第2話:「冗談だったとしても、面白いとは思わない?」

 言われるままにシャワーを浴びて、髪を拭きながら部屋に戻ると、姉はベッドの上で横になっていた。左腕を枕にして、静かな寝息を立てている。もともと細く、すらっとした長身なだけにその姿はさまになっていた。

 「……っていうか、ぼくも男なんだけどな」

 思考を経由せずに口から出てしまったつぶやきに、小鳥姉は鳥肌を立てて起き上がった。「なんてこというのよ」口を尖らせる姉に、「事実」とだけ答えてぼくは荷物の中から歯ブラシを取り出した。

 「書きっぱなしで頭が疲れた。もう寝るよー」

 欠伸をしながら、姉が隣に立って歯磨きをはじめる。

 「あれ、深夜ラジオとかもう聞いてないんだ?」

 小鳥姉は重度の深夜ラジオリスナーだった。隣の部屋に住んでいた頃は、草木も眠る丑三つ時に姉の忍び笑いが聞こえてくるから不気味で仕方がなかった。『ふふふふふ……』。昼間は昼間でipodに入れた音源を聞いて、歩きながら笑ってるのだから恐ろしい。

 「ふふ。パソコンで録音してるから大丈夫」

 「おお、文明の利器」

 「ほんとならリアルタイムで聞くのが礼儀なんだけどね。休学の身で夜更かしをしたら、生活リズムが崩れてしまいそうで」

 「……ちなみに明日の朝は?」

 「六時起床」

 「うわ。せっかく家出をしてきたのに」

 「寝てていいよ。眠気覚ましに外走ってくるだけだから。ラジオ聞きながら」

 なんとなく会話が途切れてしまって、しゃこしゃこという歯ブラシの音がふたつ、小さなユニットバスに響いていた。

 朝シャワーと珈琲がなければ目が覚めないほど朝が弱かった小鳥姉が。ぼくのそばにいなかった三年と少しで、ずいぶんと自立した人間になったようだった――、掃除や洗濯などの家事を除いて。もっともあれほどずぼらだった姉が、三年も自分だけで生きてきたというだけで驚きに値する。

 寝袋は持ってきていたから、それにくるまって床で横になった。五月中旬のここちよい涼しさのおかげで、このスタイルでもかなり快適に眠れそうだ。姉が身を乗り出して電気を切り、「おやすみ」「おやすみなさい」を交わして眼をつむる。

 午前0時という時間はぼくとしてはまだ眠るには早すぎる時間だったけれど、いろいろあった疲れもあってすぐに眠れそうだった。だから、ともすれば小鳥姉が話しかけてきたのにも気づかずに、夢の世界へ入ってしまいそうだった。

 「大樹、起きてる?」

 「……修学旅行かよ」

 「みたいなものでしょ」

 小鳥姉が寝返りを打ったのがわかった。こちらを向いている。

 「わたしね――、これでも就活してたんだ」

 「……意外」

 「いくつか受けて。本とか好きだから、出版社とかも受けて。新卒逃したくなかったから、いろいろな会社受けた。それでエントリーシートとか書かなきゃいけないんだけど、志望動機とかやりたいこととか、書けないんだ」

 小鳥姉が黙ると、深夜のざわついた静けさが戻ってくる。遠くの車、ヘッドライトの光が昏い天井を撫でる。ラジオを録画しているパソコンのファンが唸っている。ぼくはその静寂を破るに値する言葉を探す。

 「文章を考えるのは得意だからさ、月並みな綺麗事ばっかり浮かぶわけよ。御社でどうのこうのだとか、日本の経済がどうだとか。でもそれを自分の名前と写真が載っている、うちの言葉として書くのには抵抗があったの」

 「……そういうのって、みんなそれほど真剣に書いてないんじゃないの?」

 就活をしたことのないぼくでも容易に想像がついた。それはたぶん建前を社会人として立てられるかというゲームなんだと思う。だから小鳥姉のように真剣に悩んじゃうのは、もうその時点で失格な気がしてならない。

 「でもダメなの。お酒を飲んでその勢いでがーっと書いて出したりはしたけど。面接とかで綺麗事を吐くことはできなくて」

 純粋なんだと思う。

 三年間の大学生活で多少は自立したらしいけれど、そのあたりは小鳥姉のままだった。

 「物語を書くのはむかしから楽しくて。それで認められるのも、『ここにいる』気がして。『うちじゃなくちゃいけない』ことってたぶん物語を書くことだけだから――」

 「そんなこともないと思うけど」

 小鳥姉の奇抜すぎる個性ならば、どこでもやっていけそうな気がする。

 「せっかく生まれてきたんだよ。せっかく『うちは小夜啼小鳥』なんだ。だから、やりたいことをやろうと思って――、自分を試してみようと思って」

 「休学したんだ」

 「働くからには、『自分は望んでないのに仕方なく』とか『辛い。休みが待ち遠しい』なんてことは言いたくないの。わがままかも知れないけど、他でもないうちの人生だし」

 「でも、なんだかんだ言っても、生きていくためにはお金がないと」

 でなければ、誰だって仕事はしたくないだろう。けれどもみんな自分の将来や家族を人質にとられているから、必死に勉強したり働かなければならないわけで。いったい、誰に? いったい誰がお前を脅しているのだ?

