一、越王勾践


 春秋末期、三十三年にわたる呉越ごえつの戦いを制した越王 勾践こうせんは、戦勝の五年後、都城 会稽かいけい琅琊ろうやに遷都した。

 琅琊は、会稽から直線距離で北に五百五十キロさき、蘇北大平原の東端に位置する呉の故地、いまの江蘇省連雲港 錦屏山きんびょうさん、古称琅琊山である。

 一般にいわれる山東省 膠南こうなん県の琅琊は、さらに百四十キロ北方に位置するべつの地である。当時そこまで、呉・越の勢力はおよんでいない。山東省一帯は斉・の勢力下にあり、出城ならともかく、国都の設置など思いもよらない、

 遷都にさいし、先発隊として屈強な工農兵八千人を選抜し、戈船かせん(軍船)三百艘で派遣した。新都の治安確保を兼ねた屯田兵である。かれらが新都開発の中核部隊となる。

 琅琊の地はすでに呉の時代から、海州湾内の良好な―港として開発されていた。工兵は道路と城壁の拡張工事、そして宮殿や塩倉庫など大型施設の建設をはじめた。郊外は平原のつきるまで、水田などの耕作地や放牧場にあてる計画である。工農兵がきり拓き、地割りした。新たに移住する農牧民がはいるまえに整備し、ついで入植者に配分する。先住の民はすでに就農している。塩の生産や漁港としても実績があり、塩田や魚介類の捕獲採集加工にあたる漁民の漁労生活区もすでに海岸沿いの一区画が用意されている。

 新都は自給可能な前進基地として、北への発展を期していた

 城中の高台に立てば、東に東海が一望できる。東海とは東シナ海である。晴れわたった日には、東海の大海原を水平線のかなたまで、ひと目で捉えることができるのである。

 他の三方は、さほど大きくない緑の山にかこまれている。その後背地は南に淮水わいすい、西に沂水きすい朮水じゅつすいが流れ、そして北には沂蒙山きもうさんが居座り、天然の障壁をなしている。

 蘇北大平原は、温帯から亜熱帯に移行する気候帯に属する。春夏秋冬があり、適量の雨が降る。肥沃な土壌と水利に恵まれ、水稲耕作にはうってつけの条件をもつ。近海と河川では、水産物の収穫も期待できる。広い牧草地もある。旧越の地から農牧漁民が大挙して北上した。

 遷都の一番の理由は、地の利を得ることである。これまでの都、呉の姑蘇こそ(蘇州)や越の会稽(紹興)にくらべ、中原に近い。中原の覇者たる声望をさらに高めるためにも、地の利は欠かせない。

 この時期、宋・鄭・魯・衛・陳など周王朝の封を受けた中原の国家やとうせつきょなど泗水しすい上流(山東南西部)の十二諸侯が、越王を覇主と認め、朝賀し貢納するまでになっていた。いまや天下は斉・晋・楚・越で四分され、越はその一翼を担っていた。まさに天の時が熟したといっていい。

 時代は、春秋から戦国への過渡期に移ろうとしていた。


「ひとくちに呉越というが、それぞれの成り立ちはとうぜん異なる」

 越王勾践から七世の子孫 不悍ふかんは、国学の老師より両国の建国の歴史を聞かされている。

 呉は、周の太王(古公亶父ここうたんぽ)の長子 太伯たいはくと次子 仲雍ちゅうようが、末弟の季歴きれきに位を譲るため南方の荊蛮の地に出奔、からだに文身いれずみし髪をざんばらにするなどその地の風習にあわせてみずから馴染み、民心を得、やがて建国したものだという。季歴はのちの周文王の父である。

 越は、が建てたの子孫で、夏帝 少康しょうこうの庶子 無余むよが会稽に封じられ、建国したのがはじまりという。断髪文身の風は呉とかわらない。ついでにいえば、呉越はことばもさほど違わない。北の斉や、西の楚とは異なり、いちいち通訳を介さずとも、ことばが通じる。

 いずれも長江下流の江南にあり、北方の中原から見れば南方の蛮族の地にすぎない。それが呉越勢力の台頭により、中華の版図を拡大するにいたったのである。


 春秋戦国時代といえば、前七七〇年の周朝東遷にはじまり、秦の始皇帝によって中原が統一される前二二一年までの五百五十年間をいう。明快である。

 ところが、春秋と戦国の区切りについては、諸説がある。春秋という時代名は、孔子が編纂したといわれる史書『春秋』にちなむが、これにもとづけば獲麟の年、前四八一年、孔子の死をもって春秋は終わる。一方、通説では、晋が韓・魏・趙の三国に分立した時期をもって戦国時代のはじまりとする。ただしこれにも二説ある。

