六、姑蘇離宮
越の都・姑蘇の城外にある離宮に、不悍と十人の
楚の大軍が長江を下っていた。越は国境を破られ、国人は難を逃れて都に殺到した。都は敗残兵と避難民でごったがえした。
巷の混乱をよそに、離宮は別世界の趣きである。宮殿の宴の大広間で、舞楽の夜宴が催されている。酒がはいり、座が乱れはじめた。阿諛追従の側近にかこまれ、子侯は放蕩三昧で明け暮れていた。長年、待ちに待った王座であるが、もはや政務を顧みる気力も失せている。かたわらに侍るのは阿嬌である。あまたの妃嬪妃妾をさしおいて、阿嬌なしでは明け暮れぬ、そんな関係をしっかりと築いていた。子侯を骨抜きにする―阿嬌はみごとに使命を果たした。
しかし楚軍の来襲は目前に迫っている。国はどうなる。民はどうする。阿嬌はあせった。子侯を籠絡するかたわら、ひたすら不悍の指示を待った。不悍に再会できた日が、じぶんの命の尽きる日だと、覚悟を決めていた。
子侯が厠へ立ったすきに、侍女に化けた娘子軍のひとりが近づき、阿嬌の耳元でささやいた。口は動かすが、声には出さない。
「今宵じゃ。頼みますぞ」
「公子は、来られるのか」
「むろんのこと」
手短にそれだけ告げると侍女は膳をとりかえ、残り物を下げて座を外した。
入れ違いに子侯が戻った。
「阿嬌、飲んでおるか。今宵の宴は趣向を凝らしておるぞ。斉より招いた歌舞の名手が
日ごと夜ごとの酒盛りである。子侯の酔眼はすでに覚束ない。
「大王様、お気を確かにもたれませ。斉のお使者はきのうお帰りではありませぬか」
媚をふくんだ目で思い違いを正してみせ、さらに一杯、盃に酒を注いだ。
子侯は機嫌よく盃をかたむけ、やがてだらしなく阿嬌にしなだれかかった。
琴の音がひときわ高く打ち鳴らされた。ついで琵琶がなめらかに奏でられる。
剣舞にうつった。演ずるのは舞姫をよそおった女刺客のひとりである。
並みの舞いではない。
時を得て長い眠りから覚めた龍が地を蹴って飛翔し、雛から
子侯も側近も舞いに気を取られ、油断しきっていた。
侵入した不悍がひそかに背後に回った。左右を女刺客が護る。
「父王のご無念をなんとする」
振り向いた子侯の胸倉をつかみ、不悍は詰め寄った。それを振りほどき、逃れようとする子侯に阿嬌が抱きつき、動きを封じた。
「もろともにお刺しください」
不悍はためらった。
警護の兵が扉を蹴破り、大広間に殺到した。
「ごめんこうむります」
剣舞の刺客が突き進み、阿嬌もろとも子侯を串刺しにした。
「公子、船は裏手にあります。はようゆかれませ」
離宮に火の手があがった。女刺客が追っ手を防いだ。
楚の威王は、呉越の戦いで越が獲得した呉の旧領を、浙江にいたるまでほとんど略取した。越の勢力は、会稽一帯のみという規模に縮小した。越王允常の、百六十年まえの状態に戻ったのである。
しかし琅琊は生き残った。
舟軍の残党を再編し、不悍は琅琊に立て籠もった。援軍はなくとも港湾があるかぎり、水と食糧はいつでも補給できる。出入の海域を確保し、港を守り、城壁を堅持した。
手を焼いた楚の侵略軍は琅琊を迂回し、他郡を荒らした。
近隣から呉越の民が駆け込んだ。楚の奴隷にはなりたくない。口々に叫び、武器を取った。人が増えた。城壁の外に砦を設け、屯田兵が守る城市周辺の農地だけはかろうじて持ちこたえ、楚軍の侵攻を排除した。以前の農地にくらべると、全体の一割にも満たないが、貴重な農地である。
短期間で収穫でき、長期に保存できない蔬菜類の生産にあてた。穀物や肉類は北の山東から軍船の護衛をつけ、舟船で回漕した。
不悍もまた范蠡にならい、「貨殖の道」で国を建てようとした。
