ゆうやけこやけ
月弓 太陽
ゆうやけこやけ
かたん。
学習机に置かれたシャープペンシルの音が、湿った部屋の空気を震わせる。
ノートの上で踊り狂うシグマやインテグラルたちから目を背け、椅子の背もたれに体重を預けて大きくのけぞった。
白い天井にまで浮かぶ数字たちから逃れようと、手近なカーテンを引いて窓の外に目をやる。
「え、明るい」
思わずベッド脇の目覚まし時計を確認するが、現在は午後六時で間違いない。
「もうそんな季節か」
つい一か月前までは、この時刻になれば、窓の外には星明かりが見えていたというのに。私の視界に広がる青は、新しい季節の来訪を主張している。
――新しい季節が来るということは、つまり。
「やーめた」
数学の問題集を投げ出して立ち上がる。しかし勉強以外にやるべきこともなく、ただ自室の中央に立ち尽くした。
「さて、何をしようかなー」
本棚に並べてある、まだ読んでいない小説を引っ張り出す。手慰みにめくってみるが、文字が頭に入ってこないのでベッドの上に投げ捨てた。
「どうしようかなー」
ふと、部屋の入り口にかけられたホワイトボードが目に入る。
『センター試験まで、あと二六〇日』
――残された時間は、もう数えるほどしかないというのに。
「なんか面白いものやってないかな」
気を紛らわせようと、携帯電話のワンセグを眺めてみる。
午後のニュース番組では、春コートを着たお天気キャスターが、透き通った声で週間天気予報を伝えている。
『東京は明日から雨が続き、桜も散り終わってしまいそうです』
「ああ、そういえば」
――今年はまだ桜を見ていない。……手元の単語帳ばかり見て歩いていたせいかもしれない。
「よーし、お花見でも行きますか」
私は適当な服に着替えると、夕方の街へと飛び出した。
勢い余って外へ出たのはいいけれど、桜の季節はもう終わりを迎えようとしているようだ。家の裏にある桜並木は、桃色を探すより緑色を探す方が早いといった様子である。
「やっぱり、もう遅かったかな」
立ち寄った公園のベンチに休憩がてら腰かけて、夕空を見上げる。
「あ」
すると見上げた先に、薄紅色の花が集まっている枝が伸びているのを見つけた。
「間に合った」
学校帰りの小学生も子供連れの母親たちも家路につくこの時間、静まり返った公園には私一人だけが座っている。
「ちょいとそこのお嬢さん。子供はもう家に帰る時間だよ」
「わっ!」
しまった、ついうとうとしてしまった。慌てて腕時計を確認するが、針は思ったより進んでいない。まだ六時半を回ったばかりだ。
「なんだ……」
声の主を見上げると、立っているのは壮年の男性だった。しかし異様なことに、黒い羽織袴姿である。
「お嬢さんは、家に帰らなくていいのかい?」
背の高いその人は、小首をかしげて言う。
「え。私、もう高校生ですけど」
「高校生? でも、大人ではないだろう?」
「まあ、確かに……」
あまりにも不思議そうな顔をするので、変な人だとは思いつつも話を続けてしまう。
「どうして子供は帰らなきゃいけないんですか?」
するとその人は、吊り目がちの目を丸くして答える。
「どうしてって。日が暮れたら、子供はカラスと一緒に帰るものだ」
「ああ、なるほど」
いい歳の男性が大真面目に童謡を引用してきたので、私は思わずくすりと笑ってしまった。
「何か面白いことでもあったのかい?」
彼は丸い目のまま私の顔を覗き込んでいたが、私が首を横に振ると、何故か楽しそうに顔をほころばせた。
「じゃあ、お嬢さん。どうしても帰らないのなら、この私に何か面白い話をしておくれよ」
突然の提案に、今度は私が目を丸くする。
「面白い話なんて、そんなのありませんよ」
「何か一つはあるだろう。この世界で生きていれば」
――そんなこと言われても。最近は受験のことばかりで……。
「難しく考える必要はないよ」