 事実上分裂した前四五三年説と、周の威烈王が韓・魏・趙の三国を諸侯と公認した前四〇三年説である。ちょうど五十年の差がある。後者にしたがえば、春秋戦国は二対一の期間比率となる。

 この時代、多くの国々が治乱興亡、栄枯盛衰をくりかえしたが、その立役者は、春秋の五覇であり、戦国の七雄である。

 春秋の五覇といえば、斉の桓公かんこう・晋の文公・楚の荘王、ここまでは不動で残りのふたりは、呉王 闔閭こうりょ・越王勾践か、あるいは呉王夫差・秦の穆公ぼくこう・宋の襄公じょうこうかと、論者によって説が分かれる。

 一方の戦国は、伝統的権威が価値を失い臣下が主家を簒奪する、力が正義の下剋上時代である。七雄といわれる韓・魏・趙・斉・秦・楚・燕が権謀術数を駆使し、遠交近攻、合従がっしょう連衡れんこう、離合集散のすえ、秦に統一される群雄割拠時代である。


 異説はともあれ大方の識者は、越王勾践をもって春秋最期の覇者とみる。

「覇者は、中原列国同盟や諸侯会盟の盟主である」

 周囲の小国間の利害を調整し、紛争を処理する調整者でもある。大国相手の戦争では強敵をねじ伏せる、相対的強者でなければならない。

「覇者のつとめは、宗主の周王朝にかわって天下の安寧を保障することにある」

 武力を背景とした強国の威圧と指導力、ときには経済支援がそれを可能にする。西方に秦が勃興するとともに、中原における覇権争いはさらに熾烈をきわめるのである。

 国学老師の歴史談義はしだいに熱を帯びてくる。

「呉王夫差を破ったわが祖越王勾践は、呉が各国から奪った土地を無償で返還した。淮水一帯の土地を楚に、江蘇 沛県はいけん一帯の土地を宋に、泗水しすい以東の土地を魯に、それぞれもとの持主にかえしたのだ」

 土地は国の命である。土地からあがる賦税は、富国強兵のいしずえであり、地盤の維持ないし拡張は、国王に課せられた最大の任務である。その任務を遂行するためなら、軍事行動に訴えても名分が立った。そんな時代に、戦争をせずに失地が戻ったのである。驚天動地のできごとといっていい。武力で威嚇した呉王夫差とはまったく正反対のやり方に、各国は驚愕し、やがて畏怖した。

 江淮こうわい間(長江・淮水間)で意表をつく仁政を施したのち、越は会盟の盟主となり、諸侯に号令した。覇者となったのである。秦だけがこの会盟に参加しなかった。越王の盟主を認めなかったのである。

 にわかに勾践は、秦討伐の遠征軍を発した。直線距離で九百キロ、秦は遥か西方にある。

「季節は冬にかかっていた。越の兵士は厳しい寒さに慣れていない。霜がおり、雪が降り、からだが凍った。行軍は困難をきわめたが、歌をうたい、からだをぶつけ合って温もりをとり、乗り切った。数千里の道のりを遠しとせず、北方の寒気を恐れることなく、ついに河水(黄河)をわたった。晋と秦の国境を南北にわける河水を越え、秦の領土に侵攻したのだ。秦とて西方の雄、大国である。完全装備の歴戦の軍団が、いまや遅しと越軍の来襲を待ちうけていた。降りしきる豪雪のなか、越軍が侵攻してきた。名にし負う東夷の獰猛な軍勢である。それが歌をうたって攻めてきた。秦軍の気勢が殺がれ、兵士のあいだに怯えが奔った。指揮官が止めるまもなく、つぎつぎと武器を捨て、投降したのである。越は戦わずして秦の前線を突破した。敗報を受けた後方の秦の臣民は震え上がった。越王の盟主を認め、覇者の号令にしたがうことを誓約した。越王勾践の声望は、いやがうえにも高まった」

