第3話:「何か見つかったかい、少年」
決行日は四日後の土曜日。場所は地下鉄で20分で行ける駅周辺。お試しということで冊子は無料配布にするが、いちおう念のために小銭を入れるための箱も用意することにした。
『街角作家』計画はとんとん拍子で進んでいった。よくよく考えればこのモードに入ってしまった小鳥姉を止めるのは不可能な話で、あのときぼくが頷かなかったとしてもきっとぼくをこきつかって準備を進めていただろう。
小鳥姉はこの日のための短編を三編仕上げて、パソコンをぼくに渡した。「校閲しといて。あとレイアウトは任せた。明日、大学のパソコン室で刷ってくるから」だそうだ。ちょうどぼくは読みたかった少女漫画のシリーズを読み終わったところだったので、暇つぶしにとキーボードを叩いた。編集するためのソフトは高校の授業で触ったことがあったし、なにより何か仕事をしているとさぼっているという罪悪感が薄れるからだった。
『街角作家』にいろいろな意義を見出した小鳥姉はこのころ、ベッドに入って灯りを消すといろいろな論を披露した。
曰く、
『DVDやらBDの技術がいくら発達したって、コンテンツがついてこなければ意味がないわ。だってみんなが求めているのは、脳髄の中に生まれる意味でしょ? FFXⅢよりDQ3のほうがリアルだったっていう人もきっといる。数値化して評価しやすいものを向上するのは楽だけど、だからこそ難しいコンテンツのほうに力を入れないといけないの』
だったり、
『お金って、権利だと思うの。面白いことをして、自分の人生を豊かにするための権利。だからその面白いことがないお金なんて、目的化した手段でしかない。だから必要十分なお金を得たら、もう義務としての勤労はしなくていいの』であったり。
小鳥姉の言っていることは、盲点を突いたものもあれば、単なる極論でしかないものもあった。ぼくは適当に頷きながら聴いていたが、いくつか反論をしたこともあった。そのときの姉の解答は『世の中にはうちみたいな人がいてもいいんじゃない。価値観の多様性の問題よ』。
たくましいことだ。
小鳥姉の留守のときに訪問する人がいた。
小鳥姉はそのとき机の上にある珈琲の空き缶10本をゴミ箱に捨てに行き、その帰りにスーパーで珈琲を10本買ってくるという儀式の途中だった。言ってくれればインスタントで作るのに、どうやら好きなブランドの絶妙な砂糖加減がたまらないらしい。
部屋のチャイムが鳴ったときに、反射的にぼくは居留守をすることを決断した。小鳥姉に友達が訪ねてくることはないから――、というかこの部屋にくるような物好きはいないはずだから、ぼくは静かにベッドに戻ろうとした。
チャイムが何回も鳴らされている。
ずいぶんしつこいぞ、と思ったときに、床においてあった雑誌に脚を滑らせてしまった。とても留守だとは言い張れない音を出してしまって、ぼくはしぶしぶ玄関に向かう。魚眼レンズを通した世界には、茶色に染めた髪にウェーブを当てて、お嬢様ふうの格好をした女性が映っていた。
ドアを開けると、彼女はたいそう驚いていた。
「あの、小鳥の彼氏さんですか?」
「……弟です」
「ああ、弟さんでしたかー」「よくよく見れば似ていますね」「小鳥に彼氏ができたなんて大事件ですから、よかったです」などなど、立て続けにまくしたてられた。よく喋る女の人だ。「あ、わたし小鳥と同じゼミでユウカって言うんですよー」語尾を伸ばすのがいまの流行りなのかどうかは知らないけれど、ここまでぼくが返事を入れるタイミングは皆無に等しかった。
「大樹です。あの、今日はどんなご要件で」
下手をすれば、話題が進まないまま一時間ほど過ぎてしまうんじゃないかと思った。
「えっとね。ゼミの教授から資料を預かっていて。ほら、小鳥いま休学しているじゃない? それでいろいろと出さなきゃいけないものがあるらしいのよ」
HERMESのバッグから茶封筒が出てきた。
「はい、これ。……で、ちょっと弟さんにお聞きしたいんですけど、小鳥って休学して何やってるんですか?」
「本人から聞いてないんですか?」
こくこくとユウカさんは肯いた。
「学生には知らされていなくって。変な――、ちょっとみんなとズレてる子だったから、鬱病とかになったのかなって。こころ弱そうだし。変なところで真面目だから、教授と反りが合わなかったのかな。教授からセクハラ受けたって話もあるくらい。けっこうみんな気にしてるみたいで、訊いてきてくれって頼まれてるのよね。ねえ、大樹くん。教えてくれない?」