港を中原の諸国民に開放し、交易を優遇した。朱頓が活発に動いた。范蠡ゆかりの商人を誘致し、各国の商船を自由に往来させた。舟軍が航路と港湾を護り、安全を保障した。
淮河水系の漕運権(水上運送権)を確保し、斉楚をはじめとする近隣諸侯に認めさせた。
定陶への交易ルートをひらいたのである。
琅琊という港市の商業活動の一環であれば、商用船の通過する淮河水系の沿岸諸侯にとって脅威にはあたらない。むしろ交易に参加したほうが、利益を得る機会に恵まれる。
沿岸諸侯は漕運権の独占使用を認め、水域の安全な運行管理に協力した。全国から人と物資が集まり、琅琊の港市はしだいに賑わいを増していった。
蓬莱への東渡船が琅琊に帰港したのは、出航から半年後である。
斉が海上封鎖を解かなかったので、対馬から朝鮮半島南岸に回り、山東半島を南下する航路は使えない。季節風が向きを替えるのを待ち、江南へ直進するコースを取って戻ったのである。
懐かしい越の軍船が、沖合まで来て出迎えた。
小船に乗り換え、不悍が乗り込んできた。
「海蛇よ、よう戻った。待ちかねておったぞ。かの地のこと、はなしを聞かせてくれ」
「おお大将、よくぞご無事で」
その場にひざまずいた海蛇は、不悍の足にしがみついて、あたりかまわず泣き出した。
「おいおいどうした。名にし負う海の
軽口を叩きながら、不悍自身も目にいっぱいの涙を溜めていた。
楚越の戦で大敗した越は発祥の地会稽に追いやられ、ここ琅琊だけがかろうじて残ったのである。越の誇る十万の水軍は、木っ端微塵に四散した。生き延びたものより戦死したものの数が、多かった。半年ぶりの邂逅は、涙を伴わないではいられなかった。
戻ったものも迎えるものも、甲板の上で棒立ちになり、あるいは膝をかがめて、琅琊に残った親しい友や父母と見つめあい、抱きあった。子が生まれているものもあった。身内の悲報にはじめて接するものもあった。悲喜こもごもの涙で、甲板は濡れそぼった。
「いやあ、チカミともうす海人はたいした
じぶんに任せろと胸をたたいたチカミのことばに、偽りはなかった。
船団は出航の三日目に五島の南側に着いた。黒潮の流れに乗り、東海を最短で通過したのである。百艘からの大小さまざまな舟船をひきいての航海である。外敵にあえばひとたまりもない小型船は内側に保護し、軍備の整った快速の軍船で外側を囲った。速度が違う。大波で舵を取られると、ぶつかり合う危険がある。それぞれ距離を置いて配置した。大きく広がり散開した形状であるが、東海の東方にさえぎるものはない。相互の連絡には鏡を用いた。日光を反射しあい、点滅で意思を交わすのである。
大陸から蓬莱に向かう風と潮流があり、船団は波を蹴立てて順調に航行した。チカミは朝晩の祈りを欠かさず、夜ごとの星の観察と明け方の残月の確認を怠らなかった。チカミとその一党は基幹となる各船に分乗し、それぞれの範囲の操船を巧みに分担しあった。百艘の舟船は、多少のトラブルを抱えながらも互いに声をかけあい、航行をつづけた。
「この仕事をすべてかれらに任せた
海蛇は航行のまにまに、航海法ともいうべき操船の心得を范蠶から学んでいた。
「どうしたら嵐が急に押し寄せるか、分かりますか」
「嵐といえば激しく吹き荒れる雨風などだが、これにかぎらず、突風・集中豪雨・台風・雷・竜巻・地震・津波など自然の災害というものには、かならずなにかしらの前兆がある。これをみきわめることがまず肝要だ。風や波の向きや強さの変化から吉兆を占うのだ。色やにおいの違いが分かるようになれば、もう一人前だ。過去の事象に照らし合わせ、こういうときにはこうだという自然の法則を日ごろから整理し、たくさん身につけておくことだ。前日の夕焼けや早暁の残月の様相によく現れる。魚の群れ、海の上を飛ぶ鳥、さらには雲の流れ、星や月、太陽の観察からも、前兆はみきわめられる」
