あ、そういえば。今度の日曜日こそは暇かな、坂上君?」

「暇だよ。ああ、けど――」

 ぼくは思わず深い溜息をついた。


「――演劇とか、美術館とかのお誘いなら、遠慮する」

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