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* * *
翌日授業で会ったちぃちゃんは、僕を見ても顔色も変えず、いつものように授業をしていた。昨日のあれを『なかったこと』にしようとしているのか、それとも、僕が知らない何年かの間に、そんなことに揺るがないほどオトナになってしまったのか。それは嫌だな。
僕はあれを『なかったこと』にはしたくない。抱きしめたちぃちゃんの熱。少し震えた身体。思い出すほどに愛しくてたまらなくなる。できるならもう一度抱きしめたいし、それ以上のこともしたい。一度触れてしまってタガをなくした気持ちは、溢れ出て止まらないのだ。
「ちぃちゃん」
授業が終わって、荷物をまとめているちぃちゃんに話しかける。直後が昼休みだということもあり、騒ついた教室は僕の声をちょうどいいくらいにかき消している。ちぃちゃんはチラリとこっちを見て、学年主任に見せたみたいな笑みを浮かべた。
「吉岡くん、何度も言ってるけど、佐藤先生、ね。どうしたの?」
どうしたのの声が、いつになく冷たく響いた。わざわざ僕を苗字で呼ぶことも、いつも以上に気に障って胸が騒つく。
どうしたのじゃないよ。僕が今日どんな気持ちで、ちぃちゃんの授業を受けていたと思っているんだ。バレてないと思っているんだろうか。今日の授業の中で一度だって、目が合わなかったこと。
「……話がしたい」
「うん、話なら聞くよ、職員室で」
びーっと、一本線を引かれた。自然に、的確に、僕とちぃちゃんの間に、『教師』と『生徒』の見えない線を。やっぱり、なかったことにしようとしているんだ。
「二人きりがいい」
「だめ」
「なんで」
「先生も忙しいの」
「自習室で待ってる」
ちぃちゃんは、いいともだめとも言わなかった。いや、言わせなかった、という方が正しい。僕は一方的に言葉を告げると、ヘッドホンをつけ直して教室を出た。それを見て多分ちぃちゃんは、何かを言うのを諦めたのだ。
聞きたくないものを遮断するには、このヘッドホンはとても便利な代物だ。僕が聞きたいのはちぃちゃんの肯定的な言葉であって、上っ面な、正義ぶったサトーセンセーの言葉ではない。
ポケットに手を突っ込んで、曲を流す。僕がいつも聞いてるのは、歌詞のないインストルメンタルだ。ヴォーカルの声をどうしてもちぃちゃんの声と比べてしまうから、歌詞のある曲は好きじゃない。かといって、音を遮断するために聞いてるジャカジャカと激しい曲が好きなのかと問われれば、そうでもないけど。
自習室には誰もいなかった。僕は昨日と同じ席にどかりと腰を落として、ちぃちゃんを待った。あ、昼飯持って来れば良かった、と後から思った。まぁいいや、取りに行くのもめんどくさい。シュルシュルと空気が抜けた風船のように縮こまり、机に突っ伏して、額を打つ。目を閉じても気持ちは落ち着かず、はぁと深くため息をついた。
“話なら聞くよ、職員室で”
そう言って線を引いたちぃちゃんの言葉が思い出されて、胸がきゅっとなった。その声が耳の裏に張り付いて取れないような感覚。いつまでも耳に残っているみたいに聞こえる。ボリュームはいつも以上にしているはずなのに。
他の声で紛らわそう、と、普段は聞かないヴォーカル入りの曲を聞く。歌詞なんか頭に入ってこないけど、ちょっとだけ気は紛れる気がした。
しばらくして、横に立つ人の気配に気づいて顔を上げる。神妙な面持ちで僕を見下ろしたちぃちゃんと目が合った。あぁよかった、来てくれた。手を伸ばそうとすると、スッと距離を取られる。行き場のない手を持て余して、僕はヘッドホンをとって机に置いた。
「ちぃちゃん」
「……佐藤先生」
「ちぃちゃんはちぃちゃんだ。俺の大好きな幼馴染」
ずっと前から好きな人。ちぃちゃんが僕を置いて中学生になろうが高校生になろうが、大学生になろうが先生になろうが、そこだけは揺るがない。ちぃちゃんはちぃちゃん。笑うと小さな目がさらに小さくなって可愛い、大好きな幼馴染。
「違う。私と君はもう違うよ。幼馴染じゃなくて、教師と生徒なの」
「だからなんだよ。センセイだから何。関係ないじゃん、好きなんだよ」
「だから、困るんだってば。そうやって、真っ直ぐ好意をぶつけないで」
思わず立ち上がる。勢いよく立ち上がったから、椅子が後ろに倒れて大きな音を立てた。
困るって、何だよ。『先生』だから? 『教師』と『生徒』だから? ただの『近所の小学生』と『高校生』だったあの頃だったら、僕の気持ちを受け入れてくれた?
──そんなの、卑怯だ。
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