――どうしてこの人はこんなにへらへら笑うのだろう。
「すみません、それは本人に訊いてください」
ぼくは茶封筒を受け取り、ドアのノブに手をかけた。
「小鳥姉はただ大学より優先すべきことがあるだけです」
わざと音が立つように閉めたドア。ぼくはいらいらしている。小鳥姉はそんな弱い人間じゃない。豚舎の豚が憧れる孤高の狼なんだ――。お前みたいなちゃらちゃらした奴とはちがう。
ここまで勝手に思考が進んで、ようやく気づいた。
ぼくは小鳥姉の作家の夢を応援してる、ということに。
この三日はおそろしく早く過ぎていった。
別に義務ではないから、いつ街角作家の手伝いをやめてもよかったけれど、そのことが逆にぼくを気軽にさせた。姉の短編はやはりアマチュアの感が否めないが面白く、どきどきわくわくしている小鳥姉のすがたをもっと見ていたいという理由もあった。本人には絶対に言わないが。
そして翌日を本番に迎える夜――。
小鳥姉が学校で無断で刷ってきた小説を一部ずつホッチキスで留める作業も終わり、机の上に積まれた束を見てふたりでひとしきりにやにやしたあと、ぼくたちは灯りを消して床についた。
遠足前日の小学生のようにいろいろ考えてしまって眠れないぼくだった。今日に限って小鳥姉の持論発表会はないらしく、こちらに背を向けてじっとしていた。寝てしまったのか。明日はなにかと体力を使うから、しっかり寝ておかなくちゃなと、まぶたをぎゅっと閉じたとき、小鳥姉の声が聴こえた。
「大樹、となりに来て」
夜は静寂がゆえに騒々しく、遠くで飲み会帰りの若者たちの声が聴こえた。灯りが天井を舐めたあと、近くのコンビニにトラックが止まった。息は押し殺しても聴こえてしまって、鼓動は止められるものなら早々に止まって欲しかった。
「……はやく」
返事をしようとしたがうまく声が出ず、ぼくは月灯りを頼りに小鳥姉の布団に潜り込んだ。暖かくて、そして懐かしい匂いがした。入ったとたん、小鳥姉は振り返り、ぼくの胸に顔をうずめてきた。
――震えている。
「ごめん、しばらくこうさせて?」
無言で頭を抱え込むように抱きしめると、すすり泣きが聴こえてくるのに時間はかからなかった。
孤高の狼はもしかしたら、養豚場の豚になりたくてもなれないのではないだろうか。泳ぐのを止めてしまえば死んでしまう鮪のように、どんなに辛くても走り続けなければ生きて行けないんじゃないだろうか。
どんなに脆くても、
どんなに怯えていても、
ぼくからすれば、いまの小鳥姉はとてもかっこよくて――、
羨ましく思えた。
当日。
天気晴朗なれどテンション高し。
あれだけ周到な準備をしたのに、シートを買ってくるのを忘れていたのに気がついたのが午前十時。もう現場には到着していたので、近くのハンズまでひとっ走り。一番安そうなのを手にとったが、せっかくなのでブルーのあざやかなものにした。
ついでにコンビニで昼食とドリンクを買って、戦場へいざ帰還。白い麦わら帽子に白いワンピース、ボストンバックを抱えた小鳥姉に合流する。現在十一時半。予定ではここで十五時まで粘る。そのあとは状況次第だ。
「じゃ、始めましょうか」
いつもの小鳥姉らしい飄々とした感じで、『街角作家』は始まった。
その日は典型的な五月晴れで、駅の人通りもけっこう多かった。他にもストリートミュージシャンや大道芸の人たちがいて、多くはないけれど街を歩く人たちが脚を留めている。ぼくに自信はなかった。でも彼らだって自信はきっとないのだと思う。でも、その恐怖を凌ぐだけの表現したいことがあるからこそ――、そして見てくれる人たちがいるという事実があるからこそ、彼らはストリートで頑張れるのだと思うのだ。
「五番出口前、と」
ボストンバックの上でノートパソコンを開いた小鳥姉は、さっそくブログか何かに書き込みをしていた。小説を書いているネット上での友達に知らせているのだろう。
「山田さんはなんか都合があって来れないらしいけど、エルドラージさんが用事で近くに来てるみたいだから、寄ってくれるって」
「……誰だよ」
小説サイトの友達らしい。
