耳鼻科の天使

ララパステル

耳鼻科の天使

 病院の待合室は一杯で、三歳になる娘を抱えたアガットは短くため息をついた。

 娘を抱えたまま長い待ち時間を待つことになる。見た目には分からないが、二人目を身篭っている彼女には、その時間は中々に辛いものだった。


 そんな彼女に気が付いたのか、近くの席に座っていた青年がすっと立ち上がった。

 中肉中背、よれたシャツにジーパン。とても紳士には見えない青年だったが、彼は優しそうな顔に笑顔をいっぱいに広げて「どうぞ」と彼女を誘った。


「ありがとう」

「なぁに、大したことじゃありませんよ」


 青年の厚意に甘えて、アガットは彼のいた席に腰を下ろした。その直後、青年が僅かにつらそうな表情を浮かべたのが目に入り、「本当に大丈夫?」アガットは彼に聞いた。

 確かに身重ではあったが、医者にかかるのは娘であり、アガット自身はいたって健康だったからだ。

 しかし彼は、気にする様子もなく「大丈夫ですよ」と娘の頭を優しく撫でた。


「私はこんな格好をしていますが、紳士でいたいとは思っています。貴方の優しさは嬉しいが、もう少し紳士のフリをさせていてはくれませんか?」


 洒落が効いた男の言葉に、アガットもつい笑い返してしまった。

 すぐに顔を引き締める。ここは病院だ。周囲を見渡したが、どうやら誰も気にしていない様子にほっと胸を撫でおろした。


 退屈な待合室も、この青年となら楽しいかもしれない。そんな思いを抱いたアガットは、そこで青年をじっと見つめる娘に気が付いた。

 頭を撫でられたのが、そんなに嬉しかったのだろうか?


「どうしたの?」

「あのね、おにいちゃん、どうして、はねがついてるの?」


 娘は青年を見ながら、手をパタパタとはためかせた。それは間違えなく、鳥を意味している。何度か絵本で同じように手を動かしているのを見ていたアガットは、首を傾げた。

 娘は何を見て…いや娘が見ているのは青年で間違えがないが、何を羽根と勘違いしているのか?

 そんな疑問を娘にぶつけるより先に、青年は娘に優しく語り掛けた。


「君には見えるのかい?名前は?」

「みえるよ。わたしは、きゃちゃりん。お兄ちゃんは?」

「さてね。名前なんてのはすっかり忘れてしまったけど、今はボリスと名乗っているよ」

「ぼりちゅ?」

「そう、ボリス。この羽根が見るのなら、そうだね…こうしてあげよう」


 青年はアガットが見ている目の前で、自然と娘の頬に軽いキスをした。そして「幸せがあらんことを」微笑んだ。

 そこで丁度、ボリスの名前が呼ばれた。軽い会釈をして、彼は診察室へと消えていった。


―――――――


 そこまで話を聞いて、カジミールは「ふむ」と皺くちゃの手を顎に添ええた。

 一度話に区切りがついた所で、まだ若い母親は、胸に抱いた娘を抱え直した。年の頃、三歳ぐらいだろうか。

 彼女は初めて見るカジミールが珍しいのだろう、じっと見つめて、それから微笑んだ。子供好きでないカジミールだが、その無垢な笑顔を前に、自然と口元が緩む。


「君がキャサリンかい?」

「…うん。きゃちゃりん」

「そうかい」


 カジミールは皺くちゃの手を”きゃちゃりん”…ではなく”キャサリン”だろう。彼女の頭に乗せて、そっと撫でた。

 嬉しそうに目を細める彼女から、母親に視線を戻して続きを聞いた。


「それで、その後は?」

「その後、本当にびっくりしたんですけど。娘の病気が、治ってたんです。遺伝性の病気なので完治することはないなんて言われていたのに…それでふっと思ったんです。その青年のおかげなんじゃないかって。娘が見たのは青年の翼で、彼は天使だったんじゃないかって」


 熱っぽく語るアガット。彼女の話をさらに盛り上げる燃料をカジミールは投下する。


「他の目撃者の方も、同じことを言っていましたね」

「やっぱり!他にもこんな奇跡を目撃した人がいたんですね!」

「ええ。そうです。いましたよ」

「その方達も話をしたんですか?青年とはどんな話を?」

「ほとんどがあなたと同じように短い会話をして、頭に手を置かれたら病気が治ったと。中には少し長話をした人もいましたね」

「どんな話ですか?是非聞かせてください」

「その青年がどこから来たのか聞いた人がいたらしいんですが、青年は”雲の国から”と答えたそうです。冗談だと思ってその話に乗ったら、次は”雲の国で落とし穴を掘ったら自分で落ちてしまって帰れない”と。何ともまぁ奇妙な話ですから、その人も詳しく覚えていたようです」

「その人たちはどこに?是非話を聞いて…」

「それは無理です」

「どうしてですか?」


 強い否定のを受けて、アガットも負けじと返した。

 もし青年にもう一度会えるのなら、お礼が言いたいし、何より胸に湧き上がる好奇心が彼を探せと囁いている。

 だがアガットの強い意志が込められた視線を受けても、カジミールは動じなかった。

 そして彼は前触れもなく、自然と…それこそ耳鼻科で見たあの青年の様に、アガットの頭に手を伸ばした。


「皆、覚えていないからですよ」


――――――――


「まったく、何処にいるんだか」


 アガット宅を後にしたカジミールは、青い空を見上げてため息を吐いた。そしてまた、どことなりと歩き出した。

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耳鼻科の天使 ララパステル @lalap

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