男は私の右側に腰かけて、人の好さそうな笑みを向けてくる。
「あなたが面白くないと思っていることだって、きっと私にとっては面白い。昨日見た夢、今日出会った人、明日訪れる場所。何だっていいから、一つ話してほしい」
期待に輝く瞳に促され、私は今の心境について話してみることにした。
「私、ここのところは勉強しかしていなくて」
「勉強か。それは楽しそうだ」
男性は、私が想像していたよりも興味深い様子で話を聞いてくれている。
「でも、受験のための勉強ですから。最近は苦痛でしかないんです」
「苦痛? 自分の知識が増えるのは喜ばしいことなのに?」
この人は勉強が好きなのかな、と苦笑交じりに私は続ける。
「問題を解いていても、自分にできないことばかりが目について。こんなんじゃ第一志望に届かないよ、って自暴自棄になります」
解き終わっていない数学の問題集のことを思い出して、溜息がもれた。
「勉強すればするほど、どんどん自分に自信がなくなって。もう、どうしたらいいかわからないんです」
俯いた私の耳に届いたのは、ひどく間の抜けた声で。
「なるほど、そういう考え方もあるのだな。私にはない発想だ」
思わず見上げた相手の顔からは、悪気なんてこれっぽっちも感じられない。いっそ清々しいほどに無邪気な笑顔だった。
なんだか怒る気にもなれなくて、どうせなら、と彼に質問してみる。
「じゃあ、あなたはどう思うんですか? 自分にできないことがあったとき」
男性は一瞬も私から目を逸らすことなく答えた。
「できないことがあるのは当然だからね。自分にできないことを見つけられたときは、とても嬉しいよ」
「嬉しい?」
「そう。自分の可能性を広げられた気がするだろう?」
そのままにっこりと笑いかけられ、私もつられて口角を上げた。
「うん、そっか……そうですよね」
男性は羽織の袖を翻し、こちらに体を向ける。
「面白い話のお礼と言っては難だが、私からも一つ話をしよう」
こちらへ少し身を乗り出して、彼は話し始めた。
「お嬢さん、カラスはお好きかな?」
「カラスですか? うーん、どうでしょう」
――どうしても、都会でゴミを漁っているイメージが浮かんでしまうのだけれど。
言葉を濁した私の瞳を覗き込んで、男性は微笑む。
「都会の人間はみんなカラスが不得手だね。だが、それも仕方のないことかもしれない」
その瞳は暗い影を漂わせたが、それを振り切って話は続けられる。
「カラスには面白い話がつきものでね。例えば西洋では、嘘つきの鳥として忌み嫌われている」
「嘘つき?」
「そう。もともとは美しい銀色の羽をもち、人間と同じ言葉を操る賢い鳥だった。だが太陽神に嘘をついたことで、罰として姿も声も醜く変えられてしまったという」
頭上から薄紅色の花弁が舞い降りて、黒い大きな肩に着地した。
私は目を伏せると、彼が履いている下駄を見つめる。
「なんだか気の毒ですね。言い伝えでも嫌われ者だなんて」
右隣から、ふっと息をつく気配があった。
「そうだね。でも東洋では、忌み嫌われるどころか崇められているんだよ」
顔を上げた私の目には、予想通りの喜色が映り込んだ。
「太陽の表面に黒い点があることは知っているかい?」
「はい、黒点のことですよね。温度が低いから黒く見えるっていう」
大きな手を打ち鳴らして、男性は頷いている。
「さすが、勉強しているね。黒点は地球の数倍の大きさがあって、そこにはカラスが住んでいると考えられていた。だからカラスは、太陽神の使いの聖なる鳥なんだ」
楽しそうに話す彼を眺めながら、思ったことを口にする。
「カラス、好きなんですか?」
しかし返ってきた答えは、私の予想とは少し異なっていて。
「いや。どちらでもない、と言えば正しいだろうか」
「え? でも……」
言葉を続けようとする私を、骨張った左手が制した。
