一、越王勾践
春秋末期、三十三年にわたる
琅琊は、会稽から直線距離で北に五百五十キロさき、蘇北大平原の東端に位置する呉の故地、いまの江蘇省連雲港
一般にいわれる山東省
遷都にさいし、先発隊として屈強な工農兵八千人を選抜し、
琅琊の地はすでに呉の時代から、海州湾内の良好な
新都は自給可能な前進基地として、北への発展を期していた
城中の高台に立てば、東に東海が一望できる。東海とは東シナ海である。晴れわたった日には、東海の大海原を水平線のかなたまで、ひと目で捉えることができるのである。
他の三方は、さほど大きくない緑の山にかこまれている。その後背地は南に
蘇北大平原は、温帯から亜熱帯に移行する気候帯に属する。春夏秋冬があり、適量の雨が降る。肥沃な土壌と水利に恵まれ、水稲耕作にはうってつけの条件をもつ。近海と河川では、水産物の収穫も期待できる。広い牧草地もある。旧越の地から農牧漁民が大挙して北上した。
遷都の一番の理由は、地の利を得ることである。これまでの都、呉の
この時期、宋・鄭・魯・衛・陳など周王朝の封を受けた中原の国家や
時代は、春秋から戦国への過渡期に移ろうとしていた。
「ひとくちに呉越というが、それぞれの成り立ちはとうぜん異なる」
越王勾践から七世の子孫
呉は、周の太王(
越は、
いずれも長江下流の江南にあり、北方の中原から見れば南方の蛮族の地にすぎない。それが呉越勢力の台頭により、中華の版図を拡大するにいたったのである。
春秋戦国時代といえば、前七七〇年の周朝東遷にはじまり、秦の始皇帝によって中原が統一される前二二一年までの五百五十年間をいう。明快である。
ところが、春秋と戦国の区切りについては、諸説がある。春秋という時代名は、孔子が編纂したといわれる史書『春秋』にちなむが、これにもとづけば獲麟の年、前四八一年、孔子の死をもって春秋は終わる。一方、通説では、晋が韓・魏・趙の三国に分立した時期をもって戦国時代のはじまりとする。ただしこれにも二説ある。
事実上分裂した前四五三年説と、周の威烈王が韓・魏・趙の三国を諸侯と公認した前四〇三年説である。ちょうど五十年の差がある。後者にしたがえば、春秋戦国は二対一の期間比率となる。
この時代、多くの国々が治乱興亡、栄枯盛衰をくりかえしたが、その立役者は、春秋の五覇であり、戦国の七雄である。
春秋の五覇といえば、斉の
一方の戦国は、伝統的権威が価値を失い臣下が主家を簒奪する、力が正義の下剋上時代である。七雄といわれる韓・魏・趙・斉・秦・楚・燕が権謀術数を駆使し、遠交近攻、
異説はともあれ大方の識者は、越王勾践をもって春秋最期の覇者とみる。
「覇者は、中原列国同盟や諸侯会盟の盟主である」
周囲の小国間の利害を調整し、紛争を処理する調整者でもある。大国相手の戦争では強敵をねじ伏せる、相対的強者でなければならない。
「覇者のつとめは、宗主の周王朝にかわって天下の安寧を保障することにある」
武力を背景とした強国の威圧と指導力、ときには経済支援がそれを可能にする。西方に秦が勃興するとともに、中原における覇権争いはさらに熾烈をきわめるのである。
国学老師の歴史談義はしだいに熱を帯びてくる。
「呉王夫差を破ったわが祖越王勾践は、呉が各国から奪った土地を無償で返還した。淮水一帯の土地を楚に、江蘇
土地は国の命である。土地からあがる賦税は、富国強兵の
にわかに勾践は、秦討伐の遠征軍を発した。直線距離で九百キロ、秦は遥か西方にある。
「季節は冬にかかっていた。越の兵士は厳しい寒さに慣れていない。霜がおり、雪が降り、からだが凍った。行軍は困難をきわめたが、歌をうたい、からだをぶつけ合って温もりをとり、乗り切った。数千里の道のりを遠しとせず、北方の寒気を恐れることなく、ついに河水(黄河)をわたった。晋と秦の国境を南北にわける河水を越え、秦の領土に侵攻したのだ。秦とて西方の雄、大国である。完全装備の歴戦の軍団が、いまや遅しと越軍の来襲を待ちうけていた。降りしきる豪雪のなか、越軍が侵攻してきた。名にし負う東夷の獰猛な軍勢である。それが歌をうたって攻めてきた。秦軍の気勢が殺がれ、兵士のあいだに怯えが奔った。指揮官が止めるまもなく、つぎつぎと武器を捨て、投降したのである。越は戦わずして秦の前線を突破した。敗報を受けた後方の秦の臣民は震え上がった。越王の盟主を認め、覇者の号令にしたがうことを誓約した。越王勾践の声望は、いやがうえにも高まった」