 国学の老師は、百三十年前の戦役を、昨日のことのように語り、涙した。

 不悍もまた、偉大なる祖先の勝ち戦に感動し、胸を熱くした。


 前四九六年に二十五歳で即位した越王勾践は、在位三十二年におよんだ。ただし呉が滅亡する前四七三年までの二十四年間は、対呉国敗戦の屈辱をそそぎ、復仇をとげるための雌伏忍耐の期間といっていい。この間、勾践はよく屈辱の試練を克服し、戦勝後には、沈着で穏健な熟達の覇者に変身した。しかし覇者勾践の時代は、長くつづかなかった。

 呉国滅亡の八年後(琅琊遷都の三年後)、勾践は病を得て亡くなったのである。まことにあっけない幕切れであった。

 死の直前、勾践は太子 與夷よいを枕頭に呼び、後事を託した。

 病情は篤い。もはやこれまでと、覚悟のうえである。

「申し聞かすことがある。わしがいまわのことばとして、心に留めおくがよい。わが越国は、開祖大禹より二十余代、中原の東南端にあって、国土の開拓と国威の伸張に力をつくしてまいった。わしは先君 允常いんじょうのあとを受け、天佑神助のご加護により、楚国の後塵を拝しながらも、ついには強大な仇敵呉国を討ち亡ぼした。その後も、大江(長江)下流域の辺鄙な古越の地から江淮をわたり、斉・晋などの国々に伍し、中原に覇を称えることができたのだ。こんにちまでのこの歩み、容易なことではなかったが、徳行にはげみ功績は大きかったと胸をはっていえる。しかしこののち、覇者の地位を維持し続けるのはそれ以上に難しいものと、肝に銘じて力を尽くせ」

 與夷とて、父王の苦労を知らぬわけではない。

 呉の占領統治下、監視の目をくぐり、会稽の恥をそそぐため、どれだけの苦労に耐えてきたことか。

 嘗胆しょうたんきもめる)し、十年の生聚せいしゅう(民を育て国力を養う)につとめ、こつこつと食糧増産など経済振興に励んできたのである。多くはいわずとも、臥薪嘗胆の故事が明らかにものがたっている。ところで無粋なことだが、臥薪嘗胆の臥薪がしん(薪に臥す)は、宿敵呉王夫差側の刻苦精励法である。

嘗糞しょうふん」のはなしも聞いている。呉に抑留中、厩舎の役務を課せられていたが、呉王が病気のとき、そのくそを嘗めたのである。容態の軽重を知るためであった。苦い味がした。やがて病気はなおるであろうと診断した。まさに言語に絶する屈辱の体験である。そして、これがみごとに的中し、評価されて、早期の解放につながったのである。

 この「嘗糞」は、「ひどく人にこびへつらうさま」として、のちに故事となって歴史に残る。むしろ「辛苦をなめる」苦難に耐えた、おぞましい成語というべきか。

 與夷はそんな父王勾践の重い負託を、しっかりと受けとめた。

「不肖未熟ながら、しかと心に刻みおきます」

 後継者の頼もしい返答に、勾践はうなずいた。

「それでよい。そのこころがけを、けっして忘れてはならぬぞ。さらにひとつ、つけくわえることがある。こののち越国に一大事が出来しゅったいし、民に累がおよび、進退に窮することがあれば、ためらわず『残月をみて、東海を踏む』のだ。しかしてその方策は范蠡はんれいに問え。会稽山に向かい、みたび心に范蠡の名を称えよ。さすれば遠からずして、策がもたらされるであろう。この儀、向後、一子相伝の家訓とせよ」

 いい終えると静かに瞑目し、こときれたのである。享年五十六歳、青史に名を留める最期の覇者の死であった。

 與夷は礼にしたがい、哭泣こっきゅうした。大声をあげて泣き叫ぶ、葬式の礼儀である。しかし哭泣のさなかも、勾践の最期のことばが頭を去らなかった。

 ――なぜだ。なぜ范蠡の名が出たのだ。そもそも「残月をみて、東海を踏む」、とはなにごとか。夜明け方、海にはいって自殺することではないか。国家危急の大事をまえに、なにゆえ死ねというのか。

