5
勝手にいなくなって、勝手に二人の間に壁を作って。その壁を理由に、僕の気持ちを拒否するのか。やっと、会えたというのに。
ヘッドホンから漏れる曲は、iPodに入れるだけ入れて全く聞かなかったアーティストのラブソングだ。有名になった曲の声が何となくちぃちゃんに似てた気がして入れたけど、実際は全然似てなかった。
「……いっそ、歌手とかになってくれりゃよかったんだよ」
「……え?」
いっそ、違う世界の人になってくれたら、こんな気持ちを抱かなくて済んだ。二度と会えないと思い知って、無機質なヘッドホンから流れる声だけで満足出来たかもしれない。前に進めたかもしれない。手が届かないと知っていながら思い続けるほど、僕だって馬鹿じゃない。それなのに。
「何で先生なんかになんの。なんでこっち戻ってくんの。僕がどんだけ嬉しかったと思ってんの──ねぇ!」
思わずちぃちゃんの腕を掴む。語気が強まって、ちぃちゃんの肩が震えた。今、興奮のあまり、一人称を間違えた。いつもは恥ずかしいから自分を俺と呼ぶのに。ちぃちゃんは気づいただろうか。
入学式でちぃちゃんを見つけた時、大人びたけど変わらない微笑みに、僕がどれだけ安心して、どれだけ舞い上がったか。ちぃちゃんがいなくなって色をなくした世界が、たちまち色づいた。僕にとってちぃちゃんの存在は、それほど大きいというのに──教師だから生徒だからって、そんな理由で、何年もの思いを潰されたくない。
ちぃちゃんが何かを言おうとした。その口が「ごめん」と動く前に、僕は乱暴に唇で塞ぐ。
「っ!」
授業中よく回るその唇は少し荒れていて、それでも、柔らかかった。
手が届かないところにいるのなら、諦めがついた。でも現にちぃちゃんは、ここにいる。声も聞ける。触れ合える。──キスだってできる。こんなに近くに感じられるのに、諦めるなんて、無理だ。
「──……ふ、っ」
ちぃちゃんが何かを押し殺すような声を漏らして、ようやく我に返った僕は唇を離した。──ちぃちゃんは、泣いていた。我慢はしてるようだけど、小さな瞳からぽろぽろと涙をこぼすちぃちゃんを唖然として見つめる。驚いてしまって、声が出ない。これが僕が小学生の頃から知っているちぃちゃんの、初めての涙だったのだ。
「ち……、い、ちゃ、」
「……君が、いったんだよ」
「え……」
言わんとしていることが掴めず、狼狽する。ちぃちゃんは涙を手で乱暴に拭いながら、震える声で言葉を紡ぐ。
「私が、勉強、教えた時。君が言ったんだよ。ちぃちゃんは教えるの上手いから、先生とか向いてるよって」
「……!」
正直、記憶にない。でも、ちぃちゃんの言葉は明白で、間違いではないんだと思う。僕が何の気なしに言った言葉を、ちぃちゃんはずっと覚えていたんだ。
「だから、頑張ったんだよ。大学、ひとりで辛かった時、あったけど……ああ言ってくれたから、頑張らなきゃって……頑張れたんだよ」
「あ……」
「……先生なんかになって、ごめん」
「──っ!」
ちぃちゃんが僕の腕を振り払い、教室から出て行った。ぴしゃん、と扉が閉まるのをただただ眺める。僕は追いかけることは出来なかった。追いかけたところで、僕はちぃちゃんにかける言葉を探し出すことが出来ない。
昼休みの喧騒が遠く感じる。ヘッドホンから漏れる音楽も、頭に入ってこない。聞こえない。
「佐藤先生! こんなところにいたんですか!」
教室のすぐ外で、教頭の声がして、はっとした。ちぃちゃん、まだそこにいるんだ。
「あ……教頭先生。すみません」
「何をしてたんですか、こんなところで」
「……生徒の相談にのってました」
「相談ー? まぁ、そうやって生徒に寄り添うことは結構ですけどね、先生はまだ新任なんですから、なんでも一人でできると思わないでくださいね」
「……はい、すみません」
「あなた一人の判断が学校全体を揺るがす事態に繋がることもあるんですからね」
「はい……わかってます、すみません……」
扉のすりガラスで、ちぃちゃんが教頭にへこへこと頭を下げているのがわかった。その声を聞いてますます、さっきの発言がいかに最低だったかを思い知った。
僕は自分のことしか見えていなかったんだ。都合の悪いことはすべてヘッドホンでシャットアウトして。ちぃちゃんが先生になった理由も、先生になるまでにしてきた苦労とか努力も、知らない関係ない、と考えようともせず。それがいかに無意味で子供じみているかも分からずに。
──本当、ガキだ。
力が抜けて、床に座り込む。自分勝手で、最低で。好きな人を泣かせる、ダメな子供。背ばっかり伸びて、何が一人前だよ。昨日の僕に毒づいても、この罪悪感のようなものは、いつまでも消えてはくれなかった。
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