#9 辺獄

その日は塾で遅くまで自習をしていて、『家』に着いたのは22時ちょっと前だったと思う。


夜の雪空を突き刺すように、そこには大きな火柱があった。


炎、消防隊、警察、野次馬、そして私。一瞬、ほんの一瞬だけ、世界が止まった。魔法が解けた私は、半狂乱で野次馬を突き飛ばしながら進んで、ドラマでしか見たことがなかった規制線をくぐろうとした。そのとき私を止めた消防士は、私が口走っていた支離滅裂な言葉の断片から、私が目の前の家の人間であることを理解したようだった。私はすぐに現場の警官に保護されて、そのまま安全な場所へ連れて行かれた。


パトカーのリアウィンドウに張り付いて、遠ざかる『家』を見ながら、私は祈った。昔妹が熱を出したときと同じように、私にできるのは結局それだけだった。なにを代価にしたっていい。神でも仏でも、このさい悪魔でもなんでもいい。お父さんを、お母さんを、妹を、救え。


それからどれだけの時間が経ったかはわからない。どこかの部屋で刑事が私に言った。残念だが君の家族を助けることができなかった。許して欲しい、と。その言葉の正しい意味をこころが理解した瞬間に、私の現実は組み変わった。

私の体は、こころは、涙を流す機能を失ってしまった。



優しさと温かさに育まれてきた私は、みんなに少し遅れて、そこで死んだ。


生きながらに死んだ私には、天国にも地獄にも、まして現世にも居場所はなかった。



そこから先の記憶はあいまいで、断片的だ。きっとその間には、警察の事情聴取とか、葬儀とか、そういう手続きがあったはずなのに、うまく思い出せない。ただひとつ知っていたのは、あの火事が放火によるものだったということ。ニュースを見たか、警察の話を聞いたか、それもわからない。


しばらくの間、私は精神治療のために入院していたらしい。ふと意識が鮮明になったとき、私は夜の病室で窓を眺めていた。安全面から凶器になりうる鏡が持ち込めない病院で、私は夜の窓に『あの日』以来はじめて自分の姿を見た。髪はぼさぼさだし、唇もがさがさ、肌も荒れ放題で、まるで亡霊か何かみたいにやつれきっていた。そんな惨めな自分の姿を見てもなお、私は泣くことができなかった。


問題なしと判断されたのか、私はそう間を置かずに退院した。病院の入口では、お母さんの妹である叔母さんが待っていて、私を見るなり優しく抱き締めてくれた。とても、温かかった。あの夜、猛火のすぐそばに居たのに熱を一切感じなかった私の体とこころが、感覚をひとつ取り戻した瞬間だった。


新幹線で東京に行き、叔母さんの家で暮らすことになってから、私はひとつずつ感覚を取り戻していった。文字を読むこと、話をすること、ごはんの味を感じること、人の声、空の色、柔らかい布団の感触とにおい。それでも私は、泣くことだけは思い出せなかった。


感覚を取り戻し始めた私は、まず考えることをはじめた。

なぜ私だけが生きているのか。

なぜみんなは死ななければ、否、殺されなければならなかったのか。

なぜ祈りが届かなかったのか。

なぜかみさまは、願いを聞いてくれなかったのか。


不思議とそこに悲嘆や罪悪感はなかった。ただ冷徹に、異常なほど客観的に、私は考え続けた。考えていく内に、かつてあった祈りは疑いへと変わっていった。


私は考え続けた。自分の中の情報じゃ足りないときは、本やネットに頼った。空っぽになった自分を満たすように、狂気的に情報を摂取し続けた。叔母さんはそれを心配してはいたけれど、私の状態が明らかに防衛機制によるものだと理解するだけの素養を持っていた。だから、叔母さんはよっぽどのことがない限り、私のやりたいようにさせてくれた。でもごはんはいっしょに食べようね。それがふたりで作った決まりだった。


文学、哲学、宗教学、文化人類学、進化論とID論、宇宙論に量子論、刑法、犯罪学、心理学、精神医学、法医学、死生学、脳科学。


神とは何か。生命とは何か。世界とは何か。罪とは何か。心とは何か。死とは何か。意思とは何か。


私は何を求めているかもわからないまま、何かしらの答えを探し続けた。放火や家族に関する言葉が目に留まるたび、私の自我はざくざくとえぐられた。けれどそれを痛いとも感じないまま、私は言葉と意味を食べ続けた。



けれどそんな破滅的な疾走にも終わりが来た。ある夜お風呂から上がった私は、下着のままぼんやりと脱衣所の鏡を見つめていた。叔母さんのおかげで、病院の窓に見た亡霊のようではなく、きちんと私のかたちをした私が映っていた。それを見て思った。


『ああ、私、生きちゃってる』


その瞬間、あの日を境に切り離されていた記憶と感情が結合した。


一瞬の空白が訪れる。


気がついた時、私は叔母さんに強く抱き締められていた。状況がわからなくて混乱する私の脳を、焼けつく痛みが襲った。ようやく体を放してくれた叔母さんのTシャツ、そのお腹のあたりにべっとりと血がついている。叔母さん、怪我してる、病院行かなきゃ。けれど叔母さんは取り乱すことも痛がる素振りも見せず、ただ必死な目をして私をまっすぐ見つめていた。


脱衣所はまるで嵐のあとだった。洗面台のものはすべて散乱し、さっきまで見ていた鏡には蜘蛛の巣みたいなヒビが入っている。自分の体を見る。ブラの下、お腹の辺りに割れた鏡と同じような無数の切傷。そこから流れる赤。私の血。生者たる証。血の赤。火の赤。私は鏡をこぶしで叩き割って、その破片で自分を傷つけたらしい。叔母さんは私の安全を考えて、凶器になりそうなものは目の届かないところへ隠してくれていたのに。


私はそれらを見て、感じて、理解して、嗚咽した。

失われていた最後の機能『涙』を取り戻した。


(私は、自分が生きていることを理解した)

(私は、帰る場所と、迎える人たちを奪われたことを理解した)

(私は、それらを奪った人間の存在を理解した)

(私は、自分の中の憤怒と憎悪の存在を理解した)

(私は、世界を運営する主体の正体を理解した)

(私は、祈りが無意味な行為であると理解した)

(私は、祈りの対象もまた、無価値なものだと理解した)

「そして、無価値なものの存在を、私は赦さない」


祈りは疑いへ。そして疑いは呪いへ。



涙を取り戻したことで心象は反転し、『私』は生まれた。夢見がちで、能天気で、楽天家で、わがままな平坂メイは、あの夜みんなと一緒に死んだ。だからこそ、『私』はなんとしても生きなければならなかった。たとえ精神科医がそれを強迫観念だと言ったとしても、これは『私』に与えられたただひとつの絶対命令だ。誰にも、自分にすら、それを否定する権利はない。


生きて、生きて、そしてかみさまと世界に痛みと罰を。

報復とは、その相手の破滅を見届けることで完結する。

『だから、そのためにも生きなきゃいけない』


幼子の辺獄をさまよっていた私は、そうして今度こそ、嘆きの川にたどり着いた。そのほとりの凍える寒さは、私が生まれた街の冬に似ていた。


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常夜より愛をこめて amada @aozaki

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