「それで嵐の前兆を感じたら、どうします」
「ただちに航行を停止し、避難する。東海のばあい、目的地の中間付近にいっておれば、安全な避難場所まで最長で丸一昼夜の道のりが必要だから、二日前には前兆を感じなければならない。天分にもよるが、訓練すれば、修得はそう難しいことではない。それよりも大事なことは、計画を中止し、避難する決断だ。その決断を誤ると遭難する。出航と決めた朝、晴れわたったいい天気だと残月がないからといって、いざその日の出航を中止するなど、なかなか決断できないものだが、迷ってはならない。大自然の異変事象にはかならず根拠があり、間違いなく結果が出る。この因果関係を、勇気をもって信じることがたいせつだ」
范蠶は前兆を確認したばあいの決断について、くどいほどくりかえしたという。
「事前の確認や吉兆の占いが完璧だったから、半年まえの東渡にはひとりの犠牲者も出さずに、無事、蓬莱までたどり着いたというわけだな」
「おおせのとおり!」
ようやく海蛇に、半年まえを回顧する余裕ができたらしい。琅琊の城内に帰り、休むまもなく不悍ら出迎え者に向き直り、ゆっくりと語りはじめた。
「出航してから三日目の午後、前方に島影を発見しました。五島です。チカミの指示で島から誘導の小船が出され、先頭をゆくわれわれの船はそれにしたがって列島の南端まで進み、ついで東方に向きをかえました。その前方の海の先には大きな陸地が横たわって見えました。蓬莱です」
船団は、いまの長崎半島南端、野母崎の岬を左に見て、天草島と島原半島のあいだを縫って、有明海に向かうのである。目的の上陸地が近づいている。
日が没した西の空を振りかえると、宵の明星(
船団がまさに通航しようとしている同じ航路で、江戸後期の儒学者頼山陽が『天草
雲か 山か
万里舟を泊す 天草の
煙は
(大修館書店・鎌田正監修『漢文名作選5』から引用)
このあと船団は有明海に進み、海上で停泊する。明朝、夜明けとともに上陸する。
静かな海である。急速に闇が深まり、やがてすっぽりと船団を包んだ。
いまの有明海の北側沿岸一帯は、河川の沖積作用と干満の差最大六メートルという潮汐作用とによって自然陸化が進んだ沖積平野である。大化の改新以降、営々として干拓がつづけられ、さらに平野面積を拡大した。いまの佐賀平野がそれである。二千年まえの貝塚の位置が、現在の海岸線より二〇キロも北に離れている。貝塚が動いたのではない。海岸線が海に向かって移動したのである。
当時の上陸地点から背振山地は、いまより二〇キロも近くに見えていたことになる。ほとんど眼前に見上げる近さだといっていい。
「夜が明けました。残月―有明の月が目的地でも見えたのです。みんなは旭日に向かって遥拝し、残月に手を合わせて無事の到着を感謝しました。たった三、四日しかたっていないのに、何年も過ぎた感じでした。新天地へ来たのだ、これからここで生きてゆくのだと思うと、不安とか不満とかいっているばあいではありません。『がんばろう』という気持ちでいっぱいでした。移民者とはべつに、わしらはわしらで責任がありますから、みんなのために間違いなく仕事をやりとげなければならない、そう思うとつい緊張が高まって、上陸の前夜は結局、一睡もできませんでした。こんな情けないわしらと違って
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