「お嬢さんは、人間が好きかい?」
質問の意図が分からずに、私は眉を寄せる。
「……好きとか嫌いとか、そういうものじゃないと思います。私自身が人間だから、好き嫌い以前の問題というか」
「そういうことさ」
――どういう意味だろう。
考え込む私をよそに、男性は羽織の袖を整えながら話を続ける。
「私はカラスにまつわる面白い話が好きだが、結局のところ、一番面白い生き物は人間に違いないね」
「そうですか?」
「そうとも。彼らはありもしない幻想に振り回され、喜んだり悲しんだり怒ったり苦しんだりしている。こんなに面白い生き物は、他に見たことがないよ」
まるで当事者ではないような物言いをして、彼は私の瞳を覗き込んだ。
「お嬢さんを悩ませているものも、幻想ではないのかな?」
どこまでも深い、濡れ羽色の瞳。
目が離せなくなっていた私を置いて、黒い影はすっと立ち上がる。
彼は花が集まる枝に手を伸ばし、愛しそうにその花弁を撫でながら話しかけた。
「どうして君たちは下向きに咲くんだい? お天道様に顔を向けていれば、私たちにもよく見えるというのに」
揃って下向きに咲いている花たちは、風に揺れて頷いているようにも見える。
「そうかい」
柔らかい笑みが、今度は私に向けられて。
「桜は、お嬢さんのような下ばかり向いている人間に見上げてほしくて、健気に咲いているのだね」
男性は左腕を大きく広げると、右手で自分の胸を指し示した。
「お嬢さん、たまには私たちのことも見上げておくれよ。私たちも人間を見守っているのだからね」
――何かがおかしい。
今に思ったことではないが、違和感が徐々に膨れ上がってくる。
しかし相手は私の思考など気にする様子もなく、丁寧に頭を下げた。
「楽しい時間をありがとう。最後に……一つだけ私のわがままを聞いてもらえないだろうか?」
「わがまま、ですか?」
ほぼ無意識に返答した私の頭を指差して、男性は小首をかしげる。
「その綺麗な髪留めを私にくれないかい?」
私は前髪を留めていたヘアピンを外し、顔の前で眺めてみる。
何の変哲もない、ただ宝石を真似た飾りがついているだけのピン。
――彼はどうしてこんなものが欲しいのだろう?
「いいですよ。はい、どうぞ」
「おお、ありがとう」
彼は大事そうにヘアピンを受け取ると、それを公園のライトにかざしている。きらきらと青白い光を反射するそれを眺めて、濡れ羽色の瞳も輝いていた。
「大事にさせてもらうよ。……ではお嬢さん、お達者で」
男性はヘアピンを口の端にくわえると、羽織の袖を翻してくるりと背を向ける。そして両腕を広げて夕空を仰ぎ、大きく息を吸い込むと。
「カア」
彼の一声が、住宅街に反響する。その余韻を待つことなく、黒い影は猛スピードで駆け出した。
地面を蹴りながら腕をばたつかせて、いち、に、さんっ。先程まで大きく見えていた身体は、いとも簡単に宙へと浮き上がる。
羽織の袖は彼を支える翼となり、もはやその躯は人間のものではない。
一羽のカラスがヘアピンをくわえたまま、住宅街の夕闇の中に溶け込んでいく。
私はしばらくその光景を呆然と眺めていたが、やがて我に返って小さく呟いた。
「……ありがとう」
ベンチから立ち上がって枝へと手を伸ばしてみるが、私の背では届きそうにない。
「待っていてね。きっと、顔を上げて歩けるようになるから」
――まだ、何も終わっていない。始まってもいない。
公園を吹き抜けた青い風が、留めるものを失った前髪を揺らす。
――自分で自分を追い込むのは、もうやめにして。
軽くなった足で、強く一歩を踏み出す。
人のいない公園は、新しい季節を告げる新緑に包まれていた。
ゆうやけこやけ 月弓 太陽 @Sun-Tsukiyumi717
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