越王の裔 東海を踏む

ははそ しげき


 戦国末期のせい魯仲連ろちゅうれんという智謀の士がいた。宮仕えをきらい、高節をもって知られた。

 火牛の計で著名な田単でんたんのころ、えんの将軍が斉を攻め、りゅう城を落として籠城した。讒言するものがあって燕王に厭われ、進退に窮して孤立したのである。田単はたびたび攻撃したが犠牲者を出すばかりで、一年経っても陥落しない。そこで魯仲連に和解策を問うた。

 魯仲連は書簡をしたためて矢文やぶみとし、燕将にはなった。その文面の一部がこれである。

「智者は時にそむきて利をすてず、勇士は死をけて名をめっせず、忠臣は身を先にして君を後にせず」(智者は時勢にさからって不利に陥ることはしない。勇士は死をおそれて名誉を失うことはしない。忠臣はわが身を惜しんで主君を忘れることはしない)

 智者・勇士・忠臣―いずれも死してなお名をとり、じつをみたすほまれである。いまここで、いかに振舞うかで後世の評価が決まる。燕将は嘆息すること三日におよび、自決し果てた。

 田単は労せずして聊城を奪回した。魯仲連の功をねぎらい、王に言上し、爵位を授けようとした。魯仲連は「自儘じままに生きたい」と市井に逃れ、受けようとはしなかった。


 長平の戦で大勝したしん白起はくき将軍は、降伏したちょうの兵卒四十万を穴埋めにして殺した。趙の都 邯鄲かんたんは包囲され、秦に敵対する諸侯は救援軍をさしむけたが、秦軍の威力に気圧けおされ、あえて攻撃するものはなかった。

 たまたま趙にいた魯仲連は、王が趙王に遣いを出して、講和を画策していることを知った。

「秦王を帝と尊称すればよい。秦は満足して兵を引く」

 屈辱的な条件だが、面子メンツ以外に喪うものはないという。

 魯仲連は声高に反論した。

「かの秦は礼儀をすて、敵の首を多く挙げることを尊ぶ国である。権柄尽くで兵を動かし、奴隷のように人民を使役する。だから、もし秦王がほしいままに帝となり、天下の政事を誤ろうとするなら、連は『 東海を踏んで死ぬ』だけだ。その民となるには耐えられない」

 魏の遣いは趙王への説得を取り下げ、講和工作を撤回した。秦はまもなく包囲を解いた。

 趙王を補佐する平原君趙勝が千金を贈って賞したところ、魯仲連は笑って受けなかった。

 原文にはこうある。――則連有踏東海而死耳(すなわち連は東海を踏んで死ぬるのみ)。

「東海を踏んで死ぬ」とは、東海―東シナ海に身を投げて死ぬ意味で使われている。ちなみに魯仲連は、えつの公子 不悍ふかんから百年あとの時代に生きた人である。

 海岸沿いの北上ルートならまだしも、百年を経てなお東海の直進ルートは、渡航不能な死の航路だと思われていた。

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