三、瑞穂の郷


「たいがいになさいませ。不悍ふかんさまが、お困りではありませんか」

 みかねた辛女しんじょがたしなめた。

「いや、決してごとを申しているわけではないのだが、いつもの調子で話したので、ずいぶんと戸惑われたかも知れぬ」

「どなたがお聞きになっても、まともには取りあっていただけませんよ。ご説明を省いてはなりません」

 辛女は事情に通じているらしく、指摘する内容は的を射ている。不悍は感心した。奔放な范蠶はんさんと理知的であねさん肌の辛女、気心を知りあった同士の、格別の組合せにもみえる。

「戸惑ったのは確かだが、戯れ言とは思うておらぬ。商人とも思えぬ戦の読みには感服いたしておる。したが范蠡のはなしには、首をかしげるところもある。得心のゆくよう、仔細にご説明いただけまいか」

「これは恐れ入ります。では、いささかはなしは長くなりますが、祖翁 范蠡はんれいのことからご説明させていただきます」

 范蠶は真剣な面持ちで、不悍に向き合った。そしてかたわらの剣をとって不悍にしめした。先刻まで背負っていた剣である。

「この剣、なんとみられますか」

 不悍は鞘を払い、剣を凝視した。

「これはまさしく、勾践剣こうせんけん

 青銅でできた諸刃の直剣である。つばの両面は、藍色のガラスと孔雀石とが象嵌され、つかは平紋の絹帯びを巻き、紅色の絹糸で幾重にも絞めてある。剣身は全面が菱紋で飾られ、じつにみごとな色合いをみせている。勾践剣に違いなかった。

「さよう、紛れもなく正真正銘の勾践剣にございます。それもかの離別のおり、勾践大王 おん手ずから范蠡に賜りし宝刀にございます。このたびは身の証しにせよとて、蓬莱にて祖翁より託されました」

 范蠡、あざなは少伯、じょの国の人と『列仙伝』にある。徐は周初に興り、春秋時代に滅んだ、連雲港に近い沿海側の徐夷族の国である。呉の侵攻で、徐夷人は戦火に追われて海に逃れ、東方の島にうつったという。

「そのおり徐の民の東渡とうとを手引きしたのが祖翁の一族、まさに東海を踏んだはじめでございます。蓬莱の地に着き、あたりを何ヶ所か経巡ったすえ、ここぞと安住の地を定め、民の生活を安穏に導いたと伝え聞いております」

「ほう、安住の地か。なんという名であろう」

蓬莱ほうらいという以外、いまだ名もなき地にて、かの地・なのさと・わが集落くになどと呼んでおります」

「ならばかの地にては、なにをもって生計たつきとしているのか。先住の民といさかいはなかったか」

「東渡にさいしては米・麦・あわきび・豆、五穀の実を帯同し、農作の適地を求め、さまざまに栽培を試みたといいます。その結果、もっともかの地に適したのが水稲耕作。数年を経ずして、もとの二倍まで収穫を上げるのに成功しました。先住者は数も少なく穏やかな性質で、耕作を知らない人々です。男は狩りに出、女は木の実を採ります。土地にまつわる諍いはありません。収穫物を分けたり、耕作の技術を教えたりするなかで、むしろ徐の民を慕うようになりました。魚も豊富に取れ、鉱物も露天で採掘できます。まさに夢の仙境と申せましょう。一年中、緑に色づく豊かな大地と、清澄な大気、清冽な河水に恵まれた、まさに別の世界かと見紛うばかりの地でございます」

「それで、百五十年たったいまも同じように存在しているのか」

「祖翁は、商いの道で成功し千金を得ましたが、その資金を元手に、東渡移民の事業をさらにつづけております。祖翁のねらいは水稲耕作の栽培地の伝播拡大です。旧越会稽の浙江下流域からここ琅琊への北上伝播も、かつての領民による試みでございました。試みは的中し、琅琊は『魚米ぎょまいさと』に生まれかわりました。じつは斉の地への移植も試しましたが、斉は雨が少なく、土地も乾いております。水田には不向きという結論でした。しかし蓬莱ではすでに旧徐の移民は、海岸に注ぐ河川から灌漑水を引き、あぜをめぐらし、水稲栽培に成功しております。そこで蓬莱へのより積極的な伝播を考えたのです」

