八冊目  あなたにまごころ

 この時間はいつも心が安らぐ。

 というのも夕方、やっと職場から家への帰路につくことができる安堵感によるものだ。家に帰ったところで出迎えてくれるだれかしらがいる訳でもないが張り詰めている糸を切るような感覚によるものだろうか––––––まあそうなんだろう––––––一息、電車の中でつくことは毎日の生活リズムの中に組み込まれている。電車には様々な人が乗っている。紳士みたいなおじさん、学校帰りの高校生、サラリーマンに派手なおばさん、たまに見かける変な髪色のひと。携帯を弄ったり本を読んだり、静かに個人で楽しんでいるその風景が、あたしは何故か好きだったりする。でも何事にもいいことばかりじゃいられない。

 時に電車という空間は公共の場でありながら、さも己の家にいるかのように振る舞う人間が驚くほど多い。何故かは知らない。物を食べる。その食べかすを撒き散らす。成る程迷惑だ。携帯から流す音楽をヘッドホンやイヤホンできくならまだしも大音量で車内に流す。成る程迷惑だ。きつい香水の香りをばら撒く。そして何より、お酒の匂い。これだけは何よりも不快に思えて仕方がない。だからこそ。

(……………)

(悪夢だ)

 今自分が置かれている、隣に何故か座っている《酔っぱらいに絡まれる》という状況は彼女にとって不快以上の何物でもなかった。

「おじょうちゃん、どこに住んでんの?」

「……………」

「遠いの?おじちゃんの家来ない?」

「……………」

「ほら、もう夜遅いしさ、危ないよー?」

 あぶねえのはてめえの頭だ。

 座っていた席を立ち、無言で距離をとる。混雑時に席に座れる事は結構な幸運なのだが、やむを得ない。くっそ、死にやがれ。するとあいつも追いかけてくる。………まじかよ。ついてくんな。警察呼ぶぞ。

 人が混んでいる中、それを縫って移動する。あいつはふらふら人にぶつかって口からアルコールの匂いをばら撒きながら後を追ってくる。

 ついてくるな。気持ちが悪い。ついてくるな。ついてくるな。

 追ってくる。しつこく追ってくる。運転中の車両間移動は禁止されてる。端に追いやられる。

 くるな。こっちにくるな。

 追ってくる。追ってくる。気持ちが悪い、吐きそうだ。

 なんで、なんであたしなのよ。何もしてないし、地味な方でしょ。もっと可愛い子もいるんじゃないの。

 お酒だけは本当に無理だ。特にビールの匂いは尚更に。

 背中に壁がついた。逃げられない。あと1メートルもない。

 吐きそうだ。死にそうだ。吐く吐く吐く吐く吐––––––。



 毛先が金色の茶髪の、お世辞にも愛嬌があるとは言えない見知らぬ詰襟姿の高校生が、そこにいた。




「……………有り難う」

「別に」

 彼が庇ってくれたお陰であいつはもごもご言って、ばつが悪そうに次の駅で降りて行った。ちょうどその駅は多くの人が降りる駅で、車両の中はあまり人がいない。むしろ彼とあたししかいない。まあそれはこの車両だけだと思われるが。さっきあいつが撒き散らしたアルコール臭がまだ漂っている所為だろう、多くの乗客は別の車両へ移動していった。

「どこで降りんの」

「二つ、後」

「大丈夫なの」

「何とかね。あなたはどこで降りるの」

「あんたと同じ。家も近いんじゃない?送ろうか」

「お気持ちだけ」

 散文的な会話、特に何もない。けれど端の席にあたしを座らせ、その隣を守るように彼は腰掛ける。当たるか当たらないかくらいの肩の距離が暖かい。

 かくんと電車が大きく揺れて、あたしの体が斜めになって彼にぶつかる。彼は何事もなかったかのように微動だにせずあたしの体を支えた。そんな心地いい無言の中で、あたしは何故かいつも以上の安心感を感じていた。

「………駅、着いた」

「ああ、うん」

「降りないの」

「降りるよ」

 あたしはゆっくり立ち上がる。それにあわせて彼も立ち上がった。人もまばらなホームから下りて出入り口に入る。ホームの灯りが名残惜しそうにあたしを見ている。

「今日、本当に有り難う。助かった」

「別に。本当に送らなくていいの」

「うん、そこまで迷惑かけらんないし」

「あっそ」

 あたしがホームの灯りを気にしていると窮屈そうな詰襟の彼はあたしの視界から出て行ってしまった。慌てて彼の姿を目にしようと首を傾けると

「あれ」

 そこには誰もいなかった。




 ひとりで帰路につくのは慣れている。何も考えないと家に早く着く事も。でもどうしても彼のことが頭から離れない。

「……………」

 何だったのだろう。

「……………」

 そんな事ばかり考えていると、何処か近くの方から犬の鳴き声が聞こえてきた。近頃は見掛けなくなったが野良犬だろうか。

 もう夜だから早く帰れ。

 そう言われたような気がして、あたしは空を見上げた。丁度丑満時くらいだろうか。そんなことを思っても丑満時がいつかなんてあたしは知らないのだけれど。

「……………」

 早く帰るとしよう。そうして何気なく明日と明後日を繰り返そう。

 ほんの少し昔のあたしと今のあたしが違うところはきっと、いつかしれない未来を待ち遠しく思っているところだろう。

 もう帰りの電車ではうたた寝しないでおこう。あたしはそう心に決めた。


 八冊目 ×り×

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