問いただしたところ、小鳥姉のハンドルネームはナイチンゲールというのだそうな。サヨナキドリから取ったのだろうけど、まんますぎて笑えた。突き刺さる無数の視線による緊張が、いくらか和らいだ気がする。
看板――というには素朴で小さすぎるから、ポップというべきか。とにかくそれは昨日のうちに小鳥姉が段ボールで作っていた。ぼくが編集作業をしているあいだ、彼女は暇だったのである。マジックで『街角作家』とカラフルに書かれたそれはそつなく仕上がっていたものの、裏から見える駄菓子のキャラクターはどうにかならないものか。次やるときは、スーパーからはもらってこないようにしよう。
「さあ、どうぞ。見ていってください」
小鳥姉が持てる愛想の全てを振りまいて、通行人を呼び止めている。何人かは脚を止めて珍しそうに冊子を手にとってくれるが、通り過ぎる人の0.1%にも満たないだろう。ストリート系が好きな若者はダンスやミュージシャンの方へ行き、子供は大道芸の方に興味があり。わざわざ見てくれるような人は、きっと文芸部か何かに所属している人なのだろうとぼくは推測した。
一人が冊子を手にとり、返し。そしてまた一人が興味を持って近づいてくる。
「……まあ、こんなものか」
さすがに満員御礼でごった返す妄想をしてはいなかったが、これだけ少ないと少々不安になってしまう。無料なのだから持っていけばいいのに。せっかく小鳥姉があれだけ頑張ったんだ――などと柄にもないことを思っていると、頭を叩かれた。
「手にとってくれるだけでありがたいのに」
「……ごめん」
手伝いしかしていないぼくに良し悪しを判断する権利なんてなかった。小鳥姉があれだけ生き生きして笑っている。ときには人が立ち寄らなくなって不安そうに曇るけれども、すぐに晴れ渡って大声で人を呼び止めようとする。
小鳥姉は、小夜啼小鳥の人生を堂々と歩んでいた――。
エルドラージというハンドルネームを使う男が現れたのは、お昼すぎ――ぼくと小鳥姉がお昼ご飯を交代で食べ終わったころだった。ぱっと見、冴えない男子大学生といった出で立ちで、少しどもりながらも小鳥姉と挨拶をしていた。「はじめまして」と聴こえたから、リアルで会うのはこれが最初なのだろう。こういう付き合いがないぼくからすれば信じられないことだったが、姉とエルドラージという人はサイトの運営や、作業用BGMなどの話題で盛り上がっていた。
彼が「友人に配ろうと思います」と三冊手に取り、帰ろうとしたときだった。「これからもサイトの運営がんばりましょうね」と挨拶をして、人ごみのなかに消えていったのだが、そのあとに小鳥姉は表情を変えずに「……ごめんなさい、サイトはもう消してしまうんです」と呟いた。あまりに小さかったからぼくの空耳なのかもしれないが、すぐにぼくは「これ、ほんとに無料なんですか」とお客さんに訊かれ、それを尋ねるタイミングを失ってしまった。
午後二時半。
ボストンバックから追加の10部の束を出したのは、終了予定時刻の30分前だった。初回に並べておいたのが二束だったから、20部弱配布できたことになる。これをどう評価するのかは前例のないことである以上、唯一の『街角作家』である小夜啼小鳥に委ねられるところだ。
「ちょっとドリンク買ってくるけど、小鳥姉は?」
「ドクターペッパー」
コーラの単位体積あたりの炭酸を二倍にしたような飲み物だ。
「ちょっとスカッとするものが飲みたいの」
安請け合いしたもののドクターペッパーが置いてある自動販売機というものがあまりなく、ぼくは迷った結果近くのヴィレッジヴァンガードまで脚を運んだ。自分の分の珈琲は帰り際に自動販売機で買ったけれど、近くのゴミ箱に見覚えのあるプリント用紙の束が見えた。ぎゅっと押し込んで、深呼吸を一回。平静を装って、ぼくは小鳥姉のところに戻った。
「ご注文の品はこちらでよろしいでしょうか?」
「サンクス。そろそろ片付けますか」
ちょっと離れたところで『何あれ、詩集でも配ってんの?』『宗教でしょ』『電波電波』と聴こえたのは黙っておく。ここまでくる中で捨てられていた冊子はすべてぼくが回収し、エロ本を見つけた中学生のように服の中に隠してあった。
残りの部数を数えたら、78部だった。22部が持っていかれたことになるが、ぼくが見たものを考慮すると、人の手に渡ったのは両手で数えられる程度だろう。エルドラージさんという身内を除いたら、もう考えたくもなくなる。
