四、長江炎上
越王無彊は越軍を総動員し、長江をさかのぼっていた。
長江は越の軍船であふれかえった。遠目には、川が逆流したかのような長蛇のうねりにみえた。
百五十年まえ、呉王夫差は十万の舟軍をひきい、外洋を北上した。斉の東海岸に上陸、
百三十八年まえ、呉越最終決戦にさいして、越は水戦隊二千、陸戦隊四万、近衛兵六千、その他軍吏一千、総勢五万人を動員し、呉都を攻めた。
いまは呉を兼併し、領土も人も倍以上に拡大している。今次討楚戦は、国を挙げての大決戦である。控え目にみても総動員数、十万は下らない。
前方に迎える敵はいない。越の軍船は、無人の長江を全速力で駆け上った。漕ぎ手は船の両脇にならび、操舵手の太鼓の音頭にあわせ、競って櫂を漕いだ。
越の舟軍には定評がある。楚国とはしばしば長江で戦い、舟戦で勝利している。楚が川上から順流で攻め、越は川下から逆流で迎え撃つ形になる。形のうえでは、越が不利な態勢である。しかし戦争は生き物である。形どおりに進むとはかぎらない。
『墨子』に記されている。
「楚軍と越軍は長江において、しばしば舟で戦った。楚軍は上流だから、流れに沿って進み、流れに抗して退く。利をみて進み、不利とみれば退却するのである。進撃は容易だが、退却は困難である。一方、越軍は逆流で進み、流れに沿って退くのである。利をみて進み、不利とみれば退却することにかわりはない。進撃は困難だが、利ありとみれば気力は倍増する。流れにかかわりなく対等に討ちあえる。さらに不利とみたときの退却はすばやい。最少の損耗で兵を引くことができる。越軍はこれによって楚軍を圧倒したのである」
この時代、越の舟軍は中国一の実力を備えている。呉の水軍の伝統をあわせ、猛虎のように恐れられていた。
越軍は長江の中流域に到達した。いまの武漢と岳陽のあいだである。
順調に進行していた越の舟軍は、洞庭湖にさしかかる手前でとつぜん渋滞した。木や竹で編んだ防御柵が水中にあり、船底をこすって前進を阻んだのである。
大軍であることが災いした。伝令の指示が後方に伝わらなかった。
先鋒隊が停止したにもかかわらず、後続の部隊はかまわず前進をつづけている。隊列は密集し、ひしめきあった。船同士がぶつかり、破損するものが出た。
川面の水が溢れかえった。引くに引けない最悪の事態である。水練隊が水中にもぐり、防御柵の破壊工作にあたったが、敵は水中で待ち伏せていた。水圧を弾きかえす
大混乱の水上をよそに、長江両岸に楚の軍勢が整然と姿をあらわした。
南岸に無仮の関の常備軍が、北岸に長躯引き返した南陽派遣軍が、身動きとれずに喘いでいる絶好の獲物を取り巻き、舌なめずりしながら待ち構えていた。
上流に油が撒かれ、点火された。火矢が射られ、焼玉が放擲された。
長江は火炎に包まれた。
さしもの越の大軍が長江両岸の楚軍をまえにして、煙と炎にまかれた水上でなすすべなく立ち往生してしまったのである。
燃えさかる船を脱し岸に泳ぎ着いた兵は、待っていた楚兵によって
越軍の惨敗である。無彊は捕らえられ、楚の威王のまえに引き出された。
威王はごうぜんとして無彊をみすえた。
「血迷うたか越王無彊、わが楚の力を見損なえば、かくのごとく結果は歴然。わが前に
「なんの、わが過ちはさにあらず」
捕らわれたとはいえ、剛毅の無彊である。舌鋒激しくやり返した。
「わが過ちは、蘇秦なる口説の徒の妖言に、よもや諸侯が
くわっと眼をむき、威王をにらみつけた。
七ヶ国が覇を競う戦国の世、西方の秦が国力を増し、一頭地抜きんでた。他の六ヶ国は秦を追う形勢である。力に差があり、いずれも一国では対抗しえない。他国をまきこんだ外交的対応となる。各国を遊説し、弁舌で国王を説得する
ふたりは正反対の外交的対応を説いた。六国が連合して秦に対抗するか、あるいはいっそ秦と同盟するか、ふたつにひとつの選択を提起したのである。
この代表的外交戦略を「
無彊とて東方の雄である。蘇秦が燕の文侯に
それが予期に反し、たまたま実現したのである。たまたまというのは、六国合従がこの翌年にはもう破綻しはじめているからで、もっともまずい時期を選んで、無彊は楚国に侵攻したことになる。
ともあれ、蘇秦の説く合従が先行し、六国は同盟した。
各国は国境に張りつけた兵を返した。楚軍の帰還が、越軍の侵攻に一歩先んじた。
かりに無彊の征楚侵攻が十日早ければ、確実に無仮の関を落とし、楚都を攻略していただろうから、この十日の差が天国と地獄を分けたといっていい。
一方の趙儀はすでに六国同盟の切り崩しにかかっていた。あくまで仮定だが、楚都が落ちたとなると秦をはじめとする近隣諸国は黙っていない。よってたかって楚国領土の切り取りと領民の人狩りにかかるのが戦国のならいである。まさに合従は画餅と化す。
六国の一角が崩れれば、全体のバランスも壊れる。ここを先途と趙儀の口説が冴えわたれば、容易に連衡に取り込めよう。しかし、歴史に仮定は通用しない。
斉の宣王が使者を越に遣わし、まず太子の子侯を籠絡し征楚論者に仕立て上げ、ついで無彊に説いて、対斉北上軍の方向を楚に転換させたうえで、合従に組したことはすでに述べた。その時点では、無彊が十万の大軍をもって出陣し、全壊に近い敗退に追いやられるなど、夢にも思っていない。ましてや出陣が十日早ければ、楚都の攻略は夢ではなかったのである。
この思いは、無彊もおなじである。
――悪夢じゃ!