 計倪けいげいの主論に農業収穫循環説がある。豊作と不作は六年ごとにくりかえすというのである。つまり十二年目に大飢饉となる。旱魃や洪水は避けられない。ならば遠隔地に複数の栽培地をもてば各地の天候が異なるから、リスクは分散できる。生産地と消費地が離れていれば、価格にも影響は少ない。双方の流通さえ制御できれば、生産物は有利な条件で安定的に調達できる。天災による飢渇の被害は最少に抑えられ、しかも商人は富を手中にできるのである。范蠡が勾践にしめした、覇道に勝る「貨殖の道」の真骨頂がここにある。

 さらに范蠡の事業意欲は、これだけに止まらない。みずから生産地を開拓すれば生産量と価格は制御でき、なおかつ現地の興産に資するのではないか。范蠡は計倪の論を根拠に、蓬莱に水田稲作をもちこみ、「瑞穂の郷」を創ろうとしたのである。自給に供する分以外は、全量買取りの委託栽培形式である。獲れすぎても値は下げない。

 不悍は唸った。

「くにの仕事を超える計策ではないか。いや、くにを造る仕事そのものだといって過言ではない」


 范蠡は、呉を破った年、越を離れ、斉の国に赴いた。夷子皮いしひと名をかえ、たちまち巨万の富を貯えたことは、すでに述べた。

 その後、陶の国にうつり、陶朱公と呼ばれた。山東省西南の定陶県の地である。ここでもまた巨億の富を積んだ。農牧業を営むかたわら商品相場に手を染め、金融業もおこなったのである。

 いつのころからか蘭陵にゆき、薬を売って繁盛した。薬といえば仙薬を連想させる。もともと范蠡は周の太公望に私淑し、その書を座右においた。好んで肉桂にっけいを服用した。肉桂は桂の樹皮で、桂皮けいひともいう。温中補陽、散寒止痛の効用がある。からだを温め、血液を活性化する。長寿に通じるのである。太公望の神仙の道をならったものか。蘭陵は山東省南部の古名 嶧県えきけん、江蘇との省境付近にある。

 それからも代々その姿が界隈でみかけられたと『列仙伝』に記されている。范蠡は各地を転々としている。蓬莱に足を延ばしたとして不思議はない。


「先住の民にも慕われておるというが、いったいどなたが治めているのだ」

 不悍は、やつぎばやに質問を浴びせた。興味が湧いていた。

「まだ小さな集落でございます。治めるというほどのことはなく、土地の神とことばを交わすことのできる巫女みこが、集落を代表しています。先祖を祭り、争いを鎮め、狩りの獲物など収穫物を分けるのが巫女の仕事です」

「おんな郷長さとおさのくにか」

 すべては、范蠶の口から出たはなしである。しかし不悍はいま、それを信じる気持ちになっていた。

「かの地へは、どのようにゆくのか」

 本題にはいった。最大の関心事である。

「蓬莱へは、斉の海岸から対岸の半島伝いに船でゆけます。大きな戦のあるたび多くの民が争いを避けて逃げています。かの郷で土地を取りあう諍いは、むしろこの東渡移民同士で発生するばあいが多いのです」

 山東半島から渤海を北上、朝鮮半島南部に沿って済州島、対馬を経由し、九州北部の海岸にいたるルートである。この海岸一帯の通航便利な地には、すでに多くの渡来民が先住し、新たにはいる余地がない。せっかく上陸してはみたものの、結局、もっと内陸へ追いやられるか、再度、べつの地をめざすしかない。強引に割ってはいれば、争いになる。

「なんどかこの海路を用いましたが、やめました。東渡人同士の諍いを嫌ったからです。かわってみずからの海路をべつに求めました」

「東海を真東に突っ切るのだな。しかしその海路は危険だ。海があまりに広く、大きな波が来ればひとたまりもない。波にさらわれて沈没するか、行き先知れぬ漂流か、まさに自殺行為だ。だから『東海を踏む』といって恐れられるのだ」

