014 揮発性レイン
■ 1
ひどい雨の日だった。文倉市の中心を走る
「ねえ、途中でみたんだけど、
「こわっ! まじ? ええー、私、自殺とか絶対ヤダ」
「私もー。生きてりゃ良いことあるのにね。もったいない」
…………。
なんとなくもやもやした気持ちになりながら、天渦といえば、坂上先輩と一歳先輩がでかけたギャラリーがそっちにあったな、などと思い出す。あの二人は、果たしてどこまでいっているのだろうか。付き合ってはいないのだと一歳先輩から聞いているけれど、一歳先輩が坂上先輩を好きなのはもう周知の事実(知らないのは坂上先輩くらい)なので、見ている側としては「さっさとくっつけ」と思う。
ちなみに私の友人に三剣梨々花という子がいて、その子も坂上先輩のことが好きなのだ。朴念仁で無害そうな顔をしておきながら、やたらとモテるのが坂上先輩の特徴である。もちろん顔はキレイな方だと思うけど、タレントじみているかというとそんなことはないし、なんというか、平均より上くらいなので、顔でモテているわけではないと思うんだけどな。でも梨々花は一目惚れって言ってたっけ。一目惚れねえ……。
一目惚れ、ってよくわからない。
恋愛ってことだけじゃなくて、例えば「一目惚れして買いました」なんてものを買う人がいるけれど、ああいうのも含めてだ。要するにそれって、自分の好きに確信を持つってことだと思う。私にはそれはできない。私はどちらかというと、いろいろと考えたり悩んだりする時間を避けて、結果的に即断即決になってしまう、という感じだ。以前そんなやり方をして家選びに失敗したので、最近何かを決めるときに一瞬だけ躊躇してしまうようになってしまった。
私もいつか一目惚れすることがあるのだろうか。
人にでも物にでもいいけれど。
いつか、あっという間に何かを好きになって、しかも自信を持って「好きだ」と言える時が、来るだろうか。それがこないとしたら、もしかして、私は悲しい人間なのではないか。
梨々花からメッセージが届く。映画の上映時間を勘違いしていたらしい。集合場所を現地に変更したいそうである。
そう、今日は梨々花と二人で映画を見に行く約束をしていた。坂上先輩を誘ったらと提案したけど、私と見に行きたいのだと言われてしまった。そこまで言われてしまうと、しょうがないなって思ってしまう。別に、梨々花と出かけるのが嫌というわけでもなく、単に遠慮してしまっただけなので、彼女が良いのなら私はいつでも誘いに応じるつもりもある。
ともあれ、そういうわけで私は大画面前(皆がそう呼んでいるので私もそう呼んでいる。大きなディスプレイがある、ビルとビルの間の吹き通りになっている場所)で梨々花を待っていた。微妙に遅れそうで慌てて家を出たので、傘を忘れてしまっていた。梨々花の傘に入れてもらえばいいか、と思っていたのだけれど、残念ながら叶いそうにない。大画面前は駅の改札口と直結しているので濡れないが、映画館のあるビルまでは絶対に雨の下を通らなければならない。
うーん。
まあ、最悪、服は濡れてもいいんだけど、化粧がな……。大学になるまで化粧なんてしなかったから、雨で崩れるとどうしたらいいのかわからなくなる。どのくらい濡れたらまずいのかも、いまいちわからないし……。
高校時代にちゃんと練習しないから、こういうことになる。日本全国の高校は、化粧を推奨すべきだ。
「お困りですか、お嬢さん」
「はい?」
振り返ると、背の高いヒゲのおじいさんが立っていた。背筋をまっすぐと伸ばして、微笑んでこちらを真っ直ぐに見てくる。目元のシワが「私は優しい人間ですよ」と言わんばかりの柔和さを演出していて、もうずいぶん暑い季節なのに全身を覆うカラス色のコートがよく似合っていた。暑苦しいとは思わず、むしろ涼し気な印象だ。
「雨脚が強まるばかりにも関わらず、傘がなくて途方に暮れていると見えます。よろしければ、私の傘に入れて差し上げましょうか? もちろん、こんな老人と傘を共にすることに気がすすまないのであれば、断っていただいてかまいませんが」
「はあ……」
えっと。
ううん、なんだ? これは、傘に入れてくれるっていうけど、この人の目的地はどこだろう。映画館のあるビルまでは結構歩くけど、そこまでついてきてくれるってこと? お人好しすぎるのではないだろうか。
私の警戒心を察したのか、老紳士は手のひらを見せてひらひらと振りながら、
「そんなに警戒しないでください。ただのナンパですよ。可愛らしいお嬢さんが困っていらしたので、それを口実にすこしお話できないかなと思ったんです」
と言った。
……まあ、悪い人ではなさそうだ。なんとなく、坂上先輩に似た匂いを感じる。
「言っておきますけど、私の一番頼りになる先輩は人探しのプロです。あなたが私に狼藉を働けば、地の果てまで逃げても探し出して報復することでしょう」
「それは恐ろしい話ですね。もう少し詳しくお話を伺いたいところですが――しかしお嬢さん、もう時間がないのではないですか?」
あう。そうだった。映画の上映時間はもうすぐだ。歩きでの移動だとすると、もう行かないと間に合わない。
「……それじゃあ、傘に入れていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんです」
老人は杖代わりにしていた大きな
■ 2
「煙草はお嫌いですかな」
「いえ、あまり嫌いではないですけど。私、あんまり匂いには敏感じゃないので」
「それは良かった。こう見えてヘビースモーカーでね。お嬢さんの前で吸おうとは思わないが、コートに匂いが染み付いているだろうから、心配だったんですよ」
言われて、すこしコートに鼻を近づけてみるけれど、甘いような煙いような匂いがした。不快ではない。
「煙草って何が楽しくて吸うんですか?」
私が尋ねると、老人は難しそうなバツの悪そうな顔で首をかしげる。
「さて、なんででしょうか。私の場合は、ただ格好つけたかったんですよ。今も昔も、格好ばかりつけている男なんです。本当は煙草を吸ったって、良いことなんてないんですがね。妻にもよく揶揄されていました」
「ふうん。いいんですか、女子大生と相合い傘なんてして。奥さんが怒ったりしないんですか?」
「……妻とは随分前に別れてしまいましたから」
老人は私から視線を外して、遠くを見つめながら言った。なるほど、それは怒られようがない。別れたというのは、死別ということだろうか? それとも、単に離婚したということだろうか?