 とてつもなく巨大ななにか。

 「それはわかってるつもり。わかってる……。だから、考える時間をもらった」

 「一年で答えは出そう?」

 「それがわかっているなら、それは答えじゃないよ」

 小鳥姉はその言葉で反対側に寝返りを打った。

 「ごめん、おやすみなさい」

 「おやすみ」

 静かな息遣いが聞こえてくるまで、それほど時間はかからなかった。ぼくは寝袋のまま天井を見上げて、車が通る度に万華鏡のように模様を変える灯りを見つめていた。遠く離れた県で迎える夜。ほんとうに学校を休んでしまったという罪悪感が、いまさらながらに胸を刺す。携帯電話は切ってあるから、友人がメールをしていたとしても気づかない。ぼくがどこにいて、何をしているのかは、小鳥姉しか知らない。

 自ら未来を選び取りに行った勇者。

 それが格好良く映るのは、宝物を持って生還した者しか見ていないからなのかもしれない。孤高の狼はその環境の厳しさゆえに、飼い慣らされた養豚場に憧れるのかもしれない。

 結局はないものねだりで――、

 その二つしか道はないとしても、その道を選ぶのは自分なわけで。

 そう考えるとぼくは脚が竦んでしまって、つい立ち止まってしまうのだ。


 翌朝、目が覚めるとすでに小鳥姉の姿はなく、言葉通り朝のランニングに行っているらしかった。ぼくは寝ぼけたままの頭で寝袋を片付けて、朝食の支度を始める。まるで主婦みたいだと思う反面、今日が火曜日だということを思い出して少し落ち込む。

 ぼくのいない高校、ぼくのいない友人のコミュニティー。うまく回ってくれればいいと思いながらも、どこかでやっぱり誰か困って欲しいと思ってしまう。もちろん現実は前者だということはわかりきっている。

 タオルを首にかけて早朝ランニング帰ってきた小鳥姉は――、なんというか、興奮状態だった。ぷりぷり怒っているようで、それでいて面白い玩具を見つけたかのように目が輝いていて。まあ、とにかくふつうの状態ではなかった。

 「そんなにこの朝食りんごヨーグルトが欲しいの? あげないよ?」

 「……それ、うちのよ」

 ぼくの手からヨーグルトとスプーンを華麗に奪いとって、タオルを洗濯機に放り込む。ヨーグルトをぱくついてるあいだもうろうろと歩きまわって、落ち着きがない。

 「どうしたの? 活き活きとしていて気持ちが悪いよ」

 「さっきストリートミュージシャンとストリートダンサーが路上で寝ていたのよ。酔いつぶれたのかしらね」

 「はぁ」

 いくらなんでも脈絡がなさ過ぎる。

 「あ。まさか財布をスってきたとか!?」

 「おばか」

 「それともあまりに男に飢えていて……」

 「嗚呼、うちの部屋の酸素と空間がもったいない!」

 「で。なんなのさ」

 尋ねると、我が意を得たりとばかりにキメ顔でこちらを指差す小鳥姉。うわ、めんどくさい人の動きだ、これ。

 「ほら、ストリート系のアーティストっているじゃない? 絵であったり、ポエムであったり、音楽であったり。そこに小説も入っていいとは思わない?」

 そんなこと言われても、突飛すぎてリアクションが取れない。

 「……駅前とかで風呂敷でも広げて、本を置いて売るってこと?」

 「そう。ウェブでも感想はもらえるけど、やっぱり直接会って感想をいただくとまた違うと思うの。『ストリートライター』――は、ちがうわね。もう少しいいネーミングはないかしら」

 「俺より強い書き手に会いに行くのかよ……。それにさ、小説ってすぐに目で見てわかるものでもないじゃん。斬新っちゃ斬新だけど、もう少し考えた方が――」

 「『路上小説家』、『ストリートノベライター』……、」

 「聞けよ」

 「『街角作家』」

 怒ってやろうと思ったが、小鳥姉のその言葉がすとんと胸に入ってきて、言葉を見失ってしまった。街角作家、口の中で反芻してみる。

 「小説というジャンルの地位向上の為に。だって表現にはちがいないのに、音楽とかダンスとかだけってずるいとは思わない? もちろん短編か掌編で。ちょっとした通勤時間や休み時間で読める程度のものを載せるの!」

 小鳥姉の瞳は――、ぼくの戸惑いをよそに、子供のように輝いていて。もちろんその無邪気な光のなかには、子供のような危なっかしさも含まれていて。でも、なにか惹きつけられるものがあった。

 「……本気で言ってる、んだよね?」

 「冗談だったとしても、面白いとは思わない?」

 ――頷いてしまった。

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