このとき、憤怒に駆られた無彊の脳裏に、祖訓が蘇える。
――進退に窮することあらば、みたび范蠡の名を心に称え、『残月をみて、東海を踏め』、しかしてその方策は范蠡に問え。
――そうだ、范蠡だ、范大夫だ。
威王をにらみつけていた無彊の
威王はすくみあがった。
「斬れ、こやつの素っ首、いますぐ叩っ斬れ!」
抜刀した首切り役人が進み出て、無彊に一礼した。大刀を振りかざし、無造作に斬り下ろした。無彊は范蠡の名を二度まで心に称えていた。三度目を口にしようとした刹那、首は離れて飛んだ。
「はんれぇい!」
威王に向かって飛んだ首が、宙にあって范蠡の名を声に出した。
「わぁー」
絶叫した威王は、その場に昏倒した。
捕らえられるまで、無彊は六国合従の動きを把握していなかった。情報収集に抜かりがあった事実は責められていいが、越本国からも届いていなかったのである。無彊が各地に放った密偵は、楚の国境ですべて捕捉されていた。越からの急使はなかった。
全軍が出陣し、がら空きになった姑蘇の都で、子侯は越王を僭称した。
「なりませぬ」
留守をあずかる老臣が、からだを張って子侯を諌めた。
こどものころから
さもなければ、罪人として捕縛し、断罪に処すと威したのである。そのばあい家督は没収、子もまた罪に問われる。老臣はもはやこれまでと涙を飲んで、西に向かって無彊大王に遥拝し、拝領の短刀で自刎し果てた。
素知らぬ顔で葬儀に参列した子侯は、まだ若い未亡人の美貌に眼をつけ、側近に目配せした。葬儀に着用する白衣のまま宮殿によび、白昼、これを犯したのである。以後、白妃と呼んで宮殿に留めた。
宮中、奥の御殿には大王無彊の后以下、あまたの妃妾が
宝倉を開き、祖先伝来の宝物を売りさばき、酒肴の代金にかえた。夜ごと、いや昼間から宴を張り、歌舞音曲で酔いしれる、その費用に当てたのである。
当初こそ諫言するものもいたが、老臣の処罰のあとは、みな一様に口をつぐんだ。わが身大事と決め込んだのである。心あるものは黙って身を引いたから、子侯の回りは阿諛追従の徒で二重三重のガードが敷かれ、まともな情報は子侯まで届かなかった。
真の大王が誰であるかはみなよく知っている。戦場の結果はまだもたらされていない。無彊が戻れば、どうなるか。これもよく分かっている。
かろうじて残った理性が、恐怖心をあおる。その恐怖心から逃れるため、また子侯に取り入り、その覚えをよくするために側近は競って迎合する。子侯にすりより一心同体になるよりほかに生きる道のないことを一番よく知っていたのは、迎合者自身であった。
無彊が范蠡にあてた問いかけは、念波となって辛女が受けた。念波とは思念の伝波、テレパシーのことである。霊的交感ともいう。時空を超えて意思や感情を受発信する。
辛女は
会稽山の范蠡廟で生まれ育った辛女には、生まれつき霊性が備わっている。その資質にくわえ、幼児期から本格的に修行し、巫者(シャーマン)としての成巫儀礼を受け、若くして神職についた。巫者とは天意を伺う人―霊媒者のことである。「みこ」という。男なら巫子、女なら巫女と記す。神霊と交流し、天啓・霊示を受け、託宣をおこなうのである。呪術・呪法といっていいが、この時代、中国では方術という範疇に近い。道教のルーツである。ちなみに
念波の霊的交感は、范蠶もできるが、范蠶は巫子ではない。
無彊の進退窮まったすえの問いかけ、すなわち「大王の死」を辛女は不悍に告げた。
「ーー」
聞いて不悍は、絶句した。
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