 舟軍をひきいる不悍は、みずからも航海者である。海の経験と知識は豊富にある。それでいて、東への直進航路には二の足を踏む。

 古代にあっては、いまの太平洋の存在はまさに脅威以外のなにものでもない。未知の脅威や不可思議な事象には近づかないこと、これが古代人の生き延びる原則である。

「辛女は、心利きたるものが導くと申しておったが、心利きたるものとは、そのほうか」

「時季にもよりますが、蓬莱へは東海をわたってゆき、かの地からは半島を経由して戻ります。なんどか往来はしておりますが、手前ではまだ経験が足りません。東へ導く心利きたるものとは、わが従者 値嘉耳チカミとその一党」

 范蠶は苦笑いをして、従者を呼んだ。

「チカミは、蓬莱の西端にある五つの小島、五島ごとうに住む海人かいじんにございます。海に潜って魚やはまぐりを取るかたわら船を操り、東海周辺を自由に航行しております。潮の流れ、風の向き、星の動きに通暁しており、万にひとつも外すことはありません」

 チカミと呼ばれた男は、小柄だが逞しい体つきである。断髪で潮焼けした顔は、越の漁民とあまりかわらない。かの地のことばで話しているのであろう、ふたりの会話は聞き取れない。

「ご覧ください。かれらもまた、越とおなじ文身ぶんしんの習俗があります」

 チカミは衣服を脱いだ。浅黒い胸に、龍紋の入れ墨がある。蓬莱と越とは、いにしえより東海を通じて、おなじ文化習俗でつながっている証左ではないかと范蠶はいう。


 東海を東にゆく。不安はあるが、躊躇しているときではない。

 范蠶の言辞を信じ、チカミの実力に頼るのみである。

「琅琊に人はいま、どれだけ残っているか」

「ほぼ一万人。ただしそのうち半数が、老人・病人・妊婦・幼児、あるいは東渡移住を望まず、近隣に頼れる縁者のあるものたち。されば東渡可能なものは、五千人でございます。東渡の条件に満たないものたちは、范蠡ゆかりの村落にて引き受けましょう」

「ひとりでも多く乗せたい。舵取りはそれぞれべつに仕立てるが、全員に櫂を漕いでもらわねばならぬ。五十人乗りの船で百艘あまり、急ぎ調達できようか。斉・楚が侵攻するまでひと月かかるとみた。いまからひと月のうちに出発しなければ、危うい」

 不悍は、越軍の敗退必至とみたのである。

「さすれば、二十日以内に調達しなければなりません。斉へいって買いとってきましょう。金は用意してあります。足りなければ、海盗から強奪する手もございます。なに、いっときお借りするまで。用がすめば返します。できるだけのことはやってみましょう」

 どのような算段があってのうえか、范蠶はふたつ返事で承知した。


 長い一日が終わった。食事のあと、不悍は床についた。

 深更に近いが、容易に寝つかれなかった。父王のことが気遣われた。最悪の事態が頭をよぎった。思うまいとした。かわりに東へわたる海路の困難さを思いやった。そして、まだ見ぬ蓬莱の「瑞穂の郷」を思い描いた。


 百艘の船団が鏡のうえを滑るように、東へ向かって進んでいる。波ひとつない広大な海である。晴れわたった天空との境に、青い水平線がひとすじの線で描かれている。

ゆったりと穏やかに船団は進む。進んでも進んでも水平線には届かない。水平線の遠いかなたは、奈落の底へ通じる大瀑布で海が断ち切られているという。さきに蓬莱に着いてしまえば、滝つぼに落ちることはない。蓬莱が滝の向こう側にあればどうやって渡るのか。答えの出ぬまま、船団は海の果に近づいている。やがて轟々ごうごうと耳をつんざく滝の音で、思考は閉ざされる。

 滝に落ちまいとして抗う波と前へ進もうとする波がぶつかり合って、飛沫しぶきをあげる。大小さまざまな舟船は波に翻弄され、上に下に折り重なる。人々は海に放り出される。あわやというとき、滝の底から飛龍が躍り出る。人々は飛龍のひげにつかまって天空を飛ぶ。