 范蠡が勾践のもとを去ったのは、呉が滅んだ年である。もう八年になる。ふたりのあいだになにがあったのか、與夷は知らない。

 ただ范蠡が出奔した朝、一族郎党が整然と船をならべ、五湖(太湖)に浮かぶのを目撃した與夷が、勾践に報せ対応を訊ねると、

「捨ておけ、ゆくにまかせよ」

 つねになく険しい顔で、そういったのを覚えている。

 結局、范蠡は一族を引きつれ、船で斉へ去った。

 その後、大夫たいふ(大臣)の文種ぶんしょうが讒言にあって自害に追い込まれた。文種は范蠡につぐ救国の功臣である。夫椒山ふしょうさんの戦いで呉に敗れ、会稽山に包囲されたとき、和議の使者に立って、勾践の助命を嘆願した。嘆願は功を奏し、極刑をまぬがれた勾践夫妻と范蠡は呉に抑留され、二年服役した。この間、主人を失った占領下の越を守ったのが文種である。勾践が許されて帰還したのちも、復仇工作に専念する勾践・范蠡にかわり、文種が国政をあずかって、敗戦後の越の復興につくした。そんな功臣ですら、終わりを全うすることはかなわなかったのである。

 范蠡はすでにこの結果を予見していた。文種にも耳打ちしていた。

「飛鳥つきて良弓かくれ、咬兎こうと死して走狗そうく煮らる」(どんなに功績があっても、必要がなくなると捨てられる)

 国を二分して渡してもいいという勾践の慰留をことわった。艱難をともにしても、安楽をともにできる相手ではない。范蠡は、勾践の人相から読みとったのである。

 ――長頸ちょうけい烏喙うかい(首が長く、とがった口先)の人は、才知があって忍耐強く、艱難をともにすることはできる。しかし残忍で貪欲な性格を隠しもっているので、安楽をともにすることはできない。

 范蠡は、勾践に別れを告げた。

「臣行意」(わたしは思うところをおこなう)

 覇道にくみせず、わが道をゆく。

 その道とは、「貨殖(利殖)の道」 である。

 范蠡は覇者を志す勾践と袂を分かち、斉に去った。のち鴟夷子皮しいしひと名をかえ、魚の養殖、農耕、家畜の飼育などをおこない、数年にして巨万の富を得た。さらにそれを斉の民に散じて、またいずこへか去った、という風のたよりが、越の地にも届いていた。

 その范蠡を、いまにして頼れと、勾践は遺言した。

 ――はて、どういうことか。

 哭泣のあとも、そのことが與夷の脳裏をよぎり、ときおり思いだしては、首をかしげた。


 そののち越の覇業は、勾践六世の孫 無彊むきょうの代まで百三十余年間維持された。朱勾しゅこうえい・無彊の三代が比較的長期に安定した王位を保ち、越の国力を内外に増勢し、健在振りを誇示したからである。

朱勾のとき、越の覇業は新たな展開をみせた。とうたんきょという琅琊の西北方面の諸国をち、領土を兼併したのである。結果、中原の魯・斉と直接国境を接することになり、紛争の火種を抱えるようになった。さらにこれまで友好関係を保ってきた楚とのあいだで、小競合いが頻発するようになっていた。

 朱勾は在位三十八年で亡くなり、子の翳が越王を継いだ。翳もまた琅琊の西にある諸侯国 そうを滅ぼし、その領土を兼併した。西に版図を拡げたのである。楚と直接対峙する形勢となった。

 琅琊遷都から九十年目、翳は都を姑蘇へ還した。隣国楚との外交関係が悪化したためである。楚は南方の大国となり、北と西に向かって拡張をめざす越の南部を露骨に侵犯し、牽制した。

 覇主の面子めんつもある。楚との南方国境線を防御する必要に迫られ、やむなく首都を南に還した。これによって、北への勢力伸張は停止することになり、勾践いらい培ってきた越の覇業は頓挫した。まさに九仞きゅうじんの功を一簣いっきく失策といっていい。還都を置き土産に、翳は在位三十七年で亡くなった。

 その後継を争い、越の王室内に内乱が発生した。骨肉の殺戮が頻出し、国力は一気に失墜した。

 そんな時期、越王の覇業復活をかけ、国人の輿望をになって即位したのが無彊である。

 躊躇していれば、いずれは潰される。無彊は政権を立て直し、軍事優先で、なりふりかまわず中原に割ってはいった。

 北に斉を伐ち、西に楚と戦い、ふたたび覇権を手中にすることを祖宗に誓った。昔日の覇業の回復を、己が使命としたのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る