6
* * *
昨日はよく眠れなかった。聞き心地のよかったはずのちぃちゃんの声が、すすり泣いて僕の耳にまとわりついているようで。僕はそれを思い出すたびに胸が苦しくて、布団をかぶっても、耳を塞いでも気持ちは紛れなかった。
寝不足だし、行きたくはないけど学校に行く準備をする。スクールバッグをリュックのように背負って、いつも通りヘッドホンを耳に当てようとして、動きを止めた。見ないふり、聞かないふりをして、いつも通り接することは簡単だ。──だけど。
僕はヘッドホンを片手に持ったまま、家を飛び出した。
鳥のさえずり。近所の犬の鳴き声。おばさんたちの立ち話。小学生の集団登校。横断歩道の機械音。交通安全のボランティアの笛の音。おはようの挨拶。朝のざわめき。
今まで聞こうとしなかった全てが、僕の耳に入ってくる。世界はこんなにも音で溢れていたんだと、当たり前のことを思い知る。
ちぃちゃんの声だけあればいいと思っていた。だけどそれじゃダメなんだと、気づかせてくれたのはやっぱりちぃちゃんだった。ちぃちゃんが僕にとって大切なことは変わらないし、好きだし、どうにかなりたいって気持ちもあるけど。どうにかなるには、変わらなきゃいけない。
「──佐藤先生」
登校指導で校門の前に立っていたちぃちゃんは、僕の声に気付いて顔を強張らせた。だけどそのうち、ヘッドホンをつけずに手に持っている僕の様子に気付いて、目を丸くさせている。
「これ、預かっといてください。没収したってことで」
そう言って僕は、持っていたヘッドホンをちぃちゃんに押し付けた。訳も分からずそれを受け取ったちぃちゃんは、困惑した様子で僕を見上げた。
「……どうして」
「『先生』と『生徒』じゃない、対等な存在になったら迎えに行きます。その時に返してもらいます。だから今は、預かっといて」
ヘッドホンに頼って世界を拒絶しているようなガキでいたら、ちぃちゃんは振り向いてくれない。背だけが伸びても、一人前にはなれない。『教師』と『生徒』の壁は壊せないし、ちぃちゃんの涙も拭えない。
「だから、佐藤先生。俺が一人前になるまで、待ってて」
待ってて、なんて、やっぱりガキくさい。こんなヘッドホン押し付けて、繋がりが消えないようにしないと不安で。こんなものを持っていたって、ちぃちゃんにはちぃちゃんの人生がある。待っててなんて、僕の勝手な我が儘を、ちぃちゃんは受け入れてくれるだろうか。
返事を待つ間、心臓の音が煩くて、こんなにも音で溢れているはずの世界が、しんと静まり返っているようだった。息がつまる。呼吸音さえ、煩わしい。なんとか言ってよ、ちぃちゃん。
「──待ってるよ」
「え……」
顔を上げると、ちぃちゃんは笑っていた。僕が大好きな小さな奥二重の瞳を細めて、困ったように眉を下げて。
「言ったでしょ。君の言葉があったから頑張れたって。吉岡くんは、私のことを待っててくれたんだもんね。私も、待つよ」
「……ち、先生」
思わずちぃちゃんと呼びそうになったのをぐっとこらえた。あんなに勝手なことを言ったのに、たくさん傷だってつけたのに。それなのにちぃちゃんは、待っててくれると言ったのだ。
安心して、力が抜ける。それがばれないように、足に力を込めた。ずっと好きだった。その人が、僕に笑顔を向けて、僕を受け入れようとしている。それでも僕は、触れたい気持ちを我慢する。僕が胸を張って彼女の隣に並べるその時までは。
「でも、私がおばあちゃんになる前に、迎えに来てね」
「──はい、先生」
『大人の階段』が本当にあるなら、僕は走って、二段でも三段でも飛ばして登ろう。早く一人前になれるように。ちぃちゃんが待ちくたびれないように。
「先生なんか、って言ってごめん。俺は、先生として頑張ってる先生も大好きだよ」
「!」
すれ違いざまに耳打ちをした。真っ赤になったちぃちゃんが可愛くて、愛おしくて、笑みがこぼれる。背中でちぃちゃんの怒った声を受け止めながら、校舎に逃げ込んだ。胸の鼓動が、今は煩くない。それだけでも、大きな進歩のように思えた。
* * *
けたたましいアラームの音。それを止めると、朝の日差しと鳥のさえずり。支度をしながら時計代わりのテレビをつける。コメンテーターのうんちく。やけにテンションが高いアナウンサーの声。支度が済んで、テレビを消して家を出た。
世界には、いろんな音が溢れていて、時にはそれを雑音のように思うこともあるし、聞きたくないことだってたくさんあるけれど。
「──瑞稀くん!」
君が手を振る。君が駆けてくる音がする。
雑音だらけの世界でも──例えばこうして、君が名前を呼んだなら。そんな世界もちょっといいかななんて思えるのだ。
君が名前を呼んだなら 天乃 彗 @sui_so_saku
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