国学の老師は、百三十年前の戦役を、昨日のことのように語り、涙した。
不悍もまた、偉大なる祖先の勝ち戦に感動し、胸を熱くした。
前四九六年に二十五歳で即位した越王勾践は、在位三十二年におよんだ。ただし呉が滅亡する前四七三年までの二十四年間は、対呉国敗戦の屈辱をそそぎ、復仇をとげるための雌伏忍耐の期間といっていい。この間、勾践はよく屈辱の試練を克服し、戦勝後には、沈着で穏健な熟達の覇者に変身した。しかし覇者勾践の時代は、長くつづかなかった。
呉国滅亡の八年後(琅琊遷都の三年後)、勾践は病を得て亡くなったのである。まことにあっけない幕切れであった。
死の直前、勾践は太子
病情は篤い。もはやこれまでと、覚悟のうえである。
「申し聞かすことがある。わしがいまわのことばとして、心に留めおくがよい。わが越国は、開祖大禹より二十余代、中原の東南端にあって、国土の開拓と国威の伸張に力をつくしてまいった。わしは先君
與夷とて、父王の苦労を知らぬわけではない。
呉の占領統治下、監視の目をくぐり、会稽の恥をそそぐため、どれだけの苦労に耐えてきたことか。
「
この「嘗糞」は、「ひどく人にこびへつらうさま」として、のちに故事となって歴史に残る。むしろ「辛苦をなめる」苦難に耐えた、おぞましい成語というべきか。
與夷はそんな父王勾践の重い負託を、しっかりと受けとめた。
「不肖未熟ながら、しかと心に刻みおきます」
後継者の頼もしい返答に、勾践はうなずいた。
「それでよい。そのこころがけを、けっして忘れてはならぬぞ。さらにひとつ、つけくわえることがある。こののち越国に一大事が
いい終えると静かに瞑目し、こときれたのである。享年五十六歳、青史に名を留める最期の覇者の死であった。
與夷は礼にしたがい、
――なぜだ。なぜ范蠡の名が出たのだ。そもそも「残月をみて、東海を踏む」、とはなにごとか。夜明け方、海にはいって自殺することではないか。国家危急の大事をまえに、なにゆえ死ねというのか。
范蠡が勾践のもとを去ったのは、呉が滅んだ年である。もう八年になる。ふたりのあいだになにがあったのか、與夷は知らない。
ただ范蠡が出奔した朝、一族郎党が整然と船をならべ、五湖(太湖)に浮かぶのを目撃した與夷が、勾践に報せ対応を訊ねると、
「捨ておけ、ゆくにまかせよ」
つねになく険しい顔で、そういったのを覚えている。
結局、范蠡は一族を引きつれ、船で斉へ去った。
その後、
范蠡はすでにこの結果を予見していた。文種にも耳打ちしていた。
「飛鳥つきて良弓かくれ、
国を二分して渡してもいいという勾践の慰留をことわった。艱難をともにしても、安楽をともにできる相手ではない。范蠡は、勾践の人相から読みとったのである。
――
范蠡は、勾践に別れを告げた。
「臣行意」(わたしは思うところをおこなう)
覇道に
その道とは、「貨殖(利殖)の道」 である。
范蠡は覇者を志す勾践と袂を分かち、斉に去った。のち
その范蠡を、いまにして頼れと、勾践は遺言した。
――はて、どういうことか。
哭泣のあとも、そのことが與夷の脳裏をよぎり、ときおり思いだしては、首をかしげた。
そののち越の覇業は、勾践六世の孫
朱勾のとき、越の覇業は新たな展開をみせた。
朱勾は在位三十八年で亡くなり、子の翳が越王を継いだ。翳もまた琅琊の西にある諸侯国
琅琊遷都から九十年目、翳は都を姑蘇へ還した。隣国楚との外交関係が悪化したためである。楚は南方の大国となり、北と西に向かって拡張をめざす越の南部を露骨に侵犯し、牽制した。
覇主の
その後継を争い、越の王室内に内乱が発生した。骨肉の殺戮が頻出し、国力は一気に失墜した。
そんな時期、越王の覇業復活をかけ、国人の輿望をになって即位したのが無彊である。
躊躇していれば、いずれは潰される。無彊は政権を立て直し、軍事優先で、なりふりかまわず中原に割ってはいった。
北に斉を伐ち、西に楚と戦い、ふたたび覇権を手中にすることを祖宗に誓った。昔日の覇業の回復を、己が使命としたのである。
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