「私の友達の話なんですけど」
「はい」
「さっき言った先輩に友達が一目惚れしちゃって。それで、私としては板挟みみたいになって困ってるんですけど、なんというか、困ってるといっても、嫌な感じではなくて。うーん、違うな。こういう話がしたいんじゃないんです、えっと。ちょっと待ってくださいね」
何も考えずに始めてしまった話の着地点が自分でもわからない。なんというか、自分より一回り以上年上の男性と話すのはほとんど初めてなので、調子が狂う。
「つまり、その子が私は羨ましいんですよ。好きなものを自信を持って好きって言えるの、すごいことだと思うんです」
「ああ、なるほど」老人は納得したように頷いて、おかしそうに口元を拳で隠した。黒いレザーの手袋が、微笑んだ彼に似合っていると思った。
「確かに私も、妻のことを愛していますからね。よくそれがわかりましたね」
「嫌って別れたんなら、こう、もっと嫌そうに話すかなって」
「素晴らしい洞察力です。そうですね、自分が相手のことをどう思っているのか、そしてその思いに自信を持つということ、それは本当は簡単なことなんですよ。しかし、お嬢さんには難しいことかもしれない。あなたはいつだって、他人の視線を気にしているでしょう」
どきりとする。図星だった。
私が二の句を継げないでいると、老人は沈黙を肯定と受け取ったのか、さらに言葉を続ける。
「失礼、あまり指摘されて気分のいいものではありませんでしたね。自分の洞察をこれ見よがしに話してしまうのも、単なる格好つけなのですが、どうもこの歳になると癖が抜けなくて。大変申し訳ない」
「……いえ、別にそんな。びっくりしましたけど、でも、本当のことですから。私、他人の視線が怖いんです。見られるのが怖くて」
「自分のことに気づくためには、自分以外のことを意識から外すことですよ。自分がどう感じているのか、どう思っているのか、それは孤独な時間がなければ明らかにはなりません。それを明らかにしたいと願うなら、ですが」
「人に相談してはだめなんですか?」
「だめではありません。ですが、私の持論では、人に相談することには二つの利点しかありません。一つは、自分の意思と無関係に結論を決めてもらうことができるという点。もう一つは、すでに決心してしまっている意思を発見してもらうことができるという点。どちらも重要なことですが、しかし、自分の気持ちに気付くために必要なのは、やはり孤独であると、私は考えています」
孤独……。
なんとなく、孤独は悪いもののように考えていたけれど。この人の言葉を聞いていると、孤独もそう悪いものではないのかもしれないと考えられそうな気がしてくる。
そもそも、自分の気持ちとはなんだろうか。それは例えば化石のようなもので、心の地層を掘り返すことで発見できるようなものなのだろうか。植物園で一輪の花を探し出すように、たくさんの情報の中に埋もれているものなのだろうか。
「自分の気持ちとは、音楽における主旋律のようなものでしょう。それは音楽全体の印象を決定する重要な要素です。しかし、雑音が多すぎると聞こえなくなってしまう。耳を澄ますには、音楽に集中する時間が必要です。それが、孤独なのです」
「そんなものですか」
「そんなものです。もちろん、常に孤独であれ、などとは言いません。あなたにも友人や家族が必要ですし、私にも必要でしょう。また、別れた妻にも。わたしたちは孤独を必要としていますが、孤独だけを必要としているわけではないのです」
わたしたちは孤独を必要としていますが、孤独だけを必要としているわけではない。
その言葉はすとんと私の胸に落ちてきた。
けれど難しい。私はどこにいても、誰かの視線にどこか怯えている。臆病者なのだ。どうすれば、孤独を手に入れられるだろう?