 飛龍は蓬莱に人々を運び、ふたたび海の底へ引き返す。


 山裾まで、水田が広がっている。大勢の里人が田植えをしている。泥田の足跡は、やがて苗の緑で被われる。苗は生長し、金色の稲穂をつける。まばゆい田のなかで、ひとりの娘が稲を刈っている。

 顔を上げた。阿嬌だった。健康そうな笑顔で微笑んだ。不悍は阿嬌を押し倒し、真っ赤な唇を吸った。生暖かい感触がした。

 夢から覚めた。阿嬌を抱いていた。


「これは、どうしたことか」

「辛女さまが、公子さまの閨に侍ることをお許しになりました。わたくしからお願いしたことでございます」

「わしもそなたを思うて夢をみた。夢でなくうつつであったとは」

「夢とお思いください。あす、わたくしは姑蘇の都へまいります」

「それは急なことだが、なに用あってのことか」

「太子さまを籠絡ろうらくせよとのご下命にございます」

 思わず不悍は跳ね起きた。

「いま、なんと申した。不埒なことを申すでない」

 不悍の剣幕に、阿嬌も身を正し、胸元をかきよせた。

「都にて子侯太子が越王を僭称されたよし。西施の術をもって、さきに太子を籠絡し、わが意のままに操れるようにしておき、のちに不悍公子のご指示を仰げ、これがわたくしに課せられた使命。しくじれば、命はありません。せめて今生のお別れに、公子さまのお情けをいただきたいと、ご無礼を承知で忍んでまいりました」

「わしに兄を害せよと申すか。なにゆえ辛女がそのように」

「辛女さまは范蠡廟の祭司にして、神におつかえする巫女みこ。いずれは国王になられる公子の御為おんために働け、とのお告げです」

「わしは国王になる気などない」

「でもそれが、無彊むきょう大王のご叡慮と承っております」

 おのが太子ながら子侯の邪念を、無彊は見抜いていた。越王無彊は在位二十五年になる。そろそろ王位をわたせ、といわんばかりの子侯の素振りが目にあまる。無彊の感情は、不快の限度を越えていた。下手に戦功でも挙げられては面倒だ、意図して征楚戦への参加を拒んだのである。時期が来れば廃嫡し、かわって末子の不悍を太子に立てるつもりでいた。都においたのでは、兄弟の争いになる。不悍に琅琊をまかせたのは、その布石であった。

 ――辛女はすでに父王無彊の命運を予知している。ならば偽王の兄は不忠の元凶となる。人の手を煩わすまでもない。わしが斬る。

 不悍の想念から、「東渡の危惧」も「瑞穂の郷」も急速に遠のいた。現実の重みが夢想を押しのけた。

 ――だが、ここにいる阿嬌は夢か、現実まことか。

 不悍は阿嬌を抱いて、現実であることを確かめた。夢なら捨てる。

「父王の危難をあえて無視した偽王は許せぬ、わしがこの手で直接裁き、父王の無念を晴らしてくれる。阿嬌よ、お前は捨てぬ。けっして死ぬでないぞ。かならず迎えにゆく。琅琊へ、あるいは蓬莱へ、手を携えて、ともにゆこうぞ」

 不悍は力を込めて阿嬌を抱いた。阿嬌は声を上げて、これに応えた。


 払暁、不悍は太刀をとって、城内の高台に立った。

 東の空が明けめている。

 高台から見る東海に陽光が広がり、水平線を切って旭日が頭をもたげる。ゆっくりと少しずつ上昇する。

 やがて朝焼けが、鮮やかな朱色を海一面に塗布してゆく。己が手で染める鮮血の飛沫しぶきを暗示するかのように、海の画布カンバスは真紅に染まってゆく。

「兄者、早まってくれた。いまだ父王の安否も定まらぬというに」

 不悍は、朝焼けに向かって絶叫したい高ぶりを、もてあました。

 手にした太刀の鞘を払い、刃先を天空にかざした。

 眼下の大海原に向かって、真っ向微塵、気合もろとも太刀を切り下ろした。

 真紅の画布を切り裂かんばかりの鋭さであった。

 夜が明けてなお天空に白い月が残っていた。残月である。


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