シートを丸めているところで、制服を来た警官が二人組でやってきた。暴行事件でも起こったのかと思って作業を続けていると、みるみるこちらに近づいてくる。どうやら用事があるのはぼくたちらしい。
「あー、君たち君たち」
「はい。なんでしょう?」
応対にあたったのは小鳥姉。ぼくはそれを横目で眺めながら、冊子をボストンバッグに詰めていく。
「配布物を配ったときには、きちんとゴミを片付けるように。条例で決まっているから」
その警官の手にあったのは、ぼくたちの冊子。くしゅっと手元で音がした。いつのまにかボストンバッグの中の冊子を握りつぶしてしまっていた。それは単なる配布物じゃないんだよ、どれだけの想いが詰まっていると思っているんだ! 瞬間沸騰した気持ちは、小鳥姉の言葉によって遮られた。
「はい。すみませんでした。すぐに片付けますので」
愛想の良い表情を浮かべる小鳥姉から眼を背けたくなった。
一度荷物を家に置いてから、ぼくたちは近所の飲み屋さんに向かった。ささやかな打ち上げだ。小鳥姉は焼き鳥が好きなくせに皮しか食べないものだから、それ以外のものがぼくの皿に積まれていく。
「ところで、小説で未成年の飲酒とかって書いちゃダメなのかな?」
「小説の中でどれだけの人が殺されてると思ってるのさ。それに比べたら、些細なことよ」
行きつけの居酒屋があるなんて大学生らしいなと、わずかばかり尊敬の念を抱いた。が、たったニ杯のスクリュードライバーで真っ赤になっているところを見て、変わらないなと笑った。
「……明日帰るよ」
「ん。何か見つかったかい、少年?」
ぼくは沈黙で答えた。
たしかにこの数日間は充実していて楽しかったけれど、それで何かが変わるものでもなかった。ただタイムリミットが来たから、帰るだけだ。
車掌さんにめちゃくちゃ無理を言って、電車に酔ったと休んでいた。けれど、もう出発の時間が迫っている。乗れば、最後。受験、大学、就職……と酔うひまもなく多くの駅を回らなければならない。かといって、その電車を降りる勇気も――、ぼくにはない。
押し黙ったぼくに対して、小鳥姉は蕩けきった瞳でグラスの氷を鳴らした。
「小鳥はおとなになるときに、一度羽が生え変わるんだって。ただからだを守るための羽毛から、大空を飛んで自分で生きていくための羽に」
飲めないお酒をもう一口。こういう真面目なことを言うために、居酒屋に誘ったのだろう。素面ではあの小鳥姉はきっと恥ずかし死にする。
「わたしね――、休学終わったら小説やめるんだ」
急に告げられたその言葉の重さに絶句する。大学を休んでひきこもってまで小説を書いていたのは誰だというのか。『街角作家』だと喜んで、いろいろと準備をしてきた人の口がそんなことを喋るのか。
「びっくりしてるね、ふふ。でも冗談じゃないよ。しんけん。だからこそ、いま頑張っているんだよ。諦められるように」
「諦められるようにって……。なんでそんな気持ちで小説が書けるんだよ! なんでそんなことを思いながら、『街角作家』みたいなことができるんだよ!」
ぼくも酔いが回ってしまったらしい。
「一途に取り組んでる小鳥姉が好きだったのに……」
「嬉しい。これでも不安なんだ。でももうしばらくは小説一本に力を入れるから」
「いつか辞めるんだろ? なら最初から休学なんて――」
「やらずに死ぬよりはさ、やって困った方が面白いじゃない?」
上辺の論ではなく、いいわけでもなく、小鳥姉はきっとこころからそう思って、それを信じて行動してきたんだと思う。ときには昨日の夜のように怖くて泣きたくなくなる夜もあるだろうけど、小鳥姉はそれを乗り越えてきた。
だから、こんな綺麗な表情ができる――。
人生は本当に後戻りの出来ない列車なんだろうか。もし、自分の脚で歩いているのだと堂々と胸を張って言うことができたなら、きっと間違えても道を辿り直すことができるはずだ。きっとこっちの方が楽しいからと、躊躇いなく好きな道を選ぶこともできるはずだ。
「明日、帰る」
「何か見つかったかい、少年」
「これから見つけるのさ」
「それは重畳」
顔を真赤にした小鳥姉との門出の乾杯は、いまのぼくのこころのように澄み切った音色がした。
街角作家 山田えみる @aimiele
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