「私は孤独になりたい時、今みたいに、傘を差して雨の中を散歩していましたよ。そういえば、よく妻とも相合い傘をしましたね。雨音が他の音を掻き消してくれるのですよ。深呼吸をしてみてください」
言われるままに、息を吸い込んで、吐き出す。雨の匂いと老人の煙草の匂いが混ざり合っていた。こつこつと街の石畳と老人の革靴がぶつかる音が聞こえる。ざあざあと、雨粒が蝙蝠傘にぶつかる音が私の
そういえば、坂上先輩と相合い傘をしたことがあった。
もう二ヶ月も前になるだろうか。友達が死んでしまって、ショックで傘もささずに雨の中を歩いていたら、坂上先輩が私を見つけてくれて、わざわざ傘を差し出してくれたのである。厭世家気取りのあの人は、本当の所、とても優しい人だ。
ああ、私、坂上先輩のこと好きなんだ。
なんだか涙が出そうになった。私は、坂上先輩に守ってほしいんだ。ずっと私のことを守っていてほしい。私を守ってくれるのは、坂上先輩だけだと思っている。誰より坂上先輩の隣にいる時が安心できる。
別に恋人になりたくはないけど。そりゃあ、恋人になれたら、坂上先輩は私のことを守ってくれるだろうけど。けど恋人はなんか嫌だ。梨々花と揉めるし、一歳先輩ともいろいろ起こるだろうし。都合よく守られるだけの立ち位置ってないかな……。
「どうやらお別れの時間ですね」
老人がそう言った。わたしたちは、目的地にたどり着いていた。
■ 3
ビルのエントランスまで入ってから、老人は傘を畳む。
「ハンカチは必要ですか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「そうですか。では、代わりにこれをどうぞ。お嬢さんには不釣り合いな傘ですが、雨の日に散歩するには良いものですよ」
そう言って、老人は蝙蝠傘を差し出した。私はそれを思わず受け取ってしまう。
返そうとして視線を上げると、もう老人はいなかった。
「あ、あれ?」
周囲を見回すが、見つからない。どうやって消えたのだろうか。
「
声をかけられてはっとする。振り返ると、息を切らした梨々花がいた。夏らしいラフな格好で、通りかかった男が彼女を見ているが、しかし彼女はそんな視線に気づかない様子だ。
「早く行こ、もう時間ないよ! これ見逃したら、次は三時間後だから、おなかすいちゃう!」
「おなかすいちゃうって、その時は少し早めにご飯食べたら良いんだよ」
そう言いつつ、私は梨々花に手を引かれて、八階にある映画館に向かう。エレベーターに乗り込むと、先に乗っていた老女と目があった。彼女は私の蝙蝠傘を見て、少し驚いたような顔をした。
「あなた、それどこで」
「え、はい。この傘ですか? いえ、実はついさっき、背の高い男の人に貰ったんです。貰ったというか、押し付けられたというか」
梨々花が「なんの話?」とばかりに首を傾げているが、まあ後で説明しよう。それより、この老女だ。手には白い小ぶりな傘を下げていて、上品な服に身を包んでいる。彼女の連れだろう別の老女も、怪訝そうに私と彼女の顔を見比べている。
「……そう。そうなのね。あなた、きっとその傘を大切にしてね。それは――」老女はそこで逡巡した。「――いえ、なんでもないわ。ごめんなさいね、変なことを言って」
「いえ、はい。大丈夫です」
何が大丈夫なのだろうか。そうこうしているうちに、エレベーターは八階に到着する。
「映画?」
「はい、そうです」
「そう。楽しんでね。傘をなくさないように」
そう言われて、結局、それきりだった。老女が何を言いたかったのか、私にはわからない。けれど老女は、懐かしい人を思い出すような、遠い、諦めにも似たような目で、傘をみていた。それが印象的だった。
私は梨々花に手を引かれて、エレベーターを出た。
■ 4
それから、私は二つのものを手に入れた。
一つ目は孤独だ。蝙蝠傘をさして雨の街にいると、私は私を取り囲む視線のことを忘れられる。
そして二つ目は坂上先輩への恋しさだ。孤独は悪くないけれど、早く坂上先輩に会いたいなと思うようになった。もちろん、梨々花にも、一歳先輩にも、瑞鳥先輩にも、祈先輩にも、会いたくなるのだけど。
後から見つけたのだけれど、傘の柄にはメッセージが彫られていた。
1957 Hiroko Yamamoto
どうやらこの傘は、あの男性の持ち物ではなかったようだ。どころか、あの男性が人間だったのかも、今の私にはよくわからなくなっている。もしかしたら幽霊か、あるいはこの傘そのものだったのかもしれない。私は幽霊が嫌いだけど、そういう良い幽霊がいても、別に困ったりはしない。
一応、気になって、瑞鳥先輩にこの傘をみてもらった。けれどあの人は「これはただの傘だよ」としか言わなかったので、きっとこれは、ただの傘なのだろう。
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