空っぽの鳥籠

稲葉孝太郎

空っぽの鳥籠

 夏休み——高校生のボクは、お小遣い稼ぎと、あのスクリーンの匂いを嗅ぐため、地元の映画館で働いていた。もう60歳になる、知り合いのおじいさんが経営する映画館だ。古い映写機がカラカラと回って、古い映画を映している。ほとんど人気ひとけのない、異世界のような空間——銀幕という死語ですら、ここでは甦りそうな気配だ。

 おじいさんは、大のヘビースモーカー。ピースという濃紺の缶を——そうだ、紙製のパッケージなんかじゃない——1日に何度も開け閉めする。購入先は、映画館前のタバコ屋さん。そこに座っているおばあさんは、眼鏡をかけた、色白のご婦人。旦那さんは、もう亡くなっている。


「ピース」


 おじいさんはそれだけ言って、1150円を払う。ボクに支払う1時間分の給料よりも、それは高い。だってボクは、田舎の最低賃金で働いているから。高校生がプレゼントを買うには、十分な額だった。

 おばあさんはなにも言わずに、缶を置く。平和の象徴のような鳥が、金色で描かれていた。もし、しあわせの青い鳥がいるなら、こんな姿をしているだろう。タバコ屋の奥には、空っぽの鳥籠。むかしは、青いセキセイインコが入っていたらしい。それを知っているひとは、町に何人もいなかった。

 おじいさんは、缶を持って帰る。ボクが働いている映写室へ。おじいさんが缶を開けると、甘い香りが映写室に立ちこめる。だけど、ここでは吸わない。フィルムが汚れるからだ。


「好きなもん、かけてくれ」


 おじいさんはそう言って、となりの休憩所に移る。そこはガラス窓から、おたがいに見渡せる位置だ。ボクは、映写機にかけられているフィルムを、そのまま回した。それが、ボクとおじいさんの、お約束。イギリスの青春映画——おじいさんは、ガラスのむこうで、おいしそうに煙草を吸う。

 おじいさんの初恋を、ボクは知っている。あのタバコ屋のおばあさんだ。おじいさんは中学を卒業して、そのまま映画館で働き始めた。そのときから、おばあさんは、あそこで煙草を売っている。これは全部、祖父から聞いた話だ。どうしてふたりは、結婚しなかったのか。ボクは知らない。友だち以上の関係は、「ピース」のひとことでは、始まらないのかもしれない。おばあさんはべつの男性と結婚して、おじいさんは生涯独身だ。そして、40年以上のあいだ、客と店員の関係を続けた。自分たちの恋心は、勘違いだったとでも言うように。

 銀幕のなかで、ふたりの少年少女が、結婚式をあげている。子供たちだけで。おとなたちは、みんな逃げてしまった。大団円を迎え、クレジットが流れ、映画館は暗くなり、ボクはその日のお給料をもらって、映画館を出る。タバコ屋のまえを通り過ぎて、これから同級生のもとへ——片恋の少女のもとへむかう。


 チルチルとミチルは、しあわせの青い鳥を飼っていた。でもそれは、籠のなかに鳥がいたから。ボクの鳥籠になにが入っているのか、それは、だれも知らない。

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空っぽの鳥籠 稲葉孝太郎 @saeculum_aureum

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