二冊目 あめふり
その日は朝から晴れていた。
昨日の晩遅くから雨が降っていたせいだろうか、庭にはまだ乾かない大雨の痕が染み付いている。………というか、まだ雨は微かに降り続けていた。庭に咲く山茶花の葉の上で雨粒が光る。その山茶花の金剛石を輝かせているのは庭の池にぽつんと浮かんでいる灯籠だ。肘傘雨ではあっても雨の中だというのに、灯籠は濡れている様子がなく橙の光を放ち続けている。薄ぼんやりとした淡い色ではあったが、暖かさを感じさせるそれは庭全体を明るく照らしていた。
その庭の主人は藍染めの長着を着こなし、縁側に腰掛けて、どことも知れぬ何かを見つめている。何も考えていないだけかもしれないが。
「よう、主人殿。」
顔が強面である所も相まって、この主人には知り合いが少ない。切れ長の目は横目で人を見るだけで睨まれていると勘違いされる。………が、この男にだけはどうやらそれが通じないらしい。事ある毎に主人の元へやってきては世間話をし、気が済めば帰っていく。男はいつもの通り主人の隣に腰掛けた。
「奇妙な天気だな」
そうだろうか。そうかもしれない。随分と明るいが雨の匂いがする。そうだな、と心で主人はつぶやいた。
「小町がいたろう」
男の言葉に主人は考え込んだ。何分、外には出ない性分である。惚れた腫れたの話題にはなんの繋がりもない。そんな主人に苦笑して男は言った。
「前に話をした事、覚えていないか?この辺り一器量のいい娘がいると」
そんな話を聞いたような気がする。しかし気がするだけでそこからわからない。この男が話したというのであれば話したのだろう。よくわからないが、この男がいうのであればさぞ美しい娘御だろうと主人は思った。
「………昨日の騒ぎはそれか?」
漸く主人は声を出した。男は否定も肯定もしなかったが、その代わりにこう言った。
「随分と祝福されていた」
主人はその言葉に疑問を抱く。
「その割に天気が妙だ。何ぞに仕組まれたような感覚がある––––––色恋の恨みでも買ったのか、その娘御は。」
「おれにはわからないさ。––––––あんたにゃわかるだろう」
主人は目を閉じ、雨の匂いを吸い込んだ。ゆるゆると目を開け、
「やはりか………」
と、呟いた。男は主人の話を早く聞きたいようで、少し身じろぎして「………で?」と訊く。
「で、とは?」
「惚けるな。さっき《感じて》居ただろう」
「お前はどう思うんだ。」
男は少し考えて、
「小町が狐だっただけだろう? この天気の事を狐の嫁入りと言うじゃないか」
くすり。
主人はできの悪い生徒を見守るように微笑んだ。その顔が気に入らなかったようで、男は瞬く間に仏頂面になった。
「言ったろう? 誰ぞに仕組まれた様だ、と。しかも昨日から雨が降っていたんだ。狐なら祝言が決まった日の内にやるだろうさ」
「じゃあ何だ? 雨女か? 雨蛙か?」
「いいや。どれも違う」
不服そうな男を横目でチラリと見、主人はこう呟いた。
「見目形も、不釣り合いだと悟ったのだろうな。蛙のように神にも成れず、数多ある化物の一つにしかなれぬと」
「どういう事だ?」
「この雨には、恨みの匂いがしない」
男の言葉を聞かず主人は、譫言のように言葉を紡ぐ。
「悲哀と、苦しい程優しい祝福と、行き場を失った言の葉が流れている」
「言の葉?」
男の質問に主人は少し悲しそうな顔をした。
「本来なら私が言うべきでは無いのだが、
貴女をお慕いしていました、––––––とさ。」
「––––––そう、か。」
男はそうとだけ言い、
「すまなかった」
誰にともなく語りかけた。
ぱらぱら、ひとひと。
雨粒は決して強くなく、あくまでも優しく、降り注ぐ。空から太陽の光が射して雨粒ひとつひとつを金剛石のように透かし照らす。
泣いているような空、とはよく言ったものだ。
泣いているのは空か、かの哀しい物の怪か。
両方なのかもしれない。
「なあ、主人殿」
「なんだ、まだ何かあるのか」
「この雨はいつ止む」
「さあな。」
しとしと降る雨は段々と弱くなっていっている。物の怪の力も弱まってきた。主人は悲しげに、声にならない声を出した。
「切ないものだ」
雲の切れ間から光が射している。
季節外れの梅雨ももう終わりだろう。光の強さは増していき、空全体が明るくなってきていた。
何が幸せなのだろうな。なあ。
力を注いでいた者の命の終わりを示すかの様に、雨は消えていく。
「––––––彼の力が尽きなければ良いのだが」
主人が呟いたその時、雨は遂に止んでしまった。
二冊目 ×傘
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